投稿者「misakimichi」のアーカイブ

洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡)  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡)  臼杵市臼杵

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市役所の西隣り、臼杵市立東中学校校庭の臼杵湾に面した海岸側に、洲崎台場・跡が残る。市役所駐車場から歩いて見学する。近くに郷土の作家、野上弥生子が過ごした家もある。

洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡) すさき
臼杵市 台場(石塁) 文久3(1863) WEB/市教委 石垣が残る(東中学校の東) 臼杵藩の台場中最大規模で、延べ32000人の農民を使役して構築/洲崎の先端部に造られた大規模な石垣の中央部が突出しているため、「将棋頭」の別称がある 3 B

虹 澗 橋・虹澗橋碑  臼杵市野津町・豊後大野市三重町 ( 大分県 )

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虹 澗 橋・虹澗橋碑  臼杵市野津町・豊後大野市三重町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道326号三重町三重原から分岐して、国道502号を臼杵方面へ約2.5km、新虹澗橋から左折する。

虹澗橋 こうかん
臼杵市・豊後大野市 一般道/三重川 石アーチ橋 長31m,S25.2m(A) 文政7(1824) 国重文 日本百名橋p219-220/WEB(石橋) /市教委 大型車を通すため取り付け部を1mほど嵩上げして水平に→端部では高欄上にC壁 臼杵へ年貢米を運搬する際の最大の難所だった柳井瀬に、3人の豪商(三重・市場の油屋富治と後藤喜十郎、臼杵城下の茶屋・甲斐源助)が藩の許しを得て自費で架けたもの→私財投入で身代が傾いた/石工棟梁:臼杵の大野織平、支保工:大工・磯五郎/虹型の美しいアーチ橋 2 A

虹澗橋碑 こうかん
臼杵市 虹澗橋 石碑 高215㎝(地表部約135㎝),幅約110㎝ 文政9(1826) 大分の石橋記念碑p70-71 原位置/下部埋設(管理が悪い) (正面頂部)「虹/澗/橋/記」、(正面)「豊之三重郷桺瀬渡兩嶔夾峙澗流百尋奔突浹□形雖小己東之峽□以□也以過渉不可/舟自昔行李啇旅落砥碕之嶮窄而蹈碓石之出水故方秋霖夏潦溢浪迅激砅巖泐嵃租賦/爲之諬留販旅積日羪阻烏乎天之倹介夫誰奪之乎凡石橋之可記者趙州洨□梁集萬安/千百之一耳郷邑有甲斐源助多田富治後藤喜十者研精構思數十年始見神功可兾也□/是得石工織平者而相與謀之乃結高基於深淵之回巖起累石□絶壁之鑿空無一條之柱/脚連鎖之牢縶皆畳石爲之邊以巨石節〃相以龍鱗結絡凢巨淵趾五丈一尺基石相距八/丈四尺亭〃如初月低天鏟□既就被以土石南北兩邊畳石爲壁合橋東西捄築之地面三/十九丈六尺合七十九丈餘肬後連石爲橋長十丈二尺廣二丈七尺勾欄四角皆以巨石爲/界橋東西或威夷□通□曲折濔迆皆與四會相通創造文政四年辛巳正月至七年甲申六/月訖功於是租載□方軌擔負可摩肩材木□以運重行李不以賲時爲凢物難於始製而易/於襲跡固矣故趙石橋於李春蜀七星於黄一中古人係記銘干其神功者豈不以其難而不/可爲故乎若其不難何有乎記銘哉此斯橋□以須記也烏乎奪天嶮而令就安乃期永固於/堅石功利之大豈不偉哉豊人其令余記其事胡越之隔余雖未渉其地美其事而不敢辭爲/之記且係以銘曰/夫□人工之無巳奪自然之妙有架□□梁可濟驅神人石可敺嗟此橋創意豈假干喁盤根/雲構截嶮鏟陡累石梱緻長短別趣流無逆伏□□畫守四朞初就奇特無偶宛虹飲澗盤龍/蚴蟉□與山争利與地厚此諸鬼橋烏能可醜梱載無累來往殷阜維石不滅齊頼悠久」 3 B

