投稿者「misakimichi」のアーカイブ

博多遺跡群内石塁遺構  福岡市博多区奈良屋町 ( 福岡県 )

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博多遺跡群内石塁遺構  福岡市博多区奈良屋町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。JR博多駅から北西へ大博通りを蔵本交差点まで行く。昭和通り側、博多小学校南門に石塁遺構展示室入口があり、地下に展示している。
同展示室は、毎週土・日曜日10〜17時のみ公開。無料。最後の「この石塁はなんだろう?」は、見学者配布用の資料から。

博多遺跡群内石塁遺構 はかた
福岡市(博多区) 博多小学校・石塁遺構展示室 石塁 長53m,高1.4m,幅3.3〜3.5m 建治2(1276)? 市教委/現地解説板 発掘物の展示/毎週土・日曜日10-17時公開 運動場の地下2mで発見/標高3.5m砂の上に、大小の石を積み上げて築いている/元寇防塁の可能性が高い 3 C

HP「福岡市の文化財」による説明は、次のとおり。

博多小学校石塁遺構展示室  博多区
指 定  その他
区 分  埋蔵文化財
種 別  埋蔵文化財
所 在 地  福岡市博多区奈良屋町1-38
時 代  鎌倉
所 有 者  福岡市
紹介文
平成10年から約1年をかけて行われた博多小学校の発掘の結果出土した石塁(石垣)を学校校舎の地下に展示している。
発掘調査では、鎌倉時代の石塁、室町時代から江戸時代はじめころの屋敷跡、井戸、溝などの遺構が見つかった。また、中国、朝鮮製の陶磁器や銅銭、日本製の土器、瓦などの遺物が大量に出土した。
展示室中央の石塁は、標高約3.5mの砂の上に、大小の石を積み上げて築いてある。発掘では、西側の幼稚園の下から東の体育館の方向に全長53mが見つかり、一直線にのびていることから石塁遺構と名付けられた。幅は3.3〜3.5mで、両側に大きな石を積み上げ、その間には小さな石を詰め込んでいる。
石の積み方や規模が、西区の今津や早良区西新に残っている元寇防塁に良く似ていること、また博多小学校の位置が、旧地形を復元すると海岸部の砂丘に当たることから、博多に築かれた元寇防塁ではないかと推測されている。

長崎の歴史を壊している文化財行政  長崎市政への提案と回答 ( 長崎県 )

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長崎の歴史を壊している文化財行政  長崎市政への提案と回答 

長崎市の文化財行政について、10月10日長崎市政への提案をした。10月24日付の回答は、次のとおり。
長崎市が1月20日開催した都市経営会議「小島養生所跡遺構等の取扱いについて」の方針は、次を参照。
(PDF形式:145KB) http://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/730000/732000/p006969_d/fil/110_280120.pdf#search=’%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E9%A4%8A%E7%94%9F%E6%89%80%E8%B7%A1′ https://misakimichi.com/archives/3966
2 長崎原爆遺構として、「浦上天主堂の廃墟の一部を平和公園内に移設しているもの」や、「長崎刑務所浦上刑務支所跡」がある。これらがなぜ国史跡に同時に指定されなかったのか。今回、長崎市はどのような働きかけをしたのか。長崎市長の大失態ではないか。
https://misakimichi.com/archives/5147
3 長崎深堀カトリック教会の建 設のため、深堀氏の居城「深堀陣屋跡」が無残に壊された。石組や石垣などの保存について、長崎市長はなぜ強力な指導をしなかったのか。
https://misakimichi.com/archives/3966
4 「出島表門橋」は、もともとアーチ式石橋であった。復元計画は、似ても似つかぬ観光橋である。文化庁がよく許可したものである。河川防災上の制約はもちろんあるが、眼鏡橋のように水流を変えるなど、復元に最大限の知恵と努力をお願いしたい。
https://misakimichi.com/archives/4318
5 四郎が島台場跡は、国指定史跡となったが、「伊王島や香焼島の台場跡」は指定となっていない。遺跡を無残に壊すような展望台などを旧町から造っている。史跡保存に対する見識が疑われる。
https://misakimichi.com/archives/3945
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/folder/1541774.html?p=1
6 長崎市役所の新庁舎は、歴史ある「西役所跡」である県庁跡地が最適である。公会堂も現在地に外観を残した耐震設備の新公会堂を建設すると、市民の総意にかなうものと考える。マイス計画は再考をお願いしたい。
https://misakimichi.com/archives/5153

