長崎の石・岩・石造物 (県南北)」カテゴリーアーカイブ

眼鏡岩  佐世保市瀬戸越町

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眼鏡岩  佐世保市瀬戸越町

佐世保市瀬戸越町に「眼鏡岩」という有名な岩がある。海食洞穴が隆起してできたものらしい。
国道204号線により平戸方面へ向かう。国道筋に西海学園高校があり、学校が見えたら道路反対側すぐ先の交差点に歩道入口、駐車場入口はまだ先で、案内看板により左折して入る。
現地説明板は次のとおり。

ふるさとのみどりをたいせつに  眼 鏡 岩 案 内 図

大昔、大きな鬼が昼寝をしていた。あたりの騒がしさに目を覚ました鬼が、うーんと手足をのばしたとたん両足が前の岩に当ってポッカリ二つの穴があいた。昔から語り伝えられている眼鏡岩についての民話である。だがこの岩の実際の成因は、数10万年の昔、この辺が海だった時代に、海波によってできた海食洞穴といわれている。
高さ約十メートル
長さ凡そ二十メートル
右の円直径約五メートル
左の縁直径約八メートル
この眼鏡に似た巨大な自然の岩はまさに人智では計り知れない不思議な造形である。
平安の頃、たまたまこの地を巡錫した弘法大師が、この奇岩を見て「仏縁の地なり」といい、岩肌に残っている梵字と千手観音像は大師の手になるものと伝えられる。それにここは、旧藩時代には平戸八景の一に数えられ、軍港時代には佐世保名所随一と歌われた景勝地でもあった。千百年にわたる庶民信仰の跡があり、春は桜、秋はもみじの四季それぞれの風情がある。

千綿にある「馬加瀬淵」と「龍頭泉道」の標石  東彼杵郡東彼杵町瀬戸郷

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千綿にある「馬加瀬淵」と「龍頭泉道」の標石  東彼杵郡東彼杵町瀬戸郷

東彼杵郡東彼杵町の千綿川河口に「馬加瀬淵」と「龍頭泉道」と刻んだ古い標石がある。
HPでは「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・長崎街道」千綿の項が、標石の所在を地図上で示して紹介してある。
あと1つは「長崎街道ポタポタ道中記」。九州大七三会が「伊能図で甦る古の夢.長崎街道」(河島悦子著)を参考にしながら長崎街道をツーリングした紀行だが、これには標石の写真があり記事は次のとおりあった。

「…国道34号線に出て、千綿漁港近くで、再び長崎街道へと入ります。
千綿川岸に建つ「馬加瀬淵標石」です。 橋が架かっていなかったため、雨が続いて水かさが増えると、渡河も命がけだったようです。
「馬加瀬淵標石」の近くに建てられていました。「龍頭泉道」と書かれていますが、何なんでしょう?。
このあと、長崎街道は入口が良くわからなくところが多くて、いくつかのパートが不通過となってしまいました。
「餅の浜踏切」から、再び長崎街道へとはいりました 。…」

2つの標石がある場所は、現在の国道34号線千綿橋のすぐ上流の右岸である。長崎街道の案内標識によると、道筋は国道の千綿橋下をくぐらせて千綿川を渡り、「馬加瀬淵」標石のあるやや手前川岸に上がらせている。
街道の道はこれから瀬戸郷の高台へと続き、六地蔵塔を見るのだが、ここら辺りは、今の街道歩きではわざわざ千綿川を渡らず国道の千綿橋を歩かせるため、標石の存在があまり知られていないのではないだろうか。

4月4日現地へ行って標石を見てきた。確認すると千綿川の川岸に立つ一方は、刻み「馬加瀬淵 従是山下淵三町二十三間」、16cm角×高さ1m。
龍頭泉へと分れる道角に立つあと一方は、刻み「龍頭泉道 従是四十町餘 四十八潭あり」、27cm角×高さ1.7mであった。
千綿渓谷蓮華淵近くに残っている同じような古い標石は、風景の項ですでに写真を紹介している。

なお、最初のHPなどによると、大村市杭出津3丁目の曲角に「これより左そのぎみち」と刻んだ長崎街道辻道標が標識とともにある。私は街道歩きをしてなく知らないので出かけてみたい。

大黒天磨崖仏  雲仙市小浜町雲仙

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大黒天磨崖仏  雲仙市小浜町雲仙

温泉山仏教文化のなごりか、自然石に彫られた大黒天像の磨崖仏が、雲仙温泉の別所ダム(鴛鴦の池)北方奥にあり、大黒天神社として祀られている。
温泉街別所入口から左折。県道そばの駐車場からダムの上を行く遊歩道を400m歩く。
現地説明板は次のとおり。
大黒天磨崖仏

