投稿者「misakimichi」のアーカイブ

怪老人? 屋根上から睨む  長崎市布巻町

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怪老人? 屋根上から睨む  長崎市布巻町

長崎市布巻町の長崎市三和公民館(行政センター横の建物)。1階ホールに三和の歴史民俗資料コーナーがある。展示ケースに収めらている一品。屋根上から睨む「鬼瓦」なのである。
仁王や閻魔大王に似ているが、ちょいと様相が違う。由緒ある大きな寺か屋敷の屋根に据え付けられていたものであろうか、説明板は「鬼瓦」の一般的な説明しかない。
次に「怪人岩」を載せる。

長崎の西の空の夕日  09−12

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長崎の西の空の夕日  09−12

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下、続く。

写真 1〜 9  平成21年 6月24日の19時16分頃から

この頃は、夕日が落ちる正面に電柱があって、ローソク状態となる。日が落ちると団地のすぐ前の海に夜焚きの船が来て、漁り火が見られる。
回遊してくるアジ・イッサキ、産卵のため岸辺へ寄ってくるミズイカなどの漁と思われる。

亀石と人面岩? 烽火山の珍しい石  長崎市鳴滝3丁目

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亀石と人面岩? 烽火山の珍しい石  長崎市鳴滝3丁目

この記事は、本ブログ烽火山の項の書庫から、再掲。次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3345
烽火山は長崎市東部の山、標高は426m。異国船の侵攻を近国に知らせるため、寛永15年(1638)から烽火台が築かれ、山頂に現在残る「かま跡」は長崎県指定史跡となっている。

「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」(昭和13年発行、昭和42年再刊)の烽火山御番所の項、534〜545頁に烽火山に関するおもしろい記述がある。
「烽火山十景」においては、「延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑」である。
市史発行の昭和13年当時すでに「此の内で龜石の所在が判らない」。

蜀山人の詩碑「南畝石」は、山頂かま跡広場の西隅に所在がわかり、後日、また再訪したとき、その「南畝石」のすぐ下側に、道から振り返り眺めると、亀がまっすぐ首を伸ばした格好の大きな石があった。写真のとおりの石で、甲羅、手もまったく亀としか言いようがない。
烽火山十景の二番目は「飲澗龜石」と記す。「飲澗」とは「水を飲んで喉を潤している」という意味の形容ではないだろうか。まさにその格好をした「龜」の石があったのである。
疑問なのは、ここは山頂すぐ手前の道上で目立つ場所。こんなところに石がありながら、「長崎市史」の著者は、昭和13年当時すでに「此の内で龜石の所在が判らない」と記している。はたしてその「龜石」だろうか。写真から判断を仰ぎたい。

次は烽火山の山頂東にあるという「人面岩」。長崎文献叢書第二集第二巻「長崎古今集覧 上巻」は、文化八年(1811)、かの松浦東渓が60歳頃著したもので、森永種夫氏の校訂により昭和51年発行されている。
「七面山権現祠」の項451頁に「長崎図志云、人面岩、在烽火山東、奇峻形甚恠」とある。烽火山の「人面岩」はこのとおり長崎図志、長崎市史などに記録されている。「人面岩」は山の東にあり、形ははなはだあやしいらしい。

山頂かま跡広場の西隅に蜀山人の詩碑「南畝石」がわかったので、別の日、妙相寺から登ったとき探してみた。すなわち山の東である。頂上に出る100mほど手前、急坂の道脇にあった。あまり大きな岩でない。倒木が邪魔して写真がうまく撮れない。しかし、これに間違いないだろう。少し下の角石に小人面の格好があったのも愛嬌である。

