長崎の風景・史跡 (県 北)」カテゴリーアーカイブ

壱岐の土台石  壱岐市勝本町東触天ケ原

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壱岐の土台石  壱岐市勝本町東触天ケ原

郷ノ浦港から国道382号線により勝本町へ行く。勝本町の中心から勝本港へ出て右方へ進み、串山半島の峠を越して串山海水浴場に向かう。
天ケ原海岸へ出た所に「壱岐の土台石」の断崖がそびえ、辰の島の指定地と一帯をなした串山半島の「勝本のハイビャクシン群落」がある。

この断崖は海底が隆起してできたもの。壱岐では一番古い地層。2,500万年以上も前にできたといわれている。長さが4〜6km、高さは50m。この断崖からは、植物や二枚貝の化石が発見され、またウニやカニの化石も頁岩から見つかっている。
七夕会壱岐観光情報HP「壱岐ファイル」自然環境編による説明は次のとおり。

壱岐の土台石   場所 ● 勝本町東触天ケ原  アクセス ● 郷ノ浦港から車で30分

対馬海峡に面した天ケ原海岸は、まるで大きな鉈で断ち切ったような断崖になっている。その断面に見えるのが壱岐島の基盤である土台石と呼ばれる勝本層だ。砂岩と頁岩の互層で大変もろく割れやすい。植物化石や貝殻化石も見つかることがある。圧力を受けて褶曲した部分も見える。この新第三紀(約2500万年前)勝本層の上に、八幡半島や郷ノ浦の初瀬に見られる凝灰角礫岩と、火砕流堆積物を主とする壱岐層が乗り、さらに第四紀層の玄武岩が広く覆って壱岐の島ができあがっている。天然記念物のハイビャクシンの群落も見られる。

聖母宮・神功皇后の馬蹄石  壱岐市勝本町勝本浦

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聖母宮・神功皇后の馬蹄石  壱岐市勝本町勝本浦

郷ノ浦港から国道382号線により勝本町へ向かう。勝本町の中心から勝本港へ出て左側の岸壁の道へ回り込んで行くと、「聖母宮」に着く。
「神功皇后の馬蹄石」は、聖母宮の正門前の道を曲がり海岸へ出て行くとすぐある。石には4つの窪みがあるというが、他ははっきりしない。
七夕会壱岐観光情報HP「壱岐ファイル」神社仏閣編と歴史文化編による説明は次のとおり。

聖  母  宮   場所 ● 勝本町勝本浦  アクセス ● 郷ノ浦港から車で25分

神功皇后を祭った聖母宮は、勝本の総鎮守でもある。創建時期は奈良時代初期といわれている。勝本の地名も「風本」から神功皇后が名付けたと伝えられている。門は文禄の役の時に加藤清正が寄進したもの。のどかな表情の牛の石像は名工山内利兵衛の作。また、神社所蔵の茶壷は「天正二十年」(1592)銘の古唐津焼で、口が欠けているものの学術研究上たいへん貴重なもの。秋には例祭カザモト祭で浦は賑わう。

神功皇后の馬蹄石  場所 ● 勝本町勝本浦  アクセス ● 郷ノ浦港から車で25分

聖母宮の近くに神功皇后が朝鮮出兵の際に乗った馬の蹄跡だと伝わる馬蹄石がある。背伸びして覗き込むと、石の表面にはたしかに蹄跡らしき四つの窪みがある。皇后の時代からおよそ800年後、皮肉にも今後はここに元軍が攻めてくる。ドラマチックな歴史スポットである。

勝本城跡  壱岐市勝本町坂本触

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勝本城跡  壱岐市勝本町坂本触

郷ノ浦港から国道382号線により勝本町へ向かう。勝本町の中心へ入って壱岐市役所勝本庁舎へ出る手前の左に、「勝本城跡」城山公園に上がる坂道があり、登って行く。
城跡の石垣は北側斜面に回ると多く残っている。展望は城跡の山頂広場から。

公園の駐車場前に友好都市諏訪市から贈られた御柱祭の御柱が立ち、山頂への遊歩道脇にヤマモモの大木があった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

勝本城跡  史跡(国答申)