以上、長崎市政への再提案となるが、真摯な対応と簡潔な回答を再びぜひお願いしたい。歴代最低レベルの長崎市長と市議会だろう。民意を理解しないさるくガイド並みしか、見識と能力がない市長である。長崎の深い貴重な歴史を次々と壊している。マイス計画は、私たちのせっかくの税金の無駄づかいである。これらに使ってもらう方が、全体の市民に役立つのではないか。
最近の長崎史談会やマスコミ関係の無気力 ぶりも、目にあまる。長崎学の再興をぜひお願いしたい。市側の言い分だけ言って、再回答しないのは進展がなく、おかしい。

回  答 【文化財課】【みどりの課】【施設課】  【2016年10月24日回答】

番号に沿って回答いたします。
1 小島養生所は、わが国の西洋医学発祥の地であり、歴史的な意義が大きいため、市の貴重な財産として慎重に調査研究を行い、その成果を市民の皆さまや観光客の方々へ分かりやすくお伝えしたいと考えております。
平成27年度に旧佐古小学校体育館の西側敷地を発掘調査した結果、当時の遺構と見られる石垣や陶磁器などが出土しました。また、今年度も残りの敷地について発掘調査を行っています。
一方、仁田佐古小学校の新校舎建設は、保護者や地域の皆さまとの6年間という長い時間の協議の結果であり、一日も早い建設が求められています。
今後も学校建設に向けた準備は進めてまいりますが、遺構については、発掘調査をもとに、専門家の評価を踏まえ、どのような保存・公開の方法が最適か判断し、顕在化のあり方を検討します。
子どもたちが近代医学発祥の地で夢をもって学べるよう、ご指摘の校舎と小島養生所跡の遺構の併存について取り組んでまいりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。
2 平成28年6月24日に長崎市の見解を示しておりますので、ご確認ください。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/n_city/iken/detail.php?id=1816
3 平成26年5月2日にご回答したとおり、地下遺構の保存に配慮するよう、教会の新築工事内容の見直しを要請し、カトリック深堀教会のご理解のもと、遺構の破壊は大幅に免れることになりました。教会の敷地に、深堀陣屋跡の遺構が現在も多く地中に保存されています。また、開発行為の前に、カトリック深堀教会の費用負担による発掘調査を実施し、破壊される遺構についても記録による保存を行いました。
これらの結果は平成26年度に発掘調査報告書にまとめ、県内外の公立図書館や大学等の研究機関に配布いたしました。また、カトリック深堀教会にお願いし、地下に遺構があったことについて、教会敷地現地に説明板等の設置をしていただいております。
そのほか、地元の深堀の皆さまをはじめ、多くの市民の皆さまにも調査結果を知っていただくために、平成27年度から、深堀貝塚遺跡資料館の展示コーナーで調査結果と出土品を紹介しています。
以上により、開発行為に伴う埋蔵文化財(遺跡)の取り扱いとして問題はなく、行政の指導として適切と判断しております。
4 現在の出島は、明治21年(1888年)に中島川の変流工事のために、北側が約18メートル削られております。
石橋の出島橋があったところは、現在の川の中ほどにあたるため、現地復元ができない状況にあります。
文化庁との協議では、今回の架橋事業は復元ではないため、誤解を与えないようあえて近代的な手法で架橋するよう指導を受けています。
将来的には、出島の完全復元を目指しており、出島橋につきましても、現地復元を視野に取り組むよう考えております。
5 伊王島や香焼島の台場跡につきましては、現在「周知の埋蔵文化財包蔵地」として、開発行為に対して届出を義務づけるなどの保護を行っております。
また、平成27年度に策定しました「史跡 長崎台場跡四郎ヶ島台場跡保存活用計画」の「調査と追加指定の方針」に基づき、今後の遺跡の詳細調査の結果により、残存状況の良いもので土地所有者の同意が得られるものにつきましては、史跡指定等の取り組みを行いたいと考えております。
また、伊王島灯台公園内にある展望台につきましては、風光明媚な景色を堪能していただく目的で昭和58年に設置しており、建設による台場跡への影響はないものと認識しております。
6 平成28年7月4日に長崎市の見解を示しておりますので、ご確認ください。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/n_city/iken/detail.php?id=1818