この鳥居の奥には、自然石に彫られた大黒天像があります。大黒さまは七福神の筆頭神として親しまれていますが、本来はインドでの戦闘の神だったようです。平安時代に日本に入ってから、中国読みのお名前が大国主神に共通する読みをもつことから、福徳の来訪をあらわすめでたい神として信仰されるようになりました。           環境庁・小浜町

なお、三枯の松ネットワークのブログに次の記事があった。

温泉山の大黒天像     2006−07−19 164517/ 史跡名所

温泉街から少し離れた所に「オシドリの池」があります。貯水ダムですが冬場になると、多くの冬鳥(カモ類)が渡ってきて湖面を賑わしています。オシドリが長崎県の鳥なので、この名がついたようです。
大黒天磨崖仏は、このダムの工事のときに発見されたと昭和40年の新聞記事にあります。大黒山が昔の名称として残っており、巨大な岩の固まりに「大黒天」彫られています。400年程前に彫られたという話です。

波佐見金山跡  東彼杵郡波佐見町湯無田郷

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波佐見金山跡  東彼杵郡波佐見町湯無田郷

波佐見金山跡は、波佐見町湯無田郷にある。ここは県道1号線の中尾山入口。右折して白山陶器前を過ぎ、上内海住宅バス停に史跡案内板がある。住宅裏の川向こうに金山跡の坑口2つが見られ、1つは完全に扉で塞ぎ、1つは畑のビニールハウス続きの倉庫として利用されているようだ。堤が住宅をはさんで上下にある。

下流の陶山神社左側の川脇斜面にも坑口があって、石垣で塞いでいると聞いたが、探しきれなかった。この川脇の道は昔の旧道か、堤下で川を渡るところに古い桁橋があり、「中尾橋」と刻んだ銘柱を見つけた。

陶山神社前に残る赤レンガ造アーチ石橋( https://misakimichi.com/archives/684 を参照。切石に「伊東橋」と刻みがあるよう)の解明のため、このあたりはもう少し関連づけて、史料や資料を調べる必要があるだろう。
「波佐見金山跡」の現地説明板は次のとおり。操業当時の古写真は、波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊70頁から。

波佐見金山跡

明治二十九年、金鉱脈を発見し、翌三十年、鹿児島県祁答院重義により採鉱開始し、日露戦争時(明治37・38年)有望金山として外債募集に役立った。
坑道は西側に朝日坑をはじめ五坑、東側に三坑、その他に一坑があり、鉱石は電車で精錬所(現在の白山陶器)に運び粉末に砕き、金、銀をとり出していた。電力は初め川上水力発電所からの送電によったが、のち火力発電所(赤煉瓦建物)を設けた。
明治四十三年、日本興業銀行が直接経営に当り”波佐見鉱業株式会社”となる。
大正三年八月、貧鉱となって、突然閉山した。この間、金一、〇三三Kg(二七五貫余)、銀二、三九四Kg(六三六貫余)を採掘する。
その後、金山は三菱鉱業の手に移り、大東亜戦争中、大村空廠が疎開して坑道に地下工場を設けていた。
平成四年一月    長崎県波佐見教育委員会

雪浦の目一ッ坊岩の石鍋跡と山中の境石を見る  平成20年2月

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雪浦の目一ッ坊岩の石鍋跡と山中の境石を見る  平成20年2月

雪浦の目一ッ坊岩の石鍋跡と山中の境石を見ようという大瀬戸歴史民俗資料館の江越先生の企画行事。平成20年2月13日に参加14人で実施した。コースは、県民の森西ゲートー目一ッ坊岩ー原山ータンポ山ー御用堤ー自然歩道ー西ゲート。
いつもの調子で、のんべんだらりと後から歩いていたら、最初から道がわからなくなり、また置いてきぼりされた。街道歩きの人は足が早い。携帯は通じない。この日私は何の目的を達せず、時間つぶしだけした。みじめ…。

快晴の2月16日。ひとりでリベンジ。地図も持たず位置勘だけ。目一ッ坊岩の石鍋跡はわかりにくい場所にある。岩の周辺を3回まわってやっと見つけた。何のことはない。自然歩道を九電鉄塔の方まで行って登ればすぐで、また弁慶岩洞窟や頂上へ立てる。
石鍋跡は岩裏側の中腹の離れた岩面にある。歩道に今つけている標識は不親切だ。ただ、岩の真下で岩が眺められるからその標識。手前すぎる。ここから登ると石鍋跡まで遠く踏跡不明でたどれない。初めての人は、誰でも迷って探しきれないのでは。