石段にされていた陸軍省標石  伊万里市東山代町

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石段にされていた陸軍省標石  伊万里市東山代町

佐世保市在住の高橋輝吉さんは、戦時中、佐世保鎮守府があった佐世保や、軍需物資の積み出し港として宇品(広島市)とともに全国で2ヵ所、陸軍輸送港域に指定されていた佐賀県伊万里地域の陸軍省標石を、丹念に調査されている。
高橋氏の足跡はこれまでも紹介しているが、先日、また珍しいコピー写真が送られてきた。場所は伊万里市東山代町浦川内あたりと思われる。4年ほど前とのこと。メモ書きは、
「伊万里東山代より松浦市への山越えの横道で、3,4回目、此の一帯石の手掛かりなし。偶然に発見。先方、佐賀のGHQがと後は声なし。奄美でも20本を海へドブンで終わり。旧陸軍の遺物を整理したのかなー」

写真を見ると、数本の標石が石段にされている。伊万里一帯には、当時はそれこそいたる所の里道、海岸、山中などに100本以上が、陸軍の警戒区域を示す標石として設置されていた。
戦後、大戦の遺物をGHQが撤去した際、不要な標石をこのような石段に転用することも許したかも知れない。今となっては、珍しく貴重な光景である。
高橋氏は1年前、再びこの場所を訪ねた。石段はすべてコンクリートの新しい階段に造り代えられ、標石は上の広場に放置されていた。お蔭で石をひっくり返し、リストどおり標石の刻字を確認できたが、後日の保存が心配となる。

リストにあるのは、法改正により佐世保を削り長崎とした明治32年7月14日「長崎要塞区域標」が7本、昭和15年6月10日「陸軍輸送港域第一区標」が1本の計8本。
高橋氏は伊万里地域でこのほか、23本ほど探し出している。後のカラー写真がその主なものの一部。黒髪山から縦走コースの青螺山山頂で見る標石も、この種の1本「陸軍輸送港域第ニ区標」「第四十号」である。

東長崎の散策 (17) 牧島の風景・史跡  長崎市牧島町

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東長崎の散策 (17) 牧島の風景・史跡  長崎市牧島町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(17)は、牧島の風景・史跡。橘湾沿岸の戦争遺跡の項「特攻基地牧島 ルイズ・ルピカールさんの記憶」を参照。 https://misakimichi.com/archives/126
くしくもきよう6月23日は、沖縄戦終結から64年の日だった。

現在の牧戸橋と前吊橋牧島橋の遺構、陸続きとなっている釈迦島、矢上小学校牧島分校の跡地、穴弁天の出入口と洞内の子安明神、牧島漁港、東方の湾口池下・大門方面を望む、外洋側の津島、魚見岳台場跡、牧島宅のヤブツバキ大木、池の神神社、国指定史跡曲崎古墳群、修学旅行生のペーロン体験施設艇庫、終戦間際につくられた牧島震洋特攻基地跡、もう1ヵ所の基地跡付近、基地へ入る切宮岬の湾口 

長崎学さるく江越弘人先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    牧島と牧島橋・牧戸橋
江戸時代、佐賀藩諫早領の牧場があったので、この名が付いたといわれている。江戸時代には、馬番として10戸あまりの人家があるだけであったが、明治になって戸石村から50戸が入植し開発が進められた。
対岸の戸石地区とは100m余りの狭い瀬戸で隔てられていたが、昭和35年に吊橋「牧島橋」が架けられた。昭和44年には車も通れる「牧戸橋」に架け替えられ便利になった。現在、牧戸橋の横に、牧島橋の記念碑や遺構が残されている。

写真  3     釈迦島と釈迦坐像
今では陸続きになっているが、かつては松樹が生える小島であった。頂上に釈迦牟尼の坐像がある。…

写真  5〜    穴弁天
昭和48年に発行された「長崎県郷土誌」という書物に、牧島の「穴弁天」が名勝として紹介されている。それによると「穴弁天は牧島の西端海岸にある海蝕洞である。洞窟入口の苔むした鳥居を潜って洞内に進めば一歩ごとに暗く、三四十メートルも進めば前後も弁ずることができなくなる。延長実に百メートル余に及んでいる。洞窟の尽きるところに子安明神が祀られている。弁財天と言われいわゆる生殖器である…」とある。
今では、洞窟前の海岸は、埋め立てられ工業用地となっている。少し前までは、洞窟の入口が削り取られ、付近はゴミ捨て場同然となっていた。現在は、環境も整備され洞窟にも入れるようになっている。