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。

№96  虹澗橋(柳井瀬橋)

豊後大野市三重町菅生−臼杵市野津町大字西畑
大分県有形文化財(昭和54年5月15日指定)
国指定重要文化財(平成11年12月1日指定)

三重川
橋長:31m   橋幅:6.5m  径間:25.2m 
架橋:文政7年(1824)
国道326号線三重町より分岐して国道502号線を臼杵方面へ約2.5Km、新虹澗橋を左折。

虹澗橋
「虹澗(こうかん)橋は通称柳井瀬橋という。三重川の河口から5Kmにある石造アーチ橋である。虹はにじ、澗は谷川という意味である。三重川の渓谷にかかる華麗な姿から虹澗橋と命名された。
岡城下から臼杵城下に至る街道のうち、ここ柳井瀬は最も交通の難所であり、人馬の通行はもちろん物資の輸送の大きな障害となっていた。
臼杵(臼杵市)の甲斐源助、三重市(三重町)の多田富治ならびに後藤喜十郎は、人々の困苦を救済しようと文政3年(1820)、臼杵藩に架橋を願い出て許可を得、下ノ江村の名石工井沢織平を選んで、翌文政4年着工、4年の歳月を経た文政7年(1824)に完工した。
この架橋のため、人馬の交通はきわめて便利となったが、莫大な出費によって3人の豪商は家運を傾けたという。
以来170余年、美しい姿を保ちながら、よく過酷な交通量に耐え、昭和63年(1988)、上流に架けられた新虹澗橋にその使命を譲った。このときにあたって三重町民ひとしくこの名橋の恩恵に感謝し、あわせて架橋に尽力した故人の功績をたたえる。」
平成12年5月  豊後大野市

旗返峠の堀切り  豊後大野市三重町奥畑 ( 大分県 )

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旗返峠の堀切り  豊後大野市三重町奥畑

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。三重町市場一区交差点から国道326号に入り、三国峠の方へ向かう。往時の日向道だった「旗返峠」の場所は、地形図のとおり。三国トンネルを抜けた先(樫峰入口)から黄色線のとおり進む。国道ガード下の入口には「この先通り抜け出来ません」の標識があった。点線区間は車は通れないし、落石と草茫々の荒れた道である。

私のバイクで通れる所まで行って、それから1時間ほど歩き、県道化工事で隧道を掘りかけ中止した跡に着いた。こんな道は今は誰も歩かないし、峠まで登る道は倒木などで全く不明。左植林地や雑木林をやみくも突破して尾根上に出て、隧道真上の峠と思われる鞍部にやっとたどり着いた。時間はかなり要した。
近くに弘化3年建立「大来妙典一字一石塔」が立つ。地形図からもこの鞍部が日向道「旗返峠」と判断した。

さて、頂上付近が低い切通しになっているという「旗返峠の堀切り」。明確なものは見当たらないが、峠西側直下の道に写真のとおりそれらしき場所があったので写してきた。私はアプローチを考えて三国トンネル先から峠へ登ったのだが、西側は奥畑から登る道である。この方が今、伐採関係者が入り、道は明確なようである。
遺産リストのあと1件「旗返峠の石畳」も、この奥畑側にあるので、それなら奥畑側から登ったのにと悔やまれた。石畳は未調査。「歴史の道」本を私は持たない。正確なことは遺産サイトで確認をお願いしたい。

旗返峠の堀切り はたがえし
豊後大野市 旗返峠<日向道> 切通し 江戸期 歴史の道・日向道p42 保存状態良好 旗返峠の頂上付近が低い切通しになっている 1 –

旗返峠の石畳 はたがえし
豊後大野市 旗返峠<日向道> 石畳道 長30m,50m,20m 江戸期 歴史の道・日向道p40・41 峠道の各所に短い石畳が残る/石が剥がれて路傍に積まれている部分も 4 C

浄運寺つつじ園  豊後大野市三重町内田 ( 大分県 )

