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サンドパイプ(巣穴の化石)   佐世保市小佐々町

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サンドパイプ(巣穴の化石)   佐世保市小佐々町

サンドパイプ(巣穴の化石)が、佐世保市小佐々町楠泊の山中、道路沿い崖面に見られる。楠泊橋手前から冷水岳公園へ登山道路があり、その途中にある。
小佐々町指定文化財。現地説明板は次のとおり。

小佐々町指定文化財(第7号)  サンドパイプ(巣穴の化石)

この地層の断面をよく見ると、上から下に細長いパイプのようなものが入っており、その中には色の違った砂がつまっている。これは、カニ、アナジャコ、スゴガイなど、大昔の巣穴で、「生痕の化石」とも呼ばれている。
町中で、ここが一番広い範囲で、しかも立派に残っており、地質学上貴重なものである。
平成四年十月一日  小佐々町教育委員会

昭和15年「海軍水準」の標石  小佐々町楠泊海岸で見かける

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昭和15年「海軍水準」の標石  小佐々町楠泊海岸で見かける

正面「海軍水準」、裏面「水路部」、右面「+」、左面「昭和十五年」。下部は埋れて不明。
「海軍水準」とは珍しい。陸軍省「要塞地帯(区域)標」は長崎市内の海岸でよく探し見つけたが、初めて目にする境界石以外の海軍標石を、佐世保市小佐々町楠泊の海岸で見かけた。

佐世保市小佐々行政センター近く「田原」交差点から、県道18号線により冷水岳へ向かった。小佐々中学校からカーブの多い坂道を下ると、楠泊漁港へ出る。冷水岳への登山道路は大橋の手前にあるが、前面の島々の写真を写すため、塗装工事中の大橋を渡った。
集落先の海岸突端に、大きな鳥居が数本見える。弁当をそろそろとここへ向かった。煮干の臭い波止場加工場の中を通り、突端に出た。

恵比須神社と思っていたら、大きな鳥居が3本あり扁額に「姫神社」とある。石段を登った上の社殿も立派だった。石段の登り口左には、別の「西宮神社」が祀られ、石祠2基があった。さすが漁業の町だ。
弁当を空にし、西宮神社鳥居下の海岸を歩いた。すぐ足元にこの標石があった。
三角点は方角を示す「+」があり、水準点は、上部に丸型の凹凸があるものがほとんどである。しかし、この標石は右面に「+」がある。やはり、「十号」だろうか。白御影石造り。一等三角点の大きさだ。とりあえず写真に写した。
今も使われているのだろうか。根元はしっかりコンクリートにより固められていた。

今、HPにより「水準点」を調べている。見たかぎり「海軍」に該当するものや、同じような標石は表われてこない。写真が全くないから困った。
海上保安庁に尋ねるか、近代測量史研究の京都市上西先生へ知らせて、またお願いするしかない。

(追 記) 京都市上西先生からの平成20年6月6日返信は次のとおり。

一般的に水路部の標石は要塞境界標などと異なり海図のために民間にも役立つよう設置されているものが多いようです。陸地測量部(国土地理院)の水準点は道路沿いのものが多いですが水路部は海岸で多くありません。
また水準路線は陸地測量部の路線と結合するようになっているはずです。水位(潮位)の基準となるものと思います。現在は標石ではありませんが金属標がつかわれており「水路測量標」と呼ばれます。所管は海上保安庁海洋情報部で根拠法律は水路業務法です。

それにしても水路部の「海軍水準」と刻字のある標石は、わたしはまだ見たことがありません。壱岐島の嶽ノ峯(だけのつじ)の一等三角点脇には「緯度測定標」「水路部」「明治廿二年三月」の刻字ある標石があるそうですが、これもまだ見ておりません。

(追 記) 京都市上西先生からの平成20年9月28日返信は次のとおり。

このたびは嶽ノ峯の水路部緯度測定標の情報をいただきありがとうございました。同標石が健在であることが確認できました。全国で数少ない水路部の標石ですので大切にしたいと思っております。ご存知のとおり浜田の標石は撤去されて既になくなっています。わたしの探訪したのは小樽、秋田、出雲崎の3ヶ所のみです。

過日、お知らせいただいた小佐々町の海軍水準標石は同様なものが全国各地にあったようですが現存が確認できているのは小佐々町のみで「海軍」と刻字があるのは珍しいようです。+印は+の横棒が測定位置になり、この横棒を基準として海面の比高値を求めます。現行のものは標石でなくすべて金属標になっており水平に設置された金属標の頭を基準とします。海図にはHBMとして載っています。この金属標はわたしも敦賀でみたことがあります。

