塩浜町宮地嶽神社から立神山・天門峰へ  平成23年1月

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塩浜町宮地嶽神社から立神山・天門峰へ  平成23年1月

平成23年1月23日(日)曇り。塩浜町宮地嶽神社から立神山(標高227.5m)・天門峰(標高166.2m)へ。参加11人。みさき道歩会の例会。1月16日が雪のため、延期して実施。
飽の浦公園9時30分発ー塩浜町宮地嶽神社ー九電作業道ー立神山ー西泊中グランド12時
10分着(昼食)ー西泊ヶ丘ー天門峰ー女神大橋ー木鉢14時20分着(徒歩距離約12km)

飽の浦トンネル入口の飽の浦公園は、御朱印船貿易商・荒木宗太郎宅跡。きょうはトンネル上の山を行く。塩浜町バス停先から参道を宮地嶽神社へ登る。九電鉄塔を伝う作業道により、飽の浦峠上の三菱重工向島分岐線4号鉄塔まで行くと、天門峰縦走路に合う。
立神山の山頂には祠があり、左脇の石面刻字は読み取れない。長崎里山塾が周りを伐採し、道標を設置していた。帆掛山のすぐ先と西泊中に出る手前のピークに、明治三十二年陸軍省「長崎要塞第一地帯標」がある。

西泊中グランドで長崎里山塾の井手先生らと出会い昼食。以下のコースも良く整備されていて、道標があった。西泊ヶ丘は戦時中の高射砲陣地跡。遺構が残る。天門峰へはひと登り。山頂標識を北ピークに設置しているが、どうかと思われ調査中。「長崎市史」の記録は資料のとおり。
天門峰の岩場は女神大橋の上にあり、長崎港内外の景色が良い。山頂自然石に明治九年「地理局測点」と刻み、貴重な近代測量史跡なのに、消えかかっている。女神大橋へ下って解散。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/27091693.html

(資 料)  著作権者 長崎市役所 「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」
昭和13年発行 昭和42年再刊 清文堂出版
第二章 名 勝  西 部
二、天 門 峯(てんもんほう)              287〜291頁
一に観音山と名づく。山勢白衣の観音に似たるに因る。長崎港口の右に屹立する秀峰で港口左なる子倉山と相対して港口を扼する。その間海上僅に四町に過ぎない。此の峯は稲佐山脈の最南端で山下は港口最南端の神崎である。その山勢東、西、南の三方は絶壁削るが如く人の登攀を許さない。唯西泊より峰伝ひに絶頂に至るべし。既に其の頂に至れば長崎港出入の大小船舶を脚下に懸崖幾十丈、風景の佳なる譬ふるに物がない。天門飛颿と題し鎭治十二景の一である。此処に自然石上小やかなる石灯籠を置く。青苔深き所に唐船海上安全の文字幽かに読まるるを見れば往時は夜毎に灯火を点して其の航路を照らしたものであらう。
神崎には新古の台場五座あり、長崎防禦の最重要地であつたので強力の大砲を備へ付けてあつた。慶応二年七月之を廃止せし以来雑草木繁茂し今はその所をすら判明せざる所もある。
嘗て唐船の山下を過ぐるものは必ず皆船を止め金皷を鳴らして香を焚き、恭敬礼を作して去るのであつた。山下なる神崎神社に海上の平安を祈るのであらう。一説には支那船の船神なる媽姐は観音の化身なれば当山に縁由ありとて其の儀を行ふのであると。麓の海岸に神崎舟魂社、スヾレ、太田尾、烏丘洞、男神、姥が懐、辛螺洞(ニシドウ)等があつた。今は山麓一帯は三菱造船所、三井物産会社、スタンダート石油会社及びライジングサン石油会社等の貯炭所又は油槽所となりて、スヾレ、太田尾、辛螺洞等は旧形を失ひ神崎神社は旧社地荒廃して雄神石一名イキイシの北隣に転じ稲荷社と合併祀られ給ふ。男神石は遠くより望めば大に、近づけば小なりとて生石と呼ばるゝなりと云ふ。(略)

男 神 崎 港口の右に突出せる突端で風光誠に明媚である。雄神とも書く。傍に小なる巌ありて海岸に兀立して居るのを千珠嶼と名づく。男神崎は天門峯よりなだれ出たる岬で昔神宮皇后此の地を船出ませし時陰陽二神の港口を扼し給ふの気はひありとて名づけ給ふたもので船魂住吉二社を祀らせ給ふた。後世之を再興したのが神崎神社で皇后の新羅より持帰らせしと伝ふる倭奴国王印と鎮懐石とを神体として崇めた。徳川時代に入りて港口の警備をさをさ怠りなく岬頭に石火矢台数座を設けて異国船の撃攘に備へたので肥筑の戍兵常に来り屯して居た。維新前台場は廃止され、程なく神社も荒廃して居たが明治四十年頃再興あり、その頃より英国ライジングサン会社はこゝを借りてその石油槽を建造して居る。かの石鍼番所はこの岬の突端に在つた。