投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:3466 歌舞伎役者(1) ほか

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3466 歌舞伎役者(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3466 歌舞伎役者(1)

目録番号:3467 椅子に座る男性の肖像(5)

■ 確認結果

目録番号:3466「歌舞伎役者(1)」と、次の目録番号:3467「椅子に座る男性の肖像(5)」は、作品の写真を入れ間違っている。

長崎外の古写真考 目録番号:3456 日光輪王寺相輪?と三仏堂

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3456 日光輪王寺相輪?と三仏堂

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3456 日光輪王寺相輪?と三仏堂
〔画像解説〕
相輪?は、寛永20(1643)年に天海大僧正が東照宮奥院に建てた青銅の塔。その後、二荒山神社付近に移されたが、神仏分離のため明治8(1875)年に現在の場所に移設された。輪王寺の三仏堂も、日光二荒山神社の境内から撤去され、明治12年に写真の場所に再建された

目録番号: 384 日光輪王寺相輪(2)      関連作品 目録番号: 31 同(1) 621 同(3) 6627 同(4) 
〔画像解説〕
日光輪王寺の相輪?は三仏堂と共に二荒山神社にあったが、 神仏分離令により相輪?は明治8年に、 三仏堂は明治14年に輪王寺に移された。 相輪?は多数の経典が収蔵された家光公発願の供養塔である。 相輪?の後に三仏堂が写っている。 相輪?の前にある2基の灯籠は糸割符仲間が奉納した糸割符灯籠。

■ 確認結果

目録番号:3456「日光輪王寺相輪?と三仏堂」は、次の目録番号: 384「日光輪王寺相輪(2)」など関連作品が(1)から(4)まであり、タイトルを合わせた方が良いと思われる。

長崎の古写真考 目録番号: 783 僧侶(5) ほか

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 783 僧侶(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 783 僧侶(5)
〔画像解説〕
ベアト撮影「日本人の僧侶」と記されている。若い僧侶が袈裟姿で寺院の前で撮影されている。同じ写真がW・バーガーのステレオ写真 に撮影されているが、この撮影場所は長崎か。

目録番号:3441 僧侶(9)
〔画像解説〕
寺の門前にたつ僧侶。僧服に長い袈裟をかけ、右手に扇子を持つ。これはWAG.Burgerのステレオ写真。長崎での撮影。同じポーズにはベアト撮影の写真もある。明治中期か。

■ 確認結果

目録番号: 783「僧侶(5)」と、目録番号:3441「僧侶(9)」は、同じ写真である。
両作品は、「撮影者: F.ベアト」「撮影地域: 長崎」と合わせて良いのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号:3421 アメリカ公使館からの善福寺

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3421 アメリカ公使館からの善福寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3421 アメリカ公使館からの善福寺
〔画像解説〕
「江戸のアメリカ合衆国領事館から撮影された風景」と解説があり麻布善福寺とされていた写真だが、それは間違いで、現高輪3丁目の東禅寺である。安政5年(1858)7月、幕府は日英修好条約を結び、それによりイギリス公使館に定められたのが東禅寺であった。幕末、おそらく外国人の撮影によるステレオ写真である。本写真は3420及び3443に写る山門を横から撮影したものである。

目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士たち

■ 確認結果

目録番号:3421「アメリカ公使館からの善福寺」は、〔画像解説〕によると、現高輪3丁目のイギリス公使館となった「東禅寺」が正しい。タイトルを直してもらいたい。
次の目録番号:3422「イギリス公使館庭のガワーと武士たち」も、それでは「東禅寺」の庭と思われ、「撮影地域:東京」となるのではないか。
「ガワー」とは、デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説によると、次の人物と思われる.

ガワー    Gower, Erasmus M.

