練習用」タグアーカイブ

古写真に残る石橋風景  (4)本河内高部ダムの「幻の石橋」?

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

古写真に残る石橋風景  (4)本河内高部ダムの「幻の石橋」?

季刊「Web旅ムック」2007晩秋号 Ⅴol.7の16〜17頁の特集「石橋の旅 第4回」から転載した次の記事「まぼろしの石橋 本河内高部貯水池のダム底に眠る」をまず参照。
長さ8.0m、幅員2.8mの自然石の橋。
https://misakimichi.com/archives/405
この石橋も平成18年春の新ダム完成により、堰堤がかさ上げして造られ、水位が上がったため渇水期でもまったく見ることができなくなった。

「長崎水道百年史」は長崎市立図書館に行ったら、「長崎市水道九十年の歩み」長崎市水道局昭和57年刊が別にあった。こちらが読みやすく、わかりやすくまとめている。
長崎水道は日本で横浜・函館に次ぐ3番目の近代式上水道。本河内高部貯水池は明治22年3月起工、明治24年4月完成した。
写真は「長崎市水道九十年の歩み」の24頁にある。「着工前下流より」と「堰堤築造工事中」の古写真。
最初の着工前写真の中央に、かすかに小さなアーチ石橋の姿が確認できる。川の位置からこれが「幻の石橋」だろうか?。アーチの形が少し違うようにも見える。
次の堰堤工事中写真の左下のは放水口アーチで、最初にこれを造り堰堤を築き上げていく工法となる。現在でも旧堰堤に残る。

「幻の石橋」の記事は、以下のとおり「長崎市水道九十年の歩み」70頁に、渇水時に姿を現わした写真は104頁にあった。
この記事が貴重なのは、昔、本河内の妙相寺川に少なくとも6つ以上のこの種の石橋があった。幻の石橋はその4つ目。最下流側の「妙相寺橋」は、位置と現存としている意味がよくわからないが、2つ目と3つ目は本河内高部水源地の造成により壊された。
「幻の石橋」の上流にも、本を刊行した昭和57年3月当時、5つ目と6つ目の石橋がまだ現存していて、使われていたという記述である。

未曾有な長崎大水害は、この後すぐの昭和57年7月23日。妙相寺のある奥山地区は山崩れがあり、壊滅的な被害を特に受けた。
5つ目と6つ目の石橋が奥山地区を流れる妙相川にあったのなら大水害により損壊。最下流側の「妙相寺橋」もこのため、架け替えられたのか。「山口橋」という橋もあったと聞く。
日見トンネルのある本河内の方を流れる御手水川なら、トンネル西口に「本河内3号橋」と呼ばれる小さく見事な石橋(最後の写真)が現存する。ここは長崎街道の道だ。
年月が経ち、だんだんとわからなくなったことが多い。自然石で築かれたアーチ式石橋が、長崎だけということはないようである。

水没している文化財 本河内の幻の石橋

稀に姿を現わすことがあっても、普段は絶対に見ることができない、そういう存在を「幻の何々」と呼ぶ。
貯水池堰堤の内面や、浄水池、配水池などの内部構造も、まさにそれであるが、その仲間に、本河内高部貯水池の上流に近く水面下に没している石橋がある。これがいわゆる「本河内の幻の石橋」で、貯水池の水を落とした機会に、姿を現わした。
もっとも今までも、異常渇水で貯水池の水が減ると、その都度姿を現わして、給水制限の目安ともなり、最近では市民にもおなじみとなっていた。

この石橋は、自然石を巧みに組み合わせて構築された、非常に珍しいアーチ構造で、日本でも長崎だけにしかない。そして長崎も現川や三川など北部地区に多く残っている。
本河内の妙相川にも、この種の石橋が、少なくとも6つ以上はあったようで、その最下流側の1つは、今も妙相川橋として現存し、上流に向かって2つ目と3つ目は、水源地造成のために壊された。そして4つ目がこの、いわゆる「幻の石橋」で、貯水池造成により、永久に水没する運命となったのである。

