長崎の風景・史跡 (県 北)」カテゴリーアーカイブ

オランダ船鉄錨  平戸市岩の上町 ( 長崎県 )

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オランダ船鉄錨  平戸市岩の上町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。平戸市役所入口、幸橋御門(復元)右側に展示されている。

岩の上町のオランダ船鉄錨 いわのうえ
平戸市(平戸島) 平戸市役所・敷地内 鉄錨 長約3m 16世紀後半〜17世紀初頭 市有形 WEB/現地解説板 昭和27、川内港から引き上げられたもの/覆屋内に展示 戦国末期から江戸初期にかけて海外交易で栄えた平戸ならではの遺構 2 B

オランダ船錨   (現地説明板)
16世紀後半から17世紀初頭の平戸は、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスの貿易船が来航し、海外貿易の中心地であり、西の都と呼ばれるほどに繁栄を極めた。
大型の錨は1952(昭和27)年に川内港から引き上げられたもので、松浦史料博物館に展示されているオランダ船錨(県指定文化財)ともよく似ており、海外貿易で栄えた平戸を実証する資料である。小型の錨は1956(昭和31)年に平戸瀬戸で引き上げられたものである。
なお、一緒に展示している方柱状の石材は、平戸の最南端に位置する宮の浦港から引き揚げられた、中国船の碇石である。          平戸市教育委員会

なお、松浦史料博物館(平戸市鏡川町)に展示されている「オランダ船錨及び附属文書」は、長崎県の文化財によると、次のとおり。4枚目写真も同HPから。 

オランダ船錨及び附属文書
有形文化財(県指定) 
よみがな  おらんだせんいかりおよびふぞくもんじょ
指定年月日  1975年09月02日
所在地  平戸市鏡川町12(松浦史料博物館)
所有者  (財)松浦史料博物館
船錨は天明2年(1782)川内浦の海中から引き揚げられたもので,17世紀平戸に入港していたオランダ船が使用したものと考えられる。当時の藩主静山公は,この錨を模写させ,それを出島の蘭館長イサアク・テツシンキに見せ,蘭文の証明書を作らせ,オランダ通詞本木栄之進に翻訳させた。これらに関する1件書類10点が附属文書として残されている。これらの資料は17世紀における平戸のオランダ貿易関係資料として,また蘭文関係文書は出島関係資料として貴重なものである。

白岳の狼煙場・跡  川棚町下組郷 ( 長崎県 )

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白岳の狼煙場・跡  川棚町下組郷

白岳(標高302.2m)は、川棚の町から北西にNHKアンテナ塔が見える山。この近くまで車道が上がる。エレナ前から医療センター角を行き、下組郷公民館や大石垣の家を過ぎ平戸街道へ出て、喜々津牧場の間の林道に入る。往還松の育成をしているところに、登り口の標石と説明板がある。
ここから約800mだが、コンクリート坂道途中の分岐は左へ、林道はアンテナ塔下近くまで入り、駐車可。あと
200mほど歩いて山頂に登る。後ろの写真は、往還松付近から見た虚空蔵山など。
サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。

白岳の狼煙場・跡 しらたけ
(東彼杵)川棚町 狼煙場 文化5(1808)以降 町教委 場所が特定できる程度 文化5のフェートン号の長崎への不法侵入・乱暴以降に大村領内に8ヶ所程度設置された狼煙場の一つ 4 –

白岳(大隅高野)の狼煙場跡  (800m手前登り口にある現地説明板)
文化5(1808)年8月、イギリスの軍艦フェートン号が長崎に不法侵入して乱暴を働いた。(これが17年後の「異国船打払令」の大きな原因となる)
それで今後長崎に同様な異変が起こった場合の敏速な情報伝達のためその翌年大村領内にも数カ所の狼煙場を設けた。
山頂の狼煙場跡
(直径約5メートルのくぼ地)はその数少ない遺跡の一つで、彼杵の立神狼煙場から合図を受け継いだ。
川棚町教育委員会

平島の古井戸  川棚町下組郷平島地区 ( 長崎県 )

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平島の古井戸  川棚町下組郷平島地区

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。5枚目の井戸は、所在図2のところにある井戸。

平島の古井戸 ひらしま
(東彼杵)川棚町 平島地区 石井戸 天保4(1833)以降 町教委 史跡(無指定)されているのは1ヶ所のみ 天保4の大火後に碁盤目状の路地が造られ、防火用水を兼ねて20数ヶ所の井戸が掘られた 3 C

