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桜谷神社のスギ  長崎市東立神町

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桜谷神社のスギ  長崎市東立神町

長崎港の対岸、三菱長崎造船所立神ドックのある東立神町の右方谷間の最奥部に「桜谷神社」はある。古書の長崎地名考に「桜谷は立神郷にあり、花の頃遠くこれを望むに雲のごとく霞のごとし。邑の少女春遊する所なり」
明治16年(1883)拝殿などの新築の折、参道に桜の木が多く植えられたということであるが、今では桜谷の名を偲ばせる面影はなく、大杉があった。

桜谷神社へは、立神バス停近くの立神公園から右手へ谷間の道を上って行く。暗渠の通りと石段をかなり登って20分はかかる。次を読んで大杉2本を確認してきた。
最上部社殿にすぐ着く手前参道の右下の大岩前に立つ。幹囲は2.9mと2.5m。市街地に残るスギとしては大きく感じる。この道は「ホタル越し」という木鉢へ抜ける古道でもあったらしい。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊35頁による説明は次のとおり。

立神の桜谷神社

立神バス停で下車すると近くに立神公園があります。右側の緩やかな坂を進むと直ぐ立神公会堂があり、入口左側に台座を含め高さ4mの記念碑があります。…坂道を5分ほど上がって行くと桜谷神社の鳥居があります。文化5年(1808)建立。途中、みこし堂があり立派な神輿が保管してあります。秋のお祭りは11月3日の由。続く石段の両側は山で小川が流れ、左斜面帯は竹林です。

二の鳥居は昭和8年(1933)建立。これより石段を100段ほど登ると右手にちょっとした小広場があり、運動公園の立て札が立っています。さらに60段ほど登って一休み、上方に目をやると、再び110段あまりの石段と目指す桜谷神社が見えます。空気も良く又、環境も良いので疲れは其れほど感じません。

境内右下の大岩前に天然記念物と言ってもよいような見事な杉の大木が2本屹立しています。右先の大きい方は根回り2.9mで直径92cm、左の方は根回り2.5m直径72cmです。立神公園から神社まで20分位です。…

小野小学校のハナキササゲ  諌早市小野町

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小野小学校のハナキササゲ  諌早市小野町

国道57号線により小野・森山の方へ向かう。諫早市街からの県道55号線に続く市道と合い、しばらく進むと小野小学校のグランド前を通る。このあたりは現在、国道拡幅工事中。干拓の里入口のまだ手前となる。

諌早市の名木「きささげの木」は、小野小学校グランドの国道側隅にある。国道をグランドの先まで行って、右折すると国道側校門から見られる。古い学校なので、校舎の高台にモミやユリノキの大木もあった。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

ハナキササゲ(花木大角豆)

ノウゼンカズラ科キササゲ属 落葉高木
樹皮は灰褐色で縦に割れ目がある。葉は対生し広卵形で浅く3裂するか、ほとんどしない。6〜7月、枝先に円錐花序を出し4〜5cmの白色の花を咲かす。内側に紫色のすじある。花冠はロート状で5裂し唇状になる。縁はあまり縮れない。果実は細長い朔果。

オオアメリカキササゲとも言う。同じ北米原産でアメリカキササゲがある。こちらは、3cmほどの白色の花で、花の内側に紫色の斑点があり、縁が縮れるのが特徴。
諫早市・小野小学校にあるハナキササゲ。諫早市の名木の一つ。

小野小学校HPによる「校歌」は次のとおり。作詞はあの宮崎康平、作曲は山口健作氏。いちょうの梢とともに2番目に「きささげの花」が歌われている。
HPの次記事「小野の紹介」「小野の風景」も為になる。「きささげの木」の植えられたいきさつと樹の大きさが、以下のとおりあった。
この外、小学校の中庭は「小野古墳」で、出土品は小学校玄関の陳列ケースにおさめられている。小学校上のこんもりとしげった森は、戦国時代に築かれた「小野城跡」。
画伯野口弥太郎は、6年生の半年間小野小学校に在学し、野口家は小野小学校となりに白壁の土蔵のある家である。小学校のとなりは大楠の「宗方神社」で、これらの紹介と学校の風景写真などがある。
小野小学校の校歌