これは昭和53年12月20日長崎市の有形文化財に指定されたが、普段は貯水池が水をたたえて、この石橋を保護してくれている。そして水が減るとこの石橋が、赤信号の代りに市民の前に姿を出すのである。
徳川時代の末期ごろに架けられたと思われるこの珍しい構造の石橋は、今後も本河内水源地と共に、長く生き続けていくであろう。
なお、これより上流の5つ目、6つ目は現存して、今も使われている。

富士見公園で長崎要塞地帯標が見つかる

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

富士見公園で長崎要塞地帯標が見つかる

明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」のこれまでの調査結果は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/54
平成17年12月から佐世保市の高橋輝吉氏と合同調査を行い、現在までの次のとおり標石の現存を確認している。(第一地帯標「飽の浦峠」分も含む)
第一地帯標 確認 7本  第二地帯標 確認 7本  区 域 標 確認 10本 計 24本

調査の資料となった「長崎要塞地帯略図」の中、第二地帯標「2−E」の地点は西高や活水高あたりを考えたが、不明のまま次の「2−F」浦上駅とも爆心地に近く、もう標石は現存しないだろうと思っていた。
先日2008/8/19、ブログ記事を見た [ zarakiri ] 氏から思わぬコメントをもらった。
「同じような地帯標は市内の富士見公園にもあります。穴弘法の裏山でも変わったものが見れると思います 」

ありがたい情報である。さっそく出かけた。西城山通りの富士見町「富士見公園」正面から、園地の周りを左方へ車道か遊歩道で行く。城栄町側公園入口の石段脇の植え込みの中に標石はあった。
「陸軍省」「長崎要塞第三?地帯標」「第五十五号」「明治三十二年六月十日」を確認した。
「2nd.Z」と刻みながら、下部漢字が「第三地帯標」としか読めない。番号の続きも悪い。要塞地帯法がたびたび改正され、標石の転用は多く見たからいいとしょう。高橋氏が喜ぶであろう。

この標石は、移設されたことも考えられる。昔、このあたりの道路を通り、どこかで不思議な石柱を見た覚えが、私にもかすかに蘇えった。
「穴弘法の裏山の変わったもの」とはどんなものだろうか。 金比羅山の高射砲陣地防空壕跡などは見ている。要塞地帯標などであれば、ぜひとも場所など詳しく教えていただきたい。

古写真に残る石橋風景  (3)大浦の石橋「大浦橋」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

古写真に残る石橋風景  (3)大浦の石橋「大浦橋」

古写真に残る石橋風景となると、大浦の石橋「大浦橋」にふれないわけにはいかない。記事はほとんど再掲となるので、次も参照。
https://misakimichi.com/archives/792

大浦の石橋「大浦橋」は、市内電車「石橋」終点の電停先にある。バス通りを信号により渡る。横断歩道白線のこんもりした盛り上がりが、アーチ石橋を渡っているのである。
「大浦橋」はこの暗渠下に今も実在する。石橋交番側から川に降り暗渠に入って、私が本年4月、実際に写してきたのが最後の写真である。そのときはちょうど暗渠の補強工事中だった。工事用ライトに、アーチが浮かび上った。

大浦の石橋「大浦橋」の古写真は2枚ある。いずれも現地のさるく説明板にあるもの。長崎大学附属図書館蔵の写真。
最初のは「大浦川沿いのまち並み」。石橋交番裏の電停側に説明板は設置されている。明治 30年代の撮影。「石橋、弁天橋、松ヶ枝橋、散見する人物などが確認できます」とあるとおり、左下に小さなアーチ石橋が確認できる。

次のは「大浦橋」。信号がある横断歩道の「石橋」バス停のところに説明板は設置されている。
「今でも道路の下を川が流れていて、かつての石橋が残っています」は良いとし、「明治19年(1886)、地元の有力者により、この写真の石橋に架け替えられました」とあるのは、誤解をまねきかねない。
掲載の写真はアーチ石橋がわからないし、車やバスをスムースに通すため、後でつけられた角に三角桁をつけた橋となっている。暗渠下の実際の石橋の良い写真が撮れなかったため、とりあえずこの写真としているらしいが、説明板としてどうだろうか。

石橋から上の大浦川を暗渠にし市道を広げたのは、昭和37年から同47年にかけた工事であったと市に確かめている。地元の林正康先生(先祖が大浦橋を架橋)の話でも大学生の頃だったと聞いているので、大浦橋が暗渠下になったのは、昭和40年くらいと思われる。