指定年月日 昭和50年11月7日  所在地 壱岐郡勝本町坂本触城越757
所有者 勝本町ほか
風本城・武末城・雨瀬包城ともいう。豊臣秀吉は朝鮮出兵に際して肥前名護屋城を本営としたが、それと共に壱岐・対馬にそれぞれ駅城を築き、その兵站(へいたん)基地とすることを命じた。この壱岐の駅城として、海上交通上の要路である勝本港に臨む城山に設けたのが勝本城である。
築城には松浦鎮信が主としてこれにあたり、有馬晴信・大村喜前・五島純玄の三氏がこれを支援し、およそ4ヵ月の突貫工事で天正19年(1591)末に完成した。そして秀吉の弟長の家臣本多因播守正武が慶長3年(1598)まで7年間入部し、戦役終了後破却された。山頂に本丸跡があり、石垣が残っている。
昭和46年2月5日に武末城跡として県指定されている。

雪の島  壱岐市勝本町本宮仲触

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雪の島  壱岐市勝本町本宮仲触

万葉集に詠まれ、江戸末期に書かれた壱岐名勝図誌は壱岐一国の名にもなったと伝える「雪の島」。壱岐島の北西、勝本町浦海海岸にある小さな島である。
観光案内やマップにあまり紹介がなく、現地へ行っても案内板はまったくない。

郷ノ浦港から国道382号線により勝本町へ向かう。勝本町の南はずれ亀石交差点から左折し、湯ノ本を通る県道231号線を北上。「浦海漁港」入口まで行く。ちょうど「報恩寺のモクセイ」への案内標識がある所である。
国道382号線をそのままなら、歴史公園「壱岐風土記の丘」の先から左折。途中はまっすぐ道を進むと、県道231号線のこの地点に出る。

県道から浦海漁港へ坂道を下る。海岸の小さな岬の付け根にあるらしいが、姿が見えない。通りかかった車の人に聞いてやっとわかった。
漁港に出る手前、集落の反対側の海岸にコンクリート護岸があり、その上に白く小さな頭を覗かせているのが「雪の島」である。カーブミラーの所から海岸へ行く100mほどの小道があるが、訪れる人はほとんどいないのか、草が荒れ放題で苦労した。
七夕会壱岐観光情報HP「壱岐ファイル」自然環境編による説明は次のとおり。

雪 の 島  場所 ● 勝本町本宮仲触  アクセス ● 郷ノ浦港から車で25分

浦海海岸の小さな岬の付け根に、“雪の島”と呼ばれる流紋岩でできた真っ白な岩がある。万葉集にも詠まれたほど愛くるしくて、何か願いごとをすれば叶えられそうな、そんな気持ちにさせてくれる不思議な岩。地元では白っぽく見えれば晴れ、黒っぽく見えると雨が降ると信じられている。湯本湾の小島を染める美しい夕日スポットでもある。

ところで、壱岐名勝図誌の記すことや、万葉集の歌とは、どんなことだろう。
”雪の島”で検索すると、HP「壱岐の風景」の中「壱岐名勝図誌の風景」があり、次のとおり島の詳しい写真とともに紹介していた。
また、同岬の先端部には「鞍間ノ滝」という壱岐では珍しい安山岩の柱状節理がある。干潮時しか行かれないが、同HPに記事があるので参照。

浦 海(うろみ) 古老伝云、浦海にむかし千軒の民居あり。むかしは、此所家居多くありて七浦の内なりしか、寛文年中(1661年−1673年)湯本浦に移さるとなん。今は民戸二十三烟あるのみ。

雪 島  岳城の岸の艮 (うしとら、北東) にあり。此島、東西七間(一間は約1.8m)、南北九間、周巡三十二間、塩高く満時は島の高さ二間余、塩干時は島の高さ三間余。又塩満時は舟より渡り、塩干時は陸より行くべき島なり。全体白岩にして晴天には白き事 実に雪のごとく、日に映して目はゆし(まばゆい)。
雨天には、自然岩の色黒くなるとぞ。これによりて、此のあたりにては、晴天にても此島のいろ黒くなればやがて雨ふらんといひ、雨中にても白くみゆる時は雨晴るべしと、此島によりて日和のほどを卜(うらない)なへるとぞ。
さて此島のみ白くて近所の地はみな常の岩色なり。実に奇なる島にて、遂には一国の名ともなれるは むべなるかな(宜なるかな、もっともなことだ)。
古歌に撫子、磯馴松などよみたれど、今はその木草にはあらぬ、茅、薄、磯黒木など生たり。いかで松、撫子を植はやとなむ思ひける(何で松、撫子を植えたのだろうと思った)。
恋しくは なとか問なん 雪の島 岩ほにさける なてしこの花

百合畑古墳群・掛木古墳・壱岐風土記の丘  壱岐市勝本町百合畑触ほか

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百合畑古墳群・掛木古墳・壱岐風土記の丘  壱岐市勝本町百合畑触ほか

