長崎の風景・史跡 (県 北)」カテゴリーアーカイブ

星鹿城山  松浦市星鹿町岳崎免 ( 長崎県 )

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星鹿城山  松浦市星鹿町岳崎免

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。国道204号星鹿港入口に城山展望台への案内板がある。城山は標高128.3m。

星鹿城山  刈萱城跡。展望所からは、美しい風景を一望できます。
建久2年(1191)、源頼朝の命でこの地に下向した加藤左衛門重氏がこの地に刈萱城を築き、その後城を棄てて紀州高野山に移ったと伝えられています。
山頂には本丸の輪郭が残っており、展望所からはスケールの大きな眺望が楽しめます。

平戸オランダ商館(1639年築造倉庫)  平戸市崎方町 ( 長崎県 )

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平戸オランダ商館(1639年築造倉庫)  平戸市崎方町

平戸観光協会HP「達人Navi 平戸」による説明は、次のとおり。
松浦史料博物館から展示が移されている「オランダ船鉄錨」を撮影に行ったが、遺産サイト公開は許可を必要とし、現在手配中。

平戸オランダ商館(1639年築造倉庫)(ひらどおらんだしょうかん)

1639年建造のオランダ商館倉庫を忠実に復元した資料館。
所在地  〒859-5104 平戸市崎方町2477
問合せ  TEL:0950-26-0636 FAX:0950-26-0638
交通アクセス  平戸港交流広場から徒歩5分
駐車場  身体障害者用のみ
営業時間 8:30〜17:30
定休日  毎年6月の第3週 火・水・木
料 金  大人300円、小中高生200円

Information
2011年9月20日オープンした「平戸オランダ商館」。中は当時の貿易に関する史料や貿易品などが展示。平戸オランダ商館のある崎方町一帯は、1609年(慶長14)和蘭船が入港し、1641年(寛永18)長崎出島に移転するまでの約33年間、平戸が我が国唯一のオランダ貿易港として賑わった。 商館は当初、土蔵付き民家を借りてスタートしたが、その後周囲の民家を壊して、新たに建築。本館をはじめ、宿泊所、調理場などが整備されていった。貿易の積荷を保管する倉庫も何棟も建築され、1639年には日本で初めての西洋の石造建造物とされる 「1639年築造倉庫」が完成。2011年にオープンした「平戸オランダ商館」はこの倉庫の忠実な復元となり、貴重な建物である。1641年、幕府の命により商館は取り壊され貿易は長崎出島に移転した。

岩の上町の鯨供養塔  平戸市岩の上町 最教寺 ( 長崎県 )

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岩の上町の鯨供養塔  平戸市岩の上町 最教寺

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
最教寺は1607年、第26代平戸藩主松浦鎮信公によって建立された。「鯨鯢供養塔」は三重塔が立つ奥之院の右方手前境内にある。

岩の上町の鯨供養塔 いわのうえ
平戸市(平戸島) 最教寺 石碑(キャップ状の突起付き) 高113㎝ 元禄8(1695) WEB 原位置 (正面)「鯨鯢供養塔」/捕鯨遺産 1 C

緑岡神社の鯨魂碑  平戸市岩の上町 ( 長崎県 )

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緑岡神社の鯨魂碑  平戸市岩の上町

大丸秀士氏HP「動物のお墓」によるデータは、次のとおり。平戸大橋を渡ってすぐ岩の上大橋交差点手前の右側に緑岡神社案内板がある。イレブン後ろへ急坂を上がり、狭い車道をまっすぐ進むと、左方に鳥居が見える。子授け・安産の神様。牟田様とも呼ばれる。鯨魂碑は、参道坂段の右奥にある。

鯨魂碑    緑岡神社:長崎県平戸市岩の上町   
慰霊の対象:鯨/創設業種:漁業

■鳥居には緑岡神社とあるが、解説は緑ケ丘神社と表記している。
たくさんの男根のみられる性神社で道祖神が祀られているようだ。ここに鯨魂碑があるのは建立者が氏子だったためだろうか。鯨魂碑のそばに猫塚があった。
(碑文)
鯨魂塚(塚の漢字は土偏がない異体字)
凡有生者必有死◆死為世其死
也有益苟死而益世者死後宜祭
也余業射鯨數年千茲所獲及二
十頭之多其益亦大◆今茲撰地
塚(以)祭其魂鯨魂其安焉
明治廿六年十月十日堀江◆
(大きさ:cm)
本体 36W×111H×20D  台  52W×16H×43D