目一ッ坊岩の尾根を歩き、鞍部で崖面工事中の林道へ出る。左、左と林道を進むと、植林の伐採地で行き止り。先は尾根の作業山道。「大村郷村記」雪浦村・神浦村に記す村境石を連続して8基ほど見る。
先は踏跡不明となったので、やや明瞭だった小沢へ下り、本流との合流点から今度は本流を遡った。植林地内で作業道があり、つめるとタンポ山広場だった。境石はこの谷にもあった。
コンクリート林道が御用堤まで出る。林道の途中からは県民の森小道がある。後は九州自然歩道を歩き岩瀬戸渓谷の車道を下って、出発の西ゲートへ戻った。西ゲート付近は「西彼杵半島ふるさと林道」の橋脚架設中。一帯で道路工事が進められている。

国地院地図は郷土誌から理解のため掲げるが、国有林内がほとんどで一般人は歩いてはいけない。道もわからないだろう。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年刊228〜229頁から次の話だけ紹介する。
目一ッ坊の洞窟

目一ッ坊は、河通川の南岸に聳える、標高三三〇メートルの、峻険な山塊の頂上に近い急斜面にあり、その頂上にある岩山を目一ッ坊岩と呼んでいる。この岩山を遠くから眺めると、ちょうど帽子をかぶったように見える。
この周辺には、かつての石鍋製作所跡があり、現在もその未完成品が散在し、滑石露頭面にはその痕跡をとどめている。
なおこの近くには、高さ約六〜七メートルの断層間の間隔に、「弁慶岩」という洞窟があるが、この洞窟については、次のような話が伝えられている。
「巨岩の内には洞窟があり、この洞窟に近づくと、その身に凶禍が及ぶ」といわれ、この洞窟には誰一人入った者はいないという。また「この洞窟の奥には石棺が置いてある」とも伝えられるが、それをまた見た者はいないといわれる。
一説には、かつての古代人の住居であったとか、キリシタン信者の隠れ場所であったとかいわれるが、いずれも定かではない。 

女人堂跡と磨崖仏  雲仙市千々石町庚

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女人堂跡と磨崖仏  雲仙市千々石町庚

昔の温泉山参詣道、千々石登山道に建てられた女人堂跡は、雲仙市千々石町木場にある。国道57号線木場交差点から左へ別所ダムに登る県道へ入る。しばらくすると岳集落とやまめの里への分岐があり、これに入ったらすぐ磨崖仏、その先に女人堂跡入口の史跡案内板がある。

磨崖仏は島原半島では珍しいとあり、見に行った。千々石町「千々石町郷土誌」平成10年刊161〜162頁の説明は次のとおり。

温 泉 山 信 仰

…温泉山は、高野山や吉野大峯山と同じように名高い霊場であり、それは女人禁制の山であった。女性の参詣者は登山できなかったのである。そこで千々石木場に女人堂という御堂を建てて、霊場へ参詣できない女性が参籠した。いつの頃からかはっきり分からないが、ここでは昼夜読経の声が絶えなかったという。
今では、その女人堂は田畑となり、跡には石垣と板碑、そして少し離れて磨崖仏が残るだけである。
板碑のひとつは高さ一・二メートル。自然石の上部に大日如来の種子(梵字)が刻まれ、その下に妙圓と道音の名前が薬研彫りされている。碑には年紀銘はないが、鎌倉時代の建立であろう。この二人は温泉山衆徒修験者であったろう。
また高さ一メートル、幅八四センチの無名の三角埵や、高さ一・一メートル、幅七三センチの角柱板碑がある。この碑には輪中に五智如来の種子が刻まれていて、温泉四面宮を表わしている。(「修験道とキリシタン」)
磨崖仏は島原半島では珍しい。巨石に高さ七〇センチの像を彫り込んでいる。合掌しているそのお姿から見て比丘尼像であろう。年紀銘がないのでいつ奉納したものか分からないが、多くの女性が参籠していた時代のものであろう。温泉山を背に鎮座するこの素朴な比丘尼像に、それぞれどんな願い事をお祈りしたろうか。その願いを叶えてくださったであろう比丘尼さんは、今も静かに座っていらっしゃる。…

