長崎の風景・史跡 (県 北)」カテゴリーアーカイブ

豆酘寺門「樫ぽの」遺跡  対馬市厳原町豆酘

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豆酘寺門「樫ぽの」遺跡  対馬市厳原町豆酘

厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、「多久頭魂神社」の参道へ入る案内標識がある。
豆酘寺門「樫ぽの」遺跡は、同神社鳥居がある参道入口から右手の農道へ入る。600mほど行って、権現川上流に出た小さな橋の脇一帯である。

現地に神社が設置した説明板はあったが、草に覆われてまったく穴の場所がわからない。図示や写真でもあればそこの草を払ってでも探しようがあるが、時間がなく切り上げた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は以下のとおり。

なお、対馬新聞社HP「対馬ポータルサイト 対馬の文化/県指定有形民俗文化財 豆酘寺門樫ぽの遺跡」と、長崎県文化振興課HP「長崎文化ジャンクション 長崎文化百選(65)樫ぼの遺跡」に、もう少し詳しい内容と写真があるので参照。
貯蔵穴の「ほな」が樫の実を入れるため、地元では今「樫ぼの」に転訛し言われている。「対馬ポータルサイト」は、江戸時代記録を次のとおり紹介している。

江戸時代宝暦8年(1758)12月御郡奉行より出された「肝煎(きもいり)血判頭百姓之差図方並心得」に、「…或は孝行芋の切り干、櫧(かし)の実の水生け、干菜…ありあう時節になるだけ貯え置き…」とみえ、『楽郊紀聞』(中川延良編安政7)にも、「樫ノ実を家別拾ふて、儲蓄とす。川縁にほなを作りて蔵め置く也」とみえ、樫の実が人々の重要な食料であったことがうかがえる。

豆酘寺門「樫ぽの」遺跡  県指定有形民俗文化財

指定年月日 平成8年3月18日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘字寺門2429番地
所有者 多久頭魂神社
「樫ぼの」遺跡は、豆酘湾に注ぐ神田川の支流である権現川の上流にあり、遺構は川の縁に群集している。
計15基が確認されており、大きさはそれぞれ異なっているが、直径が約1.5mから2m、深さが約1.5mのほぼ円形あるいは楕円形のピットである。内側から石積みされ、底に板石が敷き詰められ、常に水が替わるように工夫されている。
民俗学的調査では、明治時代中期以降は利用されていないとされ、江戸時代とそれ以前の遺構であることが推測される。一般に、樫の実は天日で乾かすか水漬けにして保存されていたが、水漬けの場合も比較的規模の小さいものが普通である。
これに対して、豆酘の「樫ぼの」は大規模で恒常的な設備として設けられている。これは、この地で樫の実が主食に近い食料であったことを裏付けるものであり、対馬の食習俗を知る上でも貴重な遺構である。

梵鐘(多久頭魂神社)  対馬市厳原町豆酘

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梵鐘(多久頭魂神社)  対馬市厳原町豆酘

厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、「多久頭魂神社」の参道へ入る案内標識がある。
神社にはこのほか、国指定重要文化財「金鼓」、県指定有形文化財「大蔵経」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

梵鐘(多久頭魂神社)  重要文化財(国指定)・工芸品

指定年月日 昭和50年6月12日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘
所有者 多久頭魂神社
多久頭魂神社遥拝所入口の鐘楼にあり、豆酘観音堂鐘とも呼ばれてきた梵鐘である。鐘の姿はやや丈長の端正な形で、双頭式の竜頭は竜の口が笠形上の柱を噛み、竜の上に三面宝珠が火炎につつまれて配されている。袈裟襷(けさだすき)も通常のもので、鐘身上帯は無文、下帯は唐草文を鋳出している。乳区には4段4列の笠形乳をならべ、撞座は筋蓮弁を用いた八葉蓮華をかたどって竜頭の長軸方向に2個を配し、下辺の駒爪は2段につき出している。
銘文により初鋳は平安時代の寛弘5年(1008)、改鋳が平安時代の仁平3年(1153)と南北朝時代の康永3年(1344)の二代にわたるものであることが知られる。また銘文中に上松浦山下庄の大工覚円、小工李興の名が見られ、竜頭に肥前鐘の特色が指摘されている。
総高98.5m。

