長崎の風景・史跡 (県 北)」カテゴリーアーカイブ

棹崎砲台跡  対馬市上県町佐護・棹崎公園  

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棹崎砲台跡  対馬市上県町佐護・棹崎公園

国道382号線により上県町佐護の三叉路まで行き、左折して佐護川に沿い河口の湊集落まで入る。「湊大橋」は渡らず左の漁港の道を奥まで進むと、「棹崎公園・対馬野生生物保護センター」の案内標識がある。
山越えの道へかかり、棹崎公園の入口門を過ぎた谷間の上に「対馬野生生物保護センター」が見える。

センターの前まで行き、右手の遊歩道を上へ上がると棹崎公園の展望台に着く。見晴らしのよいところだが、ここが第2次世界大戦中の「棹崎砲台跡」。
一帯にかつての砲台跡、地下室が残る。「日本最北西端の地」モニュメント、棹崎灯台がある。
現地説明板による説明は次のとおり。

「棹崎灯台位置経路図」
概 説
棹崎砲台は上県北西岸の棹崎に設けられ、昭和11年7月着工、同13年3月竣工した。
45口径15cmカノン砲4門の砲台であり、砲座、弾薬庫、観測所等があった。
現在第二砲座跡に棹崎灯台が設置されている。

対馬野生生物保護センター  対馬市上県町佐護・棹崎公園

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対馬野生生物保護センター  対馬市上県町佐護・棹崎公園

国道382号線により上県町佐護の三叉路まで行き、左折して佐護川に沿い河口の湊集落まで入る。「湊大橋」は渡らず左の漁港の道を奥まで進むと、「棹崎公園・対馬野生生物保護センター」の案内標識がある。
山越えの道へかかり、棹崎公園の入口門を過ぎた谷間の上に「対馬野生生物保護センター」が見える。

センターは、ツシマヤマネコの生態、科学、生息環境、ビデオ映像なども展示。入館料無料。
ツシマヤマネコの石像はセンターへ行く途中、壁画は上県町仁田湾沿い御園トンネルの出入口から。
HP「環境庁 対馬野生生物保護センター」による説明は次のとおり。

環境庁 対馬野生生物保護センター野生生物保護センター

対馬野生生物保護センターは、ツシマヤマネコ等の動植物を保護するために1997年に開設され、ヤマネコセンターの愛称で親しまれています。
ツシマヤマネコは日本では対馬にのみ生息する野生ネコで、推定生息値は80−1100頭。国指定天然記念物・国内希少野生動植物種に指定されています。

西津屋の漣痕  対馬市上県町西津屋

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西津屋の漣痕  対馬市上県町西津屋

上県町西津屋も対馬の北側海岸。国道382号線により佐久須を過ぎ、佐久須トンネルにかかる手前に、西津屋への入口があり、左折してこの道へ行き、海岸の集落まで進む。
小さな漁港に出ると左岸の道があり、「西津屋の漣痕」のすぐ前まで行けるが、細い道で落石が多い。歩いた方がよい。
上県町「上県町誌」平成16年刊、第8節対馬の天然記念物225頁による説明は次のとおり。

西津屋の漣痕  町指定 上県町西津屋

西津屋の海岸にある。高さ8m、長さ約70mのみごとな漣痕である。砂岩の上面を波や水流により、波状の凹凸をつくりあげている。

「くじら橋」と鯨物語  対馬市上対馬町大浦

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「くじら橋」と鯨物語  対馬市上対馬町大浦

国道382号線が上対馬町へ入り、上対馬高の手前となる大浦湾奥の大浦川河口に、青色の橋が架かる。上対馬町発注、大浦漁港改修工事によって2000年6月竣工した「くじら橋」。
橋のたもとに珍しい説明板があり、「くじら橋」と命名したいわれと古写真があった。地元大浦の糸瀬光志氏が寄稿した「鯨物語」。
昭和22年11月晩秋の午下り、巨頭鯨(ごんどうくじら)の群が深浦に飛び込んできた。住民総出、大浦湾のこの奥へ追い詰め、3日がかりで鯨を捕獲した。

日本人は古くから鯨肉を食べ、鯨骨は縄文遺跡からも出土している。江戸時代初め、紀州からもたらされた捕鯨技術によって西海漁場は栄え、対馬も捕鯨基地の1つとなった。
幕末期に不漁となり、明治中期になるとノルウェー式近代捕鯨が始まり、戦後も細々と操業を続けていたが、西海漁場が完全に終焉したのは昭和40年代だそうである。