郷ノ浦港から国道382号線により勝本町へ向かう。勝本町へ入って亀石交差点からしばらく行くと右方に「百合畑古墳」入口がある。少しまだ国道を進むと、歴史公園「壱岐風土記の丘」があって、「掛木古墳」は駐車場のところにある。
七夕会壱岐観光情報HP「壱岐ファイル」自然環境編と体験・施設編による説明は次のとおり。

百合畑古墳群  場所 ● 勝本町百合畑触  アクセス ● 郷ノ浦港から車で15分

6世紀末〜7世紀初めに築造。23基の古墳が集中している百合畑地区。古墳公園ではそのうち6基を見ることができる。緩やかな斜面の南西方向に入口をもつ横穴式石室がほとんど。壱岐風土記の丘の歴史散策コースである。

掛 木 古 墳  場所 ● 勝本町百合畑触  アクセス ● 郷ノ浦港から車で15分

6世紀末〜7世紀前半の築造。円墳で、墳丘の直径は約30m。県下で唯一の「くり抜き式家形石棺」を持つ古墳として有名。大きな石をくり抜いて造ってあり、屋根の形をした蓋も同様の作り方である。壱岐風土記の丘の歴史散策コースである。

壱岐風土記の丘  場所 ● 勝本町布気触  アクセス ● 郷ノ浦港から車で15分

くりぬき式家形石棺をもつ掛木古墳、丘陵に古墳が群集する百合畑古墳群、金銅製の馬具が出土した笹塚古墳、そして二重の空堀をもつ中世の山城・生池城跡を巡る歴史散策公園になっている。敷地内には江戸時代中期の様式の古民家を建築復元。管理棟には町内にある遺跡からの出土品を展示している。

鬼の窟古墳  壱岐市芦辺町国分本村触

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鬼の窟古墳  壱岐市芦辺町国分本村触

郷ノ浦港から国道382号線により勝本方面に進む。芦辺町亀石交差点から右折し、県道174号線により芦辺港へ向かうと、ほどなく県道沿い左手に「鬼の窟(いわや)古墳」がある。すぐ先に「国分寺跡」と「六面十二菩薩と顎掛け石」「へそ石」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

鬼の窟古墳  県指定史跡  

指定年月日 昭和36年11月24日  所在地 壱岐郡芦辺町国分本村触
管理責任者 芦辺町
壱岐島のほぼ中央、芦辺町の西辺にあり、壱岐循環線の北側にある。壱岐を代表する横穴式石室墳である。全体の調査を終えていないため、墳丘形状の細部や規模は明確でないが、壱岐島最大級の円墳であり、周隍(しゅうこう)をもつ可能性もある。玄室は約3m四方、天井高3.5mを計り、羨道を含めた総奥行は約16mを計る。出土品は不明であるが、構造上6世紀末から7世紀前半の構築であろう。

国分寺跡・六面十二菩薩と顎掛け石・へそ石  壱岐市芦辺町国分本村触

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国分寺跡・六面十二菩薩と顎掛け石・へそ石  壱岐市芦辺町国分本村触

郷ノ浦港から国道382号線により勝本方面に進む。芦辺町亀石交差点から右折し、県道174号線により芦辺港へ向かうと、ほどなく「鬼の窟古墳」があり、すぐ先に「国分寺跡」と「六面十二菩薩と顎掛け石」「へそ石」がある。

「へそ石」とあるとおり、この辺りが壱岐島の真ん中の地点。
七夕会壱岐観光情報HP「壱岐ファイル」歴史文化編による説明は次のとおり。

国 分 寺 跡    場所 ● 芦辺町国分本村触  アクセス ● 芦辺港から車で10分

国片主神社裏手。741年(天平13)に全国に国分寺創建の詔が発せられた。壱岐では新たに建立せず島司壱岐直の氏寺を「島分寺」とした。その後、釈迦堂を残すだけとなったが、1738年に中野郷の阿弥陀堂と合し、「国分寺」と改名。現在は数個の礎石が残る空き地になっている。発掘調査では平城宮と同じ瓦が出土して注目された。

へそ石と顎掛け石  場所 ● 芦辺町国分本村触  アクセス ● 芦辺港から車で10分

県道脇に木の柵で囲まれた大小2個の丸い石がある。『壱岐名勝図誌』には国分石とあり、壱岐の中心の道標にしていた。まさしくここは壱岐のど真ん中、“へそ石”の由来である。その隣に立つ石柱には、上部に六面十二菩薩の仏塔が乗っている。壱岐島の中心を定めた心の御柱であるとか、あるいはドルメン(巨石信仰)ともいわれる。柱の中ほど、ちょうど大人の顎が掛かるくらいの位置に、謎の切れ込みがある。足元を見ると子ども用であろうか、足踏台が置いてあって、思わず顎を乗せてみたくなる。でも、なぜ顎を乗せるのか不思議。