写真 11     牧島台場跡
…文化4年(1807)の「エトロフ事件」…に衝撃を受けた幕府は、「ロシア船打払い令」を出し、日本各地に台場を増設した。佐賀藩の諫早領でも牧島、田結、江の浦、有喜などに台場を設けた。牧島には黒瀬と魚見岳の2ヶ所に置かれたが、石火矢の大きさなど詳細は不明である。
なお、安政3年(1856)にアメリカ船イブリエント号が橘湾に入り込み日見村の網場沖に停泊した時には、黒瀬と魚見岳台場には、それぞれ武士(石火矢打ちの侍)4名と下役(足軽)4名が配置された。

写真 14     池の神
「いけんかみさん」と呼ばれており、小さな岬の海の側に、小さな池がある。池の側には竜宮が祀ってあり、どんな日照りでも池が干上がったことが無く、また塩辛くないと言い伝えられている。しかし、土地の人に尋ねてみると或る人は「(ま)水」と言い、或る人は「塩水」と言っている。舐めてみると結論は早いが、それにはかなりの勇気がいる。

写真 15〜    曲崎積石塚古墳群
曲の礫丘の上に築かれた積石塚古墳群である。積石塚とは、古墳の墳丘を土ではなく礫石で築いたもので、北九州地方の安曇海人族の墓制であるといわれている。昭和51年に調査が行われ、99の積石塚と500に及ぶ性格不明の遺構が発見された。
発掘調査が行われたのは2号墳と3号墳で土師器や管玉、ガラス玉などが採集された。4号墳は未調査であるが、周囲から須恵器や土師器の壺や杯などの破片が見つかっている。

東長崎の散策 (16) 上戸石と川内の風景・史跡  長崎市上戸石町・川内町

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東長崎の散策 (16) 上戸石と川内の風景・史跡  長崎市上戸石町・川内町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(16)は、上戸石と川内の風景・史跡。戸石町は前項に。

戸石と矢上境の石仏(矢上団地裏手)、パークタウンたちばな入口、第2矢上団地から見た戸石の渡瀬と戸石橋付近、戸石のお茶屋跡(諫早藩家老寺田外記寓居の地)、水害で何度も架け替えられた瀬戸橋、瀬戸の延命地蔵大菩薩と祠、川内神社の大杉と狛犬、長崎原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(黄線内の標柱)、戸石と田結境の尾根

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    戸石と矢上境の石仏  天保5年(1834)5月吉日
写真  3〜    戸石の渡瀬と戸石橋
写真  4〜    戸石のお茶屋跡
写真  9〜    川内神社
・祭神 天照大御神 大己貴神 寛文4年(1664)疫病流行の時、危難退除の為建立
・大杉 幹周り5.17m、高さ30.0m。イロハカエデ 幹周り2.4m、高さ17.0m
写真 13〜    ラジオゾンデ落下地点(落下傘つき爆圧計測器)
・この計器は3個投下された。これによって、グァム島の米軍基地ではいち早く受信し、長崎市街上空における原爆の炸裂の成功を確認したといわれる。落下地点は、この地川内町と田結地区の補伽と江の浦地区の嵩である。     

東長崎の散策 (15) 戸石の風景・史跡  長崎市戸石町

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東長崎の散策 (15) 戸石の風景・史跡  長崎市戸石町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(15)は、戸石の風景・史跡。上戸石町は次項へ。

島原街道の戸石馬頭観音、同一里塚(墳)跡、長崎市東公園内の東工場、コミュニティプール、コミュニティ体育館、吊橋牧島橋ができる前の毛屋の浦の渡し場、牧戸橋と戸石グランド、あやめ東幼稚園、同正門と園庭のアコウ、戸石漁港、漁港の戸石神社鳥居、戸石神社、長崎市戸石地区事務所・地区公民館、戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)、金毘羅神社鳥居の所の六地蔵塔、戸石の金山坑口跡、といし保育園、長崎市立戸石小学校

