投稿者「misakimichi」のアーカイブ

陣ノ内の瀬  相良村柳瀬 ( 熊本県 )

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陣ノ内の瀬  相良村柳瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号により相良村柳瀬橋まで行く。橋手前から村道を下流へ下ると、「舟場バス停」がある。
川辺川に出ると、広い川中に大きな瀬があり、これが「陣ノ内の瀬」と思われる。川辺川の本流は、左岸側を流れ、手前の右岸側は静かな流れであり、船着き場のような広いコンクリート舗装の岸壁があった。

陣ノ内の瀬 じんのうち
(球磨)相良村 球磨川 船着場 江戸期 歴史の道・球磨川水運p.51 大きな岩陰に淀みがあり格好の着船場になっている

深田の魚背岩(ぎょはいがん)  あさぎり町深田西 ( 熊本県 )

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深田の魚背岩(ぎょはいがん)  あさぎり町深田西

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。県道33号によりあさぎり町深田西へ行く。私が撮影したのは、古町橋の少し上流、立岩手前の県道上からとその対岸あたりから。

深田の魚背岩(ふかだのぎょはいがん) あさぎり町

所在地 球磨郡あさぎり町深田西
球磨川に巨大な魚の群れが見える
◆あさぎり町・深田西の古町橋から球磨川をのぞいてみると・・
古町橋の上から球磨川をみると、水面から上に出て見える川底の岩が巨大な魚の群れのように見えます。他の場所でも小規模には見られる風景かもしれませんが、この場所の風景は非常に大規模で、長さ5・6mほどの巨大な姿が多数見られます。その様子を球磨人吉の地質研究家・原田氏は「魚背岩(ぎょはいがん)」と呼んでいます。
◆魚背岩ができた原因について
深田周辺の地層には、加久藤溶結凝灰岩(かくとうようけつぎょうかいがん)と呼ばれる岩石があります。古町橋周辺の川底もそうです。溶結凝灰岩のつくる地形で代表的なものは、ポットホール(甌穴)と呼ばれる丸いくぼみですが、この古町橋周辺では少しちがった特徴になっています。このような地形ができた原因は、球磨川の川底を流れる泥砂や石と球磨川の水流です。土砂や石は、川の流れに沿いながら川底の熔結凝灰岩を傷つけ、削り取って行きます。川の水流が豊富で速かったために、一カ所を丸く削りこむのではなく、溝状に細長く深く削られ、1匹1匹の魚をつくり出しました。こうして魚背岩ができたのです。
◆加久藤熔結凝灰岩について
古町橋の上流300mほどの県道わきに、立岩と呼ばれる溶結凝灰岩の大きな岩があります。そして道向かいの崖も溶結凝灰岩でできています。これらの溶結凝灰岩は、ここから約20km南にある加久藤盆地を噴火口とした、大噴火によってつくられた火砕流堆積物(かさいりゅうたいせきぶつ)です。時代的には、約30数万年前の第4紀・後期更新世と考えられています。この古町橋周辺では、溶結凝灰岩の中に直径2〜3cmの軽石やカクセン石の斑晶がみられます。色が灰色で、溶結度が高いのが特徴です。
また、あさぎり町深田地区の溶結凝灰岩は、地域の人たちからは「深田石(ふかだいし)」と呼ばれ、生活の中に石垣や石臼(いしうす)などの石材として利用されていました。
参考文献
・深田村誌編纂委員会 『深田村誌』 深田村教育委員会 1994
・『日本の地質9「九州地方」』 日本の地質「九州地方」編集委員会 共立出版 1992
・町田洋ほか 『日本の地形7 九州・南西諸島』 東京大学出版会 2001
・田村実ほか 『土地分類基本調査 5万分の1表層地質図「人吉」』 熊本県 1982

多良木の道標  多良木町多良木 ( 熊本県 )

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多良木の道標  多良木町多良木

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。大分県佐伯市から宮崎県延岡市に出て、国道388号により熊本県多良木町へ行った。山岳ルートで特に西米良へ出る標高1140mの大河内峠越しは難所である。九州大学宮崎演習林があった。
多良木町多良木の道標は、県道33号馬門バス停から北の岩川内・松ヶ野を指す町道に入る。しばらく進んだ「多良木10区の2公民分館」前の三差路広場に立つ。幅24×横24×高さ85cm。

多良木の道標 たらぎ
(球磨)多良木町 (岩河内)<北目街道> 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高85㎝,24㎝角 天明元(1781) 町教委/WEB(みさき道人) 移設 (正面)「從是、右 く王んをん道/左 松がのみち」 2 C