主藤家住宅  対馬市厳原町豆酘

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主藤家住宅  対馬市厳原町豆酘

19世紀中頃の対馬の家格の高い農家の三間取建築様式。対馬市厳原町豆酘の「主藤家住宅」。住家であるため、外観のみの見学となる。
厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、路地へ入る案内標識がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明、及び現地説明板は次のとおり。平面図は「厳原町誌」1117頁から。
主藤家住宅  重要文化財(国指定)・建造物

指定年月日 昭和44年3月12日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘2752
所有者 主藤長太郎
建築年代について、これを証する資料はないが、19世紀中頃の建築と推定されている。平面は「台所」「本座」「納戸」からなる、いわゆる三間取りで、これに一間通りの入側が表側に付き、本座の前を「座敷」、台所に接する部分を「戸口」と呼んでいる。土間は狭く、かまど、流し、風呂などがある。
全体に木割りが大きく、特に長方形断面の柱を見付けが大きくなるように立てるのは、この地方の特徴である。小屋は和小屋で、大梁を格子状に組み化粧屋根裏天井。屋根はこの地方に珍しく、本屋根・ひさし共に本瓦葺きである。対馬地方の代表的な農家の例として、貴重な遺構である。
主藤家住宅

国指定重要文化財 建造物  昭和44年3月12日指定
この建物の特色は、土間の他に、「だいどころ(居間)」「ほんざ(座敷)」「なんど(寝室)」からなるいわゆる三間取りで、玄関側に幅一間の入側を付加し、さらに縁が二方についている。土間は比較的狭く、「だいどころ」が広い。骨組みは、周囲に太い扁平な柱を立て、弓状に反った大梁を格子状に組み、独特の意匠効果を上げている。
このような間取りは、全国的にも珍しい。建築年代は、部材の形状や家屋の構造から19世紀中期頃と推測され、建築の質、意匠が優れ、保存状態も良く、構造も典型的で、対馬の農家を代表する住宅として貴重である。                   厳原町教育委員会

対馬藩お船江跡  対馬市厳原町久田

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対馬藩お船江跡  対馬市厳原町久田

厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。厳原港のすぐ次の入り江が久田浦で、久田川の河口に「対馬藩お船江跡」がある。
県道から海岸に新しく架かった「お船江大橋」が見えるので、下って行って橋の中間の階段を利用し久田川の川岸へ降りると、そこに史跡説明板が設置されているそうである。
まだ町中に史跡案内板が整備されてなく、船着場がほとんどわからなかった。
最後の写真は、久田浦の南はずれで見た海岸の井戸。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

対馬藩お船江跡  県指定史跡

指定年月日 昭和44年4月21日  所在地 下県郡厳原町大字久田字白子4−1
所有者 長 美嘉
厳原港の南、久田浦に注ぐ久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と、5つの船渠がある。対馬藩お船江の跡である。寛文3年(1663)の築造で、築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。
江戸時代、水辺の各藩はいずれも藩船を格納する施設を設けていたが、これほど原状をよく遺存している所は、他に例がない。日本近世史上、貴重な遺構である。

対馬藩主宗家墓所  対馬市厳原町西里

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対馬藩主宗家墓所  対馬市厳原町西里

厳原港から国道382号線により厳原の町の中央通りに進み、今屋敷の交差点から左折して対馬市役所の方へ行くと、この道先が「万松院」への参道となる。
寺の右手山腹に対馬藩主宗家墓所があり、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登って行く。樹齢数百年の大スギが脇に立つ。
最後の写真は、金石城跡の復元された庭園から見た万松院。巨樹、石橋の項も参照。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

