練習用」タグアーカイブ

鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸  上西氏HPから

イメージ 1

鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

報時球  (本初子午線と標準時の制定の項)

地図:長崎西南部

船舶ではかつてクロノメーターを載せ正確な時刻を保持し天体観測により航海中の船舶の位置を知ることができましたが港湾の埠頭に吊るした「報時球」(Time Ball)を正午に落下させ、それを観測することによって正確な時刻を知りクロノメーターの校正をしました。球は紅色に、柱は白色に塗られ普段は球が下に落ちた状態ですが日祭日をのぞき毎日正午の5分前に球を上に引き揚げて落下する瞬間を報時としました。1903年(明治36)には横浜、神戸に報時球が設置されその後、大阪、門司、長崎などの港でも行われたようです。

わたしは英国エジンバラとオーストラリアのシドニーで残存する実物を見たことがありますが、いずれも観光、装飾のため残置されているもので日本では見られません。しかし報時球の吊柱基礎と思われる残骸だけが長崎市グラバー園東の高台、鍋冠山の北に残っています。鉄製コンクリート充填、根元直径55、長さ65センチメートルの基礎の一部分です。この残骸が報時球基礎であったことの確証は得られていません。この位置は長崎港を望める高台で、もと長崎報時信号所がありその後、長崎海洋気象台の官舎となり現在は住宅地です。報時球は大正時代初期に設置され昭和初期まで実用に供されていたようです。報時球はもはや、つかわれることはなく近年は標準電波による報時になっています。[青木信仰:時と暦 東京大学出版会 1982 p43−
47][朝尾紀幸:観測機器が伝える歴史4 クロノメーターと報時球「水路」151号 日本水路協会 2009.10 p22]

大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点  上西氏HPから

イメージ 1

イメージ 2

大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

大久保山の測点  (民部省・工部省・内務省の測量の項)

地図:長崎西南部

この測点は大久保山の中腹にある魚見岳というピークの近くにあります。女神大橋東端の下水処理場から大久保山への尾根筋を登ると史跡、長崎(魚見岳)台場跡がありその先ピークの手前、登山道の左、雑木林にあり、およそ標高170メートルの地点です。台場の最上部、一ノ増台場から徒歩15分で到達できます。標石はかなり傾斜しており一辺15センチメートル、地上高さ45センチメートル(のちほど全長75センチメートルと判明)、上面は低い角錐形になり、東面に「地理局測點」北面に「明治九年第五月」の縦書きの刻字がはっきり読めます。他の面には刻字はありません。以下、説明の都合上この標石を「表示標」とします。

わたしがこの標石を探訪した2006年(平成18)2月の直後、この表示標近傍の木立のなかで標石の基盤石のようなものが発見されたという情報を得ました。これは後ほど表示標を支持する石枠であることがわかりました。ここでは「支持枠」とします。

初探訪から6年後の2012年(平成24)4月に再訪し支持枠を確かめました。表示標から登山道を挟んで南西3メートルの地点で半分、落葉に隠れていました。一辺40〜42、厚さ10センチメートルの立方体で中心部に一辺16、深さ5センチメートルの角穴が、さらに一辺6〜8センチメートルの角穴がくり抜かれて標柱の底部がぴったりと入る大きさになっています。一隅が少し欠損していました。少し掘ってみると支持枠の真下に一辺46、厚さ15センチメートルのコンクリートのような盤石が現れました。上面は平らに整形されています。盤石は大きく下を確かめることは無理でしたが地上の標石が表示標であり、別に本点として地中標があるならばこの盤石の下にあると考えられ地元の方に機会があれば確かめていただくようお願いしました。この盤石は後ほど本点地中標の「蓋石」であることがわかりました。

再探訪から7ヶ月後、地元のHさんから蓋石の下に標石があるとの連絡があり3度目の現地探訪をし底部まで掘削し全容を確かめました。地元のHさんとNさんにたいへんなご尽力をいただきました。

掘削の結果、この大久保山測點は上から地上に表示標、支持枠、地中に蓋石、本点の順に4段構成になっていることがわかりました。写真上段左からこの順、同下が本点です。材質はすべて安山岩と思われますが支持枠だけはその表面がコンクリートのように整形され材質は不明です。それぞれの諸元は上から順につぎのとおりです。

