長崎街道久山茶屋跡の井戸は、竜馬の井戸か?
ブログ”長崎風来紀行”は、あくまで私が素人目で感じた歴史のおもしろい話題の寄せ集めに過ぎず、別段深い史実の考察をするものでない。この井戸の話も、地元はそうなってほしいかも知れないが、はたしてどうだったか考えさせる指摘があり、紹介してみたい。
松尾卓次著「長崎街道を行く」葦書房1999年刊、30〜31頁の説明は次のとおり。
竜馬の井戸?
井樋尾峠を下ったら久山茶屋跡に出た。途中の道はダム築造ですっかり変わってしまった。茶屋跡には大きな石組みの井戸が残っている。旅人はこの井戸でのどを潤して、元気をつけて歩き通したのか。これだけが当時を語る証人だ。
なんとこの井戸を「竜馬の井戸」という人がいる。坂本竜馬が長崎へ行ったとき、ここで一服したという。これは間違いであろう。竜馬は、この峠道を通ってはいない。
確かに長崎街道を竜馬は行った。元治元(一八六四)年二月二三日と四月四日に往復している。勝海舟が欧米列強の下関砲撃を慰留するために、長崎へ遣わされたときのことである。師として仰ぐ海舟のお供として同行した。
『勝海舟日記』などによって、竜馬たちの足取りを探ろう。
一行は二月一四日、海軍塾生の操艦訓練を兼ねて兵庫を出帆。翌日豊後・佐賀関に着岸し、豊後街道を熊本へ向かう。二〇日に熊本・新町の本陣に止宿。二一日夜、有明海を渡海して翌朝早く島原湊に上陸、城下本陣で一休みして長崎へ急いだ。
「熔岩様交りの悪路を通る」と、日記に書かれているので、島原街道の抜け道である温泉岳の北山麓をつき切る千々石道を通行している。この道は、海沿いの街道にくらべると二里程短く、島原藩主の長崎監視時によく利用されていた。その夜は愛津村庄屋宅に宿泊している。
この年、勝四二歳、竜馬三〇歳と意気盛んな年齢であった。二三日島原領を抜け、諌早領有喜村、田結村を通って矢上宿へ出、長崎街道を行く。長崎へ着いたら、すぐに奉行役宅に出向いている。
愛津村から諌早を通ると大回りになって、急ぎ駆け付けねばならぬ旅であるから、久山茶屋を通過したことはあるまい。また長崎到着は案外早い時刻であったろう。
なお帰路は四月四日に長崎出立。往路と同じ道をたどったと見え、五日島原宿まり、一一日に佐賀関を出帆。翌日には大阪に着いている。
このように島原街道は、長崎街道の脇街道としての役割を果たして、長崎への往復に多くの旅人が利用していた。