古写真に残る石橋風景  (2)西浦上の「大井手橋」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

古写真に残る石橋風景  (2)西浦上の「大井手橋」

正確な橋名はわからないが、多分、「大井手橋」というのではないか。浦上ダム下の浦上浄水場正門前に架かる。長崎バイパスに入らず、川平・女の都方面へのバスはこの左の道を行く。
浦上川の本流は西浦上小学校のところで曲がり、左からその支流となる大井手川(源流は滑石峠。上流部は滑石川という)が流れる。ここに浦上ダムが造られ、浦上浄水場ができたのは、第3回拡張事業(昭和16年9月−昭和20年2月)である。

写真集「’91長崎水道創設100周年 NAGASAKI WATER 100」長崎市水道局平成3年刊の38〜40頁にこの古写真はある。
浦上浄水場のろ過池・浄水井の掘削工事にかかった昭和18年3月頃の古写真に、アーチ石橋が写っている。浦上浄水場は昭和20年2月に完成。次の写真があるが、これには西浦上小学校の校舎やマンションのビルが写り、撮影年は不明。だいぶん後年と思われる。アーチ石橋は消え、新しい橋に架け替えられている。

浦上川水系についていえば、三川町へ入った屏風岩近くに、「眼鏡橋」というバス停が今もある。橋名だけ残り、ここにもアーチ石橋があったと思っているが、調べきれずにいる。

古写真に残る石橋風景  (1)日見の「三国屋橋」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

古写真に残る石橋風景  (1)日見の「三国屋橋」

日見宿は長崎街道25宿の一つ。長崎へ2里、矢上へ1里。長崎に近いため、宿泊者は少なく、人馬の継立場として栄えていたようだ。
日見宿に三国屋という酒屋があり、状持ち(飛脚)も勤めていた。三国屋主人(二代目)五郎七が、江戸からの書状を日見川の氾濫した中、書状を頭に巻き濁流を泳ぎ渡り、無事長崎代官所に届けた。
この行為を讃えた代官が、何か褒美をと五郎七に問うと「土地の者も旅人もこの川に橋がないので難儀しており、願いが叶えるなら、川に橋を架けてください」と申し出た。
代官はこの言葉に感動してアーチ型の石橋を架け、五郎七の屋号をとり「三国屋橋」と命名した(日見村史より)と伝えられている。日見宿は川を挟んで200mにあったようだ。

「日見の宿跡」史跡案内板は、現在、国道から網場道へ入り、右の宿町の方へ行ってすぐ「日見宿跡」バス停先のビル角にある。左折すると、ショッピングセンター前に「三国屋跡」があり、その先の日見川に新しい「三国屋橋」が架かる。
「三国屋跡」は近年まで同屋号の古店舗があったが、現在、更地となり近く2階建ワンルーム共同住宅が建つ公告があった。同地にあった説明板によると「三国屋橋」は、「昭和44年区画整理事業により架け替り、橋名だけが残っている」とのことである。

「三国屋橋」の古写真は2枚ある。
最初は、現在の「三国屋橋」脇に最近、設置されている長崎街道さるく説明板の中の写真から。
写真説明には「昭和五十九年三月重要文化財眼鏡橋保存修理工事報告書(災害復旧)」(長崎市教育委員会)撮影年月不詳とある。年月がまぎらわしく、アーチ石橋が撤去されたのはいつかわかりにくい。長崎大水害でなく、やはり昭和44年区画整理事業であろう。

次は、「長崎街道雑記 No.1」長崎街道雑記社平成16年刊の織田武人先生稿「5日見宿 三国屋橋」15〜17頁の資料から。
幕末〜明治10年頃上野彦馬撮影写真(東京国立博物館蔵)と、絵画は日見中学校50周年誌からの写である。
この稿によると、次の文献に日見の石橋の記録がある。「(4)の石橋は、(2)の記録により、天明四年(東浜町安川吉左衛門・今鍛冶屋町林田政五郎両名が架橋寄進を長崎代官に)願出、翌年天明五年(1785)に架設された事になる」と推論されている。
詳しくは「長崎街道雑記」の同稿を参照。