川下の牛のはなぐり  諌早市飯森町川下海岸

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川下の牛のはなぐり  諌早市飯森町川下海岸

諌早市指定文化財(名勝)「川下の牛のはなぐり」。諌早市飯森町川下海岸にある。
結の浜から大門へ入る手前に案内標識があり、ここから右へ約1.5kmとある。
川下海岸の堤防道路を突き当りまで行くと、海岸へ降りる坂段があり、磯を200mほど歩く。鼻を1つ回ると、眼前にこの奇岩が見えてくる。干潮のときしか行かれない。
堤防途中の瀬渡し「豊丸」の店桟橋の先に現地説明板があった。これによると次のとおり。

諌早市指定文化財(名勝) 川下の牛のはなぐり  昭和六十三年十二月二十日指定

「はなぐり」は「鼻刳り」と書き、「鼻木」とも言います。「牛の鼻に通す環」のことで、岩の姿がこれに似ていることからこのように呼ばれます。
川下・下釜地区には飯盛山などの熔岩ドーム形成以前に流出したと思われる輝石安山岩があり、これが浸食されたためにこのような自然の造形ができたものと思われます。
平成十九年三月  諌早市教育委員会

時津のともづな石  西彼杵郡時津町浦郷

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時津のともづな石  西彼杵郡時津町浦郷

長崎市樺島町のともづな石は前に紹介している。これは時津町浦郷にあるともづな石。時津町役場の北東側に八幡神社がある。裏手は時津中央公園。
神社石段の右手花壇の中に、中央地区区画整理事業により移されてある。現地説明板は次のとおり。神社は天明8年(1788)八幡山から迂座、再建とあった。大きなエノキと宝暦十二年刻の片付けられた石柱があった。

と も づ な 石

船のともづなを繋いだ石である。この石は中通り道端にあった。ここは文政年間(十九世紀前半)頃までは海岸の波止場にあり港に入った船を繋いだ石である。そのうち誰いうことなしにこの石を不思議な力を持った石であると言って崇敬され祀られていた。
昭和六十年(一九八五)の中央地区区画整理事業でここに移されたものである。
時津町教育委員会

時津街道の標石  西彼杵郡時津町浦郷

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時津街道の標石  西彼杵郡時津町浦郷

西彼杵郡時津町浦郷にある。時津町役場から旧時津街道の道を、当時、諸大名や幕府役人の休憩・宿泊所となった茶屋(本陣)跡の方へ行く。茶屋のすぐ手前のところで、長崎と長与への道が分かれ、道脇は小川が流れる堀となっている。
この角に道標の標石がある。HP「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道 時津街道」の街道図によると、この地点に「追分道標」と記しているが、写真はなかった。

今、残っている標石は「明治三十三年九月建」と刻まれている。この当時に建立した同じ造りの標石は、滑石の平宗橋と滑石公民館近くにも現存している(長崎の珍しい標石に項あり)。
この標石のことは、次のとおり時津町近辺の石碑を紹介したHP「郷土の石碑」にあったので、写真の場所を訪ねた。寸法は18cm角、高さ70cmだった。

7 道路標識(浦郷)

(右)→ 長崎
(左)← 長與
(左後)明治三十三年九月建
(右後)時津村 字市
※ 時津は古くから大村湾によって長崎に至る玄関口として栄えてきました。道標もまあ石碑の仲間と言えるでしょう。

裏雲仙吾妻山麓の「きため・あづま道」標石は今どこに

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裏雲仙吾妻山麓の「きため・あづま道」標石は今どこに

話は長崎市周辺を離れて裏雲仙へと飛ぶ。これは昔の街道—裏雲仙吾妻山麓にあった道しるべの「標石」である。私が若い頃、山行の途中で見かけ、この石の姿は私の記憶の中にずっとあり、それが偶然にも35年以上過ぎた一昨年の暮れ、今どうなっているか、妙に気にかかる出来事となった。

平成17年11月20日、長崎朝霧山の会の「山の清掃大作戦 クリーンハイキングin野母半島」が7コースに分けて実施された。会員でない私も新聞で知り道の枝払いがあり、集合場所が自宅近くであった「みさき道コース」に参加させてもらった。蚊焼入口バス停に13人が集合。秋葉山近く郷路八幡神社へ登りにかかった頃、会の長老と思われるいかにも人の良さそうな方の話を耳にした。
『吾妻の登りの道しるべの石はのうなった。「あづま」って書いとったごとあるが、あとひとつは何て書いてとったかなぁ?』という会員間の話である。
ここで私の脳裏が蘇った。『あれは確か「右きため道、左あづま道」と思います。石は道に転がっていたようですが、今もうなかとですか』