1830−1903イギリスの鉱山技師。海軍軍人の父親の任地イタリアで生まれ,イギリスで鉱山学をまなぶ。安政6年(1859)ジャーディン-マセソン商会の社員として来日。幕府,新政府にやとわれ,北海道や佐渡など各地の鉱山調査にあたり,高島炭坑などの近代化にもつくした。明治13年離日。1903年12月16日死去。73歳。

長崎外の古写真考 目録番号:3345 横綱の肖像 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3345 横綱の肖像 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3345 横綱の肖像

目録番号:3351 相撲の稽古
〔画像解説〕
相撲の組み手を撮影したもの。個人用アルバムから切り抜いたものであるから、商業用写真ではない。どこかの相撲部屋の内部であろうか。ほかの写真から明治後期の撮影と判断できる。

■ 確認結果

目録番号:3345「横綱の肖像」は、横綱が誰かわからないが、次の目録番号:3351「相撲の稽古」も同じ場所で撮影されている。

(2014年5月28日追記)

目録番号:3345「横綱の肖像」は、大相撲横綱伝『初代、梅ヶ谷藤太郎』に記録する「十五代横綱・初代、梅ヶ谷藤太郎」と判明した。福岡県朝倉郡出身 本名・小江藤太郎 湊soon玉垣部屋。
渡部一寛さんのたよりシリーズ http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11034545945.html を参照。同じ古写真が掲載されている。記事は次のとおり。

梅ヶ谷藤太郎は弘化2年、福岡県杷木町字梅ヶ谷の紙すき業の家に生まれました。
17歳の時に大坂相撲の湊部屋に入門し、故郷の梅ヶ谷を名乗って土俵に上がりました。
スピード出世を果たし、明治3年には大関に昇進しましたが、大望を抱く梅ヶ谷は江戸へ出て、玉垣の弟子となります。
その頃の東京相撲は大坂相撲を見下していたので、梅ヶ谷は番付外の本中相撲から取らされ、三日目から幕下格という酷い扱いでした。
その後も好成績を上げながら、大坂力士ゆえの冷遇は続き、入幕したのは七場所後の明治7年でした。
しかし、梅ヶ谷はますます無敵ぶりを発揮し、明治12年には大関に昇進します。
そして、明治17年2月、天覧相撲に先立ち、吉田司家と五条家から同時に横綱を免許されるのであります。
横綱免許時は、すでに39歳でありました。
明治17年、芝浜離宮で行われた天覧相撲で、梅ヶ谷はお好み相撲の一番として新進の大達と取り組み、壮絶な死闘を演じます。
大達は、筋肉質で怪力の持ち主で、得意技は、両手で相手の首を左右から挟んで捻り倒すという、なんとも恐ろしげな「とっくり投げ」(合掌捻り)で、中腰に立って拳を前に出す独特の仕切りをされただけで、取組み相手は震え上がったといわれています。
水入りの大相撲は東京市民の噂となり、梅ヶ谷の名は天下にとどろきます。
身長176㌢、体重123㌔、均整のとれた身体の梅ヶ谷は、強烈な突っ張りを武器とし、相手にまわしを与えずに勝つ相撲でありました。
東京相撲に移ってからの黒星はわずかに8個、明治9年4月から明治14年1月にかけて58連勝を記録し、大関若島に一敗したあと、再び35連勝するという無敵ぶりでした。
勝率九割五分一厘は、歴代横綱でもトップです。

長崎外の古写真考 目録番号:3045 富士山の遠景(2)  ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3045 富士山の遠景(2)  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3045 富士山の遠景(2)

目録番号: 3999 富士山(1)
〔画像解説〕
小山町須走(すばしり)あたりから富士山を遠望したもの。富士山の大きさや左手の稜線に宝永山が見えることから撮影地点が推定される。須走は古くから富士山須走登山道の登山口で、撮影地点はその登山道の途中であろう。撮影地の書込み方から撮影者はF・ベアトと考えられる。

目録番号: 4887 武士と富士山
〔画像解説〕
横浜開港資料館の研究により、山梨県富士吉田あたりから富士山を遠望したものとされる。富士吉田も古くから富士山登山道の登山口であり、撮影地点はその登山道の途中と考えられる。沢に架けて丸木の橋で、武士と2人の男性が撮影されている。F・ベアトの撮影である。

目録番号: 5698 富士山を望む(但し富士の映像は消滅)