(1)日見村史より(上記内容)
(2)長崎代官手代控ー金井八郎備考録 第一巻より
往還筋并道造之事 日見宿石橋造立之義願候…天明四年十一月
(3)道中日記より 佐久間庸軒著 安政五年十二月十二日…宿中 石ノ太鼓橋有…
(4)長崎県内の橋調査による(明治十五年国道・県道架橋取調より) 宿名 石橋壱ヶ所 …天明五年四月掛カル

ローマ字の橋名を刻んだ一の瀬橋  長崎市本河内1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

ローマ字の橋名を刻んだ一の瀬橋  長崎市本河内1丁目

長崎市の中島川石橋群は有名なため、多くのHPなどにある。ここに取り上げたのは上流部の2橋。かさ上げしている「古橋(中川橋)」は前項で見た。次はローマ字の橋名を刻んだ「一の瀬橋」。
現地へ行った際は、橋の次の点を見落さないように紹介してみる。

「一の瀬橋」は本河内低部ダムのすぐ下にある。市内電車の終点「蛍茶屋」電停から左へかつての長崎街道の道へ入る。電車車庫裏で一の瀬橋が中島川を渡る。
橋の親柱にローマ字で橋名があることは知っていたが、Kazu氏ブログの「長崎の史跡」の項を見たので、一の瀬橋も訪ねてみた。
参 照  http://blogs.yahoo.co.jp/kazu7046/39599623.html

「ICHINOSE BASHI」の表記は、橋の手前と渡った先の親柱2本「一瀬橋」の橋名の上に刻んでいた。しゃれたデザインの彫り。ローマ字はまだはっきりしている。
古橋と同じように、一の瀬橋にも長崎街道さるく説明板が新しく設置されていると思ったのだが、橋自体の説明板はない。前からあった「史跡 一の瀬口 蛍茶屋跡」の説明板だけだった。

これには幕末頃と思われる一の瀬橋の古写真はあるが、簡単な内容の説明板である。橋の詳しい説明も折り込んだ説明板が、必要なのではないだろうか。
古写真と比べ、親柱は形が違い付け直されたのがわかる。
長崎市HP「長崎市の文化財」による説明は次のとおり。

一 の 瀬 口   市指定史跡  

指定年月日:昭和45年10月7日 所在地:長崎市本河内町 所有者:長崎市
一の瀬口は、一の瀬橋を中心とする日見街道の一部をいう。一の瀬橋は、承応2年(1653)唐大通事陳道隆(日本名穎川藤左衛門)が私財を投じて架設した半円形の石橋である。橋名にはローマ字で「ICHINOSE BASHI」とあるが、これは明治20年(1887)ごろ刻まれたものである。
昔は、この付近は樹林が茂り、夏は蛍の名所であり、料亭があったので、いつのころからか蛍茶屋と呼ばれた。長崎を旅立つ人と見送りの人たちが別れを惜しんで酒を汲みかわしたのも、この地であるが、当時をしのぶ遺構は、今では、この一の瀬橋と付近の街道の一部だけとなっている。

ところが 越中哲也先生稿は違う。九州文化図録撰書3「長崎街道」図書出版のぶ書房2002年刊、「天領長崎」72頁に「現在の一ノ瀬の親柱にローマ字でItinose Bashiと刻んである。これは明治15年(1882)、日見峠に車馬の通行できる日本最初の有料道路を造るとき、この橋を出発点としたので、車の便を考え、旧石橋を量上げしたとき、このローマ字入りの橋名を建てている」
日見新道の開通は、明治15年(1882)だから、越中先生のとおりでよいのではないか。

かさ上げしている古橋(中川橋)  長崎市中川2丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

かさ上げしている古橋(中川橋)  長崎市中川2丁目

長崎市の中島川石橋群は有名なため、記事と写真は多くのHPなどにある。ここに取り上げるのは上流部の2橋。
かさ上げしている「古橋(中川橋)」と、ローマ字の橋名を刻んだ「一の瀬橋」。現地へ行った際は、橋のこの点を見落さないように紹介してみる。

