長崎の巨樹・名木 (県 北)」カテゴリーアーカイブ

浜崎のエノキ  北松浦郡小値賀町浜津郷

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浜崎のエノキ  北松浦郡小値賀町浜津郷

小値賀港ターミナルから島内を一周する県道161号線により、島の北西部へ行く。約5分ほど走ると、浜津郷に「斑島入口」の標識があり、左折すると「斑大橋」へ通じる。
浜崎のエノキは、「斑島入口」標識から曲がらず、県道161号線をそのまままっすぐ進む。左方3つ目の鋭角角から浜崎湾の集落へ下る道があり、この坂道を下って行くと左手にすぐエノキが見える。

小値賀島のエノキとしては、大きい方だろう。小値賀町役場正面や小値賀町歴史民俗資料館庭にもエノキがあったが、これよりは大きいと役場に聞いたので訪ねた。
ここのエノキは上部や枝が伐り払われていてすっきりしている。若葉が茂り樹勢はまだあるようだ。

後の写真はついでにアコウ。小値賀町町役場正門の道路向い側駐車場奥に立つ。これも小値賀島の大木として目についた。

浜津海岸のアコウ群落  北松浦郡小値賀町浜津郷・笛吹郷

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浜津海岸のアコウ群落  北松浦郡小値賀町浜津郷・笛吹郷

小値賀港ターミナルから島内を一周する県道161号線により、島の北西部へ行く。約5分ほど走ると、浜津郷に「斑島入口」の標識があり、「斑大橋」へ通じる県道225号線へ左折する。
アコウは「斑島入口」標識から入ってすぐの県道右脇にまず1本の大木(最初の2枚)がある。
浜津海岸は、県道をこの先へ行って左方下にまもなく見える。

手前の海岸を埋め立てて「浜津公園」ができている。公園の道へ下ると、集落の石垣や広場にかけてアコウの大木10本ほどが群落をなす。漁港先の笛吹郷の斜面にも大木(後の2枚)があった。口之津「早崎漁港の群落」に比べると規模がやや小さいが、小値賀島の観光スポットにしてよいのではないだろうか。
HP創作かるた「おぢか・良かとこかるた よかとこめぐり(双六)」による説明は次のとおり。

ほっとする アコウの下は 憩いの場  西村 熊一
アコウ
クワ科の亜熱帯性植物であるアコウは、琉球(沖縄)から北上したもので、小値賀は北限の一つです。納島の群落は見事なもので、島内でも浜津の海岸、殿崎に多く見られます。琉球から海流に乗ってきたものだけに海岸部に限られて自生しています。

姫の松原  北松浦郡小値賀町笛吹郷・柳郷

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姫の松原  北松浦郡小値賀町笛吹郷・柳郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りを上り、信号のある交差点から右折し島内を一周する県道161号線に入る。小値賀町役場の先は右方に下り小値賀空港の方へ向かうのが県道だが、まっすぐ左方の道へ行き、島の中央を南北に進むと、島の文教地区だ。
「幼稚園前」バス停先に北松西高・小値賀小・小値賀中と続き、この道の両側約450mが「姫の松原」通りとなる。Yahoo!地図には「松香丘」の地名もあった。

昭和58年「日本の名松100選」、平成6年「日本街路樹百景」に選ばれた。名松100選は、(社)日本の松の緑を守る会が全国の名松、松林を選定。長崎県内では野田浜(南島原市)・千々石海岸(雲仙市)・姫の松原(小値賀町)の3ヵ所である。
途中に志々伎神社があり、境内に元軍船の碇石といわれるものがある。
長崎県HP「文化百選 五島編」による説明は次のとおり。

27 姫の松原(小値賀町)

…この松原は小値賀島の中央を南北に走る道路沿いに幅約20メートル、長さ450メートルにわたって広がり「姫の松原」と呼ばれているが、名前の由来はだれも知らない。ただ松原の中ほどにひっそりと、何かいわくありそうな「姫松様」と呼ばれる小祠がある。この松原は古文書によると江戸時代の延宝3年(1675)に小松を植林したのが起源らしい。今から320年も昔の話である。
小値賀島は松の豊かな島である。五島列島で唯一低位平坦な女性的と評される端麗な島姿は、一方で絶えず海風にさらされ、農業生産に影響を受ける宿命を持っている。そこで島民は防風防潮林として長年松を植林し続け、大切に育んできた。その努力は今も続けられ、全島に美しい松林の景観が保たれているのである。