祥雲寺の山門(石造)   壱岐市郷ノ浦町牛方触

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祥雲寺の山門(石造)   壱岐市郷ノ浦町牛方触

郷ノ浦町の中心街から勝本方面へ国道382号線により同町北はずれの「柳田」交差点まで行き、左折して猿岩へ向かう県道59号線に入ると、まもなく右手に「祥雲寺」入口を示す石柱があるので、寺まで坂を下って行く。
現地説明板は次のとおり。

市指定 有形文化財   祥雲寺の山門(石造)

所在地 壱岐市郷ノ浦町牛方触904 祥雲寺  指定 昭和53年3月19日
寺院の山門としては特異な意匠である。これがどのような考えによって設計されたのかは、伝えも資料等もなく不明であるが、明治42年(1907)に、祥雲寺5代、蓬莱広信和尚(昭和17年没)によって建てられている。当寺ではその翌年に江湖会(こうこえ 曹洞宗で四方の僧侶並びに檀信徒を集めて修行を行うこと)が催され、これを機に建立されたものといわれている。
石工は布気(ふけ 現 勝本町百合畑触)の茶屋本初蔵(慶応元年生、大正4年没)で、初蔵44歳の年の制作である。用石は俗に布気石と呼ばれる玄武岩である。
初蔵の作品はほかに柳田触の忠魂碑、住吉神社の石垣、水神社の石燈籠などがある。
ところで当寺のような石燈籠の上に鯱を載く山門は島内にはなく、おそらく広信和尚の考案であったろうが、これを彫刻した初蔵は、自身の代表作をもって応え、独創性に富んだ山門を築いたのである。それは明治期における壱岐の石工の技術の高さを示す逸品を残すことともなった。
初蔵は50歳で世を去った。惜しまれた死であったと伝えられている。
山門の総高 4m75cm
平成19年5月     壱岐市教育委員会

猿  岩  壱岐市郷ノ浦町新田触

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猿  岩  壱岐市郷ノ浦町新田触

郷ノ浦港から国道382号線により勝本方面へ向かう。柳田交差点から「猿岩」への県道59号線に入り、黒崎半島の先端部まで行くと「猿岩」の展望所駐車場に着く。
山上にも展望台と案内板があり登ってみたが、歩き損。木立が高くなり、伐ってもらわないと展望がまったくきかない。
半島の先へ回ると「壱岐出会いの村」。観音岩は最後の写真のではないだろうか。
七夕会壱岐観光情報HP「壱岐ファイル」自然環境編による説明は次のとおり。

猿    岩  場所 ● 郷ノ浦町新田触  アクセス ● 郷ノ浦港から車で20分

黒崎半島の先端にある高さ45mの海蝕崖の玄武岩。そっぽを向いた猿にそっくりで、気紛れな自然の造形に驚かされる。壱岐島誕生の神話によると、「壱岐の国は生き島である。神様が海の中でこの島をお産みになったとき、流されてしまわないようにと八本の柱を立てて繋いだ。その柱は折れ残り、今も岩となって折柱といわれている」とある。その八本の柱のひとつが猿岩である。駐車場脇には郷ノ浦町のアンテナショップ「お猿のかご屋」がある。

黒崎砲台跡  壱岐市郷ノ浦町新田触

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黒崎砲台跡  壱岐市郷ノ浦町新田触

郷ノ浦港から国道382号線により勝本方面へ向かう。柳田交差点から「猿岩」への県道59号線に入る。猿岩展望所駐車場に着くすぐ手前に地下要塞「黒崎砲台跡」の入口があり、砲台の穴を上から覗くには猿岩展望所売店横から少し上がる。
七夕会壱岐観光情報HP「壱岐ファイル」歴史文化編による説明は次のとおり。

黒崎砲台跡  場所 ● 郷ノ浦町新田触  アクセス ● 郷ノ浦港から車で20分

猿岩の展望所から1分。昭和3年8月から6年かけて完成。口径41cmのカノン砲二門の砲台で、砲身の長さ18.83m、弾丸の重さ1t、最大射程距離約35km、同じ規模の砲台が韓国釜山と対馬にあったが、ここは一発も実弾を発射することがなかった。巨大な地下要塞であるが、猿岩展望所の売店裏の山道を少し登ると、砲台の巨大な穴を地上からも見ることができる。