長崎の石・岩・石造物 (県南北)」カテゴリーアーカイブ

長崎街道久山茶屋跡の井戸は、竜馬の井戸か?

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長崎街道久山茶屋跡の井戸は、竜馬の井戸か?

ブログ”長崎風来紀行”は、あくまで私が素人目で感じた歴史のおもしろい話題の寄せ集めに過ぎず、別段深い史実の考察をするものでない。この井戸の話も、地元はそうなってほしいかも知れないが、はたしてどうだったか考えさせる指摘があり、紹介してみたい。
松尾卓次著「長崎街道を行く」葦書房1999年刊、30〜31頁の説明は次のとおり。

竜馬の井戸?
井樋尾峠を下ったら久山茶屋跡に出た。途中の道はダム築造ですっかり変わってしまった。茶屋跡には大きな石組みの井戸が残っている。旅人はこの井戸でのどを潤して、元気をつけて歩き通したのか。これだけが当時を語る証人だ。
なんとこの井戸を「竜馬の井戸」という人がいる。坂本竜馬が長崎へ行ったとき、ここで一服したという。これは間違いであろう。竜馬は、この峠道を通ってはいない。
確かに長崎街道を竜馬は行った。元治元(一八六四)年二月二三日と四月四日に往復している。勝海舟が欧米列強の下関砲撃を慰留するために、長崎へ遣わされたときのことである。師として仰ぐ海舟のお供として同行した。
『勝海舟日記』などによって、竜馬たちの足取りを探ろう。
一行は二月一四日、海軍塾生の操艦訓練を兼ねて兵庫を出帆。翌日豊後・佐賀関に着岸し、豊後街道を熊本へ向かう。二〇日に熊本・新町の本陣に止宿。二一日夜、有明海を渡海して翌朝早く島原湊に上陸、城下本陣で一休みして長崎へ急いだ。
「熔岩様交りの悪路を通る」と、日記に書かれているので、島原街道の抜け道である温泉岳の北山麓をつき切る千々石道を通行している。この道は、海沿いの街道にくらべると二里程短く、島原藩主の長崎監視時によく利用されていた。その夜は愛津村庄屋宅に宿泊している。
この年、勝四二歳、竜馬三〇歳と意気盛んな年齢であった。二三日島原領を抜け、諌早領有喜村、田結村を通って矢上宿へ出、長崎街道を行く。長崎へ着いたら、すぐに奉行役宅に出向いている。
愛津村から諌早を通ると大回りになって、急ぎ駆け付けねばならぬ旅であるから、久山茶屋を通過したことはあるまい。また長崎到着は案外早い時刻であったろう。
なお帰路は四月四日に長崎出立。往路と同じ道をたどったと見え、五日島原宿まり、一一日に佐賀関を出帆。翌日には大阪に着いている。
このように島原街道は、長崎街道の脇街道としての役割を果たして、長崎への往復に多くの旅人が利用していた。

琴尾神社の一の鳥居はどこにあるか

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琴尾神社の一の鳥居はどこにあるか

諌早市多良見町と西彼杵郡長与町の境にある琴の尾岳は、標高451.4m。山頂に琴尾神社が祀られている。多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊785頁の説明は次のとおり。

1.琴尾神社一の鳥居
明治三十一年四月、村長川津藤十の時に建てた。往時の琴尾神社参道をまたいでいる。

2.琴尾神社一の鳥居(勢女道)
当時の参道は廃道となり、雑木林の中にある。額は琴尾神社、昭和三十二年、五十石中とある。もとはもっと下方にあったが、台風で倒壊、側の石垣にはめこまれている。

3.琴尾神社
祠の前に二の鳥居。祠の中に厨子二基がある。右は大きく、光背をそなえた普賢菩薩を安置する。左の厨子は小さく中に「琴尾大神」を納める。明治廾□年九月吉日の奉造である。祠の脇に「伊木力村中 佐瀬村中 乙夘三月吉日建立」の小さな碑がある。乙夘は寛政七年である。この年正月廾三日「普賢菩薩の御神体と祠を建立したい」と願い出たことが、前出稲毛文書に書かれている。鳥居の傍に「寛政八年丙辰八月吉日 佐瀬村 崎邊田 大浦 氏子中」の他五名の氏名を刻んだ石柱がある。何を寄進したのか不明。辺りは公園として整備され、眺望もすばらしい。