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浄運寺つつじ園  豊後大野市三重町内田

豊後大野市HPの文化財による説明は、次のとおり。三重町市場一区交差点から国道326号に入り、三国峠の方へ向かう。市街のはずれの国道沿いに浄運寺はある。

市指定名勝  浄運寺つつじ園

久良知区浄運寺裏にある庭園である。山腹を利用し自然石を巧みに生かし、下方には泉水を配しており優雅な趣がある。ツツジは約200本あり、大きいものは八畳程の広さがあり、樹齢は200年を越えると推定される。6月上旬の開花期には全山が花に覆われ多くの見物客を集めている。当寺の開基は慶長8年(1603)松山藩主の子、光誉良意上人と伝えられているが、南北朝時代の宝篋印塔等の中世石塔類が所在するため歴史的にも古いことが推定される。しかし明治25年の火災のため記録を焼失し、造園についての由来は明確でない。
所在地:三重町内田(塔ノ迫)
指定年月日: 平成17年3月31日市指定(昭和47年3月27日三重町指定)

蓮城寺の町石(十一丁)  豊後大野市三重町秋葉 ( 大分県 )

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蓮城寺の町石(十一丁)  豊後大野市三重町秋葉

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。三重町市場一区交差点から国道326号に入り、三国峠の方へ向かう。市街のはずれの国道沿いに年神社があり、境内南端の植え込みの中にこの標石がある。

蓮城寺の町石(十一丁) れんじょう
豊後大野市 (秋葉)鬼塚区の年神社 町石 高約0.5m 文化2(1805) 市有形民俗 市教委 移設 蓮城寺までの丁数を示す/「十一丁」 2 –

豊後大野市HPの文化財による説明は、次のとおり。

市指定有形民俗文化財  町 石

鬼塚区の国道326号線沿いの年神社境内にある。総高85cmの凝灰岩製四角柱で、上部に梵字、下に「十一丁 文化二年」と刻まれており、文化2年(1805)の造立であることが分かる。同様のものが他にもあったが、現在はこの町石だけしか現存しない。町石は内山観音の参道に一丁(町)毎に建てられたもので、内山観音まであと何丁かを示す道標である。起点は市場付近と考えられ、最終は内山観音の一丁手前であったと推定されている。〔※一丁(町)は江戸時代の距離の単位で、60間・110m弱〕
所在地:三重町秋葉(年ノ神)
指定年月日:平成17年3月31日市指定(昭和38年3月30日三重町指定)

年神社社叢 豊後大野市三重町秋葉 ( 大分県 )

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年神社社叢 豊後大野市三重町秋葉

豊後大野市HP文化財による説明は、次のとおり。三重町市場一区交差点から国道326号に入り三国峠の方へ向かう。市街のはずれの国道沿いに年神社がある。

市指定天然記念物  年神社の社叢

鬼塚区の国道沿いに所在する年神社境内に神木としての巨木群がある。エノキ・ムク・フジがあり、3種11本がある。人為的で下草が乏しい状態であるが、特にエノキの巨木(胸高幹囲3.15m、高さ20m)やムク(胸高幹囲2.9m、高さ18m)は、巨樹として貴重である。
所在地:三重町秋葉(年ノ神)
指定年月日: 平成17年3月31日市指定(昭和61年8月8日三重町指定).

長峰の石畳  豊後大野市千歳町長峰 ( 大分県 )

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長峰の石畳  豊後大野市千歳町長峰

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。場所は豊後大野市千歳支所に所在地図のとおりと聞いて出かけた。
支所から国道57号に出て、東へ向かう。千歳町特産品直売所の先に「野尻橋」があり、橋を渡って高台に進んだ最初の四つ角手前あたりが、その場所である。

現地へ行っても現況が変わり、旧道がどこか、ブッシュで石が見えないとあるとおり、前記事の「一の谷の石畳」と同じく、私にはさっぱりわからなかった。
地図の場所とは少し外れるが、四つ角左上には造成された工藤産業の新しい建物が建っている。この後ろ側に旧道らしい跡は少しは感じられるが、藪ではどうしようもない。市道をまっすぐ登りつめると、史跡「茶屋の辻庚申塔」が立つ原があった。