■ 確認結果

目録番号: 3045「富士山の遠景(2)」は、2枚目の目録番号: 3999「富士山(1)」と同じ写真である。撮影者: F.ベアト、撮影地域: 静岡 となる。
この項は再掲。2010年2月28日の記事あり、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2247

3枚目の目録番号: 4887「武士と富士山」と、4枚目の目録番号: 5698「富士山を望む(但し富士の映像は消滅)」も、富士山の映像がはっきりしないが、撮影者は F.ベアトで、近くの場所から富士山を同じような姿で写しているように思われる。

塩浜町宮地嶽神社から立神山・天門峰へ  平成23年1月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

塩浜町宮地嶽神社から立神山・天門峰へ  平成23年1月

平成23年1月23日(日)曇り。塩浜町宮地嶽神社から立神山(標高227.5m)・天門峰(標高166.2m)へ。参加11人。みさき道歩会の例会。1月16日が雪のため、延期して実施。
飽の浦公園9時30分発ー塩浜町宮地嶽神社ー九電作業道ー立神山ー西泊中グランド12時
10分着(昼食)ー西泊ヶ丘ー天門峰ー女神大橋ー木鉢14時20分着(徒歩距離約12km)

飽の浦トンネル入口の飽の浦公園は、御朱印船貿易商・荒木宗太郎宅跡。きょうはトンネル上の山を行く。塩浜町バス停先から参道を宮地嶽神社へ登る。九電鉄塔を伝う作業道により、飽の浦峠上の三菱重工向島分岐線4号鉄塔まで行くと、天門峰縦走路に合う。
立神山の山頂には祠があり、左脇の石面刻字は読み取れない。長崎里山塾が周りを伐採し、道標を設置していた。帆掛山のすぐ先と西泊中に出る手前のピークに、明治三十二年陸軍省「長崎要塞第一地帯標」がある。

西泊中グランドで長崎里山塾の井手先生らと出会い昼食。以下のコースも良く整備されていて、道標があった。西泊ヶ丘は戦時中の高射砲陣地跡。遺構が残る。天門峰へはひと登り。山頂標識を北ピークに設置しているが、どうかと思われ調査中。「長崎市史」の記録は資料のとおり。
天門峰の岩場は女神大橋の上にあり、長崎港内外の景色が良い。山頂自然石に明治九年「地理局測点」と刻み、貴重な近代測量史跡なのに、消えかかっている。女神大橋へ下って解散。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/27091693.html

(資 料)  著作権者 長崎市役所 「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」
昭和13年発行 昭和42年再刊 清文堂出版
第二章 名 勝  西 部
二、天 門 峯(てんもんほう)              287〜291頁
一に観音山と名づく。山勢白衣の観音に似たるに因る。長崎港口の右に屹立する秀峰で港口左なる子倉山と相対して港口を扼する。その間海上僅に四町に過ぎない。此の峯は稲佐山脈の最南端で山下は港口最南端の神崎である。その山勢東、西、南の三方は絶壁削るが如く人の登攀を許さない。唯西泊より峰伝ひに絶頂に至るべし。既に其の頂に至れば長崎港出入の大小船舶を脚下に懸崖幾十丈、風景の佳なる譬ふるに物がない。天門飛颿と題し鎭治十二景の一である。此処に自然石上小やかなる石灯籠を置く。青苔深き所に唐船海上安全の文字幽かに読まるるを見れば往時は夜毎に灯火を点して其の航路を照らしたものであらう。
神崎には新古の台場五座あり、長崎防禦の最重要地であつたので強力の大砲を備へ付けてあつた。慶応二年七月之を廃止せし以来雑草木繁茂し今はその所をすら判明せざる所もある。
嘗て唐船の山下を過ぐるものは必ず皆船を止め金皷を鳴らして香を焚き、恭敬礼を作して去るのであつた。山下なる神崎神社に海上の平安を祈るのであらう。一説には支那船の船神なる媽姐は観音の化身なれば当山に縁由ありとて其の儀を行ふのであると。麓の海岸に神崎舟魂社、スヾレ、太田尾、烏丘洞、男神、姥が懐、辛螺洞(ニシドウ)等があつた。今は山麓一帯は三菱造船所、三井物産会社、スタンダート石油会社及びライジングサン石油会社等の貯炭所又は油槽所となりて、スヾレ、太田尾、辛螺洞等は旧形を失ひ神崎神社は旧社地荒廃して雄神石一名イキイシの北隣に転じ稲荷社と合併祀られ給ふ。男神石は遠くより望めば大に、近づけば小なりとて生石と呼ばるゝなりと云ふ。(略)