「古橋(中川橋)」は中川2丁目にあり、新大工通りは一方通行なので、「中川」バス停の鳴滝入口車道側から行くとすぐである。かつての長崎街道に架かった石橋。
中島川の支流、鳴滝川を跨ぐ。石畳道が残り古橋を渡れば「トロトロ坂」が蛍茶屋の方へ続く。
「旧江戸に通ずる長崎街道石畳保存会」が以前に設置していた現地説明板に、古橋がかさ上げし、重量により欠けやすい部分が布石により補強されていることを図示で説明されていたが、わかりにくかった。
最近、長崎街道さるく説明板に新しく設置替えされていることを、Kazu氏ブログの「長崎の史跡」の項により知り、説明板を写しに出かけた。
参 照  http://blogs.yahoo.co.jp/kazu7046/43911012.html

古橋は蔦が少し払われ、かさ上げ部分と以前の親柱もよく写せた。かさ上げした部分の重量だけでも重いのに、今は車も通る。アーチ石橋の堅固さを実感できる市内で珍しく貴重な橋である。長崎市HP「長崎市の文化財」による説明は次のとおり。

古    橋 (中川橋)  市指定文化財

指定年月日:昭和47年6月10日 所在地:長崎市中川町 所有者:長崎市
鳴滝川に架かるこの橋は、桜馬場から一の瀬に通じる長崎の玄関口にあたり、承応3年(1654)唐通事・林寺?(林守壂が正か)が私費を投じて架けた。眼鏡橋から数えて6番目に架けられた石橋で、この頃堂門・玉帯・高麗・一の瀬の各橋が毎年続いて架けられている。
創架後崩流の記録はないが、現在は勾欄親柱等をそのまま埋めこんで、約1mかさ上げしてある。径間5.1mで、この水系最大の石橋であるが、側壁石に入念な仕事ぶりを見ることができる。大正7年(1918)下流に新しく中川橋が架かり、この橋は、古橋と改称された。

ところで、古橋をかさ上げした時期だが、このHPや現地説明板は説明していない。
HP「長崎市観光・宿泊ガイド あっ!とながさき」によると、
「かつては“中川(なかご)の段々”と呼ばれていたようにこの橋から続く坂道は石段だった。側面から見ると約1m近く野石でかさ上げされ、欄干の丸親柱が埋もれているのがわかるが、これは明治初期に車の交通に対応するため敷石が改良されたもののようだ。他に例を見ない貴重なものになっている」とある。
九州文化図録撰書3「長崎街道」図書出版のぶ書房2002年刊、越中哲也先生稿「天領長崎」73頁にも、「中川橋も、石段を坂道に改造したときに一ノ瀬橋同様に量(かさ)あげされている」とあり、一の瀬橋の橋名を、ローマ字入りで「ICHINOSE BASHI」と建て、日見新道が開通した明治15年(1882)ごろのことと思われる。

浦上ダムの岩屋川補水工事  長崎市岩屋町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

浦上ダムの岩屋川補水工事  長崎市岩屋町

浦上ダムには、岩屋川からも補水している。取水口は、長崎工業高校近く。道の尾交差点から入った市道滑石町岩屋町線の谷間を跨ぐ大きな「岩塔橋」の下である。導水管で岩屋中学校横をくぐらせる。出口はJR道の尾駅南の踏切りのところ。「上道の尾橋」の脇にコンクリート暗渠の出口があった。浦上浄水場で聞いたので間違いないだろう。

岩屋川の取水口「岩塔橋」の下から、長崎工業高校横の「かりそこ橋」まで約50mほど、岩屋川沿いにきれいに造った導水路が見られる。先は道路の下となるだろう。
「かりそこ橋」も一見アーチ石橋風で、このあたりの景観となる。
https://misakimichi.com/archives/612

「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊344頁による説明は次のとおり。これは「1週間で工事が完成」とあり、1964年(昭和39)11月当時、緊急補水した工事しかふれていない。
現在、岩屋川の取水施設や導水路は立派なものになっており、後の整備工事をいつしたのか、記録を探すが年表など見ても特に記してないようなのでわからない。

