長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号: 828 屋形舟(5)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 828 屋形舟(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 828 屋形舟(5)
〔画像解説〕
英語で「覆われた舟(屋根舟)」と解説されている。船頭と中央の男性は半纏を着ているが、この半纏は小川一真のモデルの特徴である。女性の5人ともモデルと思われる。遠景は横浜であろう。

目録番号:4583 隅田川の舟遊び(3)
〔画像解説〕
山谷堀が隅田川に流れ込む河口にあった有明楼(ゆうめいろう)前の今戸河岸で内田九一が撮影。浅瀬なので舟が浮いていない。それでブレずにシャープに撮れている。背景は向島で牛島神社や長命寺のある辺りである。この度長崎市立博物館所蔵の内田九一撮影のアルバムの中にこの写真を見つけ、九一撮影だと確認した。撮影は明治5年と思われるが、本写真は後に複写され販売されたもの。

■ 確認結果

目録番号: 828「屋形舟(5)」は、この作品のみ「遠景は横浜であろう」と画像解説している。
次の目録番号:4583「隅田川の舟遊び(3)」のとおり、東京の隅田川、今戸河岸の風景である。背景は「向島」。内田九一が撮影した写真と同じである。この項は次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2230
https://misakimichi.com/archives/2357

HP「囂庵の幕末明治の古写真」には、次のとおり解説している。
http://www.gouann.org/new_box/imado_91/imado_91.html
埋蔵された景観・・・内田九一の船遊びの写真
一般に内田九一の「船遊び」と題された写真は、明治の初め、今戸の有明楼の前の浅瀬で撮られた。古地図で見ても、この辺りの河岸は浅く、干潮時には中州状になっていたようだ。
「ゆうめいろう」は当時一流の料亭で、政府の高官や公家たちが足繁く通ったことでも有名である。現在は、都道314号の大部分と、台東リバーサイドスポーツセンター体育館脇の通路及び幼児用プールの辺りにあたるなんの変哲もない場所である。(推測資料の地図が明治四十年のため多少の誤差はご勘弁を・・)
さて、被写体の屋形船は、その幼児用プールの先の小プールの辺りになる川底に船腹を乗せて係留されていた。撮影者の地点も屋形船のあった場所も、今は、地下数メートルの下に埋もれてしまった。この写真は、いわば埋蔵されてしまった風景であるといえる。
川の光景も、川面近くから見上げるのと、高台から俯瞰するのでは大きく異なり、それぞれまた別の世界観を示すことになる。それぞれの視点の持つユニークさは、写真ばかりでなく、たとえば歴史を楽しむ時などにも、また同じように作用するような気がする。

長崎外の古写真考 目録番号: 544 蓮池(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 544 蓮池(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 544 蓮池(1)
〔画像解説〕
本コレクション中に江戸城外堀の蓮池を撮った写真がある(整理番号59-14)。本写真は遠景に東屋や石灯籠などが見え、明らかに庭園としての蓮池である。場所は不明。点在する蓮の花の赤の着彩が印象的である。

目録番号: 120 芝増上寺の弁天池(1)
〔画像解説〕
上野と芝、 寛永寺と増上寺は、 いずれも徳川家の菩提寺で、 弁天池は不忍池に、 中の島は弁天島とパラレルな関係にある。 蓮の花の咲く池の上にかかる石橋を渡り、 中の島の弁天様にお参りすることになっていた。

目録番号:4629 芝増上寺の弁天池(3)
〔画像解説〕
大きく育った蓮の葉が湖面を覆っている。奥には築山がありその頂には四阿屋らしき建物が見える。池の周囲には石灯籠や五重石塔が置かれている。しかし、この景観に合う場所は増上寺弁天池にはない。別の蓮池ではなかろうか。

■ 確認結果

目録番号: 544「蓮池(1)」、目録番号: 120「芝増上寺の弁天池(1)」、目録番号:4629「芝増上寺の弁天池(3)」は、同じ写真であるのに、画像解説が異なってきてる。関連作品としてまとめてほしい。
最後の目録番号:1740「芝増上寺の弁天池(2)」は、関連作品のため参考。

撮影場所は、芝増上寺を含んだ芝公園の弁天池(港区芝公園)が、やはり考えられる。
HP「東京の池めぐり Part2 (千代田区・中央区・港区編)」による説明は、次のとおり。現在の弁天池の写真は、HP「Walkerひで物見遊山記 芝公園散歩」から。

芝公園の弁天池 (港区芝公園)