佐世保市(小佐々町)に残るアーチ石橋

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佐世保市(小佐々町)に残るアーチ石橋

佐世保市(小佐々町)に残るアーチ石橋。西川内の「西川内橋」は、佐世保市街から国道204号線か県道139号線により佐々川河口の見返橋を渡って、小佐々小学校のある田原交差点まで行く。
県道18号線により小佐々浦の海岸へ方へ向かう。まもなく左手に大きなアーチ石橋「西川内橋」が見える。
上流・下流側に広がる風景は写真のとおり。親柱の刻みは「大正九年八月架」であった。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第  58 番  西川内橋(小佐々の太鼓橋) 小佐々町西川内(県道沿い)
大正九年     長さ 15.5m  幅員 3.5m
小佐々町指定文化財(4号)
大正9年(1920年)7月にアーチ橋として架橋された。この堤防沿いの道路は、県道が開通されるまでは小佐々町の幹線道路であった。ちなみに、この橋の建設費は4、630.5円であったという。人夫賃が一日2円、石工が3円の時代である。

(2014年6月17日 追 記)
最近、小佐々町で次の石橋が見つかっているので、現地へ出かけた。後ろに写真、所在地図を追記する。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。

№6,935   岳 下 橋  2013.12.22

佐世保市小佐々町矢岳 岳下(だけした)
橋幅:6.5m  径間:4.63m  拱矢:1.67m  環厚:40㎝   輪石:28列(南側13列、北側14列)
12月10日に、「日本の石橋を守る会」末永副会長より新規情報を頂いていました。
西川内橋で撮影中、ちょうど末永さんが通りがかられ、ご一緒しました。
水は流れていません。縦断勾配がついているため、輪石の数は左側13列、右側14列。

旧泰邦寺跡のシャクナゲ  北松浦郡佐々町志方免

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旧泰邦寺跡のシャクナゲ  北松浦郡佐々町志方免

佐世保市相の浦町まで行き、松浦鉄道沿いの県道139号線により、佐々川河口に架かる見返橋を渡る。左岸を少し上ると、支流志方川を堰き止めた水門があり、手前左から川沿いの細い農道へ入る。

一軒の大きな農家の角に「志方小学校跡」碑と「旧泰邦寺跡」の説明板があり、石段を上った左手の堂前の斜面にシャクナゲの木がある。堂は「平戸新四国第五十八番札所」。
江里峠を越し江迎への県道227号線に入ってから見ると、田の先の川向かいに説明板が見える。地元では「志方小学校跡」と聞かないとわかりにくい。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

シャクナゲの大木

佐々町志方の旧泰邦寺跡の堂横にある。2本のツクシシャクナゲ。近くの玉置山から植栽されたもので、樹齢数百年と言われている。
2本のうち1本の花はほとんど散っていたが、もう1本は僅かに花を残していた。訪れるのが遅かった。
長崎県のツクシシャクナゲの自生は現在では、多良山系と西彼杵半島(県民の森など)にしか見られない。他は盗掘で絶滅してしまったという。

千人堂近くのスタジイ  佐世保市佐々町志方免

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千人堂近くのスタジイ  北松浦群佐々町志方免

佐世保市相の浦町まで行き、松浦鉄道沿いの県道139号線により、佐々川河口に架かる見返橋を渡る。左岸を少し上り江里峠を越し江迎への県道227号線へ入る。この谷間の集落が志方免。集落を過ぎ山手へかかると椎木橋がある。

橋手前に「千人堂入口」の標柱があり左折。標柱に従い左山手の集落まで約600m坂道を進むと千人堂に着く。スタジイは堂から少し下った道脇に立つ。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

スタジイの巨木

佐々町志方・千人堂近くにある。千人堂から左の道を進んだ右手の道沿にある。
幹は根元でふたつに分れ、太い幹はさらに4本に分かれている。幹からは多くの若枝が立ち上がっていて、幹周りはおよそ7mはある巨木。樹高20mほど。樹齢700〜800年と言う。
1563年、平戸軍と相浦軍との戦いで戦死した柴加田一族にまつわるもので、御神木になっている。県北地域でも最大のシイと言われる。
シイの傍は広場になっているが、そこに黒髪神社がある。お墓にしか見えない神社だが、山にあった黒髪神社をここに移したとのこと。
シイの巨木の多くは、洞ができていたりして、老木という印象があるが、このシイは生き生きとしていて樹形もいい。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (4) 鉄道橋と千々石(釜山)砲台跡

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温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (4) 鉄道橋と千々石(釜山)砲台跡

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
愛野駅を除き駅跡の碑を全部写したので、写真が多くなった。その(4)は余談。

長崎本線(大草経由)を済み次は温泉鉄道跡をと、鉄道橋を調べるのが本来の目的。
川や道をまたぐことはあまりなく、煉瓦アーチはなかった。唐比手前で短い桁橋が2つ残っていた位である。
国道57号線から千々石商店街へ入ったところで、親和銀行千々石支店横に清流が流れる。道路下を覗くとアーチが見えた。石造橋かとときめいたが、コンクリート張り。
地元の識者島村酒店の主に確認したら、戦後造られたという。この川は上流に「柳原水源」、下流に洗い場のよいのがある。千々石ホテル跡もある。

