長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:6738 潮干狩り(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6738 潮干狩り(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6738 潮干狩り(3)

目録番号:2741 不動坂からの本牧岬(10)
〔画像解説〕
丘の下は根岸村、正面遠方は本牧岬で、左より一の谷・二の谷・三の谷が見える。根岸湾は、外国人にはペリーが名付けた「ミシシッピー・ベイ」の名称で知られて、外国人遊歩新道の不動坂からの風景は、外国人によって「世界一美しい」と讃えられた。

目録番号:2235 本牧十二天の茶屋(6)
〔画像解説〕
元治元年(1864)、本牧および根岸を廻る外国人遊歩新道が開設された。翌年には馬車も通行できるようになり、風光明媚で知られる本牧十二天へは山手の山裾に沿った道が通じた。沿道には茶屋が設けられ、また海水浴や潮干狩りでも賑わった。

■ 確認結果

目録番号:6738「潮干狩り(3)」の対岸に写る岩場は、次の目録番号:2741「不動坂からの本牧岬(10)」のとおり、本牧岬にかけての海岸と同じように思われる。
根岸側の海岸岩場を写しており、画像解説の一の谷あたりの潮干狩り風景ではないだろうか。
目録番号:2235「本牧十二天の茶屋(6)」では、「本牧十二天へは山手の山裾に沿った道(外国人遊歩新道)が通じた。沿道には茶屋が設けられ、また海水浴や潮干狩りでも賑わった」と解説がある。

shitaro氏HP「横浜今昔物語」三渓園今昔3に、別の貴重な磯遊び古写真(横浜開港資料館所蔵?)と、次のとおりの説明がある。
現在と重ねて作った本牧村地図は、HP「HONMOKU VILLAGE 【本牧村】」から。
http://honmoku.search-japan.com/article/35972304.html
外国人遊歩道(地図の赤ライン)は、山手の山裾に沿った道なので、当時の海岸線はこのラインと考えられる。三の谷にできたのが三渓園らしい。

三渓園には、正門と南門と言う出入り口の門があります。この南門を出ますと、上海横浜友好園 …中国の湖心亭と言う東屋のある池に出られます。その上海横浜友好園のところまで、その昔は、海岸でした…こうして、三渓園遊びの一環として、本牧海岸での磯遊びもなされました。
一俗説によりますと、生糸商の豪商「原三渓」がここ三渓園に邸宅を構えた訳のひとつに、この海岸から生糸を密貿易するのに適していたのでは?などとも言われますし、この付近の地名に生糸で有名な「八王子」などと言われる場所もあるとか…

長崎外の古写真考 目録番号:5998 旅順港のロシア艦隊 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5998 旅順港のロシア艦隊 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5998 旅順港のロシア艦隊

目録番号:5999 旅順港(1)

目録番号:6000 旅順港(2)

目録番号:6003 二百三高地の風景

目録番号:6004 旅順港北鶏冠山の塹壕

目録番号:6006 旅順港封鎖の艦船

■ 確認結果

目録番号:5998「旅順港のロシア艦隊」など6作品は、旅順港や二百三高地を写している。
タイトルの場所に間違いないとすると、「撮影地域:未詳」でなく、「大連」となるだろう。

なお、データベース画面で「撮影地域から探す」とし、中国地図の○印主要都市をクリックした場合、関連作品に中国全部の作品がどこも出てくる。日本の例のように検索方法を改善してほしい。
欧米は「カナダ」はあるが、他の地域の検索はできない。日本・外国とも「撮影地域:未詳」の作品についても、一括検索ができるよう配慮してほしい。

長崎外の古写真考 目録番号:5356 ボアビスタからのプラヤグランデ

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5356 ボアビスタからのプラヤグランデ

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5356 ボアビスタからのプラヤグランデ

■ 確認結果

目録番号:5356「ボアビスタからのプラヤグランデ」は、タイトルとなった地名が良くわからない。ボアビスタはブラジル、プラヤグランデはドミニカの地名にあるようだが、プラヤグランデは「大きなビーチ」という意味があり、古写真は大きな湾と集落を写している。