芝公園の増上寺の裏手、まさに東京タワーを見上げる位置に宝珠院という浄土宗の小さなお寺があります。閻魔大王像が安置された閻魔堂があるほか、朱塗りの弁天堂もあり、ここの弁財天は港区七福神の一つに定められています。そして、そしてお寺に隣接して弁天池があります。さほど大きな池ではなく、東京タワーと増上寺の間にひっそりと水面を広げています。

長崎外の古写真考 目録番号: 512 神戸海岸通り(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 512 神戸海岸通り(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 512 神戸海岸通り(1)
〔画像解説〕
詳細位置不明。幅広い道路に沿って立ち並ぶ多数の洋風建築と、路上の人力車が写し出されている。

〔画像解説〕 超高精細画像 和文タイトル:神戸海岸通り:神戸外国人居留地海岸通
明治中期の居留地海岸通を、西端から東へ向かって撮影。右手へ行くとメリケン波止場。左から、2番イギリス系の香港上海銀行(Hongkong and Shanghai Banking Corporation)、3番アメリカ系のスミス・ベーカー商会(Smith,Baker&Co.)、5番ドイツ・イタリア・ロシアの各領事館、6番仏国郵船会社(Compagnie des Messageries Maritimes)と続く。早くから商館・銀行・領事館などが建ち並んだ居留地海岸通の賑わいぶりがしのばれる。右手海岸のプロムナードでは、夕方になると外国人たちが気ままに散歩を楽しんだ。「ポルトガルの素人楽団が美しい旋律を奏でるなかを、華やかで魅惑的な衣裳の淑女たちがそぞろ歩く夕暮れの海岸通は、まるで西洋の名画のようだった」という。中央のガス灯は赤い色で着色されているが、本当は緑色。人力車夫の出で立ちも興味深い。この構図の写真をよく目にするのは、居留地が最も美しく映える風景だからであろう。

目録番号:4091 神戸居留地海岸通り(1)
〔画像解説〕
明治中頃の居留地海岸通(現中央区)を、西端から東へ向かって撮影。左から、2番の香港上海銀行 (The Hong Kong and Shanghai Banking Corporation)をはじめ、商館・銀行・領事館などが建ち並び、当時のにぎわいぶりがしのばれる。右手海岸には、外国人が散歩を楽しんだプロムナードが見える。

■ 確認結果

目録番号: 512「神戸海岸通り(1)」は、「詳細位置不明」としながら、超高精細画像があり「和文タイトル: 神戸海岸通り:神戸外国人居留地海岸通」とし、撮影場所を画像解説している。
次の目録番号:4091「神戸居留地海岸通り(1)」は、同じ写真。画像解説に「明治中頃の居留地海岸通(現中央区)を、西端から東へ向かって撮影。…」とある。

長崎外の古写真考 目録番号:6525 根岸お行松

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6525 根岸お行松

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6525 根岸お行松

■ 確認結果

「根岸」という地名は、横浜市中区根岸町と東京都台東区根岸が有名と、前の作品でふれた。
目録番号:6525「根岸お行松」は、「撮影地域:東京」。これが江戸名松の一つ、根岸「お行の松」。東京の方の「根岸」となる。現在の東京都台東区根岸4丁目に3代目の松がある。
現在の写真と資料は、HP「歴史の足跡」309. 根岸の里 落語:茶の湯より 台東区根岸から。

長崎外の古写真考 目録番号:3985 根 岸

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3985 根 岸

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3985 根 岸
〔画像解説〕
現在のJR日暮里駅に程近いところで、根岸の中では北西の端にあたる。道はこの先、芋坂となり台地上に続いていた。山手線等の鉄道が敷設されたため道は切断され、現在は跨線橋が架けられている。鄙びた風景の中で、人力車だけがモダンな色合いを出している。

目録番号:2234 白滝不動尊への石段と茶屋
〔画像解説〕
根岸不動坂下の白滝不動尊への登り口。石段上に本堂の屋根が見える。白滝不動尊は、根岸村の村民によって祀られていたが、明治維新時の神仏分離を経て白滝山不動院となり、現在も宝積寺の境外仏堂として存続。

■ 確認結果

目録番号:3985「根岸」は、写真右下に「NEGISHI」とキャプションがある。「根岸」の地名は、横浜市中区根岸町と東京都台東区根岸が有名。この作品は「撮影地域:東京」、「現在のJR日暮里駅に程近いところ」と画像解説している。