ところで、この記事にある「姫松様」の小祠や、現地説明板にある老松2本のことがよくわからない。役場では道路右側にひとかかえある松の大木2本が今もあると聞いてきたが、それと思われるのは後の方の写真。
根元に地蔵があった。しかし、大した大木でない。これくらいの松なら、島内のあちこちで見る。昭和61年の説明板は「最近までは2本の老松が道を覆い姫松様と呼んで信仰の対象となっていた」と過去形だ。すでに大木の老松は枯れ果てたのか。
地峡埋立地と思われる中村三叉路近くの「御前(?)様」の松も大きいと地元で聞いたが、さほどでない。

今、HPを調べると次の「姫の地蔵さん」という写真と記事があったが、和歌山県太地町だった。古式捕鯨に関連した土地の、同じ名の松原と地蔵の伝わり方と思われる。
私には、「みさき道」と呼ばれる道が和歌山にもあることは知っていたが、ここの地蔵の傍らに「右ハみさきみち」と現実に刻んだ標石が存在し、残っていることがわかったのがなによりも嬉しい。
姫の地蔵さんの伝記

8代将軍徳川吉宗の享保12年(1727年)頃、姫の松原の道端に道しるべの地蔵さんがたてられていたそうです。
その頃のことですが、太地浦の鯨舟が大島沖で捕鯨合戦の末、姫の松原に上陸して一休みしました。その若者たちは、この地蔵さんを鯨に見立てて、銛を投げて突く稽古をしたのだそうです。その翌日、漁に出て大鯨を見つけたので、銛を鯨にいくつも打ち込み、格闘しながら沖へ沖へと引きずられていきました。そしてとうとう行方がわからなくなり、いくら探しても見当りませんでした。

そのときの乗組員は約30人でしたが、村中あげての大騒ぎとなり、神様に無事をお祈りしました。そのとき、祈祷師の話に、姫の地蔵さんのたたりで、若者が命を失ったのだということでした.。それから、太地の人たちは新しく地蔵尊を寄進して、亡き人の冥福を祈ったそうです。
その後、幾度かの道路拡張で座位置をかえられ、現在の所に祠が建てられ祭られています。
この地蔵さんは、今では若いお母さんの乳受けの御利益があるというので、近郷近在はいうにおよばず、遠方からもご利益を受けに祈願に参られます。また、お礼参りの後も絶えません。その折り、地蔵さんに前だれを献納するならわしで、何十枚かの前だれが重ねられています。

なお、地蔵尊の前側には次のことが記されています。
右ハわかやまみち 享保十二丁未
左ハみさきみち  願主 太地浦 澤信坊        (養春小学校100年のあゆみより)

志自岐神社地の宮、沖の宮社叢  平戸市野子町

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志自岐神社地の宮、沖の宮社叢  平戸市野子町

平戸市街から国道383号線により平戸島の南端、野子町の国道終点「宮の浦」へ向かう。宮の浦まで車は約1時間。
宮の浦漁港へ出、左方へ行くと角に橋があり、川脇にフェンスによって囲まれた一角があり、「式内社志々伎神社跡」碑が新旧石燈籠とともにある。

現在の志自岐神社地の宮と沖の宮は、この地を挟みすぐ近くの山手と湾内の小島にある。沖の宮は漁港の先へ行くと、現在は堤防で繋がり歩いて渡れた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

志自岐神社地の宮、沖の宮社叢  県指定天然記念物

指定年月日 昭和49年3月5日  所在地 平戸市野子町882ほか
所有者 志自岐神社
平戸の南端、宮の浦の海岸に面する斜面に地の宮の社叢があり、すぐ前方の海に沖の宮社叢がある。
地の宮社叢の主木は、スダジイ・イヌマキ・ホルトノキ・タブノキ・イスノキ・クスノキで、大きいものは樹高20m、幹径60cmに達する。林内にはヤブツバキ・クロキ・オガタマノキ・ヤツデ・タイミンタチバナなど多種類の常緑樹が生じ、林下にはアオノクマタケラン・フウトウカズラ・サカキカズラ・テイカカズラ・ビナンカズラなどが密生する。
沖の宮社叢は、中心部には地の宮社叢と同じ植物からなる群落があり、海にのぞむ斜面にはハマビワ・トベラ・シャリンバイ・マサキなどの海岸性の低木群落がある。海岸にはハマオモト・ハマウドが生育する。