「きため」とは神代・国見・島原方面を指す。「あづま」とはもちろん吾妻を指す道と思われる。かれこれもう30年位、私は山にほとんどご無沙汰であった。最近のこの道は全然知らない。九州自然歩道になっている。私が標石の場所と刻銘を覚えていたのは、若い頃この道を良く通り、記録していたからである。山頂の馬頭観音の祠で泊りがけの月見をしたり、田代原への行き帰りに利用したのは再三であった。

家に帰って昔の記録を調べると、昭和42年4月裏雲仙へ初めて行った山行記録があった。ここの標石は、文中で次のとおり記していた。

『樹間には夏草がおい茂り、かなり心細い道である。田代原への車道が眼下に広がった伐採地で、橘神社の尾からあがってきた道と合したときはホッとした。だが、それもつかの間、500mも進むと道はまた二手に分れる。
ここに腐りかけた木の指導標があり、「←愛津展望所 田代原→」と指している。それに従うと、田代原は右の道とわかるが、この上手を分れる道も踏跡がかなりある。なにかしら稜線へ抜けそうな道である。なるべく稜線へあがりたいと考えていたので、この三叉路でどっちをとってよいものか迷った。地図を調べるが、この上手の道はない。気をこらすと、道脇に倒れた石柱があった。風化した字を手さぐりで「右きため道 左あづま道」(?)と読んだが、転がった石のため左右がどっちを指しているのか解らない。地名がどこを指すのかも解らない。時間が時間だし、結局、地図にあらわれた下手右の田代原へ道をとることにした。
あとは吾妻岳の中腹をはって坦々とした雑木林の中の一本道。時折、左直上にその山頂附近の奇怪な岩峯を初夏の空に仰いで、40分して水場をすぎると、田代原はもう間近であった』

よほど裏雲仙が気にいったのか、その後も千々石川を田代原まで遡行し、詳しい沢登りの概念図を作成して昭和45年に掲載している。思い出多い山である。このルートは国体コースでなかったが、昭和44年あった長崎国体は、やがて一巡する年となろうとしている。

そこで「裏雲仙吾妻山麓の標石とルート探し」を、会の行事として実施することとした。たまには市外へ遠出するのも悪くない。朝霧の例の方の同行も考えたが、連絡が取れなかった。裏雲仙のコース図は、山と渓谷社刊『長崎県の山』にも「4 吾妻岳・鳥甲山」があるが、このルートの道は本に紹介されていない。廃道となり今は使われてないのだろうか。

12月11日(日曜日)はまずまずの天気であった。車2台で10人が参加した。愛野展望台から「あづまの里」の大駐車場に車を置き、10時頃から歩き出した。ここは千々石小学校前から上った九州自然歩道が直角に曲がり、愛野の断層壁に沿って田代原へ行く所である。
私が以前の記録に記した「弘法原」とは、このあたりだろうか。時間がなかったので、社(やしろ)と「専照寺所有地」の碑は探せなかった。大きな窪地も興味があった。大昔の火口跡か、隕石落下跡かと考えたりしていて、「探偵!ナイトスクープ」はこんな科学的なことを取り上げたら、楽しめると思う。火口跡が港とか、隕石のクレータと言われる所は全国各地にあるのではないか。
「千々石町郷土誌」を読んで下調べをしたが、その記録はなかった。現地は状況が変っており、今回はどこがどこかわからなかった。しかし、郷土誌によるとここは昔の街道に間違いなく、「弘法原」を「歌垣」(古代おおらかな時代の男女交合の場)と考察する説はおもしろかった。

自然歩道は、「あづまの里」の周りから植林の中を平坦に30分ほど行き、鉢巻山の下でコンクリート舗装した亀石林道カーブ地点と合い、林道を終点までつめる。この林道が自然歩道となっている。右手に九千部岳の鋭峰を高く眺め、車道の舗装が切れてから10分ほどして、長崎朝霧山の会の「吾妻岳↑」のプレート分岐が左にあり、黄色いリボンが着けられていた。やはり吾妻岳へ直登するルートの道は残っていて、少しは登山者に利用されているのだろうと安心した。
しかし、分岐地点に「右きため道、左あづま道」の標石は見当らなかった。林道は延長され植林地帯が大きくなり過ぎて、以前の記憶を呼び戻すことができない。今日はともかく自然歩道をそのまま田代原まで進み、吾妻岳へ登ってから、その下りにまた探すこととする。