次の目録番号:2234「白滝不動尊への石段と茶屋」のとおり、これは横浜「根岸不動坂下の白滝不動尊への登り口」の風景と思われる。石段上に本堂の屋根が見える。
現在の白滝不動尊の堂と説明板は、HP「よの式 巡礼記 – 根岸不動」から。

長崎外の古写真考 目録番号:5529 宇治の竹林と人力車(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5529 宇治の竹林と人力車(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5529 宇治の竹林と人力車(3)

目録番号: 215 宇治の竹林と人力車(1)   
〔画像解説〕
宇治は、京都と奈良の水陸交通の要路であり、また平安時代には貴族の別業が多く作られて栄えた。道の左右は人手があまり入っていないらしく、下草のしげった竹林で、道を男性客をのせた人力車が通っている。

目録番号: 255 宇治の竹林と人力車(2)  (1)と同じ。掲載略

■ 確認結果

目録番号:5529「宇治の竹林と人力車(3)」は、次の目録番号: 215「宇治の竹林と人力車(1)」及び目録番号: 255「宇治の竹林と人力車(2)」と同じ作品である。
「撮影者:小川一真」となるだろう。

長崎外の古写真考 目録番号: 125 浅草山谷堀 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 125 浅草山谷堀 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 125 浅草山谷堀
〔画像解説〕
整理番号14-35と同じ写真。浅草・今戸から根岸に達していた運河。隅田川から猪牙船(一名山谷船)に乗って吉原に通う遊客が盛んに通過した。猪牙船には屋根がないとあるから、写真の船とは違う。左岸に軒を連ねているのは船宿か。昭和33年、吉原遊郭が廃されてからは、運河のほとんどが埋め立てられた。

目録番号: 645 雪の山谷堀
〔画像解説〕
整理番号3-26と同じ写真。浅草・今戸の境から西の三ノ輪に向かって直進し、根岸に達していた運河。隅田川から猪牙船に吉原に通う遊客が盛んに通過した。昭和33年、吉原遊郭が廃されてからは、そのほとんどが埋め立てられた。

目録番号:2412 雪景色の山谷堀
〔画像解説〕
山谷堀の最も下流に架かる今戸橋の上より上流を望んだ写真。明治中期までこの辺りは料亭があり芸者のいる花町だった。遊客を運ぶ猪牙舟(ちょきぶね)はこの山谷堀を通ったので、吉原通いを俗に山谷通いとも呼んだ。山谷堀には9つの橋が架かっていたが埋め立てで取り除かれた。跡地は山谷堀公園になっている。明治初年の内田九一撮影だが、これは後に彩色され販売された写真である。

■ 確認結果

3作品とも、明治初年、内田九一?撮影の同じ写真か。タイトル、撮影者、キーワードなど違い、「山谷堀」と検索しないと全部が出てこない。3作品が関連作品となっていない。このような例は多い。

長崎外の古写真考 目録番号: 117 江ノ島海岸(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 117 江ノ島海岸(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 117 江ノ島海岸(1)
〔画像解説〕
英文タイトルは江ノ島となっているが、特定はできない。

目録番号:1514 江ノ島聖天島
〔画像解説〕
江ノ島の南の岩場。左手の岡の下に家があり、右手に海が見える。

目録番号:4462 江ノ島(17)
〔画像解説〕
撮影者未詳。明治時代の写真か。‘Yenoshima’のタイトルがある。鎌倉七里ヶ浜からの眺めで、手前に馬子(まご)と荷馬車が写り、右側に小動岬(こゆるぎみさき)と腰越(こしごえ)の集落がある。ところで、江戸時代後期には近海に出没する外国船を監視するため、小動岬に遠見番所が置かれていた。

■ 確認結果

目録番号: 117「江ノ島海岸(1)」の画像解説は、「英文タイトルは江ノ島となっているが、(場所は)特定はできない」となっている。
江ノ島とすると、次の目録番号:1514「江ノ島聖天島」のとおり、現在は江ノ島の一部、聖天島公園となっている「聖天島」が考えられるが、島や砂浜の形が違う。

かえって江ノ島の手前、腰越海岸、小動崎あたりが風景が合いそうなので、最後に目録番号:4462「江ノ島(17)」を載せた。これも‘Yenoshima’のタイトルあり。七里ヶ浜からの眺めで、小動岬と腰越集落を逆に写している。