関係所属
文化財課【直通番号】:095-829-1193】 みどりの課 【直通番号】:095-829-1171】
施設課 【直通番号:095-829-1192】

伊是名島のその他の風景  伊是名村 ( 沖縄県 )

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伊是名島のその他の風景  伊是名村

伊是名島のその他の風景。写真順に、本部半島の今帰仁村・運天港フェリー発、伊是名村・仲田港着、尚円王御庭公園と金丸(尚円)像、ギタラ展望台から海・陸ギタラなど望む、伊是名城跡の岩山、仲田港からのフェリー帰り

ウィキペディアフリー百科事典による「伊是名島」の説明は、次のとおり。

伊是名島
伊是名島(いぜなじま)は日本の南西諸島、沖縄本島北西部の伊平屋伊是名諸島に属する島。沖縄県島尻郡伊是名村の主島。

概要
伊是名村で唯一の有人島。面積は14.12km²で[1]、近接する伊平屋島よりも標高は低く、海岸に面して平坦な地形が広がっている[2]。島内最高峰は大野山(うふやま、別名・チジン山)の標高119.9メートル。かつては屋ノ下島と呼ばれる島が隣接していたが、伊是名場外離着陸場を整備した際に干拓され現在は伊是名島の一部となっている。伊平屋島にはハブが生息しているのに対し、伊是名島にはハブが生息しておらず、仲田港には「ようこそ ハブのいない伊是名島へ」と書かれた看板が設置されている[3]。

伊是名場外離着陸場と沖縄本島など他の島を結ぶ定期航空路線は存在せず、仲田港と本部半島の今帰仁村・運天港の間を1日2往復する村営フェリーが事実上、島外との唯一の交通手段となっている。近接する伊平屋島との定期航路は存在しないが、野甫島との間には、北部の内花港から不定期の渡船が運航している[4]。

主な施設・名所
・伊是名城跡
・尚円王生誕地
・尚円王御庭公園
・銘苅家住宅
・伊是名村ふれあい民俗館

サムレー道(侍道)の石畳  伊是名村伊是名 ( 沖縄県 )

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サムレー道(侍道)の石畳  伊是名村伊是名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号により高台の伊是名村役場まで行き、左折して県道をそのまま伊是名集落へ下る。「ギタラ展望台」へ行く道に左折してしばらく進み、「←サムレー道」の左分岐に入る。奥まで行くと、「サムレー道」の標柱と史跡案内板がある。
「ギタラ展望台」先の道にも、同じような「サムレー道」の標柱と説明板があった。私は訪問順により説明しているが、仲田港からは、逆回りが近い。
場所は、観光協会観光マップ参照。 http://www.izena-kanko.jp/detail.jsp?id=48814&menuid=10463&funcid=1

サムレー道(侍道)の石畳
(島尻)伊是名村(伊是名島) 石畳道 長約2㎞ 琉球王国時代 村史跡・名勝 WEB/村教委 全長にわたって石畳がそのまま残る 伊是名集落にある銘苅家とグスク跡を結ぶ旧道 1 A

現地説明板は、次のとおり。

村指定文化財(史跡)  サムレー道   平成5年7月20日指定
12、13世紀の頃から戦後島内一周線が開通するまでの長期にわたり、元島と伊是名南西部を結ぶ唯一の生活道路であった。山越えの傾斜地約五百メートルは、雨水の浸食を防ぐため大小様々な硅石(マー石)が敷かれ、何百年の長い年月人々に踏まれたその石は表面が磨かれたようにすべすべしていて歴史の重みを感じさせる。
また、その昔ユトヌチ(御殿、銘苅家、両タハダ(伊禮家・玉城家))が伊是名玉御殿の清明祭の参道を目的にその道を利用した。硅石の中で、武士の足形に似ていると言うことが伝えられサムレー道と呼ばれた。

伊是名集落のサンゴ石塀とフクギ並木  伊是名村伊是名 ( 沖縄県 )

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伊是名集落のサンゴ石塀とフクギ並木  伊是名村伊是名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号により高台の伊是名村役場まで行き、左折して県道をそのまま伊是名集落へ下る。その途中、「ギタラ展望台」へ行く道に出る手前、県道右側の古い集落に入る道の両側に、「伊是名集落のサンゴ石塀とフクギ並木」が見える。
場所は、観光協会観光マップ参照。 http://www.izena-kanko.jp/detail.jsp?id=48814&menuid=10463&funcid=1

