投稿者「misakimichi」のアーカイブ

大野の大清水井戸・徳尾の清水井戸  臼杵市下ノ江 ( 大分県 )

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大野の大清水井戸・徳尾の清水井戸  臼杵市下ノ江

臼杵市HPの文化財 > ふるさと再発見による説明は、次のとおり。臼杵市街から北東に県道205号、途中から市道に分かれて下ノ江地区に2つの清水井戸を訪ねる。
JR日豊本線の下ノ江支所前踏切に「大清水 寺尾の石塔婆(略称 薬師様)」の案内標識があり、標識に従い進むと薬師堂下に、一つ目の「大野の大清水井戸」(写真1〜7)があった。横1.2m、幅1.1m、高さ0.6m。
「徳尾の清水井戸」は、踏切へ戻りさらに直進する。下ノ江駅入口を過ぎ、県道546号となったGSがある浜田バス停から下の川橋を渡る。中村公民館から左へ曲がると、すぐ先の崖面に二つ目の「徳尾の清水井戸」(写真8〜12)があった。横2.4m、幅1.6m、高さ0.8m。

清水井戸

地 域 佐志生・下ノ江地域
名 称 清水井戸(そうずいど)
所 在 臼杵市下ノ江
備 考 昭和55年7月調べ
説 明
下ノ江方面には、昔から地域の人々に親しまれ、利用されてきた井戸があります。これらの井戸の水は、臼杵の三大清水井戸に数え上げられていたほどで、一に臼杵の平清水、二に大野の大清水、三に徳尾の清水井戸と呼ばれ、豊富な水量とその清らかさは、使う人々にとって一種の清涼剤となっていたと思われます。
下ノ江地区に今も残っている二つの清水井戸のうち大清水井戸は、下ノ江小学校から日豊本線の踏切をわたり、北へ200mばかり行った字大清水地区に、清水井戸は、中村地区公民館から北西へ60mほど行った字徳尾地区にあります。二つの井戸とも、どんなかんばつに際しても、枯れることはなかったといわれるだけに、今でも溢れんばかりの清水が湧き出ています。
井戸は、人々の生活と直接深いかかわりを持っていただけに、井戸にまつわる物語や言い伝えも多く残っています。とくに大清水の井戸水(地元では卵水とも呼んでいます)は、イボをとるのに効くといわれ、この井戸水と上手の台地にある薬師堂境内の土とを練り、イボにつけるとコロリと落ちる霊験があるとの言い伝えもあります。
しかし、今日のように各家庭に上水道が完備され、井戸の利用が減るに従い、このような話も自然に人々の記憶から消えてゆくものと思われます。井戸は、人々にとって自然の恵みを与えるだけでなく、情報交換の場、あるいは社交の場として地域の連帯感を培う役割を果たしていました。たそがれ時、井戸で水を使う人々の喧騒と語らいの姿も少なくなった昨今、時の流れとはいえ私たちの周りから一つ、また一つと井戸端の風物詩が消えてゆくことに一抹の寂しさを感じます。

平清水(ひらそうず)大井戸  臼杵市福良 ( 大分県 )

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平清水(ひらそうず)大井戸  臼杵市福良

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道33号臼杵市街三重塔のある龍原寺前の平清水バス停のまだ南側、JR上臼杵駅へ行く三差路に入ると、左側にすぐこの大井戸がある。寸法は測り忘れ。

平清水大井戸 ひらそうず
臼杵市 (福良> 湧水(石造) 寛永20(1643)以前 WEB(みさき道人) ステンレス製の屋根型蓋 臼杵の三大清水井戸の1つ/「井戸」と呼称されているが、実態は湧水/周囲に江戸期の切石敷の井戸端 3 B

現地説明板は、次のとおり。

城下町歴史散歩  平清水(ひらそうず)大井戸

この井戸は、古地図等から寛永20年(1643年)にはすでに使用されていた井戸です。「平清水(ひらそうず)」の地名の由来にも関わる井戸では、とも言われています。江戸時代から地元の有志によって石敷き等が整備され、大事に利用されていました。
臼杵市     

金毘羅水  臼杵市二王座 ( 大分県 )