以下、「聖天島」関係は参考のため。ウィキぺディア フリー百科事典による説明は、次のとおり。

聖天島は江の島東端に浮かぶ小島で、2つの岩の形が観喜天の姿に似ていることから付けられたという。1703年の元禄地震の隆起によって半島になった。1960年代の埋立により海岸から離れ、小さな岩山という感じになっている。南側に小公園がある。
千日修業中の良真が島上に弁才天の姿を見て将軍実朝に下之宮(辺津宮)建立を請願するきっかけとなった場所といわれる。南面に小さな祠があり、良真上人像が安置されている。側面の崖は島東部のみに分布する逗子層が見られ、貝化石が含まれる。

安藤広重が描いた江ノ島の図(江ノ島の左、中央の小さな島が聖天島)は、HP「YPC(横浜物理サークル) 江ノ島の自然」から。隆起年代は、1923年関東地震としている。
聖天島絵葉書2点と現在の写真は、HP「江の島マニアック 聖天島」から。

(2014年1月25日 追記)

HP「江の島マニアック」に、最近「江の島の古写真」の項が作成されていた。目録番号:117「江ノ島海岸(1)」については、次のとおり現地の解説があっているのが判明した。
「江ノ島海岸とタイトルにあるがこれは現在の片瀬東海岸で正面に見えるのは小動岬。
腰越の漁師の漁船が見える。」

長崎外の古写真考 目録番号:1476 池上本門寺門前(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1476 池上本門寺門前(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1476 池上本門寺門前(2)
〔画像解説〕
整理番号37-5と同じ構図。太鼓橋の左手にある立て札には「説教」の文字が読める。太鼓橋を渡ると寺の門があり、その向こうに境内へと続く長い階段が見える。

目録番号:1491 池上本門寺門前(3)
〔画像解説〕
整理番号37-5、整理番号37-22と同じ構図。だが他の2枚よりも彩色が鮮やかで、絵画的な仕上げになっている。

目録番号:1459 池上本門寺門前(1)
〔画像解説〕
池上本門寺は長栄山大国院と号し、池上台地にある日蓮宗大本山の一つである。文永11年(1274年)、日蓮上人が現山寺号を命名して開堂した。奥の生い茂る樹木の中に境内が広がっている。

■ 確認結果

目録番号:1476「池上本門寺門前(2)」、及び目録番号:1491「池上本門寺門前(3)」は、、「撮影地域:藤沢」となっている。
3枚目の目録番号:1459「池上本門寺門前(1)」のとおり、「撮影地域:東京」が正しい。左下のキャプションは「池上本門寺」で同じ。

現在の池上本門寺写真は、ギャメロンさん撮影。次の「池上本門寺散歩♪」などに記事がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/gyamerongiasu/27244768.html
http://blogs.yahoo.co.jp/gyamerongiasu/27273449.html
http://blogs.yahoo.co.jp/gyamerongiasu/27279088.html

長崎外の古写真考 目録番号: 768 横浜背後の運河と家並み

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 768 横浜背後の運河と家並み

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 768 横浜背後の運河と家並み
〔画像解説〕
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新田(新吉原仲之町)に移転する。

■ 確認結果

目録番号: 768「横浜背後の運河と家並み」の画像解説について、shintaro氏ブログ「横浜今昔物語」、2008年10月26日の記事「真景横濱今昔ー港崎遊郭」が、次のとおり疑問を述べておられるので、参考のため載せる。
http://scemo3440.hama1.jp/e70113.html

…この古写真(提供:長崎大学附属図書館)ですが、一体何処なんでしょうか?・・・精査の結果、奥の方に、「岩亀楼内」と書かれた看板様のものがあるそうです。この写真をかなり拡大してみても分かりませんが、きっとあるんでしょうね。と、すると、これは、「港崎遊廓」から焼け出されて、移転させられた先、羽衣町かも・・・今は羽衣町に含まれてしまっていますが、羽衣町の伊勢佐木町寄りの一角(横浜弁天社のある辺り)は「姿見(すがたみ)町」や「吉原町」と呼ばれました。江戸の「吉原遊廓」や遊廓大門(おおもん)の入り口「姿見」に見立てた訳ですね・・・

向かって左側木立は、大通り公園で、数十年前には吉田川と言う運河でした。右側が羽衣町です・・・従ってこの辺りの写真かと想像する訳です・・・しかし・・・

もう一箇所の候補地、吉田橋辺りから、旧姿見町、羽衣町を望みます・・・向かって左側車の沢山走る道路の左端は、昔の運河ですから、ここも怪しいのです・・・さて、どちらかなぁ?・・・遊廓と言う場所が場所だけに、記念碑なるもの等、全くないです(横浜公園にかろうじて、岩亀楼の石灯篭が残されている程度)から・・・