表示標は一辺15センチメートル、全長75センチメートル、底部は一辺3〜5、長さ4センチメートルの突起があります。支持枠は一辺40〜42、厚さ10センチメートルの立方体で中心部に表示標が収まります。蓋石は一辺46、厚さ15センチメートルの立方体です。支持枠がこの上に載りますが固定はできません。裏面(底)には一辺28、深さ5センチメートルの窪みがあり本点の頭部に被さるようになっています。また北東側面と南西側面には蓋を持ち上げるとき手の入る窪みがあります。本点は上面が一辺25、底面が一辺48、高さ40センチメートルの截頭方錘形で上面には南北方向と東西方向に細い対角線が刻されています。また底から21センチメートルまでは荒削りで、それ以上は整形されていました。

今回の掘削は道具と労力の可能な限り、また標石が傾いたり移動しないよう南東面は底まで他面は一部を掘削しましたが側面には直径20センチメートル大の石が5〜6個入っていました。掘削調査後は標石を復元し安全のために埋め戻しをしました。表示標と支持枠はもともと放置されていたので設置当初の向きは不明ですが収まりのいいように組み立てています。

表示標、支持枠、蓋石、本点の四段構成は京都の清水寺の表示標、蓋石、本点の三段構成と類似していますが本点の大きさは長崎の方がやや大きく、また蓋石と本点の重なり具合は長崎の場合は正方形両面が重なり合っているのにたいして清水寺の場合は蓋石下面と本点上面が45度ずれて収まるように蓋石の窪みがあります。いずれにしても両者とも表示標や蓋石のあること、また対角線の刻み、截頭方錘形など内務省設置の標石の特徴をよく表しています。

天門峰の明治9年地理局測点  上西氏HPから

イメージ 1

天門峰の明治9年地理局測点  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

天門峰の測点  (民部省・工部省・内務省の測量の項)

地図:長崎西南部

2006年(平成18)2月に長崎で内務省地理局の標石が2ヶ所に残存していることが分かり現場を探訪しました。その位置は長崎港の港口に新しく架橋された女神大橋をはさみ西の天門峰と東の大久保山中腹にある魚見岳です。

天門峰は標高160メートルの山で神崎(こうざき)神社からの登山道を女神大橋西端から入り
20分程度の急登で達することができます。山頂にある大岩が測点になっています。岩の大きさは幅1.4、奥行0.8、地上高さ1.0メートル、上部中央(「地理局」刻字の真上)には一辺20センチメートルの正方形で深さ2センチメートルのくぼみがあり、さらにその中央には一辺9センチメートルの四角い凸部があり東西、南北方向に対角線が彫られています。やや斜めになった岩盤上の刻字は縦書きで左が「地理局測點」(幅6、全長40センチメートル)右が「明治九年第四月」(「第四」の文字は推定、幅4、全長34センチメートル)と読めます。内務省地理寮が改称され地理局が発足したのは1877年(明治10)ですから実際の観測は1876年(明治9)の地理寮時代に行われ標石の刻字は後年にされたとも考えられます。京都清水寺に残存する内務省の「測點」は地理寮と地理局の両方が彫られています。この標石はかなり以前から知られているようで現地のガイドブックにも載っていました。

山頂の岩に「明治九年第四月地理局測点」と刻んだ三角点があり、10年前までは何とか判読できましたが、現在「地理局」だけがかろうじて確認できます。この岩の上に立って展望する人の登山靴に踏まれて磨耗したのでしょうか。 [林正康:長崎県の山歩き 葦書房 2000 p73]同様の記述は[長崎市教育委員会:長崎市周辺ハイキングコース 1975 p29]

このガイドブックにあるほど磨耗はしてませんが、かなり判読し難い字もあり写真を撮るのに苦労しました。なお山頂には近年設置されたと思われる直径5センチメートルで「+」と「基準点」のみ彫られた金属標が載った地上高さ10センチメートルのコンクリート杭がありました。女神大橋架橋関係の測量に使用されたものかもしれません。

長崎の測量  上西氏HPから

イメージ 1

長崎の測量  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

長崎の測量  (民部省・工部省・内務省の測量の項)