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金毘羅水  臼杵市二王座

現地説明板は、次のとおり。臼杵市二王座歴史の道の甚吉坂「金毘羅社」のすぐ下にある。

城下町歴史散歩  金毘羅水

金毘羅社の土地の岩盤をくり抜いて掘られているところから金毘羅井戸と呼ばれています。現在、ほとんど使用されていませんが、この金毘羅水は、海添の山下水、市浜の近衛水と共に臼杵名水の一つに数えられていました。
臼杵市     

浅海井の鯨の墓  佐伯市上浦町浅海井 ( 大分県 )

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浅海井の鯨の墓  佐伯市上浦町浅海井

佐伯市から津久見市へ向かう途中、国道217号の佐伯市上浦町浅海井(あざむい)海岸通りで見た鯨の墓。佐伯市有形民俗文化財。昭和54年9月1日指定。
HP「鯨文化:鯨を弔った鯨墓・鯨塚など」によるデータは、次のとおり。

大分県佐伯市上浦町浅海井

鯨魚塔Ⅰ 「南無阿弥陀仏鯨魚塔」「明治二十一年子旧正月十六日」「曾根角蔵網組」下の鯨魚墓と並んでいる。基礎を含めた高さ:130㌢、塔身の高さ:95,5㌢、幅:24㌢、厚さ:24㌢。方錐角柱。

鯨魚墓Ⅱ 「南無阿弥陀佛鯨魚墓」「明治四十年十二月六日」上の鯨魚塔と並んでいる。約20メートルの鯨が座礁し入札で買取り生肉・塩漬けにして売ったとのこと。基礎を含めた高さ:139㌢、塔身の長さ85㌢、幅・厚さ:24㌢。方錐角柱。

青山地区のシシ垣  佐伯市佐田棚野 ( 大分県 )

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青山地区のシシ垣  佐伯市佐田棚野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。佐伯市街の佐伯大橋から県道
37号により蒲江方向へ南下する。約6kmのところに青山地区の「棚野」バス停があり、堅田川の橋を渡った先が「棚野」の集落である。
地元で聞くと、集落背後の山中で写真の伐採地あたりと聞いて現地へ訪ねたが、林道終点から周囲を眺めても、私にはどこにあるのかわからず、引き返した。地元民の話で、場所間違いがあるかも知れない。

青山地区のシシ垣 あおやま
佐伯市 猪垣(石塁) 長200m,高2.5m 江戸末期? 市教委 山中に放置 民地に近い斜面に展開する畑を囲むように7ヶ所確認(左記の“長さ”はそのうちの最良の1ヶ所) 2 C

「大分県のシシ垣について」渋谷忠章氏稿(Adobe PDF)50頁には、次のとおり記録がある。

…その他県南では、佐伯市、弥生町で確認されている。佐伯市のシシ垣は、市の南西部にある青山地区で七ヶ所が確認されているが、小規模なものがほとんどである。このうち棚野地区にあるシシ垣の一つは東西五〇m、南北四〇mで、高さ〇・五〜一・二mの石垣と幅約二mほどの堀が巡っている。また、この地は天領地でありシシ垣が佐伯藩領だけてなかったことが判る。…

蒲江地区の大垣  佐伯市蒲江蒲江浦 ( 大分県 )

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蒲江地区の大垣  佐伯市蒲江蒲江浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。佐伯市街から国道388号か県道37号により蒲江へ南下する。蒲江地区の大垣の場所は、道の駅かまえに「蒲江浦の散策路」案内板があるので、良く確認する。「大垣」と呼ばれるシシ垣は、山中の大師堂近くにあるが、道の駅近くからは入口がわかりにくく、かなりの登りとなる。

蒲江トンネルを抜けた長津留バス停から高台の簡易水道施設へ上がると、「オダイシサン散策路」案内板があった。水道施設横から長津留トンネル上の散策路を大師堂まで歩く。途中に「蒲江のシシ垣」史跡説明板が立ち、この後ろ側一帯に大垣を確認できる。説明板手前や大師堂先にも、散策路右に見る石積みは、シシ垣の延長である。