男 神 崎 港口の右に突出せる突端で風光誠に明媚である。雄神とも書く。傍に小なる巌ありて海岸に兀立して居るのを千珠嶼と名づく。男神崎は天門峯よりなだれ出たる岬で昔神宮皇后此の地を船出ませし時陰陽二神の港口を扼し給ふの気はひありとて名づけ給ふたもので船魂住吉二社を祀らせ給ふた。後世之を再興したのが神崎神社で皇后の新羅より持帰らせしと伝ふる倭奴国王印と鎮懐石とを神体として崇めた。徳川時代に入りて港口の警備をさをさ怠りなく岬頭に石火矢台数座を設けて異国船の撃攘に備へたので肥筑の戍兵常に来り屯して居た。維新前台場は廃止され、程なく神社も荒廃して居たが明治四十年頃再興あり、その頃より英国ライジングサン会社はこゝを借りてその石油槽を建造して居る。かの石鍼番所はこの岬の突端に在つた。

長崎外の古写真考 目録番号: 2617 東京の庭(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2617 東京の庭(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 2617 東京の庭(2)
〔画像解説〕
堀田家別邸「七松園」である。目録番号4442の藤棚の前に写る橋が、この3枚の巨大な板石からなる橋である。左手に高くそびえる築山や中央の雪見灯篭などに、大名庭園の面影を残している。目録番号2993より水位は低いようだ。

目録番号: 4442 向島堀田庭園(13)
〔画像解説〕
旧佐倉藩主堀田家の向島別邸「七松園」で、明治初年から20年(1887)ころまで堀田家が所有していた。隅田川の水を引き入れた回遊式庭園で、潮の干満によってその景観を変えた。当時、東京の名園のひとつとされていた。各所に配された人物は、堀田家の人々であろう。

■ 確認結果

目録番号: 2617「東京の庭(2)」は、同画像解説にあるとおり、堀田家別邸「七松園」である。
目録番号: 4442「向島堀田庭園(13)」の藤棚の前に写る橋が、この3枚の巨大な板石からなる橋であるので拡大した。
タイトルを他の作品に合わせ、「向島堀田庭園」とした方が良いと思われる。

堀田庭園(浩養園)     『東京今昔散歩』p.74-75より。
浅草の対岸といえば、アサヒビールの金のモニュメントが有名。かつてここに、旧佐倉藩堀田家別邸の名園があった。古くは老中水野忠成の別邸。その後、佐竹邸、堀田邸となった。佐竹庭園、浩養園、堀田庭園、七松園 などの名で呼ばれた。1900年(明治33)、堀田庭園のある敷地を札幌麦酒が買い取り、その一角に東京工場を設置した。また庭園を利用してビヤホールを開業した。現在、アサヒビールのビルや墨田区役所となっている。

長崎外の古写真考 目録番号: 2937 山間の村落風景(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2937 山間の村落風景(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 2937 山間の村落風景(1)
〔画像解説〕
甲府盆地から南の静岡へ繋がる鎌倉街道(御坂路)は古代官道にまで遡る古道として知られる。写真はこの鎌倉街道の御坂峠に至る甲府盆地側の伝馬宿である藤野木集落付近(山梨県笛吹市御坂町)を写したものである。写真左手奥が御坂峠であり、甲府盆地側から南を向いて撮影されている。写真左手前に石造物が写るが、詳細は不明である。

■ 確認結果

目録番号: 2937「山間の村落風景(1)」は、御坂峠に至る甲府盆地側の伝馬宿、藤野木集落付近(現 山梨県笛吹市御坂町藤野木)を写している。さて、左手前に写る石造物。「詳細は不明」らしいが、不思議な写真である。馬頭観音や狛犬のようにも見える。