千々石(釜山)砲台跡とは、温泉鉄道の千々石第一トンネルと関係する。ほとんど知る人はいないが、トンネル右横の海を向いた高台岩場に砲台が構築された。
太平洋戦争末期、米軍の九州本土侵攻を阻止するため。すでに廃線となっていたトンネルの横腹に穴を開け、砲台への出入りと大砲格納に利用した。トンネルが工廠だった話も聞く。
戦後、壁面を塞いだ。トンネル内にその跡がはっきりわかるから面白い。
橘湾沿岸の戦争遺跡の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/9

最後の写真は今回、富津の「額栗岩」下の鉄道沿いに大きな防空壕を見かけた。頂上岩は監視所のみで、この防空壕が大砲を据えた富津砲台とも考えられる。
温泉鉄道跡は、緑のトンネルも続き景観はよく、鉄道の歴史にひたりウオーキングに向いた道である。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (3)

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温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (3)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(3)は、木津の浜駅から肥前小浜駅までの区間。終点は北野のこの信号の手前で、旅館街へは送迎バスだった。国道の上から見た風景、富津や小浜の写真も入れた。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (2)

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温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (2)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(2)は、千々石駅から木津の浜駅までの区間。沿線近くの写真も入れる。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (1)

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温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (1)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(1)は、愛野駅から海水浴場前の千々石駅までの区間。沿線近くの写真も入れる。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

明治時代?の新街道伝える「一里標」  西彼町に残る

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明治時代?の新街道伝える「一里標」  西彼町に残る

次はHPにより調べた平成16年(2004年)7月2日828号、西広島タイムスの新聞記事。

明治時代の新街道伝える 道しるべ「一里標」を設置

▲新街道で道しるべとして設置されていたという「一里標」
【大竹市】明治維新後、江戸時代の西国街道に替わってつけられた新街道で道しるべとして設置されていた「一里標」。現在の大竹市油見三丁目あたりに建っていたと思われる一里標を、保管していた大竹市油見一丁目の伊藤正保さんが大竹市教育委員会に寄贈し、市教委は六月二十三日(水)、市総合市民会館(立戸一丁目)敷地内に説明板とともに設置した。
山坂が多く難路だった西国街道は明治時代に入り、平たんな海岸沿いに移す計画が上がった。廿日市−大竹間の工事は一八八○(明治十三)年に完成。開通の五年後には西国街道の一里塚に替わって、新街道に一里標が設置された。
大正時代まで設置されていたと推測される一里標は現存しているものが少なく、市民会館に設置されたものはその中の貴重な一つ。御影石造りの高さ百六十四センチ(地中部分含め全高百八十三センチ)ほどの道しるべには、大和橋まで「拾三町五拾六間二尺五寸」と里程などが刻まれており、当時の様子を推し量ることができる。市教育委員会は「昔の国道に設置されていた道しるべを多くの人に見てもらいたい」と話している。

西海市西彼町八木原郷に、これと同じような「一里標」が残っていた。江戸時代の街道一里塚と違う、明治から大正時代にかけての「一里標」のようだ。
場所は国道206号線西海橋の少し手前となる。真珠園療養所を過ぎると八木原で、「八木原 JA長崎せいひ大串支店」がある。このすぐ先の国道沿い左手、倉庫としている空家の庭先に石柱が2本立つ。通るたびに手前のは気にかけていた。
5月31日伊万里・佐賀方面に行くとき、バイクをUターンして調べてみた。奥にあと1本あるとは今まで気づかなかった。いずれも18cm角、高さ1.1mの石柱。手前のは無刻か表面が削られている。

奥のには4面に刻字があった。正面「長崎十二里」、裏面「面高三里二分」、右面「一里標」、左面「長崎縣」。「一里標」とは珍しい。
これは県が設置している。通りかかった高齢の地元井田喜八さんに聞いてみた。
「この石柱はもともと少し先の中郷集落船着場の所にあった。面高(西海町面高郷)を起点に設置され、昔は数本あった。空家の主牧山氏が石柱を貰い受け、この庭先へ据えた」という話。

長崎県にも何も設置史料は残っていないと思われる。日本がメートル条約に加盟したのは、明治19年(1886)。尺貫法併用から完全にメートル法に移行したのは、実に昭和33年(1958)年のことだ。国土地理院の旧版地図は、明治34年測図。一般的な地域のみ。西彼杵半島の特に外海地方は、戦後もまだ陸の孤島であった。
これらを勘案し、設置年代の手がかりとするほかはない。「西彼町郷土誌」に記述がないだろうか。この手の種類として珍しく、貴重な標柱であることは確かだ。

(平成22年5月29日 追記)
この記事は、ブログ「標柱図鑑 〜明治期標石・標柱類 博物館〜」を参照。
http://racoon60.cool.ne.jp/Meiji_milestones/Meiji_Ser.html