桜ケ瀬井路  津久見市新町 ( 大分県 )

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桜ケ瀬井路  津久見市新町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。津久見市街から国道217号か、県道35号により南西に向かうと、新町に桜ヶ瀬バス停がある。青江川畔に出ると、昭和26年建立だが水神があった。所在図参照。
資料は、津久見市史から。「この井路は、「津久見桜ヶ瀬より松崎・警固屋へ懸り候井手」であった。この井路は青江川に堰を設けて取水する方法を採ったものである」とあり、取水堰はこのあたりのことではないだろうか。町中の井路がどう流れているのかは、現在ではわからない。

桜ケ瀬井路 さくらがせ
津久見市 青江川 用水 弘化3(1846)以前 市教委(津久見市史p215) 開削の経緯は不明だが、弘化3に取水堰が石造化されるまで粗朶を用いていた

志手村用水  津久見市地蔵町 ( 大分県 )

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志手村用水  津久見市地蔵町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道217号臼津隧道を抜けて津久見市街地へ入る。青江橋先からJR日豊本線の踏切を渡り、右折。すぐの松崎交差点からまっすぐな市道を西へ進み、最奥の角を曲がると、青江川畔に志手村用水「墾田碑」がある。所在図参照。
資料は、津久見市史から。「井路は水源から青江川に延び、現石灰石輸送パイプの直下を岡町広場へと左岸に渡河したが、このため河底に送水管が敷設された」とは、この地点であろう。
付近の航空古写真は、津久見市提供。撮影年代は不詳。

志手村用水 して
津久見市 胡麻柄山山麓の湧水→志手村 用水 寛文年間(1661-72) 市教委(津久見市史p214) 志手村の石井正円が開削(詳細不明)/青江川とは底樋で交差(直径30㎝ほどの輪竹を桶状に編んだものを2本並べ周囲を三和土で固めた構造)

下り松台場・跡  臼杵市板知屋 ( 大分県 )

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下り松台場・跡  臼杵市板知屋

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道207号により臼杵造船所東端からJR日豊本線の踏切を渡り、下り松地区公民館まで行く。私が参考資料としたのは、佐伯史談会研修旅行の際の掲載写真で、「下り松の台場跡のある丘陵地」。
地元で聞き込みをするが、この写真はどこで撮影されたか、台場自体もどこにあったかも、はっきりしたことが聞けず、写真と合う光景はこのあたりでは見つけきれなかった(写真2〜4)。

臼杵市資料に「琵琶ヶ鼻の砲台跡 所在 臼杵市下り松」として、台場の場所は「琵琶ヶ鼻の砲台跡は、下り松の一番臼杵湾に向かって突き出した丘陵の先端、標高約三十メートルのところに位置しています」とはっきり記していた。
JR日豊本線トンネルがある山地の海岸先端へ県道をさらに進む。次に水ヶ浦バス停があり、この手前に(有)伊東自動車があった。佐伯史談会の写真は、バス停付近からこの整備工場の建物を写しているようだ。
工場主に聞くと、工場右横から奥にあと1軒民家があり、この家上の高台となる丘陵地が「下り松台場・跡」とのこと(写真5〜8)。台場・跡はヤブとなって、行き道や現地遺構はもうわからないだろうと聞いて、これ以上の調査はあきらめた。