伊是名集落の石塀とフクギ並木 いぜな
(島尻)伊是名村(伊是名島) 伊是名集落 石塀(珊瑚石)、フクギ 集落全体 不明 WEB/村教委 島の原風景がよく保存されている 珊瑚石は沖縄の島嶼部の典型、フクギは防風林 1 A

アーガ山の逢火台(火立所)  伊是名村伊是名 ( 沖縄県 )

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アーガ山の逢火台(火立所)  伊是名村伊是名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号により高台の伊是名村役場まで行き、左折して県道をそのまま進むと、伊是名中学校の対面に公園駐車場がある。駐車場奥の下の方の遊歩道階段を登ると、アーガ山に着くらしい。
県道の少し先にも、別の公園駐車場があり、ここに「アーガ山ふれあいパーク」案内図があった。アーガ山登り口はこの2箇所で、案内図(ズーム拡大)によると、ふれあいパーク展望台近くに「アーガ山の逢火台(火立所)」跡があるようだが、往復に20分は要する。公園利用者がいないのか遊歩道も草が生え荒れている。
後の予定がありフェリー便に間に合わないので、訪ねるのは略した。村教育委員会に画像提供をお願いしたが、①手元に画像はなく、②雑草刈りをしないと近づけない、③他の者が持っていれば提供するが、あってもがっかりするようなものだとか、ということである。

アーガ山の逢火台(火立所)
(島尻)伊是名村(伊是名島) 遠見台、火番盛 1644年以降 村史跡 WEB/村教委 雑草に覆われ到達困難 先島諸島の火番盛群とは別系列の逢火台/小規模な土盛り 4 –

参考には、HP「沖縄の地域研究」に、2007年の現地記事と写真がある。
【伊是名島の「火立所」と「雨乞い場所」】 (2007年1月31日)   http://yannaki.jp/izenaaza.html

金丸の逆田  伊是名村内花 ( 沖縄県 )

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金丸の逆田  伊是名村内花

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号などにより伊是名村役場などある村の中心部高台へ上がる。県道177号に入り伊是名小学校の右から左折、村道を伊是名生コン(有)まで進むと、あと0.5kmの案内標識がある。次の0.1kmで左折してバラス道を谷奥まで行くと、下部が説明銘板となっている史跡「逆田」碑が立つ。
場所は、観光協会観光マップ参照。 http://www.izena-kanko.jp/detail.jsp?id=48814&menuid=10463&funcid=1

金丸の逆田 かなまる、さかた
(島尻)伊是名村(伊是名島) 棚田 面積946㎡ 15世紀前半 村史跡 WEB/村教委 現役の水田 第二尚王統の開祖尚円王が、伊是名島で耕作していた水田/水飢饉の際にも枯れなかったと言われる(尚円王のために村の娘達が密かに下流から水をくみあげた、という言い伝えがある) 1 C

現地説明板は、次のとおり。

史 跡  逆   田 (さかた)
尚円王は、1415年に首見邑・今日の字諸見において生誕され若き頃を「北の松金」と呼ばれ、後に、名を「金丸」に改め、1470年「尚円王」となり、琉球国の王様となった。
この逆田は、尚円王が島を離れるまで耕作したと伝えられており後世になってから「御持ち田」という敬称で呼ばれるようになった。
伊平屋島旧記によれば、この逆田は、毎年のように豊作がつづき、又、いかなる大旱魃のときでも、決して水が涸れることはなかった。これを見た下の田主達は、「水をよこし入れた」と思い違いをし、それならばと、ある晩のこと、下の田圃に水を流れるように、畦を切り開きました。
ところが、翌朝いって見ると、我が田圃の水は涸れ、上の北の田圃だけが、水を満々と堪えていました。
これは不思議なことだ、さては「水が逆さに流れたんではないか」と巷に噂がながれ、「水が逆さに流れた田圃」ということで「逆田」の名がつけられたと伝えられている。
平成4年7月17日 村文化財指定   伊是名村教育委員会

潮 平 井  伊是名村諸見 ( 沖縄県 )

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潮 平 井  伊是名村諸見

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。名護市の北、今帰仁村運天港から伊是名島仲田港へ、1日2便のフェリーがある。「尚円王御庭公園」は仲田港からすぐ北の高台にあり、その途中、園内の修景された水路へ下る遊歩道脇のところに、「潮平井」の石積井(湧水、半月型)がある。
小さな目の硬い鋼製網で覆われ、石積井の内部は写せない。