山頂にある鳥居は、二の鳥居である。長崎から行くと一の鳥居はお目にかからず、どこにあるのか、地図を見て探しに行ってみた。1に記した一の鳥居は、松ノ頭トンネル入口から「琴の尾公園」の標識に従い、車で登ると山頂との中間くらいに琴ノ尾集落があり、琴ノ尾公民館がある。大きくカーブしている地点で、この下の作業所下の農道を少し下ると三叉路に鳥居があった。ここが伊木力からの往時の参詣道である。

問題は、伊木力の先、佐瀬の勢女(せめ)集落というところから上がった参詣道である。今は廃道となったが、かつてこの勢女道にも2に記すとおり、五十石中が奉造した一の鳥居があった。台風で倒壊して石垣にされているが、それを探しに行ってみた。
地図から見ると、佐瀬は五十石バス停先から入る。琴の尾岳のもう一つの烽火台跡に行く道で、案内標識に従って登った。佐瀬勢女集落の一番上の家とその上の高台の墓地の間あたりにあったようだと、地元から話を聞いたが、探してもまだわからずにいる。

「多良見町郷土誌」平成7年刊のこの調査は、中里名にお住まいの田中秀穂先生の稿である。掲載写真では鳥居が完全に建っていて、記されていることと写真が違うので、先生の自宅をお訪ねし聞いてみた。先生が言うには、勢女ないし佐瀬道には鳥居が2つあった。台風で壊れたのと、その先の山頂への道をたどって行ったら、雑木林の中に完全に立っていた鳥居があり、自分もびっくりしてこの写真を撮って、郷土誌に載せたとおっしゃる。年月が経ち、場所をよく聞いてもはっきりしない。

高齢となられ同行は願えず、先生の話の聞き違いと思われず、今3度通ってこの辺りを探している。地元の人の話もはっきりしない。まことに不思議な佐瀬一の鳥居の話である。できれば地元でよく調査をし、記録してもらえればと思う。私は地図12「琴の尾」を見ると、まったく別の場所を探しているように感じる。

多良見町西園の「十六善神社」と元釜虚空蔵さんの「浮」の額片

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多良見町西園の「十六善神社」と元釜虚空蔵さんの「浮」の額片

旧喜々津村と大草村の境、立石峠に残る「十六善神道」の標石(別項)から「十六善神社」を調べねばならないこととなった。立石峠が十六善神に参詣する多くの人たちが通った道だったからである。
多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊710〜711頁は次のとおり「十六善神社」を記している。現在の所在地は、多良見町西園にあり、東西園公民館の上に神社はある。

十六善神社 由緒及び沿革
この神社は、もとは元釜名字浮津にあって、浮津大明神(神社)といった。浮津は琴海中学校の校門前一帯の地名で、むかしの海岸である。
延宝三年(一六七五)のこと、疱瘡(天然痘)が流行したとき、神のお告げにより現在地に遷して祀ったところ、疱瘡の流行が止んだという。専務神官をおいたのは寛文十六年(一六六一)というから、浮津宮時代からの神官ということになる。以来一二代に亘って高以良氏が奉仕されたが、現在は神官不在である。
寛永六年に描かれた絵図・大草村図には、十六善神社と浮津大明神も記載されているところを見ると、浮津宮を全て遷したのではなく、浮津宮から十六善神のみ分けて遷したものと考えられる。
ともあれ、十六善神は疱瘡の神様としてひろく崇敬され、遠来の参詣者もあったらしく、立石峠には「十六善神道 木下又平」の道標が建っている。諌早家においても、その年中行事暦「神社祭礼と仕来り」に「九月十七日 大草村十六善神社祭 御代参」と書き留めて、毎年代参を遣わし、米一二俵が供進されたのであった。
天保十四年、藩主鍋島家の若君勇太郎が疱瘡にかかった時は、喜々津村の村役も十六善神社(惣百姓は氏神社)に参詣するようお達しがあっている。
一の鳥居は安永五年(一七七六)の建立で、高井良□□、その他数行の氏名が刻んである。馬場には泉水があって石の太鼓橋が架かっている。寛政元年(一七八九)に寄進されたものである。泉水もこの時造られたものであろう。二の鳥居右柱には、當村領主、三村□□□門と刻まれている。…