蒲江地区の大垣 かまえ
佐伯市 猪垣(石塁) 長数㎞ 江戸中・末期〜昭和期 市教委 山中に放置 耕作地背後の山の中腹に帯状に造られた「大垣」と呼ばれるシシ垣/高山地区の海岸の浜石を用いて構築→他地区のものと比べ、シシ垣の高さ・幅ともに大きい/構築年代は、サツマイモの耕作が始まった時期と推測されている 2 B

空の公園・空の展望所  佐伯市色利浦 ( 大分県 )

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空の公園・空の展望所  佐伯市色利浦

大分フォト観光ガイドによる説明は、次のとおり。鶴見中越浦から県道501号豊後くろしおラインにより蒲江へ向かう途中、空の展望所は米大津を過ぎた峠にあった。後ろ2枚は蒲江近く高山トンネル出口の風景。

空の公園・空の展望所

米水津と蒲江を結ぶ、豊後くろしおラインの峠にある、空の公園と空の展望所です。2カ所は別々のやや離れた所にあり、ともに海を眺める景色のよい所です。空の公園はツツジと桜が植えられ、春になると美しくなります。空の公園には標高282.5mの瀬平山にある展望台、空の地蔵尊へと行く遊歩道があり、ともに海の眺めのよい所です。瀬平山にある展望台へは歩いて5分ほど、空の地蔵尊へは歩いて10分ほどかかります。空の公園から少し豊後くろしおラインを上がった所にも、空の公園展望台という眺めのよい所があります。
所在地 大分県佐伯市色利浦

鶴見地区のシシ垣  佐伯市鶴見中越浦 ( 大分県 )

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鶴見地区のシシ垣  佐伯市鶴見中越浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。今回は九商フェリーで島原外港から熊本港へ渡り、まず大分県佐伯市へ。佐伯市鶴見中越浦は、佐伯市街の新佐伯大橋から県道604号により鶴御崎半島へ向かう。中越浦は半島の中間ほどにある東海岸の集落。
集落を過ぎ県道を先へしばらく進むと、県道脇にシシ垣案内板があるので、右手の市道を山手へ上がる。登りつめた広場のところに遊歩道の橋があり、この一帯が細長い半島の尾根を横断する壮大なシシ垣見学の核心部となっていた。

鶴見地区のシシ垣 つるみ
佐伯市 吹浦〜日野浦〜下梶寄 猪垣(石塁・石垣) 長10数㎞,高2m,幅90㎝ 江戸末期〜明治期 市教委 残存確認箇所は離散的だが総延長は10数㎞に達する サツマイモを猪や鹿の害から守るため構築された言われる(鹿が対象として入っているのは、高さが所により2mを超えるため)/江戸中期までの史料にはシシ垣に関する記載がない 2 A

大分川の水刎?  大分市下郡 ( 大分県 )

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大分川の水刎?  大分市下郡

ブログ「ぐんさん 物見遊山記:豊後街道を歩く 乙津〜八幡田」間に表れる掲載写真の2枚目。大分川の水勢をやわらげる水刎か?。どんなものかと河口近くに場所確認に行った。
http://blog.livedoor.jp/gunchan1972/archives/51728762.html
豊後街道は、大分市「牧から下郡方面へ進み北下郡ガード西交差点を通過、滝尾橋へ。ここでJR日豊線をくぐり大分川沿いに南へと進路をとる。大分川の土手を歩く。豊後街道は大分川沿いを通っていたそうで、地元では「ひごどん道」と呼ばれていたとか。川岸になにやら石積みがいくつもあるがなんだろう。川漁師の船着場? 護岸のためのもの?」とある。

国道10号府内大橋を過ぎて宮崎交差点から大分川に沿う市道を北へ、下郡北のJR日豊本線ガード下まで行き、左方に大分川へ出た。川岸道路を上流側へ向かうと、車ランド展示場近くの川岸に、川に突き出たこの10基ほどの石積みがあった。下流側に日豊本線の大分川鉄橋が見える。
石積みのある川岸の中間くらいに、ちょうど架橋建設中の橋脚が完成している。石積みは新しく感じられ、年代物ではなく架橋護岸工事のための最近の工作物と思われる。遺産サイトもその見解だった。
河川工事事務所に確認する必要があるが、念のため記録しておく。

新村のエノキ  相良村柳瀬 ( 熊本県 )