長峰の石畳 ながみね
豊後大野市 (長峰) 石畳道(廃道) 長20m程度 江戸期? 市教委 一部残存(ブッシュで石が見えない) 肥後往還から明覚寺へ行くための参道の急勾配の地点に敷設 4 –

大迫磨崖仏  豊後大野市千歳町長峰 ( 大分県 )

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大迫磨崖仏  豊後大野市千歳町長峰

豊後大野市HPの文化財による説明は、次のとおり。国道57号沿い千歳町特産品直売所の駐車場から石段を上がるとすぐ。

県指定有形文化財《美術工芸品》
(歴史資料)  大迫磨崖大日如来坐像大迫磨崖仏

大迫区の国道57号線沿の壁面に彫り込まれた磨崖仏(まがいぶつ)。この磨崖仏の最大の特徴は、岩肌を彫り込んで大まかな像を造りだし、その上に麻などの繊維を混ぜた粘土を塗って表面を仕上げる石胎塑像(せきたいそぞう)とも称される技法で造り出されている。像高は3.3mで、鎌倉時代後期の作と推定される。
所在地:千歳町長峰1526
指定年月日: 昭和51年3月30日

一の谷の石畳  豊後大野市千歳町石田 ( 大分県 )

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一の谷の石畳  豊後大野市千歳町石田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は「千歳村誌」昭和49年発行104頁から。場所は豊後大野市千歳支所に聞いて出かけた。
支所から新殿に出て中九州道のガード下をくぐり、田口、山内方面への県道668号に入る。約1.3kmほど行くと、このあたりが石田の「一の谷」という所。右手からの広い坂を上がると白い標柱がある。そこが「一の谷の石畳」だと聞いた。

坂道は入り口に「辻久保林道」と標識があり、白い標識は上がりかけるとすぐあった。古く腐りかけていたが、「寛永十二年」とか「往還」の字が読める。「一の谷の石畳」は、このあたりにあったのではないだろうか。「一部保存され見ることができる」とあるが、支所はそこがどこなのかや現況までは知らなかった。
市道舗装工事で完全に埋められたか。ガードレール標柱脇は竹が密生していた。伐り払ってまで旧道の石畳道を探す気は、私には起らなかった。

坂の上には現在、市水道施設があると聞いたから、この坂道には間違いない。坂上近く林道が分岐する入口にやや広い岩床面があったが、標柱の位置や村誌の写真から考えると、これではないだろう。

一の谷の石畳 いちのたに
豊後大野市 (石田) 石畳道 長15m程度 江戸期 市教委 その大部分が市道の下に埋もれているが、一部保存され見ることができる 岡藩の参勤交代路のため石畳を敷設(勾配がきつく難所であったため) 4 –

赤見ヶ鶴井手の切通し  豊後大野市犬飼町長畑 ( 大分県 )

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赤見ヶ鶴井手の切通し  豊後大野市犬飼町長畑

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道632号により犬飼町山内へ向かい、さらに進むと長小(尾)野入口バス停がある。左折して長畑橋を渡りすぐ右の豊受大神宮の方の里道へ入る。
川に水管が渡り、神社と小集落の間に井路がある。ここが長畑地区の新飼(開田の意味)という所で、この井路が「赤見ヶ鶴井手」(別名岡田井手)である。井路を上流へ遡る。切通しがある取水口までは、かなり時間を要したが、資料とした犬飼町誌104頁の写真の場所にたどり着いた。
築造年代の「元禄二己」と刻みがある岩は、はっきり刻字を確認できなかった。帰りは取水口上に県道が見えたので県道へ出て、長畑橋まで戻った。川を渡る水管は、長畑橋山手の湧水水道のものかも知れない。

赤見ヶ鶴井手の切通し
豊後大野市 (長畑)赤見ヶ鶴井手 切通し(水路) 長30m余 元禄2(1689) 市教委/WEB 保存状態良好/現役 取入口の上の岩に「元禄二己」の刻銘/岩山の下部をえぐり取るようにして造られている 1 C