下り松台場・跡 さがりまつ
臼杵市 台場 60m×30m程度 文久3(1863) WEB 丘陵地で植生が密生 臼杵藩台場 4 C

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

琵琶ヶ鼻の砲台跡(びわがはなのほうだいあと)  所在 臼杵市下り松

市内には、「臼杵の歴史」を語る際に欠くことのできない遺跡や遺物が数多く残されています。時代時代における世の中の動きに応じて作られ、或いは利用されてきたものが、時の移り変わりとともに、人の記憶の中から次第に忘れ去られてしまい、長い年月、人の手も加わらず、雑草に覆われていたり、倉の隅に追いやられていたりといったことがしばしば見られます。
琵琶ヶ鼻の砲台跡もそうしたものの一つです。現在は、深く雑草が生い茂り、訪れる人もほとんどなく、この遺跡が、歴史(時代)の要請を受けて生まれたものであることを知る人は少なくなっています。この砲台跡は、江戸時代の終わりごろ(十九世紀中頃)臼杵藩領の海岸線防備のために設けられて砲台跡の一つです。この当時、藩領の海岸線に五つの砲台が作られました。楠屋鼻(泊ヶ内と津久見市の境)、竹ヶ鼻(板知屋区の現天神ヶ鼻)、琵琶ヶ鼻、殿ヶ礁(以前の下ノ江少年自然の家の下)、的場山(津留地区)、将棊頭(東中グラウンドの北側)の五ヶ所です。今、砲台跡として残っているのは琵琶ヶ鼻と将棊頭の二箇所です。琵琶ヶ鼻の砲台跡は、下り松の一番臼杵湾に向かって突き出した丘陵の先端、標高約三十メートルのところに位置しています。砲台跡は、丘陵の北斜面を削りだし、コの字型をした高い土塁のような形に作られています。東西の長さおよそ十二メートル、南北の長さ八メートル、幅約三メートル、高さ二.五メートルをはかる非常に大きな施設となっています。
この時代、日本は鎖国政策をとっていたため、外国と接することはなく、唯一、例外的にオランダ国とだけは長崎の出島を通じて関係を維持していました。しかし、十八世紀後期になると、日本の近海に出没する外国船の数は益々増え、中でも北太平洋に移動する鯨の群れを追って来たアメリカやイギリスの捕鯨船が、淡水や食料を求めて我が国の海岸に接近することが多くなりました。沿海の諸藩は、補給のため海岸に接近した外国船に対し必要品を供給し、更に国法を説明して再び来ることの内容言い含めましたが、ほとんど効果はありませんでした。国法によって、渡来した外国船は穏便に帰帆させるよう指示されている反面、警備を特に厳重にするよう定められているので、海を持つ諸藩は、警備をおろそかにすることはできず、財政難に苦しんでいた当時の諸藩にとって大きな負担となっていました。臼杵藩の場合は、安政二年(一八五五)、藩士川崎重房の海防論をとり入れ、自領の海岸線防備のために、先に述べたような砲台を設置しました。

二王座の切通し・山下水・御口屋の井戸  臼杵市二王座ほか ( 大分県 )

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二王座の切通し・山下水・御口屋の井戸  臼杵市二王座ほか

臼杵市観光パンフレットから私が見た二王座の切通しと、南海添の山下水・御口屋の井戸。サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。

二王座の切通し におうざ
臼杵市 (臼杵) 切通し 数ヶ所 戦国〜江戸期 市教委 臼杵を代表する景観として観光地化 二王座(凝灰岩の台地)に登る坂道/家並の中心の切通しは石垣に、少し外れると岩肌が見え(写真の場所)、その外側は岩肌がむき出しになっている 2 B

海添の御口屋井戸 かいぞえ、おぐちや
臼杵市 (海添)<津久見街道> 石井戸 102㎝×102㎝,高60㎝,径70㎝の穴 延宝5(1677)以降 WEB/市教委 名水として知られる/米穀店の敷地内 津久見街道の城下入口に設けられた御口屋(番所)の井戸/厚さ30㎝の凝灰岩の中央を丸くくり抜き、2段重ねて井戸枠とした 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見よる説明は、次のとおり。

海添御口屋跡と井戸(かいぞえおぐちやあとといど)  所在 臼杵市大字海添

御口屋と言っても、聞きなれない言葉だけにちょっと戸惑うかもしれません。簡単に言えば、臼杵藩時代の番所のことです。この御口屋は、城下へ通じる主要な往来道(街道)の城下入り口の位置に設けられていました。ここは、城下へ出入りする人々の中に不審な者がいるかどうか監視をする役割を持ったところです。
海添の御口屋は、津久見街道口に設けられたものです。臼杵藩時代の記録「温故年表録」によると、「延宝五年丁巳 三月二十一日 海添口屋番所立」とあり、一六七七年に口屋番所が建てられたことがわかります。この口屋番所の建設によって、主に外からの侵入に対して無防備ともいえた津久見街道の海添口を固めると言う意味も含まれていたと思われます。
この口屋番所は、宝蓮寺の斜向いにあります斉藤米穀店の付近に位置していました。またこの店の敷地内には御口屋の井戸が残っています。
この井戸水は、今日名水の一つとして広く市民に知られています。井戸は立派なもので、井戸枠は、一辺
102cm、厚さ30cmの凝灰岩の中央部分に直径約70cmの穴を穿ったものを二つ重ねて作られています。井戸の内部は、珪岩などの自然石を積み上げて円筒状につくりあげています。深さは、井戸枠上面から水面まで245cmほどあります。
海添の御口屋が設けられた時期は、第五代鹿景通が臼杵藩主として藩政の改革や定められた数々の法規を確固たるものとし、積極的に城下の整備に努めた時代で、内政に力を注げるようになったということは、この頃に世情もようやく落ち着きを取り戻し、平穏な時代に入ったことを表しているのではないでしょうか。