高  岩  佐世保市江迎町小川内 ( 長崎県 )

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高  岩  佐世保市江迎町小川内

ウィキペディアフリー百科事典の「平戸八景」による説明は、次のとおり。松浦鉄道高岩駅近くから全景が見える。長崎新聞県内トピックス(2014年11月27日更新)も参照。

1.高巌(たかいわ)
種類:崖
概要:佐世保市江迎町小川内(江迎川下流)に位置する高さ30mほどの断崖。現在では「高岩」と書く。古くより知られた断崖で設定当時の平戸往還は崖の真下を通り抜けていたが、崩落が相次いだため、往還は川の対岸に移設された。現在でも補強処理を施していないため恒常的に崩落しており、直下の道路は通行止めにはなっていないが、通行者はほとんどいない。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線高岩駅 – 駅ホームから断崖を眺めることができる。
西肥バス「高岩」バス停 

旧正興寺の古井戸と墓地  佐々町神田免 ( 長崎県 )

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旧正興寺の古井戸と墓地  佐々町神田免

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
場所がわかりにくいが、佐々町の北東部。国道204号ダイレックス角から松浦鉄道神田駅に向かい、橋を渡って途中から左に佐々神田保育所の方へ入る。墓地説明板から50mほど行った住宅地の右奥(保育所側)にフェンス囲いの古井戸が見える。

旧正興寺古井戸 しょうこう
(北松浦)佐々町 <正興寺> 石井戸(石積) 径1.2m,深3m 正応3(1290) 町史跡 WEB 保存状態良好/飲用不適 井戸の内壁を人頭大の玉石で築き上げる 1 B

佐々町教育委員会編「佐々町郷土誌」平成16年発行の町史跡568頁及び現地説明板は、次のとおり。正応年代に違いがある。

六 旧正興寺の古井戸(昭和48年3月指定)
所在地 神田免156
正応2年(1289)正興寺の井戸として現在まで伝えられている。昔から水が枯れたことはないといわれ、町内最古の堅井戸と思われる。深さ3メートル、口径1.2メートル。

正興寺古井戸     (現地説明板)
正応3年(1290年)正興寺の井戸として現在に伝わるもので、深さ約3m、井戸の口径1m20cm、井戸の内壁を人頭大の玉石で築きあげた技法は、大したものである。
昔から渇れたことなく町内最古の井戸である。
佐々町教育委員会

大悲観大文字  佐世保市小佐々町小坂 ( 長崎県 )

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大悲観大文字  佐世保市小佐々町小坂

小佐々町の大悲観公園を訪ねた。現地説明板は、次のとおり。後ろ側に大悲観岩陰遺跡もあった。小佐々町は、2006年3月31日に佐世保市へ編入している。この項は、本ブログ次を参照。
平戸八景3ヵ所を国の名勝指定へ  https://misakimichi.com/archives/4292

小佐々町指定文化財(第1号) 昭和52年11月8日指定
大悲観大文字
第十代平戸藩主(松浦家三十五代)松浦肥前守源朝臣(観中公)は、徳川幕府から長崎番所諸事心得を命ぜられ、度々平戸・長崎間を往復し、その途中、大別当御茶屋にも立ち寄った。その縁でこの巨巌に「大悲観」の大文字を書いて彫らせ、その下に観音を祀ったものである。観中公は当時大名の中でも屈指の書家として知られていたという。
ここは、古来平戸八景の一つとして、また霊地としても世に知られてきた地である。
平成9年2月  小佐々町教育委員会

高島遠見番所狼煙台・跡  佐世保市高島町 番岳山頂 ( 長崎県 )

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高島遠見番所狼煙台・跡  佐世保市高島町 番岳山頂

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。

高島遠見番所狼煙台・跡 たかしま
佐世保市(高島) 番岳山頂 狼煙場 文化5(1808)以降? 市教委 半壊状態(狼煙台跡という可能性が推定できる程度) 狼煙台の設置はフェートン号事件(1808)以降と推察(遠見番所自体は寛永17(1640)に設置) 3 C