伊木力にあった神社を神のお告げにより、古くから大草に移転したので疱瘡の流行が止んだと記している。もともとの神社の地がどこだったか。これは同じくあった浮津宮の鳥居の額片が、琴海中学校あたりの畑から出土したので、場所がわかった。
この貴重な額片は、現在、高岩神社と谷を隔てたもう一方の高台の山中にある元釜虚空蔵さん仏石座の真ん中に据えられてある。同「多良見町郷土誌」774頁の説明は次のとおり。
2.虚空蔵(こくんぞ)さん 自然石に菩薩像を浮き彫りしてあり、神々しい趣がある。中央の鳥居の額片は浮津神社の跡地から出土したもので「浮」の字がよめる。

立石峠の「立石」と「十六善神道」の標石  多良見町喜々津・大草境

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立石峠の「立石」と「十六善神道」の標石  多良見町喜々津・大草境

別項の『多良見町で見る「立石」と「石仏」』において、④「立石峠」は次のように紹介していた。

最後の④は、まだ現地に行ってないので写真はない。②にも記している多良見町木床・東園境の立石峠にある。同「多良見町郷土誌」757頁に次のとおり記している。
3.立石峠 旧喜々津村・大草村の村境の峠。傍らに大きな石が立ててある。道端に「十六善神道 木下又平」の標石がある。ここは喜々津・大草を結ぶ道筋であり十六善神へ参詣する人が通った道であった。
郷土誌には大きな石の写真はない。道端の標石はある。ここは東園の小字「上西ノ浦」か、すぐ下に「立石ノ下」なる小字がある。

この「立石峠」の名の由来になった「立石」とは、はたしてどんな石だろうか。「多良見町郷土誌」に写真はなく、実際に峠の現地を探してみた。地図では赤点の位置である。林道が大きく尾根を曲るところで、目印は角の多良見町防災無線中継局。のぞみ公園の県道先から入れるし、西川内から虚空蔵公園へ上らず林道をずっとたどっても行ける。

中継局の反対、林道上手の山中の尾根筋を探すとすぐ見つかる。ここが「立石峠」で昔の旧道跡が三叉路に残る。石を立てているのでなく、大岩が立っている。自然のものとも考えられる立石である。苔むして高さ1.9m、横1.2m位。上への道は虚空蔵山の方へ上り、当時の諌江八十八所巡りの道とも考えられる。
「十六善神道 木下又平」は、道を隔てた小さな自然石に浅く彫られ、字は消えかかっている。高さ50cm、横23cm、巾20cmほど。立石峠は当時の集落を結ぶ重要な要路。十六善神の参詣路でもあったが、今、そのことと位置を知る人は、地元でもほとんどいなくなって、忘れられた存在となっている。

「十六善神神社」については、いろいろいきさつがあり、次項で紹介する。

多良見町にもあった2つの「龍宮(じゅうご)さん」祠

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多良見町にもあった2つの「龍宮(じゅうご)さん」祠

天草の漁民信仰「十五様」(じゅうごさん)祠は、長崎にも小浜富津弁天山公園と茂木赤崎鼻にあることを別項で紹介していたが、大村湾の奥部、多良見町にも同じ呼び方の「龍宮(じゅうご)さん」が2つあることが、最近わかった。

多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊新版の「三、野の仏たち」の中、地図1〔化屋・元釜・船津〕723〜724頁は、同町化屋の化屋公園近くに「龍宮(じゅうご)さん」があることを次のとおり記している。
6.龍宮(じゅうご)さん
堂に龍王ほか観世音など数体の尊像を安置する。堂の左側には立派な石塔がある。『塔施 弟 中』の四文字が読める。これら尊像も塔も、部落の丘の上にあった「大島庵」にあったものと、近所の老人は語っている。堂右脇の蛭子神は喜々津駅前の「シマヤ」の庭先にあったものを持って来たという。

また、地図5〔先木床〕758頁は、同町木床の白岩鼻近くの海岸部に「龍宮(じゅうご)さん」があることを次のとおり記している。
7.龍宮(じゅうご)さん 
龍宮さんは大島(うしま)にもあるので、行って話をしてみると、大島でも「ジュウゴサン」といっている。柱状節理の発達した安山岩の崖に抱かれるようにして、龍宮神の祠がある。龍宮神は海を鎮め、豊かな漁をもたらす<釣>の神であるが、ツリが攣(痙攣 けいれん)に転じて、子供のひきつけを封じる<攣神さん>ともされ、まっくろく焦がした大豆を供えて「この豆が芽を出すまでお守り下さい」と祈願したものだという。
ピャーロン開始に先だって関係者は必ず参詣する。干潮時には「のぞみ公園」から行ける。(潮の満ちていたため、祠はまだ未確認)