新しい石仏で、これかどうかわからないが、似たような石造物は、御坂峠の登りに残っていた。場所ははっきり書いていない。山梨観光わいわいねっとブログ「山梨の山」で、写真を見つけた。
同記事は次のとおり。「御坂峠」の解説は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。富士山の眺望写真も同事典から。

旧道の御坂峠   2008.08.07 13:20

鎌倉街道と言われる旧御坂峠は古の時代から昭和5年に天下茶屋の所に国道137号のトンネル(新御坂峠と称する)が掘られ開通するまでは人馬のみ通行可能な旧御坂峠を越えて往来しました。この峠が河口湖、富士吉田、山中湖への幹線ルートでしたし、甲斐の国から出て駿府や横浜や江戸へ出る一級の街道でした。
7月28日、御坂の藤野木から昔ながらの街道を歩いて峠まで行って来ました。御坂の最終の村落、藤野木からはもう人家はありません。峠に掛かる最終の人工物、神社に御参りして旅の安全を祈願しました。昔もここで祈願した事でしょう。
この道は幕末に上萩原から夜中、手に手を取って駆け落ちした樋口一葉の父の母の逃避行路でもありました。追っ手を巻く為にこの街道を選択しました。篭坂峠を越えて御殿場に出て横浜経由で江戸に落ち着きました。

旧御坂峠には1582年(天正10年)武田勝頼滅亡後、空白となった甲斐の国の争奪戦、北条と家康軍が戦った黒駒の戦いの北条方の砦が御坂城址として今日まで保存状態が極めて残っています。御坂峠道は森林の中を歩きます。途中1時間で行者平で休憩し、暫くして石畳の残る地点を通過して、やがて峠に到着。
峠は樹木が伐採してあって明るい草地の広場です。ここで大休止。そして御坂城址を尾根に沿って峠の両側に600㍍に渡って曲輪、土塁、帯曲輪、尾根切り(横堀)、腰曲輪等などを見学して来ました。ここも中世の城郭の綱張りの城です。即ち堀はありますが石垣がありません。
つい昭和5年以前はこの旧御坂峠を通り、大昔からの古道です。その歴史の道を歩くことは素晴らしいと思います。皆様も機会を掴まえて是非、峠越えをしてみては如何でしょうか。

御坂峠
御坂峠(みさかとうげ)は山梨県南都留郡富士河口湖町(旧・河口湖町)と笛吹市(旧・東八代郡御坂町)にまたがる峠。鎌倉往還御坂路のルート上にある。御坂の名は日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来するとされる。
旧峠
富士吉田側と甲府盆地側にまたがる御坂山地の御坂山(1596m)と黒岳(1793m)との中間付近に存在する(1520m)。御坂隧道(後述)開通まで、富士吉田側と甲府盆地側の行き来は徒歩により御坂峠を越えなければならなかった。

長崎外の古写真考 目録番号: 2903 竹林(2)

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2903 竹林(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 2903 竹林(2)

目録番号: 2910 皇居吹上御苑(1)     関連作品 目録番号: 3937 同(3)
〔画像解説〕
吹上御苑の西側、半蔵門を入って直ぐの所に広がっていた竹林である。写真3937と同じ時(おそらく明治10年代)に撮られた写真であろう。竹の形が同じである。植木職人らしき人物2人は、3937に写る3人の中の2人であろう。この写真が販売されたのは明治中期と思われる。

■ 確認結果

目録番号: 2903「竹林(2)」は、次の目録番号: 2910「皇居吹上御苑(1)」と同じような光景であり、竹柵の組み方が同じである。皇居吹上御苑の竹林と思われる。
掲載を略したが、関連作品 目録番号: 3937「皇居吹上御苑(3)」の画像解説は次のとおり。

享保10年(1725)頃、八代将軍徳川吉宗が半蔵門北側の吹上御苑一帯に竹を植えたとされる。幕府財政逼迫の際で、実用になる竹が選ばれたという。現在も半蔵門を入ると孟宗竹の林が残されている。昭和天皇は春にここで竹の子狩りを楽しんでおられたそうである。明治10年代の撮影か。