投稿者「misakimichi」のアーカイブ

岩 崎 渠(いわさききょ)  臼杵市家野 ( 大分県 )

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岩 崎 渠(いわさききょ)  臼杵市家野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号により臼杵石仏入口先の臼杵市立南中学校前まで向かう。臼杵川の橋を渡って中学校下流側の山際まで行くと、難所の岩盤を切り開いた水路が残る。
後ろの写真は、まだ下流側、家野橋を渡った先で見た水路の状況。岩崎氏の功績碑は訪ねていない。

岩崎渠 いわさき
臼杵市 用水 文政7(1824) WEB/市教委 岩崎陣房・正房親子によって開削された灌漑用水路/岩崎陣房は過労のため工事途中で死去/延べ21000人が工事に携わった

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

岩崎渠(いわさききょ)  所在 臼杵市家野

家野地区の田には、昔から利用されている「岩崎渠」あるいは「岩崎井路」と呼ばれている水路があります。この水路は、文政二年(一八一九)から文政七年までの足かけ六年かかって完成したものです。今でこそ家野地区の田んぼは肥沃で、市内でも有数の穀倉地帯となっていますが、この水路ができる以前は、水不足になかされ日照りが少しでも続くと作物に大きな影響が出ていました。周りの村々が豊作に喜び賑わっているころ、家野村だけ不作に苦しんでいたということもたびたびでした。この様な村のたび重なる窮状を見かねて、臼杵川の上流から水路を掘削し、水を引こうと考えたのが村に住んでいた岩崎陣房という人物でした。彼は、村人たちに水路工事の必要を説いてまわり、協力を得るとともに自分の全財産をつぎ込んだと言われています。文政二年、工事に着手しましたが、早々、現在の南中学校の下手の固い岩盤の難所に突き当たり、石工達はあまりの硬さに逃げ出してしまい、工事は遅々としてはかどらず、陣房は過労のため倒れてしまいました。この様子を見て、義心が強く、名石工の誉れが高い大野村在住の織平が手助けに訪れ、その力によって難所を切り開くことができました。この開削成功の報を聞き陣房は喜びましたが、過労がたたってか、工事半ばにしてなくなってしまいました。陣房亡き後、息子の正房が工事を受け継ぎ、文政七年村人達が夢にまで見た水路がようやく完成しました。水路工事に参加した人々は、二万一千余人にものぼり、いかに大規模な土木工事であったかがうかがわれます。
弘化三年(一八四六)村人達は石碑を建て、岩崎氏の功績をたたえました。現在この碑は南中学校の南西約
300mの山際に建っています。

小切畑のシシ垣  臼杵市小切畑 ( 大分県 )

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小切畑のシシ垣  臼杵市小切畑

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。すぐ左に小切畑入口の標識があり、この道を上がって行くと、高台の小切畑集落に着く。
シシ垣の場所は、地元小中氏に教えてもらった。集落から望める所在図の青囲線あたりである。すぐ近くまで狭い農道(軽トラは通行可)が入る。終点から平坦な山道を200mほど歩いた右下方谷間斜面を囲む土塁がそうであるらしい。

最初、私ひとりではわからなかった。そうすると小中氏がわざわざ鎌を持って現地案内してくれた。山林境界「二九一」の標柱が目印となる。同氏も若い頃の記憶である。現地は今、植林地となってシダなど下草が高く生い茂り、どうしても土塁は探しきれなかった。
市から調査に来ているので、シシ垣の正しい場所はここかも知れないが、農道終点からこの山林標柱の間、山道の右脇に高さ1.5mほどの長い土塁を見る。土塁内には移転した集落の墓地跡があった。そうするとこの間の土塁も、私には延長したシシ垣のようにも考えられるため、この現況写真(写真6〜8)を参考のため掲げる。

小切畑のシシ垣 こぎりはた
臼杵市 猪垣(土塁) 江戸期? 市教委 放置保存 2

武山の三郡境石1・2・3  臼杵市武山(コニタ) ( 大分県 )

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武山の三郡境石1・2・3  臼杵市武山(コニタ)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。正願橋手前の分岐はそのまま左へ。1.6km先の吐合橋手前に「武山三郡境の石碑」入口標識があるので、この道へ入る。
先は荒れた狭い車道で、普通車は通行不能だろう。10分ほど歩くと現地に着く。2枚目写真で大野郡境石は、左右の2本奥の木立内にあるので、注意して探す。寸法は、いずれも横27×幅27×高さ(台座上)150cm。
場所がわかりにくいから、所在図を載せる。