潮平井 スンジャ・ガー
(島尻)伊是名村(伊是名島) 尚円王御庭公園 石積井(湧水、半月型) 径約3m 1415年以前 村史跡 WEB/村教委 全体が金網で覆われている/内部は未調査で詳細不明 第二尚王統の開祖尚円王が生まれてすぐ浸かったとの伝承がある 3 C

辺戸大川  国頭町辺戸 ( 沖縄県 )

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辺戸大川  国頭町辺戸

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道58号により沖縄本島の北端、辺戸岬の分岐まで行く。国道は辺戸御嶽の麓を回り込むように続くので、そのまま進むと辺戸集落入口のバス停に着く。
集落内に入ると、平屋ビルの辺戸共同売店があり、手前角の電柱に消えそうなマジック字で、「大川→100m」と書いている。左折して急坂を登ると、神屋の堂と広い駐車場あり。その先の最後の民家の手前の山道を谷間まで下る。2つの小川が合流し、左の沢がお水取り行事写真の「辺戸大川」水汲み場だろう。夕方の谷間となり、写真は暗くなった。

辺戸大川 ヘド・ウッカー
(国頭)国頭村 水汲み場 琉球王国時代 WEB 首里王府と関わる重要な祭祀場/5月と12月に御水取りが行われる 1 B

主な参考HPは、次のとおり。

「健康長寿の島・沖縄」
【沖縄タイムス】2011年12月19日/ 沖縄県内ニュースから現地写真 http://nuchi.ti-da.net/e3661692.html
■ 祈り捧げお水取り 国頭 王朝儀式を再現
琉球王朝時代、国王の年始儀式に使うために行っていた「大川のお水取り」(主催・同実行委員会)が18日、国頭村辺戸区で再現された。女優の美良樹(みらい)吟呼さんが神女役を務め、集落各地で神々に祈りを捧げ、長命の水が流れるとされる大川(アフリ川)から水をくみ取った。那覇市首里当蔵町自治会の会員、県立芸大の学生、辺戸区の住民らが参加した。
「お水取り」は国王の年始儀式「お水撫で」のため、大川の清らかな水を首里城に献上する行事。1999年に120年ぶりに復活し、今年で13回目。25日には、大川の水を首里公民館から首里城まで運ぶ「美御水(ぬーびー)奉納祭」が執り行われる。

辺 戸 岬  国頭村辺戸 ( 沖縄県 )

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辺 戸 岬  国頭村辺戸

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。辺戸岬は沖縄本島にある最北端の岬。那覇空港からは沖縄自動車道(高速)と一般道(国道58号など)を利用しても、車で約2時間30分以上のロングドライブとなる。最後の写真は、ヤンバルクイナ展望台から望んだ辺戸岬。

辺 戸 岬
辺戸岬(へどみさき)は、沖縄県国頭郡国頭村辺戸に属し、太平洋及び東シナ海に面する岬(東経128度15分56秒、北緯26度52分18秒)。沖縄島の最北端(「沖縄県」の最北端は、久米島町の硫黄鳥島)にある。好天の日は、22km離れた奄美群島の与論島や沖永良部島を望むことができる。沖縄海岸国定公園に含まれる。
地理
・サンゴ質の絶壁から成り、岬上は広い台地となっている。
・沖縄県がアメリカの統治下にあった頃、本土復帰を願って、ここからのろしを上げた。また年に1度、辺戸岬と与論島との間(北緯27度の海上)で、本土との交流集会も行われていた。
・1972年(昭和47年)の沖縄返還にさいして建立された「日本祖国復帰闘争碑」がある。
・茅打バンタの北側に位置する辺戸岬ドームは、世界的にも珍しい海底の鍾乳洞で、ダイビングスポットとして知られる。
周辺の観光地
・茅打バンタ – 岬へ至る南西岸の絶壁。かつては交通の難所だったが、現在は国道58号のトンネルが短絡している。
・奥集落 – 古くからの民家が引き継がれている。奥ヤンバルの里(資料館・宿泊施設)あり。
・辺戸岬灯台
・ヤンバルクイナ展望台
・金剛石林山
交通
自動車 国道58号利用が便利である(南は80km以上離れた恩納村山田から、東海岸ではうるま市石川東恩納の国道329号から国道58号経由での距離案内が表示されている)。