平島の古井戸  (現地説明板)
天保4年(1833)4月、平島は大火に見舞われ、住家200棟、小屋26棟、土蔵1棟が焼失した。
復興にあたり、京都の町並みにならって道路を基(碁?)盤の目のように通し、同時に防火用水を兼ねて20数箇所にこのような井戸が掘られた。
これは当時のまま残る井戸であり、現在も家庭用水として利用されている。
平成20年(2008年)   川棚町教育委員会

平島の碁盤目状街路  川棚町下組郷平島地区 ( 長崎県 )

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平島の碁盤目状街路  川棚町下組郷平島地区

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。古井戸は次の記事とする。

平島の碁盤目状街路 ひらしま
(東彼杵)川棚町 平島地区 道路 外周不定形: 東西2本、南北2本 天保4(1833)以降 町教委 当時の区画割がそのまま残る 天保4の大火後に造られた碁盤目状の街路 2 C

ひっぽがし石垣
(東彼杵)川棚町 平島地区 護岸石垣 文政11(1826)以前 町教委 ごく一部を鉄柵で囲んで保存 文政11の台風で被災した護岸石垣 4 C

長崎県都市計画課HPの「まちづくり景観資産」登録制度による説明は、次のとおり。

平島地区 ひらしまちく
登録番号:景資第1-26号  登録日:平成22年3月26日  所在地:東彼杵郡川棚町下組郷
かつては大村湾屈指の漁業集落であった、川棚川右岸の静かな漁業集落である。江戸時代末期から大正にかけて酒屋や問屋、豆腐屋など商業も栄え、地の利を活かした海運業も生業とされてきた。点在する旧家や細い辻道、古井戸に往時の面影を見ることができ、また古材などを再利用した門、石積み・レンガ積みの塀などもよく保存されており、歴史を感じさせるまちなみである。

平戸八景3ヵ所を国の名勝指定へ ( 長崎県 )

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平戸八景3ヵ所を国の名勝指定へ

長崎新聞県内トピックス(2014年11月22日更新)は、次のとおり。
朝日新聞の詳細記事及び私の手持ち写真から今回対象の一部を紹介する。本ブログ次を参照。「大悲観」は、ウィキペディア画像。
潜龍ヶ滝  佐世保市江迎町田ノ元免    https://misakimichi.com/archives/971
福石観音の五百羅漢  佐世保市福石町  https://misakimichi.com/archives/1242

平戸八景3ヵ所名勝指定へ

文化審議会(宮田亮平会長)は21日、「平戸八景」として知られる景勝地「平戸領地方八竒勝(ひらどりょうじかたはっきしょう)」(佐世保市)など10件を国の名勝に新規指定するよう下村博文文部科学相に答申した。
明治時代に建てられた長崎市鍛冶屋町の「料亭 春海(はるみ)」や、同市宿町の古民家、吉田家住宅の「主屋(しゅおく)」と「長屋門(ながやもん)」など133件の建造物を新たに登録有形文化財とすることも求めた。
近く答申通り告示され、県内の名勝は7件(うち特別名勝1件)、登録有形文化財(建造物)は119件となる。

「平戸領地方八竒勝」は、平戸往還(街道)周辺の8カ所の景勝地。江戸後期の1847(弘化4)年、平戸藩主松浦熈(ひろむ)が選定した。文化財指定の条件が整った「潜龍水(せんりゅうすい)」「大悲観(だいひかん)」「福石山」の3カ所を指定する。
「料亭 春海」は1907(明治40)年築の邸宅に昭和期以降の部屋などを増築した建物で、料亭らしい品格が評価された。旧長崎街道沿いに立つ吉田家住宅は「主屋」「長屋門」とも1890年代の建築。格式の高さと重厚な存在感で地域に親しまれている。
このほか、「甑島(こしきしま)長目の浜および潟湖(せきこ)群の植物群落」(鹿児島県薩摩川内市)を天然記念物に、史跡13件と登録記念物5件、重要文化的景観3件を新規で答申した。

ウィキペディアフリー百科事典による「平戸八景」の説明は、次のとおり。詳しくは次を参照。
「平戸八景: 地域遺産の旅」 http://rekisitannbou.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-e37f.html