多良見町に見る自然石の「立石」と「石仏」

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多良見町に見る自然石の「立石」と「石仏」

上の写真のとおり、多良見町に不思議な自然石の立石が建てられている。

最初の①は、長崎バイパス前岳トンネルの北上の山で大山と言われるピーク。四等三角点があり、標高は424.2m。長崎市畦別当町と諌早市多良見町山川内、同西川内の三方境にある。
これは別項「藩境塚」ですでに紹介している「大村郷村記」壱岐力村(伊木力村)や浦上木場村に記された三方境折木境塚の塚上「立石」である。「山」と刻みがある。「郷村記」よる寸法は「高さ四尺(121.2cm)廻り五尺(151.5cm)」。ここは西川内の小字「折木」か山川内の「大山」。

次の②は、多良見町西川内の虚空蔵山公園登り口となる西川内高部配水池のタンク裏にある。これは多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊751頁に次のとおり記している「石仏」である。
11.石 仏 西川内から中里へ越える峠の畑の中にある。立石峠の「立石」と同種のものであろう。余所(よそ)から悪霊(病気など)が入って来るのを塞ぎとめる<塞ぎの神>ではなかろうか。
畑が今、配水池となっている。寸法は高さ120cm、根元の全横80cm、石の厚さは20cm。台座廻りは125cmだった。ここは西川内の小字「石佛」。

次の③は、多良見町元釜の高岩神社の参道途中左に建つ。同「多良見町郷土誌」774頁に次のとおり記している「巨石」である。
1.高岩神社 『諌早日記』文政八年四月四日に「大草村元釜金毘羅山」と記されたところで、一般には「こんぴらさん」といわれている。登山口に明治十三年建立の「高岩神社」の鳥居がある。尾根筋に出ると眺望が展け絶景である。路傍に巨石が建つ。嘉永六年の大草村地図にも載っているものである。…
以前に水洗山からの下りにこの石は見ていた。寸法は再度行って測ると、高さ170cm、横60cm、巾36cmあった。ここは元釜の小字「下ノ谷」。

最後の④は、まだ現地に行ってないので写真はない。②にも記している多良見町木床・東園境の立石峠にある。同「多良見町郷土誌」757頁に次のとおり記している。
3.立 石 峠 旧喜々津村・大草村の村境の峠。傍らに大きな石が立ててある。道端に「十六善神道 木下又平」の標石がある。ここは喜々津・大草を結ぶ道筋であり十六善神へ参詣する人が通った道であった。
郷土誌には大きな石の写真はない。道端の標石はある。ここは東園の小字「上西ノ浦」か、すぐ下に「立石ノ下」なる小字がある。

以上、多良見町にある4つの同じような格好の石を紹介した。①のみ「山」と刻みあり、他は無刻の自然石である。「郷村記」に記した①との関連から、特に②が寸法が似ていたので少し調べてみた。「境石」か「石仏」か。小字名もいろいろあり、地元でもう少し詳しく調べていただければ幸いである。
なお、同郷土誌は稿の前書きとなる721頁、「三、野の仏たち」は次のように記していた。

路傍の祠をたずねて町内くまなく歩いたつもりだが、まだまだ失礼している祠もあるかもしれない。それを思うと何だかバチがあたりそうで気が安まらない。
さて、この写真の石(注 高岩神社 こんぴらさん参道脇に立つ巨石が掲載されている)は何のいわれ、目的でたてられたものかはっきりとは判らない。旧大草村と旧喜々津村の村境、立石峠にも大きな石が据えられているし、中里名と西川内名の名境の峠の畑の中にも石仏(いしぼとけ)と称する巨石が立っている。
佐瀬の黒崎海岸近くにあるエビスさまも自然石である。これらの石は、一見してただの石ではない、と思わせる何かをそなえているのである。
人はこれに霊気を感じ、禍霊(まがつひ)の侵入を遮断するカミ—塞の神や、海の幸をもたらす蛭子神としてあがめまつったのであろうか。
この稿のタイトルに用いた「仏たち」は、如来、菩薩、天、神、明神、権現などの総称である。人々はこれら「仏たち」にすがって、豊かな収穫と家内安全をこいねがいつつ、つつましくくらしたことであったろう。他に記念碑等も二、三記録した。