1876年(明治9)に発行された内務省第一回年報、1877年(明治10)の同第二回年報にはつぎの記述があります。

長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼島神ノ島等ノ地ニ於テ測點ヲ二十九箇所ニ撰定シ其新大工町ト片瀕郷ニアル二點間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日ニ至リ全ク成ル叉底線地の高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス其經費総計金千七百五拾三圓九拾壹銭八厘ニシテ第二十六號表ノ如シ(表略)[内務省:内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p595−596]

長崎三等三角測量ハ明治九年四月起業九年六月マテノ事業は前周年ノ報告書ニ詳カナリ同年七月底線測量トシテ其長サヲ算定ス夫ヨリ測点石埋設測標臺建築及測角等ノ事業漸次施行シテ十月ニ至リ卒業ス次テ三角諸邊ノ長サヲ算籌シ一万分一比例線三角網圖ヲ製シ十一月極星ヲ測リテ真子午線ヲ定メ十二月補助點ヲ測定シテ三角測量全ク卒業セリ且ツ細形測量ハ該地ヲ區分シテ八部ト爲シ其一部及三部ハ九年九月起業漸次施行中本年一月廃寮置局ノ改革アルヲ以テ各技員歸京僅ニ二員ヲ以テ残業を継續シ方向測量ヲ施行ス然ルニ同年六月ニ至リ實際支障アリ故ニ此二員モ亦歸京セシメ以テ半途休業セリ其經費(中略)前周年(中略)ト合算スレハ七千貳百八拾五圓五拾五銭トナル(以下略)[内務省:内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p428]

この内務省年報にある「技員歸京」については1877年(明治10年)に西郷隆盛(1828〜1877)をはじめとした反乱、西南の役が勃発したことと関係があるように思われます。司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」では地理寮官員の不穏な動きが察せられます。

林友幸は熊本から長崎に移っていた。そこで落ちあい、十二月二十六日、便船で長崎を出発した。林とは別目的で鹿児島へゆく地理寮の官員三名が同船していたが、林自身はその任務においては単身にひとしい。 [司馬遼太郎:翔ぶが如く 三 文藝春秋 1983(司馬遼太郎全集 第37巻)p246]

1876年(明治9)12月、内務少輔(しょう、しょうゆう)の林友幸(1823〜1907)は西南の役直前に鹿児島の状況視察のため鹿児島県令の大山綱良(1825〜1877)と長崎で落ち合い鹿児島へ入ろうとしていました。「地理寮の官員」が文中に唐突に現れるのはなぜかわかりません。前後の文、小説全体を通じて地理寮はこれだけのようです。なお長崎の三角測量はこのとき終了したところですがこの「地理寮の官員」が長崎に従事したかは不明です。大山県令は西南の役で官金を西郷軍に提供した罪を問われて長崎で斬首されました。司馬は大山県令のつぎの供述を引用したようです。

二十六日少輔ならびに自分、且地理寮の官員三名同船二七日鹿児島に着す。 [徳富猪一郎:近世日本國民史95 西南役緒篇 近世日本國民史刊行會(時事通信社) 1962 p146]

現在、この測量の遺跡として2ヶ所の測点が残存しています。女神大橋をはさみ西の天門峰と東の大久保山中腹です。当時の長崎縣庶務課地理掛の事務簿(長崎歴史文化博物館蔵)によれば内務省出仕、小林一知による大三角測量敷地買上にする文書に測点位置について図面を含めた記録があります。これによればつぎの33ヶ所が記載されていますが現在地との照合が困難なところが多いようです。アバ山と魚見岳はそれぞれ天門峰と大久保山(中腹)のことです。

新大工町、大平山(米国金星測量臺跡)、城ヶ島、萬屋町、出島居留地、大浦居留地、鉄炮石、高鉾島、辻、勝山町、今町、鼡島、アバ山、栁千本、梅ヶ嵜、南町、舩津、竹ノ山、古川辻、小島正覚寺、辻、釜 竹ノ久保、上笠頭、前田、石原久保、御臺場跡、魚見岳、△石(△不明)、影野尾、中番所、原田、嶋ヶ崎、中之間[長崎縣庶務課地理掛:自明治十年至仝十三年事務簿全 大三角測量敷地買上 内務省地理局気象観測臺用地買上測点敷地圖面 長崎縣庶務課 1877 頁なし(長崎歴史文化博物館蔵 整理番号14 721−3)] 