落合の石畳  臼杵市久木小野〜落合 ( 大分県 )

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落合の石畳  臼杵市久木小野〜落合

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道502号障子岩交差点から県道25号に入り、途中から吉小野を通る近道により県道206号に出たところが久木小野の県道交差点である。
臼杵市資料によると、「殿様道は久木小野の県道交差点(現在)あたりからその北側にある標高115mほどの通称「茶屋峠」を越え、落合地区の南側へと出る延長約1kmの道です」とある。地形図の関係部分を参照。

さて、この殿様道の石畳は「落合地区への入口部分と、そこから約300mほど上った所の二ヶ所には延長20〜
30mにわたって凝灰岩の石畳が敷かれています」とあり、久木小野側に一部が残っているらしいが、久木小野交差点近くで地元聞き込みをしても判然としない。
高速道高架下をくぐると立派な神社があり、その先に茶屋峠へ登る山道があったが、今は藪道となって入口さえわからないだろうという話だった。

そのため、今度は反対の落合集落側へ行ってみた(写真5枚目以降)。集会所横にコンクリート舗装された急坂の狭い車道があり、これが殿様道だったようで、戦後も久木小野小学校への通学路として利用されていた。
この道は、現在の九六位ゴルフガーデン上部を通り、いったん舗装道路に出て横切り、久木小野の神社近くに出ていたということだったから、双方地元民の話は合う。
藪道をかき分けてまで、これ以上、石畳を調査する時間はなく、日没となったので調査を打ち切った。

落合の石畳 おちあい
臼杵市 <通称・殿様道> 石畳道(2ヶ所) 長20-30m 江戸期 WEB 久木小野から落合へ抜ける通称・茶屋峠越えの間道 –

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

殿様道と茶屋峠(とのさまみちとちゃとうげ) 所在

臼杵はかつて“東九州の浪華”と呼ばれるほど栄えた町として広く知られていました。鉄道がまだ発達しておらず、海上交通が物資流通の主役だった時代に、湾の奥にある良港をもっていたことがその背景にあるのです。そして港とその奥にある穀倉地帯や主要都市とを結ぶ陸上交通路がめぐらされていたことも見落とせません。
江戸時代に臼杵には、末広方面から大分に抜ける府内城路、武山方面から三重、竹田へと向かう岡城路、海添から津久見、佐伯へとゆく佐伯城路という三本の幹線道路がありました。これらが交通の要路となっていたのですが、さらにこの三本の要路をつなぐ間道が網の目のように設けられていたのです。
これらの道は廃道になっていたり、近・現代の道路改修によって現在ではほとんど当時の様子を残していませんが、今なおその面影を伝えている道もあります。久木小野から落合へと抜ける通称「殿様道」もその一つです。
この道は岡城路と府内城路を障子岩〜田尻でつなぐ間道の一部で、正式な名称は不明ですが、久木小野〜落合に限って地元の人が殿様道と呼んでいます。その由来はかつて岡(竹田)藩の中川候が参勤交代の折に通ったという落合地区の伝承によるものです。
殿様道は久木小野の県道交差点(現在)あたりからその北側にある標高115mほどの通称「茶屋峠」を越え、落合地区の南側へと出る延長約1kmの道です。
この道も他の旧道と同じように等高線や谷を上手に利用しながら、急な上り下りが少ないように造られているようです。道幅は1.5mから5,7mとわりと広めです。また、落合地区への入口部分と、そこから約300mほど上った所の二ヶ所には延長20〜30mにわたって凝灰岩の石畳が敷かれています。臼杵市内では府内城路、岡城路、佐伯城路にそれぞれ石畳道の一部が残っていますが、間道に石畳が敷かれている例は珍しく、この殿様道が当時の間道としてはよく整備された道であったことがわかります。
この道がいつ開かれたかは不明なのですが、天保二年(1831)に作られた「臼杵領内絵図」には記載されていることなどから江戸末期には既にあったようです。そして今年の二月に、その当時の様子を物語る遺構が発掘されました。それが茶屋峠の茶屋跡なのです。

温井の石風呂(塩石の石風呂)  臼杵市福良 ( 大分県 )

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温井の石風呂(塩石の石風呂)  臼杵市福良

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市街の土屋交差点から国道502号に入る。次の温井交差点から南に左折。送電鉄塔後ろ側にコンクリート擁壁の大きな岩が見える。
場所がわかりにくいが、小橋の先から右側の里道へ回り込みこの岩下の安東宅前まで行くと、温井の石風呂がある。