1 きよらに晴れる多良の峰  緑にかおる朝のつゆ  いちょうの梢に陽がのぼるよ
ああうるわしのまなびやに  なつかしのかねはなる  なつかしのかねがなる

2 はるかにわたるしらぬい橋  光にかける青い夢  こんぴら山に雲がわくよ
ああふるさとのまなびやに  きささげの花はさく  きささげの花がさく

3 ゆたかにみのる小野平野  あかねにそまる空の色  宗方の森に陽が沈むよ
ああとこしえのまなびやに  ゆりかごの鳥はなく  ゆりかごの鳥がなく

「きささげの木」

小野小学校の運動場には,「諫早市の名木百選」に選ばれたキササゲの大木があります。中国原産の落葉高木で別名「あずさ」とも言われます。ささげの形に似た長さ30センチメートルにもなる実をつけ,中の種は腎臓病の薬とされています。
このキササゲは,宮崎康平氏の作詞による校歌にも歌われ,樹齢80〜90年,樹高15メートル,幹周り3メートルもある大木です。昭和8年に松崎留男先生が久留米の植木屋より購入され,旧校舎の玄関に植えられたそうです。
今日も,このキササゲの木は,小野っ子たちを優しく見守っています。

慶巌寺の磨崖仏三十三観音  諌早市城見町

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慶巌寺の磨崖仏三十三観音  諌早市城見町

諫早公園の眼鏡橋から見ると、本明川の対岸に見える寺が慶巌寺なので、近くの公園橋などを通って行く。 慶巌寺の参道橋を渡り石段にかかる。岩肌に彫った小さな観音像がある。参道のここのはもっとも右端となるので、川沿い道路の駐車場へ行くと説明板があり、「慶巌寺の磨崖仏三十三観音」の全体が見渡せる。

寺下の崖面の左右に、小さいながら精巧に彫られた表情豊かな三十三体の観音像。まだ彩色が残るものも見られる。一部、崖は崩落している。左隣家の先へも続いているので、回り込んで見る。
諫早には、久山台近く新屋敷交差点から入ったところに同じような磨崖仏三十三観音があり、御手水観音には富川渓谷のような磨崖仏群49体があるので、これらも見てみたい。
いずれも諌早市指定文化財や史跡。現地説明板は次のとおり。
HP ” いさはやWEB情報室 ”の「諌早の歴史と文化を知ろう  名所旧跡編」が、<諫早市の文化財(市教委)>からこれらをよく紹介しているので参照。

慶巌寺の磨崖仏三十三観音  市指定有形民俗文化財 昭和59年7月26日指定

本域南端の第三紀僧砂岩の岩肌に、西を起点として33体の観音菩薩像が整然と彫刻しています。光背型(仏・菩薩の背後に有る光明を示す型)にえぐり込んだ中に、観音像を陽刻してあり、高さ約40cm、幅30cm前後を測ります。観音像の右側には、「西国三十三所○○番」というように番号が陰刻されています。

建立の縁起については、あまり明確ではありませんが、「観音経」に説くように、観音菩薩が33に変化し衆生を救済するという三十三観音信仰思想と庶民の救いを求める願望が合致して成立したものと思われます。
崖面のほぼ中央に記銘があり、
「明和七年  西国三十三観音大士願主福田源太夫母  二月吉祥日」
と記しています。明和七年は西暦1770年に当たります。

なお、三十三観音の祀り方には、石塔の上に観世音菩薩を据えて祀る形と磨崖仏として崖壁に彫り込む形があり、前者では永昌町の八天狗社・金比羅岳頂上の権現堂周りのもの、後者では久山の磨崖仏が知られています。
いずれも当時の民間信仰、習俗を知る上で貴重なものです。
平成11年3月31日                    諌早市教育委員会

稲佐山展望台からの展望

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稲佐山展望台からの展望

平成20年8月24日、水の浦から稲佐山・権現岩へ行く。稲佐山展望台からの展望。昼の全景はあまり紹介がない。山野歩き https://misakimichi.com/archives/1227 も参照。
稲佐山は長崎港の対岸にあり、標高342m(三等三角点地点は333.0m)。ロープウエイが渕神社駅から通う。
市街や港外を一望でき、長崎の名所。夜景もよい。山頂に吉井勇の歌碑 ” おほらかに 稲佐の嶽ゆ 見はるかす 海もはろばろ 山もはろばろ ”