鯨の数は少なくなったが、今でも日本海へ数種が回遊しているらしい。2006年、対馬沖で高速船「ビートル」が衝突した物体は、クジラという説がある。
捕鯨基地として衰えた対馬の戦後の食糧難時代、鯨が大群で大浦湾に迷い込み、勇ましくおいしいことをした地元の話である。最後の文は、クリックで拡大する。

韓国展望所  対馬市上対馬町鰐浦

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韓国展望所  対馬市上対馬町鰐浦

国道382号線が上対馬町へ入り、上対馬高の手前となる大浦からか、比田勝港まで行って泉経由で対馬最北端の鰐浦まで行く。
鰐浦トンネルのところに「韓国展望所」へ登る車道入口がある。展望所の下手には、国指定天然記念物「鰐浦ヒトツバタゴ自生地」がある。
HP「対馬から 来てみんね!上対馬町」観光名所による説明は次のとおり。

韓 国 展 望 所

比田勝から車で約10分。ヒトツバタゴの自生地、鰐浦の山の上にあって、ここからは天気の良い空気の澄んだ日には、釜山港の建物が肉眼で見れます。
手前の島は、航空自衛隊の基地です。
平成3年3月20日に鰐浦韓国展望公園に「朝鮮国訳官使遭難追悼碑」が建立されていましたが、訳官使遭難者名が不詳でした。
後に対馬史民俗資料館の資料によりそれが明らかになりました。
平成7年3月に遭難から300年を迎えるということで、副碑(遭難者名碑)が、建立され3月 日に韓国からたくさんの御来賓をお招きし、除幕式が開催されました。
展望所駐車場より豊・砲台跡まで遊歩道があります。500mほど歩くことになりますが、健康をかねて足を運んでみてはいかがですか。

豊砲台跡  対馬市上対馬町鰐浦  

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豊砲台跡  対馬市上対馬町鰐浦

「豊砲台跡」は第2次世界大戦の遺物。朝鮮海峡が戦略上重要であったことから、旧陸軍により5年の歳月と巨費を投じ、昭和9年に完成した。終戦によって米軍により解体された。
砲塔部のコンクリート厚さは3mあまり、砲を操縦する動力は水圧を利用したといわれ、先進的な技術がうかがえる。実戦は行われることなく、「まぼろしの砲台」となったが、兵舎・台座・地下室は当時の姿に復し、見学できる。

比田勝港から県道182号線により泉を経由して鰐浦方面へ向かう。鰐浦へ出る前に旧道のトンネルが見え、案内標識により山手へ登って行くと「豊砲台跡」へ着く。
現地説明板は次のとおり。
豊 砲 台 跡

豊砲台は、朝鮮海峡に面し、当時、軍事上要衛の地にあり、日本海及び朝鮮海峡の制海権を確実にするため、昭和四年五月に起工、五ヶ年の歳月を費やし完成したものである。 この砲台は、大正十年国際連盟軍縮条約により、戦艦「長門」が廃艦となり、その主砲を移管改造したもので、一般的に四十五口径四十センチ加農砲といわれ、長さ十八メートル五十センチの砲身ニ門が構築された。
昭和九年三月、付帯施設を含む全ての工事が完了し、同時に試験射撃も行われ、名実ともに世界最大の巨砲であった。
発射指令(観測所)は、現在の海上自衛隊上対馬警備所、西泊権現山、上県町棹崎にあって、潮の干満、潮流の速度、距離など測定され、また砲撃指令は空中、地下、海底の三方方式で伝達されていた。
砲塔部及び地下室は、鉄筋コンクリート造りで、天井、脚壁の厚みは、爆撃に耐えられるよう二メートル以上、特に砲塔部は、三メートルの擁壁で保護されている。地下室は、操作用機械室、水圧用水槽などと区画され、往時の面影がしのばれる。
この砲台も、実戦には、一発の弾丸も発射することなく終戦を迎え、昭和二十年十月米軍の爆破班により解体された。
このような施設が二度と再び造られる時代のこないよう、人類永遠の平和を切望し、昭和五十九年十二月現状に復した。                  上 対 馬 町

三宇田浜  対馬市上対馬町泉

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三宇田浜  対馬市上対馬町泉

比田勝港から県道182号線により泉を経由して鰐浦方面へ向かう。泉隧道を出て「三宇田海水浴場」への案内標識により右折し、約1km行くと「三宇田浜」へ着く。
平成8年に「日本の渚・百選」に選ばれた白砂の海浜。
HP「対馬から 来てみんね!上対馬町」観光名所による説明は次のとおり。