「撮影地域:マカオ」とし、あえて推定すると、次の地図・航空写真のとおり、マカオ南部のコロアネ島あたりの海浜風景ではないだろうか。現在の同じような画像が見当たらない。

長崎外の古写真考 目録番号:5737 顕彰碑

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5737 顕彰碑

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5737 顕彰碑

■ 確認結果

目録番号:5737「顕彰碑」は、「撮影者: 徳島:立木信造」「撮影地域: 徳島」の作品。碑文の大きな横文字に「山河襟帯」とあるのは、間違いない。
三省堂 大辞林によると、さんが-きんたい 【山河襟帯】とは、「山が襟(えり)のように囲んでそびえ、川が帯のように巡って流れ、自然の要害をなしていること」

平安京は794年に桓武天皇が遷都した都。南北5.7km、東西4.7kmの大きさであったと言われる。遷都の際に、以下のような詔が出された。
「此地や山河襟帯の形成、四神擁護の霊地にして帝王の都を定むるに適良す」「此国は山河襟帯にして自然に城をなす。斯の形勝に因り新号を制すべし。宜しく山背国を改めて山城国と為す。子来の民、謳歌の輩、異口同辞、号して平安京という」

桓武天皇の詔によりもともと山城国を形容する言葉としてできた四字熟語だが、嘉永6年
(1853)10月2日、長州藩士・吉田松陰が京都に滞在中、孝明天皇の時局に対する御深憂を梁川星巌から聞き、深く感激して次の詩を作った。
奉拝鳳闕詩「山河襟帯自然の城、東来日として神京を憶はざるなし、…(以下略)…」
京都市左京区岡崎公園の京都府立図書館の前には、明治41年(1906)、松陰没後50年を記念して、この詩碑が建立されている。
同詩碑の写真は、HP”みんカラ 不楽是如何〜史跡めぐりドライブ〜”から。

吉田松陰年表に、徳島との関わりは記していない。目録番号:5737「顕彰碑」の現在の画像が見当らない。徳島に同碑があったとすると、徳島の地形を京都のように見立て、徳島の景勝地に建てられた顕彰碑だろうか。
撮影者が徳島のため、撮影地域を即「徳島」とするには、少し不思議な碑文である。古写真の詳しい碑文が読めたら、撮影地域を解明できるかも知れない。

長崎外の古写真考 目録番号:5549 池上本願寺

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5549 池上本願寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5549 池上本願寺

目録番号:2613 池上本門寺(3)
〔画像解説〕
元禄年間(1688〜1704)年に建造の総門(現存)を入り、加藤清正が寄進して元禄年間(1596〜1615)に造られた石段を上り、慶長13年(1603)二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立した三門を潜った所から右側を見ると、この写真の風景になる。左は大太鼓の納められていた鼓楼。三門も鼓楼も戦災で焼失。五重塔は焼けずに現存。関東で最古の五重塔である。高さ29、5m。国の重要文化財。明治中期。

■ 確認結果

目録番号:5549「池上本願寺」は、次の目録番号:2613「池上本門寺(3)」のとおり、寺名は「池上本門寺」が正しい。現在の池上本門寺、五重塔写真は、ギャメロンさん撮影。

池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の寺院。寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮聖人入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている。(ウィキペディア フリー百科事典)

長崎外の古写真考 目録番号:5405 アバディーン・ドックのエッソ号 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5405 アバディーン・ドックのエッソ号 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5405 アバディーン・ドックのエッソ号

目録番号:5407 エッソ号と乗組員

目録番号:5408 アバディーン・ドックとエッソ号

目録番号:5403 アバディーンドックの廃船

■ 確認結果

目録番号:5405「アバディーン・ドックのエッソ号」、目録番号:5407「エッソ号と乗組員」、目録番号:5408「アバディーン・ドックとエッソ号」は、次の目録番号:5403「アバディーンドックの廃船」と同じく、「撮影地域:香港」となろう。