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    戸石馬頭観音 施主 江の浦 田結 戸石 矢上文久2年(1862)3月吉日
写真  2     一里塚(墳)跡
写真 15〜    戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)
・六地蔵石幢(せきとう)〜石で造った旗・標識・幟のことで、石灯籠の火袋の所に六地蔵を刻んだものと思えばよい。
石の柱を立て、その上部に仏刻む〜単制。石の柱を支えとして、別に刻んだ石仏を載せる〜重制。その他に、六組型〜赤迫の六地蔵
・戸石の六地蔵は、重制の佐賀型六地蔵。上竿石に円・角・月形の彫り抜きがある。
・慶長9年(1604)の銘。九譽天心禅定門霊位 干時 慶長九天甲辰閏八月吉日
島原の乱(1637〜1638)後、この地に宝瑞庵が建てられたという。 

東長崎の散策 (14) かき道の風景・史跡  長崎市かき道1〜6丁目

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東長崎の散策 (14) かき道の風景・史跡  長崎市かき道1〜6丁目

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(14)は、かき道の風景・史跡。長崎県住宅供給公社が開発した大型団地「矢上団地」ができている。

有料道路の矢上大橋と料金徴収所、八郎川の河口と突堤、蛎道公民館横の海岸埋築紀念碑、八大龍王神社の鳥居と祠、元八大龍王神社のムクノキ、昔の海岸恵美須、楠公神社の大楠、矢上団地近隣公園、同稲荷大明神の社叢林、スタジイの大木、矢上普賢岳の中腹から見た矢上団地と長崎市立橘小学校

東長崎の散策 (13) 東町の風景・史跡(矢上普賢岳)  長崎市東町

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東長崎の散策 (13) 東町の風景・史跡(矢上普賢岳)  長崎市東町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(13)は、東町の風景・史跡(矢上普賢岳)。標高439m。
山頂まで1809段続く石段登りは有名。石段の奉献は昭和初期が多い。侍石の登山口から山頂まで1時間30分は要する。眼下に矢上、牧島、遠く天草、雲仙の眺望が良い。

矢上大橋入口から普賢岳を望む、侍石の普賢岳登山口、本来の参道鳥居、山道入口の「普賢道」標石、中腹から見た矢上団地、白龍神との分岐、白龍神の堂、同地の観音菩薩と龍神、普賢菩薩の由来碑、高く続く石段、石段の奉献石、普賢神社、本殿の内部、神社へは岩穴をくぐる、諫早八十八ヶ所第七十番札所、大岩壁の不動明王像、同白衣の観音像、観音岩場から望む牧島と矢上方面、普賢岳山頂、彩が丘団地の北西尾根登山口 

東長崎の散策 (12) 東町の風景・史跡  長崎市東町

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東長崎の散策 (12) 東町の風景・史跡  長崎市東町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(12)は、東町の風景・史跡。八郎川の東岸の町。長崎街道が通った。矢上普賢岳は次項へ。

長崎市矢上浄水場の取水口、藤尾の江戸道、矢上平野にあった明治県道の標石(移設)、役の行者、楠川渡瀬(楠渡瀬)、境界石標と台座石、現川焼関係瀬古の石祠石仏と同窯壁跡、彩が丘団地、多良見経ヶ岳、侍石7.23水害記念碑、侍石の由来石、侍石神社

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  2〜    藤尾の江戸道     清水山と藤尾〜清藤地区
写真  5〜    役の行者        役の行者石像の伝説
写真  6〜    楠川渡瀬(楠渡瀬)
写真  8〜    境界石標と台座石  従是南佐嘉領台座石〜地伏石2個の上に石標が立つ
写真 18〜    侍石と侍石の地名  由来①平家の落人説〜大石に旅の疲れを休め〜侍石 ②島原の乱後大石の上で自決した〜その石が侍石
写真 19〜    山の神と侍石神社  延享元年(1744)正月28日 野口園右衛門