金立神社のナタオレノキは倒れてなかった  平戸市前津吉町

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金立神社のナタオレノキは倒れてなかった  平戸市前津吉町

津吉は平戸島の南部。平戸市街から国道383号線により宮の浦方面へ下る。前津吉町は相浦・佐世保航路がある所で、国道の津吉交差点から左折して「前津吉港」の方へ入る。
「金立(かなたち)神社」は港の右側海岸通りにあるので、「前津吉」バス停まで行って集落の中の道を通った方がわかりやすく、すぐ近くである。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

ナタオレノキの大木

平戸市前津吉町・金立(カナタチ)神社にある。幹周り2m、樹高およそ8m。
ナタオレノキは九州西岸では、五島列島や男女群島にしか見られず、神社では神木として保護されている。
地元の人の話では、台風の影響でこのような樹形になったという。すぐ側は海に面していて台風をまともに受けている。幹は空洞になっていて痛々しいが、持ちこたえてほしいものだ。
上部の枝には多くの葉がついていたが、高すぎて白い花は確認できなかった。訪れたのはキンモクセイの花が満開の10月初旬。 金立神社の社叢は市の天然記念物に指定。

以上が説明で、最初の写真が同氏が撮影されているナタオレノキの大木である。この木を今回訪ねたのだが、金立神社に見当たらない。
同氏が危惧されたとおり、空洞があり台風などの強風に持ちこたえきれず、すでに倒れたのではないか。
鳥居や社殿が写っておらず、前どこに立っていたかわからない。私が写してきたこの倒大木のどれかであろう。神社に人はいなく、話が聞けない。

金立神社社叢   平戸市前津良吉町

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金立神社社叢   平戸市前津良吉町

津吉は平戸島の南部。平戸市街から国道383号線により宮の浦方面へ下る。前津吉町は相浦・佐世保航路がある所で、国道の津吉交差点から左折して「前津吉港」の方へ入る。
「金立(かねたち)神社」入口の案内標識が町へ入る前に右手にあるが、ここから行ったら分岐が多くわかりにくい。左、左と曲がらないと神社に着かない。

神社は港の右側海岸通りにあるので、「前津吉」バス停まで行って集落の中の道を通った方がわかりやすく、すぐ近くである。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」中の街路樹による説明は次のとおり。
ナタオレノキの大木は、倒れてなかった。次項参照。

金立神社の社叢

平戸市前津吉町にある神社。境内には樹齢400〜500年・幹周り3m以上のイヌマキが数十本あり、エノキ、イエスギ、ナタオレノキなどの大木がある。
神社社叢は昭和48年に市の天然記念物に指定された。
社の裏の林の中に、幹周り3m50cmのイヌマキの巨木があった。

平戸の沖の島樹叢  平戸市木場町

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平戸の沖の島樹叢  平戸市紐差町

平戸市紐差教会先の紐差交差点から前津吉町へ平戸島の東側を行く県道60号線へ入る。
紐差小学校は手前で左折するのが県道である。後は「普門寺」「木ヶ津教会」の案内標識により湾沿いに進むと、その途中となる木ヶ津漁港へ出る。
防波堤の先端へ行けば、湾の入口対岸にある「沖の島」を一番近く見ることができる。

干潮時に対岸から渡られるとあり、大潮の先日、また行ってみた。紐差教会から国道383号線により平戸市街の方へ少し戻り、県道を鋭角に上った高台のカーブのところに「田島入口」「マルタ神父の墓」の案内標識がある。
この道を「田島」バス停まで進むと、下の海岸に沖の島が見え、コンクリート道を小さな船溜まりまで下ると、沖の島との間も堤防道路ができて繋がっていた。
社叢の中を上って反対浜の社殿と鳥居に出る。樹種は多いが枯倒木が多い。取り立てた大木はないようだ。鳥居の浜のハマボウが咲きかけていた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

平戸の沖の島樹叢  県指定天然記念物

指定年月日 昭和51年2月24日  所在地 平戸市紐差町1674  所有者 三輪神社
沖の島は平戸の中央部東側の木ヶ津湾内にある小島である。面積は約1ha、海抜10m程度の低平な地形をなす。干潮のときは北岸が本島とつながり、満潮時には離れる。島の中央には三輪神社がある。
樹叢は島全体をおおう。主木は、スダジイ・ヤマモガシ・ホルトノキ・ヤマモモ・モッコク・ヒメユズリハで、そのほか、イヌマキ・タイミンタチバナ・ヤマツバキ・クチナシ・カクレミノ・ハクサンボク・タブノキ・クロキなどの常緑樹が生育する。林下には、ヤブコウジ・テイカカズラ・サカキカズラ・キヅタ・トキワカモメヅル・ヤブランが生じる。
この樹叢には稀産種や珍種はないが、全体として原生状態をよく保っていて、かつての低地の照葉樹林の姿をよくとどめていて貴重な存在である。