水の浦から稲佐山・権現岩へ  平成20年8月

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水の浦から稲佐山・権現岩へ  平成20年8月

平成20年8月24日(日)晴。水の浦から稲佐山・権現岩へ。参加6人。
水の浦公園9時半発ーシンフォニーの森ー稲佐山ードッグラン広場(昼食)ー権現岩ー春木町ー梁川公園15時着。

水の浦公園から右尾根を上り、シンフォ二ー稲佐の森から登山道へ入る。稲佐山展望台からの展望は風景の項へ。
野外ステージでは、ライブ” Sky Jamboree ‘08 〜「笑顔」〜 ”があっていた。
権現岩へ行って尾根分岐に戻り春木町へ下ったが、送電線鉄塔を2つ過ぎて最後の出口がわかりにくくなっている。右手谷方へ下ると人家横に出る。

稲佐山の標高は、国土地理院地図によると三等三角点地点が333.0m。展望台のところが高く標石がない標高342mと表示されている。地図の切れ目に当たり間違いやすい。

慶巌寺と名号石  諌早市城見町

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慶巌寺と名号石  諌早市城見町

諫早公園の眼鏡橋から見ると、本明川を挟んで対岸に見える寺が慶巌寺であるので、近くの公園橋などを渡って行く。
慶巌寺は、元諫早村小路(原口町泉野)にあった常楽寺を、二代諫早藩主の室、慶巌院の志願により、慶長10年(1605)今の城見町岩小屋に移転・改築し、寺号を慶巌寺と改めた。諫早領主の帰依寺となり、霊屋廟所が設けられた。

八橋検校ゆかりの「六段発祥地」。諫江八十八ヶ所霊場第十五番札所。
参道の左右崖面の摩崖仏「三十三観音」(別項)は市指定有形文化財。右手には天明7(1787)年建立の芭蕉を偲んだ「翁塚」がある。
仁王門をくぐった正面が本堂で、佐賀鍋島藩の紋「杏葉」が打たれている。諫早家家宝「明珍の鎧」もここに保管されている。
境内左には、県指定有形民俗文化財「慶巌寺の名号石」がある。そのほか水害の慰霊碑や十六羅漢像がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による名号石の説明は次のとおり。

慶巌寺の名号石  県指定有形民俗文化財

指定年月日 昭和56年3月27日 所在地 諌早市城見町15−19 所有者 慶巌寺
碑面中央部に南無阿弥陀仏の名号を楷書で陰刻し、枠の線とともに薬研彫りである。右側に意趣と年紀の銘がある。これによれば、貞和7年(1351)衆生平等利益を祈念して建立されたものであるが、建立にかかわった人の名前と思われる碑面最下部の僧名や建立の具体的動機にかかわる歴史的背景等については不明な点が多い。
しかしこの種の名号石は県下に類例がなく、地方史研究のうえからも貴重である。

この「名号石」は、奇縁があってこの寺に祀られることとなったらしい。
「長崎県の石橋を訪ねて」のHP氏 ” Fwd−net 長崎・諫早 ”の散歩コーナーによる話は次のとおり。
慶巌寺の名号石

本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる慶巌寺の境内にある。慶巌寺の山門脇に建つ屋根を被せた板碑が、この「名号石」です。
正面に彫ってある「南無阿弥陀仏」の彫り方が、特殊な「薬研彫(やけんぼり)}であることと、年代が貞和7(1351)年であることから、県の文化財に指定されている。

名号石の正面の銘は、下記のとおりである。
右意趣者為法界衆生平等利益也   一結  敬白。
南 無 阿 弥 陀 仏
貞和七年辛卯四月十三日
また、下の方に二十数名の名前が刻んであるようだが、判読できない。貞和七年は観応二年に変わっているのだが、観応の年号を使わなかったのは、後醍醐天皇と対立する南北朝時代なので、北朝の足利直冬が使わせなかったといわれ、諫早地方が当時足利勢の勢力下にあったという、歴史的な事実が浮かび上がってくる。

この名号石は、元々慶巌寺に有ったのではなく、以前は、大城戸(おおじょうご)と呼ばれた現在の諫早郵便局のあたりの小川に渡して、橋がわりに使われていたもの。
ところが、この石が夜になると、怪しい光を出すため、付近の人が畏れて使わなくなり、渡れば祟りがあるとの噂が流布された。
そのため、あらためて調べてみると、石板の裏側に南無阿弥陀仏の銘が読めたので、「墓石だ!」と肝を潰したという。こともあろうに、墓石を橋に使って踏みつけていたと思った住民は、祟りを恐れて供養のために慶巌寺に運んだ。