対馬藩主宗家墓所  史跡(国指定)

指定年月日 昭和60年2月18日 所在地 下県郡厳原町大字厳原西里字金石ほか
所有者 万松院 
清水山南麓の宗家の菩提寺である天台宗万松院を中心に、山腹の宗家歴代の墓地を含む広大な地域である。万松院は藩主義智(宗家第19代)を弔って、元和元年(1615)にその法号をとって創建された。
墓地は、桃山様式を残す山門のわきから、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。樹齢数百年の大スギが茂り、上段には義智以来の14人の藩主とその正室ら、中段には積極的な朝鮮外交で有名な室町期の貞国ほか、下段には側室などが眠る。
対馬藩は十万石の格式であったが、壮大な墓地は数十万石の大藩なみといわれている。

今屋敷の防火壁  対馬市厳原町今屋敷

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今屋敷の防火壁  対馬市厳原町今屋敷

厳原港から国道382号線により厳原の中央通りを行き、今屋敷の交差点から所在図の場所へ歩いて行くと、「今屋敷の防火壁」が見られる。
Aが県指定防火壁の場所で、案内標識と現地説明板がある。
Bの場所にも防火壁が残り、「嘉永二 酉三月日 町中 火切」(1849年)と刻んだ石があり、説明板がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」によるAの説明、及びAに設置されている現地説明板は次のとおり。
今屋敷の防火壁  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 昭和61年1月10日  所在地 下県郡厳原町大字今屋敷705−1
所有者 海地浮久恵
この防火壁は、江戸時代につくられたものである。江戸時代、対馬藩の首都府中(現厳原町)は、しばしば大火に見舞われた。藩当局は種々その対策を講じたが、その一つとして天保12年(1841)以後防火壁をつくり、その延焼を防ごうとした。これら石垣によるものは全国的に類例が乏しく、貴重である。
しかし、今日これらは自然崩壊、ないし屋敷地の改造等に伴い破壊に瀕している。よってそのうちの一つで、最も当時の姿を伝え、かつ天保15年(1844)正月という築造年月の陰刻の見られる本防火壁を指定した。

今屋敷の防火壁

県指定文化財・建造物 昭和61年1月10日指定
石垣は対馬の名物であるが、火災の類焼を防ぐため、火切として高く築かれた石垣の防火壁が、昔の町割の線に沿って設けられた。現在残っているのは数箇所に過ぎないが、最も状況が良いのが本例である。
刻銘には、「天保十五年申辰正月 消防為 火切築え 高さ一丈三尺 根幅五尺」とある。石垣の全面に火に焙られた痕跡があり、府中(厳原)町屋の軒並を護った貴重な遺跡である。昔は江戸市中にも火切があったが、現在は跡形もなく消滅し、日本中で遺っているのは対馬の厳原だけという。                           厳原町教育委員会

旧日新館門・対馬藩家老屋敷跡など  対馬市厳原町中村ほか

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旧日新館門・対馬藩家老屋敷跡など  対馬市厳原町中村ほか

厳原港から厳原の町の中心に入る。中央通りの国道382号線沿いやそれから少し町中の道を歩くと見られる。旧日新館門・武家屋敷通り・対馬藩家老屋敷跡・桟原館の高麗門(旧桟原城門)・金石城跡(櫓門)。
長崎県HP「長崎県の文化財」による「旧日新館門」の説明は次のとおり。

旧日新館門  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 昭和45年10月6日  所在地 下県郡厳原町大字中村642
所有者 厳原町
もと対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが、幕末には藩校日新館に用いられた。大門に石塀・石塁(門庭)・脇造屋が付属する。江戸末期における大名家の格式を備えた武家屋敷門の遺構としては、本県では貴重なものである。
日新館は、幕末に対馬藩勤王党の拠点であったが、内紛によりその多くが斬られ、志をのばすことができなかったといわれる。