平戸八景

平戸八景(ひらどはっけい)は、旧平戸藩内にあたる長崎県佐世保市内に散在する8箇所の奇岩からなる景勝地。北宋の瀟湘八景になぞらえた八景の一つである。8箇所とも北松浦半島にあることから、北松八景(ほくしょうはっけい)と呼ばれることもある。
現在伝承されている平戸八景は、天保年間に平戸藩主松浦熈(観中)が京都の沢渡広繁に作画と出版を依頼した「平戸地方(じかた)八奇勝図」をルーツとする。平戸領の本土(地方)に点在する奇岩奇勝から、松浦郡(→北松浦郡)と彼杵郡(→東彼杵郡)から4箇所ずつ、計8箇所を選び、広繁の手による精巧なスケッチと漢詩をセットにした印刷本である。総じて、山水画や浮世絵の素材として優れた風景を採用している。
八景が分布する北松浦半島は、新生代第三紀の砂岩層に第四紀の溶岩台地がかぶさり、浸食によって露出した第三紀層が多様な景観を作っている。松浦熈がそこに着目し、古くからの景勝地に加え、自らが普及に関与した新たな景勝地を加え、世間に広めた。
2009年現在、2箇所が江迎町、6箇所が佐世保市にあったが、市町村合併が進み、2010年3月31日に江迎町が佐世保市に合併したため、八景全てが佐世保市内に位置することになった。

概要

1.高巌(たかいわ
種類:崖
概要:佐世保市江迎町小川内(江迎川下流)に位置する高さ30mほどの断崖。現在では「高岩」と書く。古くより知られた断崖で設定当時の平戸往還は崖の真下を通り抜けていたが、崩落が相次いだため、往還は川の対岸に移設された。現在でも補強処理を施していないため恒常的に崩落しており、直下の道路は通行止めにはなっていないが、通行者はほとんどいない。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線高岩駅 – 駅ホームから断崖を眺めることができる。西肥バス「高岩」バス停 

2.潜龍水(せんりゅうすい)
種類:滝
概要:江迎川上流の、高さ20mほどの滝。佐世保市吉井町草ノ尾から江迎町田ノ元に流れ下る所に位置する。現在では「潜竜ヶ滝」や「潜竜の滝」と呼ぶ。伝承ははっきりしないが修験者の道場となっており、明治までは女人禁制であった。女人禁制が明けるまで、結界には鉄の扉と鳥居が設けられており、松浦熈は「龍門」の篆額を揮毫し、この鳥居に飾らせた。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線潜竜ヶ滝駅 – 滝までは徒歩20分。渓谷入口に駐車場があり、マイカーで訪問するのが便利であるが、滝付近は道が狭くなるので注意が必要。

3.石橋(いしばし)
種類:海食陸橋
概要:佐世保市吉井町直谷の中腹にある石橋状の奇岩。高さ20mの海食洞の天蓋が抜け落ち、残った部分が全長27m・太さ4mの石橋となって2本並列している。佐世保湾で拾われた光る流木から行基が観音像を彫ってこの地に祀ったとする伝説があり、本尊にちなんで「御橋観音(おはしかんのん)」の通称で知られる。観音像は石橋そばの石橋山御橋観音寺に安置され、石橋付近は同寺の境内である。石橋を渡ることは禁じられている。石橋付近は国の天然記念物に指定されているシダ植物群生地が広がっている。観音寺そばには児童公園が造成され、公園利用者や参拝客用に駐車場が整備されている。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線吉井駅 西肥バス「御橋観音入口」バス停

4.大悲観(だいひかん)
種類:海食残丘
概要:佐世保市小佐々町小坂にある高さ20mの残丘。松浦熈が夢枕に立った大悲観音菩薩の託宣に従い、残丘への登頂を試みたが、家臣らに説得されて断念した代わりに、隷書で「大悲観」の大文字を揮毫して刻ませた。以後、観音菩薩などの祠を掘り込んでいる。この書にちなみ、現在でも大悲観と呼ばれている。周辺は大規模な公園が整備されているが、残丘には大きな亀裂が走り、松浦熈の書にも損壊がみられ、最悪の場合は倒壊の危険が噂されている。
最寄りの交通機関: 西肥バス「小島入口」バス停 かつて佐世保鉄道が大悲観駅を設置していたが、国有化・改軌後は廃止されている。

5.眼鏡岩(めがねいわ)
種類:海食陸橋
概要:佐世保市瀬戸越町にある高さ10m・全長20mの石橋状の奇岩。石橋が並列なのに対して、こちらは眼鏡状に直列している。またこちらは、両面を浸食されて薄くなった尾根を波が貫通したもので、石橋とは違った組成である。行基伝説が伝わる石橋と同様に、眼鏡岩は遣唐使派遣の際に立ち寄った空海が千手観音と梵字を記念に刻んだ伝説が伝わっている。かなり風化して見づらくなっているが、拓本を近所の西蓮寺が所蔵している(ただし非公開)。
最寄りの交通機関:西肥バスおよび佐世保市営バス「堺木」バス停。