地図については1881年(明治14)内務省地理局が「大日本國全圖」の分轄図として発行した「長崎福岡大分三縣圖」がありますが86万4千分の1と小縮尺で「測點」は載っていません。 [地図資料編纂会編:明治前期内務省地理局作成地図集成 第2巻 日本図編 柏書房 1999]

明治十七年測圖同二十七年製版、陸地測量部の一万分一図、長崎近傍ノ五「福田村」には天門峰の測点位置に三角点記号と標高165,35が、また同長崎近傍ノ六「深堀村」にも大久保山の測点位置に三角点記号と標高158,38、さらにその上に意味不明の「(13)」の記載があります。これらの地図にある三角点記号は地理局の測点そのものと考えられます。明治三十四年測圖同三十六年製版、陸地測量部の二万分一地形圖長崎要塞近傍六號「深堀」では天門峰の測点位置には三角点記号はなくなり標高164,7鰯見(イワセン)嶽と記載があります。また同図幅で大久保山の測点位置にはなにもありません。

大久保山から小ヶ倉上の岩場へ  2012年12月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

大久保山から小ヶ倉上の岩場へ  2012年12月

2012年12月2日(日)曇りのち小雨。大久保山(標高233.7m)から小ヶ倉上の岩場へ。参加4人。みさき道歩会の例会。
女神9:35—魚見岳台場9:50—地理局測点10:26—大久保山10:57—展望原11:13—峠部11:40 昼食 12:00—小ヶ倉上の岩場12:16—八幡宮12:53—白崎藩境石13:15—女神13:40(徒歩距離 約7km)

雨の天気予報のため、参加者少数。地中埋石が見つかった魚見岳「地理局測点」の見学が目的だったが、標石は埋め戻しており、地中まで見てもらえなかった。
https://misakimichi.com/archives/3503

いつものコースで、大久保山から小ヶ倉上の岩場へ回る。写真は、マテバシイ、八郎岳子午線標、ウルトラマン岩、天明藩境塚、展望原、小ヶ倉大岩群、こて絵、藩境石など。
午後からかすかな小雨がときどき降った程度。下山にまったく支障なく、白崎へ下った。

長崎の西空の夕日  12−11

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の西空の夕日  12−11

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1〜 5  2012年11月 1日の17時26分頃
写真  6〜 8  2012年11月26日の16時57分頃

「心田菴」(しんでんあん)を一般公開中  長崎市片淵2丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

「心田菴」(しんでんあん)を一般公開中  長崎市片淵2丁目

「心田菴」は、江戸時代から伝わる日本庭園で、平成24年1月に増田水産株式会社より長崎市に寄贈された。紅葉の時期、日本庭園と茶室を、期間限定で一般開放されている。
入場無料。直接会場へ
日 時:11月17日(土)〜12月9日(日)の午前9時〜午後5時
場 所:心田菴(片淵2丁目18−18)  長崎大学経済学部の裏通りから上がる

長崎市文化財課作成資料(会場配布)は、次のとおり。

江戸時代からの由緒ある日本庭園と茶室 「心田菴」(しんでんあん)由来

心田菴は、何兆晋(がちょうしん)が長崎片淵郷(現在の片淵2丁目)に建設したといわれる別荘である。何兆晋は、寛永5年(1628)長崎に来た住宅唐人・何高材(がこうざい)の長男であり、万治元年(1658)に唐小通事(とうこつうじ)となった。父・高材とともに清水寺本堂(国指定重要文化財)の寄進を行ったことでも知られている。

長崎の茶道において重要視された由緒があり、天和(てんな)2年(1682)の「心田菴記」や、文化14年(1817)の「心田菴図」など、当地に関わる資料も残されている。長崎市にとって歴史的、文化的な遺産である。

名称の由来は「心田菴記」に、心田菴主である「何兆晋の心の田畑はとても広大である。まさに子が種をまき、孫が耕すごとく、心の宝である。」と記されている。
つまり、人は地位や名誉、財産などより、「心の田畑を耕すことが最も大切である」との意味から名付けられたものと察せられる。