三宇田海水浴場&キャンプ場

比田勝港より車で約5〜7分  ■ルート案内→①比田勝〜②古里〜③三宇田
三宇田海水浴場の海辺は日本渚百選に入る見事な景観です。特に砂浜の砂は貝殻成分が
大部分を占めて、きめの細かな白砂と成っています。
素足での感触と綺麗な海水をお楽しみ下さい。
三宇田浜を形成する岬にはキャンプ場と、温泉施設「渚の湯」が有ります。

塔の首遺跡  対馬市上対馬町古里

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塔の首遺跡  対馬市上対馬町古里

比田勝港から県道182号線により泉を経由して鰐浦方面へ向かうと、すぐのところの古里地区の左方高台に「塔の首遺跡」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

塔の首遺跡  史跡(国指定)

指定年月日 昭和52年2月17日  所在地 上県郡上対馬町大字古里字在所陽
管理団体 上対馬町
上対馬町比田勝港の北東、西泊湾をのぞむ低い旧岬上にある弥生後期の墓地で、箱式石室4基からなる。銅釧(どうくしろ 腕輪)・各種の玉類、8000個におよぶガラス小玉・広形銅矛・方格規矩文鏡(青銅鏡)・小鉄斧等、多数の遺物が棺の内外から発見された。
特に注目されるのは、第3号棺から発掘資料としては初例の広形銅矛2点があり、しかも弥生式土器および韓国陶質土器とともに発見されたことである。このことは、広形銅矛の年代が明確になったこと、韓国の土器と日本の土器の年代比較が可能になったことを意味し、日韓文化の交流を如実に示すものとして注目される。

網代の漣痕  対馬市上対馬町網代

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網代の漣痕  対馬市上対馬町網代

「網代の漣痕」は比田勝港入口の南海岸にあり、比田勝町の中心通りを行き、比田勝川河口の公園角から右折して、比田勝ベイセブンブリッジの大橋を渡り網代漁港へ向かう。
網代漁港の前に轟島を繋いだ防波堤があり、この付け根の裏側海岸部に「網代の漣痕」が広がる。堆積構造の「流痕」との見方もあり、今後の検討を要すると言われている(厳原町誌第4編文化財1173頁)。
現地説明板は次のとおり。

町指定天然記念物  網代の漣痕

1 指定年月日 昭和49年2月1日 指定第5号
2 指 定 地 上対馬町大字網代字吉野□392番地(山林413㎡)
3 説   明
対馬の地質は主に、黒灰色をした泥岩と砂岩の互層よりなり、約3000万年前に堆積した地層で、対州層群とよばれる。
他の多くの場所でも砂岩の上面が漣痕が、また下面には流痕がある。
この漣痕は水流の作用により砂層の表面に形成された水流漣痕とよばれるもので、地層が堆積したあとの水の流れの方向(古流向)を知るうえで、学術的に貴重な資料である。
この漣痕があらわれている地層は、高さ10m〜15mで、約30度の傾斜をなし、延長約140mにわたる。きわめて広大で、美しく、景勝地として町民に親しまれている。
昭和57年2月1日  上対馬町教育委員会

朝日山古墳群  対馬市上対馬町大増  

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朝日山古墳群  対馬市上対馬町大増

国道382号線により豊玉町和坂交差点まで行き、右折して対馬上島の東海岸を回る県道39号線へ入る。上対馬町舟志までかなり北上する。比田勝からがもう近い。
舟志の先に大増の集落があり、舟志湾のもう一方の奥となる。海に突き出た場所に「霹靂(いかづち)神社」があり、この丘は朝日山と呼ばれている。

県道から入ると神社の左横へ出る。海に面して石の鳥居が建っている。拝殿裏の石段を登ると本殿があり、本殿上の低い丘に「朝日山古墳群」がある。
現地説明板は次のとおり。

町指定史跡  朝日山古墳群

1.指定年月日 昭和49年2月1日  2.指定地 上対馬町大字大増1073番地
3.説   明
この椎の古木が生い繁った丘の上に霹靂神社がありこの丘は俗に朝日山と呼ばれている。本殿の裏側に石室墓の群集があり昔盗掘をうけている。
昭和23年調査が行われ漢武鏡一面・勾玉・鉄製剣・刀・斧・鎌・鋤・紡鐘車・釘・須恵器・土師器が出土した。
この古墳の須恵器はわが国の祝部土器の中で最も古い形式とされている。
九州の祝部土器の形式を分類してその編年をつくる研究の動機となったのがこの朝日山の古式祝部であった。
また金海式土器が学界で問題になったのもこの朝日山出土器が知られてからである。
考古学上朝日山古墳を標準として中期古墳と後期古墳と類別している。
昭和57年4月1日  上対馬町教育委員会