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新村のエノキ  相良村柳瀬

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。人吉市から県道33号により相良村柳瀬橋まで行く。橋手前から村道を川辺川下流側へ下ると、くまがわ鉄道川村駅手前の新村にこのエノキがある。
現地説明板は写真のとおり。

新村のエノキ(しんむらのえのき)  相良村

所在地 球磨郡相良村柳瀬
新村のエノキとアサの話

○ 新村のエノキ
十島菅原神社から球磨川鉄道をわたり右に折れて、球磨川の堤防ぞいに新しくできた田んぼの中の広い道を、川村駅を右手に見てしばらく進むと、急に狭くなるところが出てきます。その角に大きなエノキが立っています。それが「新村のエノキ」です。このエノキは平成3年11月11日に“ふるさと熊本の樹木”に指定されています。幹まわり2、75m、樹高(じゅこう)約23m。以前このエノキの下に「オイデガマ」または「ウヲダテ釜」と呼ばれる大きな釜をすえて、その上に大きなおけ(高さ約3、5m)をかぶせ、アサを蒸していたそうです。「オ」とか「ウヲ」というのはこの地方でアサのことを言います。また「オイデガマ」の「イデ」というのは“ゆでる”という言葉が変わったものです。つまり「オイデガマ」は“アサをゆでる釜”といった意味があります。そして蒸(む)し上がるとこのエノキの枝に縄をかけておけを引き上げるのに使っていました。この「新村の榎」の土地の持ち主である堀田冨男(ほりたとみお)さんによれば、以前は縦型の桶を使っていたそうですが、その後横型の「麻箱(あさばこ)」に変わったそうです。また、アサは春の彼岸(ひがん)頃に種をまき、7月の土用(どよう)のとても暑い時期に1丈(いちじょう)つまり3、3mほど伸びたアサを刈り採って蒸していたそうです。この「新村のエノキ」でアサを蒸していたのは1955年頃までだったそうで、今はその現物は残っていませんが、山江村歴史民俗資料館に行くと横型の「麻箱」が展示してあります。

○ 球磨地方のアサ
山江村歴史民俗資料館の菖蒲和弘さんによると、球磨地方は古い昔からアサの産地として有名だったそうで、“球磨”の書き方に“求麻”という字をあてて“くま”と呼ばせているのが明治8年に作られた「球磨郡村地誌」に載っているそうです。とれたアサは皮をはぎ、天日(てんぴ)に干した後、灰を入れて煮られ、やわらかくなった皮は川で荒皮(あらかわ)をはがされて乾燥させ、製品して出荷していたそうです。残った芯(しん)の部分はアサガラとよばれ、子どものへその緒切りや提灯(ちょうちん)の線香(せんこう)立てに使っていたそうです。また、葉は集めて燃やし、その煙を病人に浴(あ)びさせて治療に使っていたとも言われているそうです。さらに、この葉はいい堆肥(たいひ)として田の肥料にも使われていたと話されていました。現在のアサの生産地は主に島根県出雲地方だそうです。
アサはクワ科の一年草、花や葉から麻薬がとれることから栽培は許認可制となり、球磨地方では栽培されなくなりました。通常アサとして使われているのは亜麻(アマ)の方で、日本では17世紀頃持ち込まれて栽培され続けています。こちらは、アマ科の植物です。

○ エノキ
ニレ科の落葉高木で、大木になると20mを越えます。花の時期は4月〜5月で、黄色い花をつけます。葉は左右に分かれ交互に着いていて、3本の葉脈が目立っていて縁にギザギザがあり、先はとがっています。果実は5〜6mmで赤っぽく、10月ごろつけます。昔はこの果実を空気鉄砲に使って遊んでいたそうです。「オイデガマ」には、なぜかきまってこのエノキがあって、縄を掛(か)けるのに使われました。

参考文献
・『野外観察ハンドブック 校庭の樹木』 岩瀬徹・川名興 全国農村教育協会 1991年
・『相良村誌(自然編)』 相良村誌編集委員会 相良村 1994年
・『ヤマケイポケットガイド13 野山の樹木』 姉崎一馬 山と渓谷社 2000年
・『Microsoftエンカルタ総合大百科2003』 Microsoft Cor