〜心田菴略年譜〜

寛文 8年(1668) 何兆晋 唐通事を退役する
↓       このころ心田菴が建てられたと推定
天和 2年(1682) 高玄岱「心田菴記」を記す
↓       このころ黄道謙「心田菴」を描く
貞享 3年(1686) 何兆晋死去
文化14年(1817) 菅井梅関「心田菴」を描く
天保10年(1839) 中島広足「橿園文集」を書く
このなかに「松蔭舎記」があり、心田菴が紹介されている
明治39年(1906) 青木氏、心田菴を取得する。その後何度か所有者が変遷 
平成24年(2012) 1月、増田水産株式会社から長崎市に心田菴が寄贈される

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(2)  上西先生(京都)が来崎

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(2)  上西先生(京都)が来崎

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
明治9年魚見岳「地理局測点」の本体である地中埋石の完全発掘が主な目的だったが、そのあと、最近見つかっているダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点と、長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台などへ案内した。
詳しくは先生がHPにより報告されるので、調査状況の写真と記事を簡単に載せる。(1)の続き。

写真  1〜  5  長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台

長崎報時信号所跡は、グラバー園スカイロード第2ゲートから、鍋冠山へ100mほど登ったところにある。国から払い下げられた市有地の空き地があったが、最近公売により新しい民家が建った。その工事中、地下から出てきた長崎報時信号所跡の遺物。タイムボール鉄柱支え台であろう。現在は掘り除き庭に置かれているが、原田・宮川先生も調査に来られており、適当なところに保存されるだろう。

長崎報時信号所のタイムボールについては、HP「日本のタイムボール」に詳しくあるので参照。
「九州景勝鳥瞰図《長崎県:長崎市》」吉田初三郎筆(昭和8年)に、ドンの山とも描かれている。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kanko/yoshidamap/index.html
長崎の文献としては、昭和6年長崎市教育會編「長崎市民讀本」に古写真ともあり、
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/3513
南山手美術館所有の油絵の一部に部分的に描かれていると聞いた。

朝日新聞昭和53年8月26日スクラップ「ドンの山—長崎海洋気象台百年」(ズーム拡大)を、参考に載せる。長崎では1912年(明治45年)2月、鍋冠山中腹にタイムボールが完成、報時業務を開始し、昭和16年?まで存続した。
「報時信号所とは、鍋冠山の中腹に設けられていた港内の船舶向けに正確な時刻を知らせる信号所のことで、正午に赤い玉を落とす。船で赤い玉が落ちる瞬間を見て、備え付けのクロノメータの規正を行ったものである」
上西先生は、HPで午報も調べられている。長崎報時信号所跡のこの遺物について、中央での文献調査をお願いした。

写真  6〜  7  四郎ヶ島東側の小島の「四建三角点」と「四建基準点」

日没まで時間があり、上西先生へ標石の場所を知らせるため訪ねた。神の島から海道を渡った四郎ヶ島台場跡の東側小島に、「四建三角点」と「四建基準点」が別々の場所にある。
ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため昭和30〜40年頃、建設省第四建設局が設置した三角点・基準点と思われる。

この項は、本ブログ次を参照。現在行っても藪や竹がまた密生し、私の記憶があいまいになり、小さな標石のためすぐにはもう探しきれなかった。したがって標石写真は、以前の撮影分である。
https://misakimichi.com/archives/99
https://misakimichi.com/archives/1665 

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(1)  上西先生(京都)が来崎

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(1)  上西先生(京都)が来崎

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
明治9年魚見岳「地理局測点」の本体である地中埋石の完全発掘が主な目的だったが、そのあと、最近見つかっているダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点と、長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台などへ案内した。
詳しくは、先生がHPにより報告されるので、調査状況の写真と記事を簡単に載せる。

写真  1〜  7  明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘

この項は本ブログ次の記事を参照。本体となる上面十字刻みのある角紡錘形の地中埋石を、深さ約50cmほどまで完全発掘し、また埋め戻した。地上標は基盤石の上に乗せ、本来の位置に立てた。
https://misakimichi.com/archives/3494
https://misakimichi.com/archives/3500