高島は、長崎県北部の北松浦半島の南西の海上にある島。全島が佐世保市に属する。番岳(標高136.1m)は江戸時代に平戸藩が沿岸警備のための番所を置いたことが名の由来となっている。
島へのアクセスは、黒島旅客船(ニューフェリーくろしま) 相浦港〜高島〜黒島 ※相浦から高島まで所要約
30分、1日3往復運航(ウィキペディア)。

資料の市広報紙は、佐世保市の高橋氏が市立図書館で調べてくれた。番岳山頂は、太平洋戦争時に海軍が高射砲台を築いた。現在は公園となって南側展望台近くに「狼煙台」がある。
資料写真には「番岳山頂ののろし場(移転復元したもの)」とあるが、島の古老の話では、軍砲台で一時期撤去されたが、もともとこの場所にあったのが復元されたと言う。
画像は全部、高橋氏が12月9日島を訪ね撮影してくれた。「海軍用地 二二〇号」の標石は、昔の港近くの草原で見つけている。

錐崎の狼煙台跡と砲台跡  佐世保市針尾東町 ( 長崎県 )

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錐崎の狼煙台跡と砲台跡  佐世保市針尾東町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
西海橋を渡り西海パールライン料金徴収所先の「切崎バス停」から、東に錐崎半島の先端の方へ向かう。集落最奥の住家の右上ピークに「狼煙台跡」、左上ピークに太平洋戦争時の「砲台跡」 があったと聞いた(写真2)。

錐崎の狼煙台・跡 きりざき 佐世保市
狼煙場 文化5(1808)以降? 市教委 崩壊が進行 設置はフェートン号事件(1808)以降と推察 4 C

一帯はみかん畑内の農道や畑となって、一部遺構しか確認できない。狼煙台跡(写真3〜9)は、ここ(針尾東町1820番地)が地元で伝える「ひごや」「ひがま」とか言う場所。道脇の雑木内に石囲いのくぼ地が半分くらい残っていた。

太平洋戦争時の砲台跡(写真10〜14)は、対面小山の大木あたりにあったが、今は跡かたもない。コンクリート工作物の一部は、畑奥の斜面や雑木内に確認できた。
資料は、佐世保市の高橋氏が市立図書館で調べてくれた。奥付は不明だが、歴史散歩のような図書である。

旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設  佐世保市針尾中町 ( 長崎県 )

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旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設  佐世保市針尾中町

国指定文化財等データベースによる説明は、次のとおり。太平洋戦争の開戦を告げた「ニイタカヤマノボレ1208」を送信した施設として有名だが、そのことに関する資料はなく、送信したかどうかは不明とされる。
西海橋を渡り西海パールライン料金徴収所近くに、広域農道へ入る施設案内板がある。

名称: 旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設
ふりがな: きゅうさせぼむせんでんしんじょしせつ
棟名: 無線塔
ふりがな: むせんとう
員数: 3基
種別: 近代/産業・交通・土木
時代: 大正
年代: 大正11年
西暦: 1922

構造及び形式等: 1号無線塔、2号無線塔、3号無線塔の3基よりなる各鉄筋コンクリート造、建築面積102.56㎡、
創建及び沿革:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項:
指定番号: 2593
国宝・重文区分: 重要文化財
重文指定年月日: 2013.03.06(平成25.03.06)
重文指定基準1: (二)技術的に優秀なもの
重文指定基準2: (三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県: 長崎県
所在地: 長崎県佐世保市針尾中町382番地
所有者名: 国(文部科学省)
所有者種別: 国
管理団体・管理責任者名: 佐世保市

解説文:
旧佐世保無線電信所は、佐世保市南部の針尾島に所在する海軍が建設した長波無線通信施設で大正11年に竣工した。三基の無線塔を一辺300mの正三角形の頂点に配置し、その中心に通信局舎である電信室を配置する。設計は佐世保鎮守府建築科により、工事監督を吉田直(のぶる)が担当した。<br> 無線塔は、円形平面の鉄筋コンクリート造の塔で、基部の直径12.1m、高さ136mを測る。きわめて精巧な施工のコンクリート打放し仕上げとし、大正期におけるわが国のコンクリート技術の高さを伝える。電信室は半地下式の建物で、正面と背面を石張で仕上げ、内部には通信業務を担う発電機室や送受信機室などが設けられる。<br> 旧佐世保無線電信所施設は、わが国現存唯一の長波無線通信施設として、高い歴史的価値が認められる。また、大正時代におけるわが国最高水準のコンクリート技術を示すものとして、土木技術史上においても重要である。<br>