自然歩道の道標によると、「あづまの里—田代原間」の距離は5.8Kmである。平坦な道といえ最後は徐々に高度をかせぎ2時間以上かかる。田代原へ着いたのはすでに12時を過ぎ、遅い昼食となった。雲仙岳主峰は雪面の斜面に風が舞い、田代原も寒かった。先日の残雪が少しあった。
これより標高870mの吾妻岳へ向かう。岩・木の根をつかみ、鉄はしごがある急峻な登りは、高度差が200m位だろうか。普通は30分のところ、休み休み50分かかって皆へ迷惑をかけた。寒いから息苦しくゼイゼイ言う。年がいったうえこんな高い山は、最近車以外で登ったことがない。酸素が薄く感じられた。一度心臓の悪い妻を連れて行き、「私を殺す気か」と今でも恨まれている。やっとその心境がわかった。
どんよりした空だったが、山頂からの橘湾や有明海の展望は素晴しかった。西へ300mほど行くと馬頭観音の祠がある。まだ参る人が多いのか以前より広場は広くなり、ブロックの堂は改装されて多人数泊れるようだ。

祠からいよいよ吾妻の断層崖をさらに西側へ、「大だまり」という鉢巻山との鞍部へ向けて、昔のルートを下ることする。入口に簡単な標識とリボンがあったが、潅木の中の心細い道である。今日の参加メンバーでこのルートを私以外、知る者はいない。2年ほど前歩いた人に様子を聞いていたが、あまり人が利用せず潅木が伸びて、歩ける道でなかったと言っていた。全くそのとおりであった。
鋸で2〜3人が枝払いし、かすかな踏み跡とテープを頼りに、尾根を間違わないように進む。「大だまり」近くとなりそこへ降りるため尾根から外れる箇所で、斜面のため一部道が崩れており、判然としなかったため時間を要した。このルートは山頂近くの潅木帯を抜けると、だんだんと樹木の背が高くなってきて、後は歩きやすい木立の中の下り道だった。

「大だまり」に来て、見覚えがある猪垣か石垣を越して安心した。下りの入口さえ間違えなかったら、何とか下る自信はあったが、ここまでは疑心暗鬼であった。すでに1時間以上を要している。ここにも朝霧が付けたプレートがあった。だが、そこからもなかなか自然歩道の分岐地点へ出なかった。すぐ下に歩道が見えるはずなのに、鉢巻山の麓の斜面を25分ほど横へ横へと心細い道をはった。昔のそんな記憶はない。自然歩道が出来てから、分岐地点が変わっているのかも知れない。

やっと、行きがけ目にしていた自然歩道の朝霧プレート「吾妻岳↑」の分岐地点へ下ったのは、午後4時であった。距離はさすがに長かった。「右きため道、左あづま道」の標石は、途中もここもどうしても見当らなかった。後は「あづまの里」の駐車場まで、日が欠けた寒い道を急ぎ足により30分で戻り、車2台はここで別れて解散し、長崎へと帰った。
私の個人的な思いによって、寒い時期に急に組んだ企画であったが、参加メンバーは初めてのコースだったので喜んでくれた。暖かくなってツツジや山法師の咲く頃、またのんびり是非来たいと言ってくれた。裏雲仙を楽しむ日帰りコースとして最適であろう。私の目的はそのルート探しでもあった。

「右きため道、左あづま道」標石の所在は、合併した雲仙市千々石行政センターに電話した。自然歩道は雲仙にある「長崎県雲仙公園管理事務所」が管理している。そちらへ聞いてほしいとのことであった。現在、担当の方へ問い合わせ中。なにぶん昔のことで標石を知らないし、自然歩道の工事の時でなく、歩道に取り込んだ亀石林道が延長工事をした際、どうかなったのではないかとの話であった。林道に車が入るようになり、持ち運ばれた可能性も考えられる。

地元の人でも、もしこの標石の所在を知っていたら教えてほしい。できれば以前の分岐近くの自然歩道へ戻し、自然歩道が昔から由緒ある街道だったとの説明板をつけ、歩道の一景観となることを念じている。
今回探したコースは、1971年「長崎県の地学」石井氏稿により「地形図には描かれていないが、吾妻岳から鉢巻山の山腹を経て、千々石の野田へ出る道がある。日陰が多いし緑を楽しめながら歩くことができる」とあった。
もう一度近いうちに千々石橘神社から亀石林道を登り、詳しく調査したいと思っている。