まさしく内務省地理寮、地理局のタイプ。地中標、蓋石、標示杭と三段重ねという点では、京都の清水寺に地理寮が設置した測点と同じだった。地中標に4角の穴はなかった。
長崎は明治9年中に測量が終った。京都は明治7年に測量がはじまったが、西南戦争など諸事情から明治10年にいったん中止、明治14年から16年まで測量が再開された。
明治9年魚見岳「地理局測点」を、上西先生と私はやっと6年越しで全容確認した。

写真  8〜 16  ダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点

私が「みさき道」調査において、長年、探していた明治地図にあった水準点の標石。関覚斎日記に記す小ヶ倉港を眼下に西海緲々を望む「佳景の平地」の決め手となる。団地造成で失われ、場所がはっきりしなかったが、老人ホーム「オレンジの丘」敷地、西側フェンス内に残されていた。
地元小ヶ倉の前自治会長山下氏が、先日のみさき道講座の翌日、ふれあいセンターを通し、現存を知らせてくれた。「いぼがある標石があり、何か字を刻んでいる。殿様が腰掛けた石で、絶対動かさないよう古老の伝えがある」

これは地元の勘違いで、「水準点」「五三九七」と刻む。明治30年の標石である。新旧地形図を重ね合わせた対比ルート図では、水準点の位置が違う。
老人ホーム「オレンジの丘」敷地へ約200m、西へ下って動かされたと思われる。そのため私は、まさかここに現存しているとは、今まで気付かなかった。
現在の水準点「5397」は、小ヶ倉中学校正門右奥に平成15年(2003)再設され、旧標石は廃止されているのを、上西先生と確認した。

ダイヤランド団地内には、昭和56年(1981)の開発前、「みさき道」の道塚が加能峠・山頭・一本松に3本あった証言がある。この水準点の標石とも、小ヶ倉の郷土誌に調査・記録がないのは、かえすがえすも残念なことだった。

南京房義圓墓  長崎市本河内1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

南京房義圓墓  長崎市本河内1丁目

書庫を誤って削除し、現在復旧中。烽火山「南畝石」に関連。長崎奉行所支配勘定役として滞在した大田南畝こと蜀山人が、長崎で残した風流な狂歌。あまり知られない一首。
「南京房義圓墓」は、長崎市本河内1丁目長崎街道沿いにある。現在訪ねても、碁目の線刻や碁笥の花立がこれか不明だった。両資料で狂歌下句が違う。
小森定行氏著「本河内村の史跡」1995年発行の174頁は、次のとおり。寸法図はこれから。

碁盤の墓

昌源の長崎街道筋、原花屋前「ケヤキ」の大木の根元にある。中国から長崎に来た棋士で、長崎囲碁界の草分け、南京房義圓の墓である。宝暦十四年申(1764)年3月23日長崎で没す。
墓石は、一般僧侶の墓に共通な頭部のまるい無縫塔で、蓮華座下の台石が碁盤で、花筒が碁笥(ごけ 碁石入れ)になっている。高さ0.60mの塔身には正面に南京房義圓墓、右面に宝暦甲申年三月廿三日と刻している。
文化元(1804)年蜀山人(太田南畝・本名太田直次郎・長崎奉行所勘定役)がこの地を訪れ次のような歌を残している。
この墓は南京房か珍房か ごけ引きよせてごばん下じき   蜀山人

長崎手帖社「長崎手帖 No.16」昭和33年11月発行の30頁は、次のとおり。

南京房義圓の墓

151 墓の多い長崎で、他に類がないと言われている一つに、南京房義圓の墓がある。この墓は、一ノ瀬旧街道(本河内町1丁目)にある唐金塔の近くの道端に建っている。墓面に宝暦十四年とあるから194年前のもの。墓は「坊んさん塔」だが、珍しいのは381目をひいた碁盤の台石と、碁笥(ごけ)の形をした花立である。
義圓については、当時の碁の名手であったことと、赤寺(唐寺三寺のうち、どの寺であるかは不明)にいた形跡があるとのこと以外は、素性も人となりも寡聞にして知らない。しかし、その後奉行所勘定方として長崎に滞在した太田南畝こと蜀山人は、この義圓の墓に、
南京房か珍房か碁笥(ごけ)引きよせて碁盤すな
と風流な狂歌一首をたむけているそうだ。