この稿は、中里名にお住まいの田中秀穂氏がまとめられたものである。「多良見町郷土誌」に①の境塚立石の紹介がなかったからふれてみたが、よく読むと「山」と刻みのある①の立石は、「山川内」の項768頁に「6.山守神社 むかしは道が谷川ぞいにあったらしく、この神さまも谷底にあったそうである。このずっと奥「大山」に「山ノ神」があるというが未確認である。」と記述があり、これが「郷村記」の記す境塚立石であり、奥の「山ノ神」ではないだろうか。田中氏には先日お会いし、この報告はした。
同氏の話では、高岩神社③の石は格好が陽石に似ており、神社の手水を陰石に見立て陰陽石と考えられるとのことであった。④立石峠については、先日調査した結果を別項に載せた。

天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石  諌早市多良見町山川内

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天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石  諌早市多良見町山川内

大石一久先生の研究によって近年解明され、本が発行されている話題の墓石。これまではただ「玄蕃(ゲンバ))さん」の石と呼ばれていた。
諌早市多良見町山川内にある。県道33号線がJR長崎本線に平行して反対側山腹を走り、伊木力へ下る手前「下川内」バス停の対面に赤レンガの線路ガードが見える。このガードの真裏となる。道順は案内標識が整備されている。現地説明板は次のとおり。

天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石

千々石ミゲルは、天正年間(一五八二—九〇)にローマに派遣された天正遣欧使節四人のひとり。千々石町の出身で、永禄十二(一五六九)年ころに生まれ、十三、四歳で使節となる。帰国後、天正十九(一五九一)年にイエズス会に入会するが、慶長六(一六〇一)年ころに同会を脱会。その後、大村藩に仕え、神浦・伊木力に六百石の食禄を受けている。その間、名を清左衛門と改めて妻を娶り、四人の子息に恵まれた。また、慶長十一(一六〇六)年の大村藩によるバテレン追放令で、清左衛門はキリスト教を邪法と進言し、自らもキリスト教を棄てて日蓮宗に改宗したとされる。
その直後、理由は定かでないが、清左衛門は藩主大村喜前の愛顧を失って弾劾を受け、有馬領(島原半島)に移る。ただ、そこでも厳しい仕打ちをうけ、元和八—九年(一六二二—二三)年までは長崎に逃れたといわれている。
この墓石は、千々石ミゲル(清左衛門)夫妻のものとみられ、施主は墓石の裏面に名を刻む四男の千々石玄蕃と考えられる。銘文によれば、ミゲルは寛永九年十二月十四日(一六三三年一月二十一日)、妻は二日後に亡くなっているが、墓石には「大村に恨みをもって死んだので、大村の見えるこの地に、大村を睨みつけるように葬った」という伝承が伝わっている。
ミゲルの波乱に満ちた生涯を物語るこの墓石は、天正遣欧使節を今に伝える国内で唯一の証でもある。

塩浜跡石碑  諌早市多良見町化屋

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塩浜跡石碑  諌早市多良見町化屋

諌早市多良見町化屋、JR喜々津駅北側の化屋公園の一角に石碑はある。塩田だったこの辺りは海面が埋め立てられ、喜々津シーサイドタウンができるなど、住宅地として大きく変貌している。現地説明板は次のとおり。

化屋名塩浜跡石碑

喜々津村に塩田が開かれたのは、江戸時代初期(寛永の頃)で、久山側から喜々津川河口へと拡げられ、塩浜八町といわれた。そこには、塩炊き窯が五軒ありこの辺りを化屋と呼んだ。ここでは、年間約八百石余の塩が生産され、諌早方面へ納められていた。
明治時代に専売局に引き継がれたが、明治四十三年(一九一〇)この地の製塩が廃止され、塩田は大島の丘の土で次々に埋め立てられ畑地となった。
その埋め立て終了を記念し、大正三年(一九一四)に、原口駒太郎氏によって、この石碑が建立された。
碑 文  埋塩濱而為畑地
平成十一年七月  諌早市教育委員会

