長崎の石・岩・石造物 (県南北)」カテゴリーアーカイブ

五家原岳石楠花尾根の地蔵標石

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五家原岳石楠花尾根の地蔵標石

平成19年8月6日、先輩松林氏から多良五家原岳に珍しい地蔵標石があったと、画像をつけたメールが入った。

8月5日(日)、五家原岳にオオキツネノカミソリを見に行きました。水神の滝の上部の谷は毎年見事な群生が見られますが、今年は時期も遅く台風のあとでしたので、写真に撮ってみると見劣りしました。…仏の辻まで登り、弁当を食べて石楠花尾根の方へ降りてきました。ここに地蔵が2体あります。
「右小江村、左太良嶽、道」とあり、施工者は小江村の左兵ヱとあります。小江から登ってきて、五家原の山腹を横切り、中岳の下に出て金泉寺へ参拝したのでしょうね。

古く珍しい標石の情報は大歓迎である。山歩きの楽しみが増す。8月9日、さっそく水神池から見に行った。明治時代の標石のようだ。私が撮ったオオキツネノカミソリと水神池などの画像を添える。
なお、白木峰「青少年自然の家」の上から五家原岳へ登る車道とこの多良広域林道に入る分岐のところにも「右たらだけ道」の石柱が建っているのを見つけた。

諌早市有喜の旧県道案内標石

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諌早市有喜の旧県道案内標石

平成19年2月16日はその足で、太平洋戦争の有喜砲台の事前調査に回った。街道歩きのベテラン陸角氏は、有喜にも珍しい標石があると言った。10年ほど前、島原街道歩きで故山口氏と見かけた上の写真の標石。

有喜の町から高台のパルコホテルに上がる旧県道の細い道を行く。ホテルのすぐ下の谷間、古具「田舎家」を過ぎた道分岐に建っていた。15cm角、高さ75cm。正面「右縣道道 ちかみち」、右面「大正八年三月一日建設」、左面「里名在郷軍人中」。根元はグラグラし、石を挟んでいる。

左が旧縣道であるから、今建てている位置はおかしい。陸角氏の記憶も、もう少し手前の道脇でなかったかということだ。簡単に動かされるが、現存されただけよかったと思うほかない。平仮名は良い。

多良見西川内の道路改修記念道案内標石

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多良見西川内の道路改修記念道案内標石

多良見JR市布駅から後方川沿いの谷間車道を上流に向けて走る。西川内のバス停終点からまだ500mほど行くと、橋の手前で広い駐車場があり、車道が左右に分かれる。写真のとおりののどかな場所。無線柱の根元にこの標石がある。城跡津屋岳の山腹に長崎バイパスが見える。

古賀町陸角氏が3年くらい前、たまたま津屋岳からこの道の方へ下ってきて見かけたという。話を聞いたとき、長崎街道などで見る藩境石と思った。平成19年2月16日陸角氏の都合がつき、森田氏の車で織田先生も誘って出かけたが、そうではなかった。場所ものどかだが、しかし、標石も苔むしてのんびりとして珍しかった。
寸法は、21cm角、上面四角錘まで高さ170cm。右面「改修記念」、「名代」1人と「改修委員」6人の名前あり。右面「大正十二年春」。正面がふるって、上に「指差し」の絵あり「大草村 伊木力村へ上り十三丁十間」とあつた。

「指差し」から、左右の分岐は右コンクリート道が改修道路と思われるが、最近地形図では途中から山道となって多良見普賢岳の鞍部を越す。陸角氏は地元からあと1本あったと聞いているが、まだ探しきれない。改修道路の起点と終点に建てたのだろう。
どこかにある標石をまねたのか、年代は新しいが格調高い造りと織田先生は感心しておられた。多良見郷土誌から調べてみたい。

研究レポートでこの標石の写真を見た京都市上西氏(近代測量史研究)から、宮城県白石市にも似たような標石があると、連絡を受けている。(一番下の画像)
「上から指向する手の形、つぎに英文筆記体で横書き「Main Road Tokio」、その下から縦書き「一等道路東京街道」とありました。彫りが薄く、写真にはうまく現れていません。」

多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊新版の750〜751頁には、西川内の標石は次のとおり紹介されていた。
7,道路改修記念碑 ここ源八から千年首(千人首)までの道を改修整備した記念の碑。「大草村、伊木力村へ上り十三丁十間 大正十二年春 改修記念 名総代松尾喜久之助」他改修委員五名の名を刻む。十三丁十間は約一・四粁である。