イギリス、スコットランド北東部に「アバディーン市」という港湾都市があるが、香港島南部にも「アバディーン」という区域があり、港として発達した。
背景の山からも、古写真は香港にあったと考えられる「アバディーン・ドック」を写していると思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:5015 池上本殿寺と僧侶たち

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5015 池上本殿寺と僧侶たち

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5015 池上本殿寺と僧侶たち

■ 確認結果

目録番号:5015「池上本殿寺と僧侶たち」の作品。撮影者は、アメリカの立体写真販売会社アンダーウッド&アンダーウッド社の写真師で、1896年または1903〜1904年の来日時の撮影。明治37年(1904)発行の『Japan』というブックケース入りステレオ写真と思われる。
そのタイトルがどうなっているかわからないが、「池上本殿寺」は「池上本門寺」が正しいだろう。
現在の池上本門寺、大堂写真は、ギャメロンさん撮影。

池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の寺院。寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮聖人入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている。(ウィキペディア フリー百科事典)

長崎外の古写真考 目録番号:4914 山手公園

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4914 山手公園

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4914 山手公園
〔画像解説〕
元町百段上からの風景。手前は元町の家並み、堀川の向こうが山下居留地。目立つ建物としては、右端に増徳院の薬師堂、その左遠方に見える2階建ての大きな洋館がグランド・ホテル新館。撮影時期は明治30年(1897)頃か。

目録番号:4915 横浜元町百段坂からの関内居留地

■ 確認結果

目録番号:4914「山手公園」の画像解説は、次の目録番号:4915「横浜元町百段坂からの関内居留地」の説明である。
画像解説を入れ間違っている。

長崎外の古写真考 目録番号:2454 大阪四天王寺鐘楼

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2454 大阪四天王寺鐘楼

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2454 大阪四天王寺鐘楼
〔画像解説〕
聖徳太子建立の七所のひとつ。写真は、五重塔(写真奥)と金堂(手前)。

目録番号:1241 四天王寺(1)
〔画像解説〕
聖徳太子建立の七所のひとつ。写真は、五重塔(写真奥)と金堂(手前)。

■ 確認結果

目録番号:2454「大阪四天王寺鐘楼」と、次の目録番号:1241「四天王寺(1)」は、金堂前に立つ1人の人物から同じ写真である。
目録番号:2454「大阪四天王寺鐘楼」は、「金堂(手前)」と画像解説しながら、タイトルがなぜ「鐘楼」となるのだろう。タイトルを合わせてほしい。

長崎外の古写真考 目録番号: 402 保津川嵐山 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 402 保津川嵐山 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 402 保津川嵐山
〔画像解説〕
中ノ島から対岸に櫟谷宗像神社を望む。神社の破風がはっきりと見える。川の手前には、茅葺きの四阿屋が設けられ、台に和服の女性がこしかけている。

目録番号:4210 嵐山温泉近くの茶店
〔画像解説〕
嵐山温泉北側の保津川北岸から上流を望む。萱葺の方形屋根の茶店には、壁がなく角材の柱がむき出しとなっている。中には長机と長椅子が置かれ、着物姿の女性が座り休憩している。辺りには植えられたばかりの立木が見える。対岸山腹に見える寺院は妙見堂か。

■ 確認結果

目録番号: 402「保津川嵐山」と、目録番号:4210「嵐山温泉近くの茶店」とは、同じ写真だが、タイトル・画像解説・撮影者が異なっている。
現在の櫟谷宗像神社の写真は、”京都を歩くアルバム■散策2 嵐山 渡月橋 太秦”、嵐山妙見堂(常寂光寺内)の写真は、”Tasteful Life:京都嵐山・嵯峨野ポタリング”のHPから。

現地を確認できないため、はっきりしたことは言えないが、保津川の流れ、櫟谷宗像神社や嵐山妙見堂の位置関係・高度、写っている建物の造りなどから考えると、目録番号: 402「保津川嵐山」の画像解説どおり、中ノ島から対岸に櫟谷宗像神社を望んだ写真と思われる。
撮影場所はほかの所かも知れないので、地元において正確な検証をお願いしたい。