6.岩屋宮(いわやぐう)
種類:海食洞
佐世保市高梨町にある幅10m・奥行き10m・全長20mの海食洞。現在では「穴妙見」「須佐神社」と呼びならわし、岩屋宮と呼ぶことはほとんどない。戦国時代には信仰の対象となっており、朝鮮の役出陣の折に松浦鎮信が必勝祈願の参拝をした記録がある。洞内は神域として侵入をはばかられたが、太平洋戦争後に空襲で家を失った人々が住み着いたため、侵入者を防ぐためと、参拝者の利便を兼ねて、昭和30年(1955年)頃に洞窟をふさぐように拝殿を建立したため、外部から洞窟の中を覗くことは不可能になっている。

7.福石山(ふくいしやま)
種類:海食洞
概要:佐世保市福石町にある幅50m・奥行き7m・高さ3mの海食洞。石橋の御橋観音に安置された観音像と同じ原木から行基が彫ったという十一面観世音を本尊とする「福石観音」(清岩寺)の中にある。ただし本堂がある谷とは尾根をはさんで裏側にあり、五百羅漢像を安置しているため「羅漢窟」と称されている。岩屋宮と同じく海食洞だが、幅が極端に広く完全に開いている。洞内には「龍門遺跡」という原始〜古代の居住跡が発掘調査で検出されている。現在数十体残っている五百羅漢像は、松浦熈の父松浦清(静山)が命じて安置したものだが、空襲で焼け出された人たちが仮住まいした際に大多数が投棄されている。
最寄りの交通機関:西肥バスおよび佐世保市営バス「福石観音前」バス停。

8.潮目(しおのめ)
種類:海峡
概要:佐世保市早岐1丁目と有福町を隔てる早岐瀬戸の最も狭い地点で、さらに江戸時代の干拓事業で両岸から潮止め堤防を築いたため、幅10mまでに狭められている。潮の干満に応じて激流が起き、夏にはこの激流を活かした手作りいかだ大会も開催される。
最寄りの交通機関: 西肥バス「観潮橋」バス停。JR九州早岐駅からは徒歩約10分。

波佐見町のキリシタン墓碑群  波佐見町野々川郷 ( 長崎県 )

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波佐見町のキリシタン墓碑群  波佐見町野々川郷

長崎県学芸文化課HP「長崎県の文化財」による説明は、次のとおり。県道104号の県境手前に案内板があり、県道カーブ地点から左へ120m入る。集落墓地の奥の方にあった。

波佐見町のキリシタン墓碑群  山奥にひっそりと残るキリシタン墓碑群

史跡(県指定) 
よみがな  はさみちょうのきりしたんぼひぐん
指定年月日  1972年02月04日
所在地  東彼杵郡波佐見町野々川郷字大石の本1406
最寄り駅  西肥バス「大日」バス停 車10分

ここの墓碑は,石工の手によらない粗雑な十字紋を陰刻しただけの自然石立碑で,台石もなく,すべて西に面して地面に立てられている。この地方のキリシタンは,明暦2年(1656)の郡(こおり)崩れ以後の弾圧強化で消滅したと思われるので,現存する墓碑群は明暦以前のものと推定される。厳重なキリシタン検索のなかで残り得たのは,伏碑と異なる自然石立碑であったためであろう。キリシタン分布の実証資料としても貴重である。

野々川ダム  波佐見町湯無田郷 ( 長崎県 )

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野々川ダム  波佐見町湯無田郷

波佐見町教育委員会「はさみ100選ガイドブック」1987年発行の119頁による説明は、次のとおり。主に治水を目的とした小規模ダム。クレストにラジアルゲートを2門使用する。
波佐見町から佐賀県武雄市山内への県道104号沿いにある。

88 野々川ダム

本町の中央部を流れる波佐見川(川棚に注ぐ)は、延長21.8km、流域8,144ha、県下で2番目の河川です。
波佐見一万石(米)の灌漑水源で、古くから私たちの大切な水源として利用されてきました。ところが本町では5年おきぐらいに集中豪雨の被害を受けました。これを防ぐためにその上流にダムを建設しなければという声が高まり、野々川に治水ダムを建設することになりました。
昭和43年ダム対策委員会が生まれ、翌44年に測量やボーリングが始まり地質調査もすみ、45年に用地買収・補償をすませました。46〜47年にかけて県営工事としてすすめられ、48年3月野々川ダムは完成しました。
ダムの完成で洪水調節の役割りを果たし、田や水資源の確保に役立っています。その放流水の一部は上水道に利用されています。ダムの高さは25m、頂上の長さ86m、総貯水量は105万トンです。
ダムの周囲は道路も整備され、春のつつじ・秋の紅葉が美しく、野鳥も多くて緑豊かな自然と調和しすばらしい季節感はハイキングコースにも最適なところでする
大日バス停(東小学校入口)からダム堤頂まで約2kmありますが親子づれや歩こう会グループに好評です。