第9章 水とのたたかい  第12節 岩屋川補水工事

1週間で工事が完成
戦後における長崎市の水事情にとって1964年(昭和39)からの6年間は、まさに苦難の時期といえる。特に浦上水系は戦災復興後の給水の需要に配水量が追いつかず常時ピンチの事態が続いていた。1964年(昭和39)11月は「2日に6時間」という最悪の事態であった。
長崎市渇水対策本部は冬場にかけてのピンチを切り抜けるため緊急対策として岩屋川上流をせき止めて長さ372mを200mmの管で緊急補水し、岩屋中学校横を通って浦上水源池へ1日1,000㎥導水する計画を立てた。11月7日に着工、同月11日に完成し翌12日から補水を開始した。…

浦上ダムの川平導水路及び導水トンネル  長崎市川平町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

浦上ダムの川平導水路及び導水トンネル  長崎市川平町

日本は昭和初期頃から軍国主義的な方向へ向い、この影響は長崎にも大きく及んだ。造船を始め軍需関係の工場が多くなり、工業用水の確保と人口増加による給水の対応が急務となった。
第3回拡張事業(昭和16年9月〜昭和20年2月)により完成したのが、「浦上ダム」である。当初は家野郷二郷橋付近に建設する計画もあったが、水質が良く集水面積が大きい浦上川支流の現地点の場所にダムが建設された。

浦上ダムの場所は、滑石峠に源を発する滑石川の下流域大井手川。西浦上小学校前で川平方面から来た浦上川本流と合流する。
従って、浦上川本流の水は川平郷に取水堰を設け、導水路及び導水トンネルによって浦上ダムに導かれることとなり、ダム建設と同時にこの工事は施工された。
ダム下には「浦上浄水場」ができた。配水池は地形と防空的関係から地下に造られ、日本最初のトンネル式配水池となったが、資材と労力不足により未完成となった(鹿尾配水池は完成)。

取水堰は、川平町市営住宅先の浦上川本流にある。導水路は同住宅の裏手をまっすぐに通って、けやき台進入道路の下に導水トンネル入口がある。隧道区間は860m。
導水トンネル出口はダム堰堤先のバス停「浦上水源地公園」の所らしい。ここの公園下なのか、湖面にあるのか、見ることはできなかった。

浦上ダムは貯水量増加のため、1958年(昭和33)に堰堤が1m嵩上げされた。三組川内にも取水施設が造られた。
「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊242頁による説明は次のとおり。

第7章 戦時下の水道  第3節 第3回拡張事業
工事方法
今次計画の第3回拡張事業工事概要を表示すれば次の如し
浦上川水系
水  源  本流導水路 (隧道860m、開渠300m) 支流は直接流入
貯水池  容量1,620,000㎥
堰  堤  混凝土造重力式  堤頂長95m  堤高 河床上17.5m 

水道施設の銘板アラカルト

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

水道施設の銘板アラカルト

本河内高部の創設水道完成に当たって、有栖川宮からご真筆の「龍瓶」の二字が下賜され、以来、増設水源地や導水トンネルなどに、水に由来した銘板がはめられた。いずれも、絶ゆることなき清浄の水源を祈念する佳句が選ばれている。
この銘板の設置も、第2回拡張工事で終わりとなった。

「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊209〜210頁による説明は次のとおり。
写真集「’91長崎水道創設100周年 NAGASAKI WATER 100」長崎市水道局平成3年刊89頁には、「水道施設銘板ア・ラ・カルト」として特集がある。
最初の写真は、本河内ダムの創設水道、起工・落成の銘板(明治22年3月起工 明治24年4月落成)

第1回拡張工事(明治33年8月〜明治37年3月)で設置された銘板は、
本河内低部ダム          「水旱無増減」  男爵 伊東巳代治
西山ダム               「寒漿濟我人」  男爵 伊東巳代治
本河内導水トンネル入口     「玉   聲」   男爵 伊東巳代治
鳴滝導水トンネル入口       「英   泉」   男爵 伊東巳代治
第2回拡張工事(大正9年10月〜大正15年3月)で設置された銘板は、
小ヶ倉ダム              「人力通霄漢」  市長 錦織  幹(現存せず)
小ヶ倉トンネル入口         「玉聲珊然 」  市長 高崎 行一
出雲浄水場導水トンネル出口  「噴 玉 洞」   市会議長 重藤鶴太郎
出雲浄水場配水池入口      「滾々不蓋 」  市長 高崎 行一(小ヶ倉公宅裏にあったものを現地点に移設)