中の浦のソテツ群落  平戸市大久保町

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中の浦のソテツ群落  平戸市大久保町

平戸市役所から県道153号線により平戸港平戸桟橋の方へ行く。田の浦への県道をそのまま進むと、平戸海上ホテル「観月館」前から登りにかかり、崎方公園方面の分岐があり、なお行くと丘を越した高台に市営住宅などのある中の浦の住宅地へ出る。
「中の浦公民館」の次が「中の浦」バス停である。

ソテツ群落があるところには、このバス停前にある「観月館」送迎バス駐車広場角から右折し、海岸の方へコンクリート舗装道を約100mほど下って行く。
道の終わりに長嶺宅が1軒あり、少し手前の平戸海峡と浜を望む広い斜面地一帯が「中の浦の蘇鉄群落」となっている。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

平戸市中の浦の蘇鉄群落  県指定天然記念物

指定年月日 昭和27年5月13日  所在地 平戸市大久保町字中の浦
管理責任者 平戸市
中の浦は平戸島北部の平戸瀬戸に臨んだ海岸にあり、土地ではソテツが浦と呼んでいる。ここは松浦藩の家老熊沢大善の屋敷跡で、明治15年頃、長嶺氏のものとなった。
現在、長嶺氏の住宅を中心に北西500mにわたり、海岸から丘陵地にかけて大小60株ばかりのソテツが見られる。そのうち長嶺家付近の20株は植えたものと思われるが、丘陵地のものは野生状態である。

平戸古館のビロウ自生地  平戸市大久保町

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平戸古館のビロウ自生地  平戸市大久保町

平戸市役所から県道153号線により平戸港平戸桟橋の方へ行く。田の浦への県道をそのまま進むと、平戸海上ホテル「観月館」手前の左手山側に石垣を高く築いた大きな邸宅がある。
平戸古館のビロウ自生地は、この邸宅(本澤宅か)の庭奥の山の斜面地にある。

県道から眺めても、ビロウの高木が数本わかる。邸宅の裏門が県道を少し登ったところにあり、ここからも眺められる。
邸宅の角にはイチョウも大きく石垣から枝を広げ、幹囲はかなりある大木であった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。
平戸海峡を挟んだ対面となる本土側の田平町「平戸口(熊野神社境内)のビロウ自生地」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/975

平戸古館(ふるたち)のビロウ自生地  県指定天然記念物

指定年月日 昭和31年4月6日  所在地 平戸市大久保町  管理責任者 平戸市
平戸大橋に程近い、古館の民有林の中に、大小50本ばかりのビロウが自生している。中には高さ10mの高木もあり、よく繁茂している。
樹下には、アオノクマタケラン・ハナミョウガ・ムサシアブミなどの大形で常緑の草木も自生している。

板の浦のアコウ  平戸市大島村的山戸田

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板の浦のアコウ  平戸市大島村的山戸田

平戸港から北に浮かぶ大島へ市営フェリーで渡る。町の中心地神浦港の次に大島の西の港である的山港へ入港する。
フェリー発着場から島の西にある「戸田海水浴場」へ向けて約10分走る。案内標識はあるが、荒磯の海水浴場で設備は一切ない。透明度だけが良いらしい。

「板の浦のアコウ」は、この戸田海水浴場のすぐ手前、車道左脇にある地蔵堂前広場と、その下となる海岸との間の林の中にある。
平戸ガイドマップの的山大島に位置図があったので、どの程度の大木か確認しに大島へ渡ったのだが、幹囲は4.5mほど、根元1mくらいから7本ほどの支幹に分かれていた。島一番のアコウの木といわれる。
大島村「大島村郷土誌」平成元年刊441頁による説明は次のとおり。

ア コ ウ

島内に数か所あるが、そのうち、板の浦戸田浦のものがいちばん大きい。根元に近いところのまわりが4.5m。海岸の絶壁上に生えている。多くの根が互いに癒着して、高さ3m、幅12mにも広がっている。
アコウの分布の北限として、またアコウの生態を示すものとして注目される。