長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 768 横浜背後の運河と家並み
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号: 768 横浜背後の運河と家並み
〔画像解説〕
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。左手遠方には「岩亀楼内」の文字が読みとれる。横浜外国人居留地背後の太田屋新田沼地を埋め立てた太田町の裏町であろう。1866年の大火で消失、翌年遊郭は奥の吉田新田(新吉原仲之町)に移転する。
■ 確認結果
目録番号: 768「横浜背後の運河と家並み」の画像解説について、shintaro氏ブログ「横浜今昔物語」、2008年10月26日の記事「真景横濱今昔ー港崎遊郭」が、次のとおり疑問を述べておられるので、参考のため載せる。
http://scemo3440.hama1.jp/e70113.html
…この古写真(提供:長崎大学附属図書館)ですが、一体何処なんでしょうか?・・・精査の結果、奥の方に、「岩亀楼内」と書かれた看板様のものがあるそうです。この写真をかなり拡大してみても分かりませんが、きっとあるんでしょうね。と、すると、これは、「港崎遊廓」から焼け出されて、移転させられた先、羽衣町かも・・・今は羽衣町に含まれてしまっていますが、羽衣町の伊勢佐木町寄りの一角(横浜弁天社のある辺り)は「姿見(すがたみ)町」や「吉原町」と呼ばれました。江戸の「吉原遊廓」や遊廓大門(おおもん)の入り口「姿見」に見立てた訳ですね・・・
向かって左側木立は、大通り公園で、数十年前には吉田川と言う運河でした。右側が羽衣町です・・・従ってこの辺りの写真かと想像する訳です・・・しかし・・・
もう一箇所の候補地、吉田橋辺りから、旧姿見町、羽衣町を望みます・・・向かって左側車の沢山走る道路の左端は、昔の運河ですから、ここも怪しいのです・・・さて、どちらかなぁ?・・・遊廓と言う場所が場所だけに、記念碑なるもの等、全くないです(横浜公園にかろうじて、岩亀楼の石灯篭が残されている程度)から・・・