東彼杵町の風景・史跡 (4)

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東彼杵町の風景・史跡 (4)  

2014年5月9日(金)、長崎県東彼杵群東彼杵町へ。ダンボールSL巡回展のあと、長崎への帰路訪ねた。
瀬戸郷にある「キリシタン墓碑」と、江の串川の「河川公園やすらぎの里」。東彼杵町などHPによる紹介は、次のとおり。いずれも国道34号バス停近くに入口案内板がある。

瀬戸郷にある「キリシタン墓碑」

大村湾パーキングエリアの近く瀬戸郷にひっそりとふたつの墓碑がたたずんでいます。 高い方は佛式の墓碑、低い方は高さ65cm、幅51cmの自然石の墓石で、上に花十字、下に「元和(げんな)7年卯(う)月の日付、そして「一ノ瀬志ゆ阿ん(じゅあん)」と彫られています。
厳しいキリシタン弾圧の中をくぐり抜け、現在まで残った貴重な墓石です。

河川公園やすらぎの里…豊かな自然とやすらぎの水辺、江の串川

・より美しく、安全な江の串川
大村市の郡岳を源に、東彼杵町を渡り、大村湾へと注ぐ江の串川。長崎県の「ふるさとの川モデル事業」に合わせて、河川公園「やすらぎの里」として生まれ変わりました。江の串川はもともと清らかで豊かな自然が息づく川として知られていましたが、川幅が狭く、川沿いに暮らす人々はこれまで何度も洪水に悩まされてきました。こうしたことから、もっと安全で快適な川になるようにと、「豊かな自然とやすらぎの水辺、江の串川」をテーマに、美しい河川公園となりました。

・花のやすらぎに彩られた公園
また、四季折々の美しい花々に包まれた花の公園でもあります。花菖蒲や水仙などの可憐な花々が季節ごとの艶やかさを競う水生植物園をはじめ、新しい花見の名所を目指した桜広場、梅園などが整備され、江の串川の川辺を美しく彩ります。とくに、小高い丘の上にある梅園から見渡す公園の景観は美しく、陽光にきらめく水面や水生植物園の花々が、訪れる人々に心からのやすらぎをプレゼントしてくれます。

・人にやさしい、ふれあいの川 
新しい江の串川の河川公園は、子どもからお年寄りまで、みんなが清らかな水と親しめる“ふれあいの川”。自然の岩や石を敷いた川床や緩やかな傾斜の堤防など、人へのやさしい心配りに満ちています。また上流には、大樽、小樽の二つの滝があり、その雄大で美しい景観にうっとりしながら自然の中で水遊びを楽しめます。清らかな水と緑、心地よい光と音にふれ、親しみながら、自然を愛する心とやすらぎの時を育む公園、それが江の串川の「やすらぎの里」です。

東彼杵町の風景・史跡 (3)

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東彼杵町の風景・史跡 (3)  

2014年5月9日(金)、長崎県東彼杵群東彼杵町へ。ダンボールSL巡回展のあと、町内の近くを訪ねる。
歴史公園彼杵の荘内のひさご塚古墳、東彼杵町歴史民俗資料館1階の展示内容。2階フロアーの歴史館・文化館は有料(大人200円)。同資料館HPによる「ひさご塚の歴史」は、次のとおり。

ひさご塚は長崎県の代表的な「前方後円墳」で、長い年月の間に周辺が削られひょうたんの形をしているところから「ひさご塚」と呼ばれてきました。今から約1,500年前にこの地域を治めていた有力な豪族の墓で、地元では、神功皇后の三韓征伐の折り、武内宿禰(たけのうちのすくね)の配下として従軍した武将の墓であると言い伝えられています。
昭和25年4月、長崎県の史跡として指定され、過去2回の調査が行われ、その結果ひさご塚が造られた時期は5世紀始めごろで、当時の規模は全長58.8m、後円部の直径37.7m、前方部の幅18.5mあったことがわかりました。また、副葬品として鏡や鉄剣などが出土しました。