対馬「烏帽子岳展望台」からの展望  対馬市豊玉町仁位

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対馬「烏帽子岳展望台」からの展望  対馬市豊玉町仁位

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前に「和多都美大橋」があり、橋を渡って対岸の山際を進むと赤い大鳥居があるが、「和多都美神社」はまだだいぶん先。下って浦へ出たところ。

和多都美神社の先から「烏帽子岳」へ車道が上がる。駐車場から山頂展望台まで60mほど坂段を登る。
烏帽子岳は、標高176mの山。浅茅湾に突き出た半島にそびえる。国内有数のリアス式海岸・浅茅湾を三方に眺められるほか、360度の美しい展望が広がる。
長崎県HP「ながさきのしま|長崎のしま紹介【対馬】|観光地」による説明は次のとおり。

⑬ 烏帽子岳(えぼしだけ)展望台   場所 対馬市豊玉町仁位

浅茅湾周縁の山ではひときわ抜きん出た標高となっているため、ここからの眺望は壮観です。岬と入り江・島々が織りなす絶景の浅茅湾を眼下に、東は対馬空港、万葉歌の浅茅山に比定される大山岳、そして黒島を隔てて対馬海峡、西は朝鮮海峡に浮かぶ韓国の山並みと荘厳な海峡の落日。日の出から日没まで、光と影の移ろいとともに妖しく変化する大自然の光景に、あるいは四季折々に綾なす色彩の美しさに、ここに立つ人は息を呑みます。

和多都美神社  対馬市豊玉町仁位

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和多都美神社  対馬市豊玉町仁位

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前に「和多都美大橋」があり、橋を渡って対岸の山際を進むと赤い大鳥居があるが、神社はまだだいぶん先である。

「和多都美神社」は、下って浦へ出たところ。正面の5つの鳥居のうち、2つは海中にある。社叢は巨樹・名木の項を参照。烏帽子岳展望台は、神社の先から車道が上がる。
境内にある神社由緒板は次のとおり。

名神大社 和多都美神社

鎮座地 / 長崎県下県郡豊玉町大字仁位字和宮五五番地
御祭神
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
御由緒
当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」であった。平安時代の律令細則である「延喜式」の「神名帳」の中に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。貞観元年(八五九年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、「三代実録」によれば、永徳元年(一三八一年)に、更に従一位を叙せられ、往古より島内は言うに及ばずわが国の名社大社の一つに数えられた。
縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた。その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。そして神々しい神奈美「夫姫山」のさざ波よせるこの霊地に彦火々出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。
豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして豊玉姫を娶り妻とした。この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生まれたものである。
満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させ、海神にまつわる玉の井伝説の遺跡跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比須の磐座などの旧跡も多く、また本殿の後方に二つの岩がある。これを夫婦岩と称し、この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。
また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵)である。このように当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣や奉献それに広大な社領の寄進があった。現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地からの参拝が多い。

女連の立岩  対馬市上県町女連

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女連の立岩  対馬市上県町女連

国道382号線が峰町三根を過ぎ、山田山トンネルを抜けると上県町へ入る。すぐ次に新弓坂トンネルがあり、この入口に上県町鹿見や久原を通って「女連」(うなつら)へ出る県道189号線がある。峰町三根からが返って近い道がある。

「女連の立岩」へは、女連漁港へ出て左岸の防波堤から、断崖下海岸のコンクリート舗装をした狭い歩道を約10分歩く。満潮時や波がかぶる日には通行できないだろう。
現地に案内板はなく、HPにあまり紹介がない。
HP「豪大のなんでも日記:女連の立岩 2007-03-03」に少し詳しい写真があった。

対馬観光物産協会パンフレット「対馬まる分かり!ガイドブック 対馬」による説明は次のとおり。5枚目の写真は、歩道側海岸の立岩に続いた岩脈。最後はスフィンクスに似た近くの「沖ノ瀬」という島。
10 女連の立岩(うなつらのたていわ)

そそり立つ奇岩と洗濯岩のコントラストはまさに大自然の造形美。釣り人も多い。