武山の三郡境石1 たけやま (写真 4〜 7)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是寅卯之間 海部郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

武山の三郡境石2 たけやま (写真 8〜11)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是亥子之間 大分郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

武山の三郡境石3 たけやま (写真12〜15)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是午未之間 大野郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

三郡境の石柱

臼杵は、東西19.35km、南北21.88kmと東西に比べ南北に長く、現在は約152.26平方kmの面積を有していますが、臼杵藩時代には大分郡・大野郡の一部を含み、今より2〜3倍の広さの土地を領有していました。
北は現在の臼杵坂ノ市有料道路の西側、屋山から丹生・宮河内を経て、大野川東岸の戸次・筒井まで、西は犬飼から国道326号線を南へ下がり、三国峠に至るほぼ国道の東側部分、南は川登から東・西神野を経て、平岩・徳浦そして長目浦に至るまでの土地を含む広い範囲でした。
他藩の領地との境は、飛地などがあったこともあり複雑に入り組んでいました。境はほとんどの場合、山の尾根、谷、川、道などによって分けられ、それでもなお判りにくい時は、境に石を積んだり、埋めたり、また木を植えたりしてはっきりさせていました。このことは、他領との境だけでなく、同じ領内においても言えることです。この場合のほうが、自分達の生活の上に直接年貢という税金の形で跳ね返ることが多かっただけに土地境をより明確にすることに心を配っていたようです。
土地の境を表すものは、前にも述べたように色々ありますが、市内武山字コニタには珍しい地境を示す凝灰岩製の石柱があります。ここは海部郡・大分郡・大野郡の三郡が接する場所であるため三方向にそれぞれの郡の土地であることを示す高さ約1.6mの石柱が建てられています。各郡を示す石柱の各面には次のような文字が刻まれています。
〈海部郡〉
(南面)従是寅卯之間 海部郡
(北面)岩屋川組 大庄屋
安部關蔵代
(東面)安政六年さい次巳未
(西面)三月上かん庚辰建焉
〈大分郡〉
(東面)従是亥子之間 大分郡
(西面)長小野組 大庄屋
釘宮守左衛門代
(北面)安政六年さい次巳未
(南面)三月上かん庚辰建焉
衡山(こうざん)書
〈大野郡〉
(西面)従是午未之間 大野郡
(東面)黍野組 大庄屋
さ土原雅之丞代
(北面)安政六年さい次巳未
(南面)三月上かん庚辰建焉

吐 合 橋  臼杵市武山 ( 大分県 )

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吐 合 橋  臼杵市武山

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。正願橋手前の分岐はそのまま左へ、1.6km先にこの石橋が架かる。

№401  吐合(はきあい)橋

臼杵市武山-大分市志津留
橋長:7.9m  橋幅:4.2m  径間:3.9m  拱矢:2.0m
架設:昭和6年
大典橋よりさらに800m西進、分岐を左折、1.6Km先に架かっています。

大 典 橋  臼杵市武山 堤内 ( 大分県 )

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大 典 橋  臼杵市武山 堤内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折すると、750m右手にこの石橋が架かる。

№400  大典(たいてん)橋

臼杵市武山 堤内
橋長:11.1m  橋幅:2.6m
架設:昭和3年
国道502号線、臼杵石仏入口から3Km西進、町道へ右折。750m右手に架かっています。

竜原寺三重塔  臼杵市福良 ( 大分県 )

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竜原寺三重塔  臼杵市福良

大分県HP「おおいたデジタルアーカイブ」による説明は、次のとおり。臼杵市街の県道33号沿い平清水に竜原寺三重塔はある。

竜原寺三重塔 −県有形文化財指定・臼杵市−

臼杵市には、歴史的町並みと文化的遺産が数多く残っている。昭和32年3月に県の有形文化財に指定された竜原寺の三重塔もその代表的建築物。安政5年(1858)に完成したこの塔は、市内平清水に昔と変わらぬたたずまいを見せている。この寺の三重塔は、塔の中心を貫く心柱が一階部分には無く、振り子のように動くことで逆方向の揺れが生じ、地震の揺れを衰えさせる。当時、科学的裏づけが見出され、高層ビルの建築などに利用されるようになった

畳屋町の石敢當  臼杵市二王座 ( 大分県 )

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畳屋町の石敢當  臼杵市二王座

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市街の八町大路(中央通り商店街)、市営畳屋町駐車場のところに立つ。