なお、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊723頁の説明は次のとおり。
5.塩浜埋立の碑
化屋公園の一角にある。『埋塩濱而為畑地 大正三年甲寅竣工 原口』とある。この辺では江戸時代中期から塩田がつくり始められ、最盛期には八町歩もあったという。「化屋」の地名もこの理由——製塩の施設「ケヤ」からきているのである。

時津の奇岩 「鯖くさらかし岩」を近くで見る

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時津の奇岩 「鯖くさらかし岩」を近くで見る

西彼杵郡時津町の継石バス停西方上にある大岩。国道206号線が通り交通量が多い。「こけし人形」の形をしており、今にも頭が落ちそうで落ちない。魚売りが通るに通れず魚を腐らせた伝説がある。バス停の名前となった「継石坊主」とも言う。国道の歩道にある現地説明板は次のとおり。
継石坊主(鯖くさらかし岩)
雲の流れ、陽の光によって面相が変わる。徳川時代、一世の狂歌師として有名な蜀山人大田南畝(長崎奉行所支配勘定方)が長崎在勤中の文化二年(西暦1805年)時津に遊びこの奇岩を眺めて「岩角にたちぬる石をみつゝおれば になえる魚もさはくちぬべし」と歌ったので一躍名高くなった。
平成13年12月28日記念物(名勝)として町文化財に指定。時津町教育委員会

ところで、上下2つの岩の接合部はほんとうに大丈夫なのか。岩のところに登って写真を撮ってみた。フェンスが張られもちろん岩自体には登れない。近くで撮影した。
この岩の補強と地学上のことは、布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊120〜122頁に次のとおり詳しい解説がある。

…以前、上の岩はわずか三つの接点でささえられているだけで、裏側から上下の岩のあいだをのぞきこむと、むこう側がみえていた。つよい地震が起これば、ほんとうに落ちる危険性があったし、風化と浸食がすすみ、不安定になるおそれがあった。そのため、一九九六年から翌年にかけて補強工事がほどこされ、つぎ目に石と接着剤のようなものがつめられ、すきまは完全にふさがれた。
この岩は、全体が長崎火山岩類の角閃石安山岩質の凝灰角礫岩でできており、まわりより浸食につよい部分が石柱となってとりのこされたものである。岩石は変質して緑色になっており、変質のない岩石よりも、風化しやすくなっている。岩のつぎ目は、もともと地層面にそった割れ目か断層面だったと考えられる。こうした、つぎ目のある岩の柱は、穴弘法の霊泉寺境内にもあって、上にのっている岩は原子爆弾の爆風によってずれた状態がいまもそのままのこっている。
(穴弘法の岩の写真は、「被爆した岩や石など」で別項とする)

なお、藤野保編「大村郷村記」第四巻153頁の時津村「継石之事」の記述は次のとおり。
長崎往還路傍西の方継石といふ所にあり、俗に是を鯖腐石と云、曾て鯖といふ魚を荷て通りけるに、石の危く落ん事を畏れ居る内、鯖の腐りけれは夫を名とすと云傳ふ、下の石高サ拾壱間、横弐間半、上の石高サ三間、横弐間、此石往還より観望するに形ち重卵の如く、其危さ直に途上に顛倒せんとする状態にて實に奇岩也

諌早—有喜街道の標石 長崎刑務所跡角に残る

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諌早—有喜街道の道塚 長崎刑務所跡角に残る

諌早市野中町にあった長崎刑務所は、今、建物の一部の取り壊しが始まり、市南部地域の町づくりが推進されている。ここの西角となる交差点の歩道上にこの標石がある。明治33年建立のものだが、諌早と有喜、そして当時江ノ浦だった貝津方面を結ぶ重要な街道筋だったと思われる。

刻面は4面にあり。「←有 喜 →諌早町」「→江ノ浦貝津」「北—南 諌早村大字上□」「明治三十三年十月一日建」。□は損傷部分。寸法は15cm角、高さ80cmくらい。近くで聞き込みをしたが、これ以外はないらしい。
この標石のことは、「長崎の標石」で検索するとHP「ALL−A」があり、2007.6.9記事「旧長崎刑務所近傍の標石」で紹介されているのを知り、ローソン近くにあるとのことで見に行った。

場所は長崎から行くと、総合運動公園前の国道57号線を通り、たちばな信金先の交差点から左に入る。ローソンの先が刑務所跡の角地で、諌早農高の入口前となる。