温井の石風呂(塩石の石風呂) ぬるい
臼杵市 石風呂 (横穴1ヶ所) 入口:高2m,幅2.2m 明和9(1772)以前 県有形民俗 WEB 保存状態良好 臼杵式の石風呂(他に、豊後大野市の「中ノ原の石風呂」参照)/豊後大野市の緒方に集中する火室を有するタイプとは発想が全く異なる→石を焼き、その上でセキショウなどの薬草を蒸して、近くにある海水をかけて蒸気を発生させ蒸し風呂としたもの/石風呂の前右上方の岩壁に、月桂寺第十世独園禅師の詩が陰刻:「地仙結宇倚岩陰/石室烟蒸薬気深/春夜眠醒纔出浴/何来風雨灑花林/春夜宿無一亭/明和壬辰釈処」→年代の根拠 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

温井の石風呂(ぬるいのいしぶろ)  所在 臼杵市温井

温井の塩石にある石風呂は、凝灰岩に掘られた横穴形式のもので入り口の高さ約2m、幅2.2mのものです。
内部の床面の左側に深さ20cmばかりの溝が掘られていますが、これが前壁の一部を破って外に通じています。用法についての言い伝えはありませんが、石を焼き、そのうえでセキショウなどの薬草をむして、近くまできていた海水を汲んではかけ、蒸気を出して浴していたものかと思われます。地形から海草が薬草として使われたとも思われます。
この石風呂の前右上方の岩壁には、月桂寺第十世独園禅師の詩が陰刻されています。
地仙結宇倚岩陰 石室烟蒸薬気深 春夜眠醒纔出浴 何来風雨灑花林 春夜宿無一亭   明和壬辰釈処
地仙いえを結んで岩陰による 石室えんじょう薬気深し 春夜眠りさめわずかに浴を出ず 何ぞ来る風雨花林
にそそぐ 春夜無一亭に宿す 
明和壬辰とあるので、明和九年(1772)にはこの石風呂は完成していたと推定されます。
昭和四十二年三月県の有形民俗文化財に指定されています。

不 欠 塚(ふかんづか)  臼杵市望月 ( 大分県 )

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不 欠 塚(ふかんづか)  臼杵市望月

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号により臼杵石仏入口方面へ向かう。東九州自動車道の高架下をくぐったすぐ先が望月で、国道左側に不欠塚の大きな石碑が見える。

不欠塚 ふかん
臼杵市 (望月) 石碑 高約190㎝ 天保9(1838) WEB/市教委 原位置 (正面)「不欠塚」/堤防の決壊を何とか喰い止めようとして「水の流れに従って水勢を和らげる」ような堤防を築いた疋田不欠の業績を称えて上望月村の村民が建立 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

不欠塚(ふかんづか)  所在 臼杵市大字望月

望月のバス停前から台地に連なる坂道のちょうど中ほど、望月の天満社の下にあたるところに、高さ約1.9mの石碑が一基建てられています。碑は、凝灰岩を角柱状に仕上げたもので、正面にあたる西側には「不欠塚」という文字が深彫りされています。それはまるで眼下に広がる田んぼとその中を東へ向かってゆるやかに流れる臼杵川を眺めているかのようです。
このあたりの田は、現在でこそ春には麦を、秋には稲を収穫する二毛作のできる、市内でも有数の実り多い肥沃な土地として知られていますが、江戸時代の中頃(十八世紀の初頭)までは、大雨が降るたびに洪水によって田が流され、何度も堤防を築いても、大雨のつど、堤が流れに直撃されて決壊し、田は土砂に埋まるという無残な姿をさらしていたそうです。この悲しい様子をいつも天満社の下で眺め、水が引くと田におりていろいろと観察をして、堤の崩壊の原因やその対策について考えていた人物がいました。その人の名は疋田不欠。ある時、不欠の家に泊った旅の僧と話すうちに、洪水に話が及び、不欠が「どう工夫しても堤が崩れる」と言うと、僧は「水は生き物、水に逆らってはどんな堤も破られます」と言い、翌日二人は荒らされた田を見て回りました。堤の切れ口と川の流れとの関係を話し合っている時、「水の流れに従って水勢をやわらげる」ことに気づいた不欠は早速、工夫して洪水にも崩れない堤防づくりを行ったということです。
彼は享保十四年(一七二九)に亡くなりましたが、その後天保九年(一八三八)に彼の業績をたたえ、上望月村の人たちがこの碑を建てました。