畳屋町の石敢當 たたみや
臼杵市 石敢當(隅丸型) 高140㎝(塔身のみ),幅39㎝,厚14㎝ 明治20代の再刻 〔享和3(1803)以前〕 市有形民俗 WEB 現存遺物は明治期に建立されたもの 建立当時は木製、江戸期に石造なるが西南戦争で破壊/享和3に岡藩の儒学者・唐橋君山らが編纂した『豊後国志』には、戦国武将・大友宗麟が天正3(1575)に建立したと記載(この時期の書物には意図的な“誤解”を多いので間違いの可能性も大きいが、享和3に存在していたことは確実)→日本最古の石敢當との記載が時折見られる

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

石敢當の塔(せっかんとうのとう)

畳屋町本通りの仏具店と家具店の間に細い路地があり、掛町へと抜けています。この路地を畳屋町の通りから十メートルくらい入ると左手の鉄格子越しに石段が見えます。ここが養元山八幡社です。この八幡社境内に「石敢當」の塔があります。
「石敢當」は向かうところ敵無しという意味で、唐の時代にはじまりこの三字を石に刻んで路傍や橋畔などの要害のところに建てておくと災禍を除くといわれています。
塔は凝灰岩でできており高さは約1.6mあります。言い伝えによりますとこの塔を臼杵にもたらしたのは明(中国)の人だとか。はじめは市浜の呑碧寺か安養寺の門前にあったものが、この境内に移され、あるいは戦火に遭って再建されたともいわれています。
文字は名筆です。昭和四十二年に市の文化財に指定されています。
養元山八幡社の祭礼が三月十一日に行われ町内の若者によって獅子舞も行われます。

臼杵の町並み  臼杵市二王座ほか ( 大分県 )

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臼杵の町並み  臼杵市二王座ほか

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。臼杵市街の八町大路(中央通り商店街)や二王座歴史の道に行く。

町並み

大友宗麟が、丹生嶋(現在の臼杵公園)へ城を築いて以後、明治維新を迎えるまで臼杵は城下町として、あるいは商業都市として栄えてきました。現在でも市内の仁王座や横町、浜町周辺を歩いていると、どっしりとした量感溢れる門構えの武家屋敷跡や白壁の土蔵などが立ち並び、往時の城下町の姿や商業都市としての名残をとどめており、町全体に静かで落ち着いた風情が感じられます。
町形成の歴史は古く、丹生嶋城の築城と時を同じくして町づくりも始まったと考えられます。文禄二年(一五九三)、山口玄蕃頭宗永が作成した「豊後国海辺郡臼杵荘御検地帳 惣町屋敷」の中に唐人町、畳屋町、唐人町懸ノ町、海添中町、横浜町、吉永小路片町、浜町、菊屋町、横町、祇園之洲内などの町名が十町見え、あわせて三百二十九軒(この内、十三軒は無主)の屋敷があったとしるされています。このことから考えても文禄以前にすでに町が形成され、町割りも行われていたといえます。
その後、江戸時代になると各町の統合と分離が進み、さらに身分による生活地域の区分も行われています。万治年間(一六五八〜六〇)ごろの城下の様相を書き写した絵図を見ると、武家屋敷や寺院は福良から仁王座、海添にかけて立ち並び、町屋は現在の辻ロータリー、本町通りから北側、臼杵川までの範囲に限られています。現在の田町、畳屋町、本町、掛町、横町、浜町、新町、唐人町などの町並みは、ほぼこのころに形づくられたと思われます。
古い建物と新しい建物が同居し対称をなす町並み、そんなアンバランスの中にも伝統と歴史の重みがひしひしと感じられます。

辻 井 戸  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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辻 井 戸  臼杵市臼杵

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR臼杵駅前から臼杵城跡の臼杵公園に向かう。公園の南西側、辻バス停の観光交流プラザ敷地内に辻井戸はある。

辻井戸 つじ
臼杵市 (臼杵) 石井戸 江戸期 WEB/市教委 保存状態良好 『稲葉家譜』に、「古老の言によれば、大友氏の家臣であった辻井某がこの辺りに居住しており、辻井殿と呼ばれていた」「辻井戸というのは辻井殿がなまったもの」と記されている/臼杵城下を代表する井戸/塩分を含まない上質の水が湧出するため、上水道が普及するまでは飲用だけでなく、醸造用にも使用 2 B

臼杵城跡桁橋  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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臼杵城跡桁橋  臼杵市臼杵

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵城跡は臼杵公園となっており、県道33号などにより行く。この石橋は公園西側にある。

№1,566 臼杵城跡桁橋

臼杵市臼杵
4径間桁橋