慶巌寺で「これは、名号石だ」とわかり、境内に祀って、磨耗を防ぐために屋根も設けた。さすがに名号石だけあって、自分で住民に知らせて、慶巌寺に収まったと考えるのは、考えすぎだろうか? でも、そう思ったほうが、楽しい。

やまめの里近くのオガタマノキ  雲仙市千々石町庚

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やまめの里近くのオガタマノキ  雲仙市千々石町庚

雲仙市千々石町木場から雲仙別所ダムへの県道128号線に入る。途中の分岐から岳集落奥のやまめの里へ向かう。上岳を過ぎ千々石川の上流まで進むと九州電力千々石第五発電所があり、すぐ先がやまめの里で道路は行き止りとなる。九千部岳の真下である。
発電所とやまめの里間は約50m。発電所を過ぎて左手の渓流沿いを見て行くと、中間ほどにこのオガタマノキがある。

気がけて見ると少し下流の対岸にも、幹囲は同じくらい、根元から2つに分かれたオガタマノキの大木があった。発電所のすぐ上の対岸側。
曇り日の夕方近く林間は暗く、木の写真は写りが悪かった。
「上岳のタブノキ」は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/560
後の写真は、発電所手前の水分神社前にある桁石橋「宮橋」と、雲仙側へ県道を登った途中の岳展望所から見た「清水棚田」。やまめの里へは、この写真の道を右へ上がって行く。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

オガタマノキの巨木

雲仙市千々石町のやまめの里近くの渓流沿いにある。樹高2mほどから5つに分岐して、幹周りおよそ4m。樹高20mほど。

諫早公園のミサオノキとヒゼンマユミ  諌早市高城町

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諫早公園のミサオノキとヒゼンマユミ  諌早市高城町

諌早公園一帯は、諫早市城山暖地性樹叢として国指定天然記念物に指定されている数十種の暖地性植物に覆われた緑豊かな丘陵地である。
公園内には、樹齢600年を越すクスの大木などがあり、本明川から移築された国指定重要文化財の眼鏡橋から城山へ遊歩道を上って行くと、途中にミサオノキが見られる。

山頂の広場に大クスが立ち、付近一帯にヒゼンマユミをはじめタブノキ、ムクノキ、スタジイ、ツガなどの大木がある。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。
「諌早公園の大クスと高城回廊の巨樹」は、先の項を参照。
https://misakimichi.com/archives/381

ミサオノキ( Randia cochinchinensis )

アカネ科ミサオノキ属 常緑低木
葉は対生し濃緑色の卵状楕円形〜長楕円形。革質で葉先は尖る。基部はくさび形。側脈は7〜8個。葉裏は淡緑色〜灰緑色。托葉は線形。
5月頃、集散花序の淡紅色を帯びた白い花を咲かす。花冠は筒状で花弁は5裂し反りかえる。雌しべは棒状でつき出る。
果実は7mmほどで赤紫褐色で秋に黒く熟し、翌年の晩春まで枝につく。
紀伊半島から四国・九州・沖縄に分布。原産地は熱帯アジア・太平洋諸島。
諫早市諫早公園のミサオノキ。花は5月中旬。果実は11月と1月下旬。

ヒゼンマユミ(肥前真弓)

ニシキギ科ニシキギ属 常緑小高木
葉は対生で、卵形〜長楕円形で縁にはまばらに浅い鋸歯がある。薄い角質で光沢がある。普通のマユミは落葉樹である。4〜5月、柄がある集散花序をだし、黄緑色の小さな花を咲かす。朔果(さっか)は球形で4稜がある。淡黄褐色に熟すると裂けて、赤褐色の仮種皮に包まれた種子が現われる。
諫早公園にあるヒゼンマユミ。花は5月。黄褐色の蒴果をつけていて、風鈴のようで美しい。蒴果は12月。
園内にはこのような高木のヒゼンマユミが数本あり、その種から育ってきたと思えるヒゼンマユミが多数ある。ヒゼンマユミは南方系の木で珍種といわれている。明治39年、千葉常三郎氏がここで発見した。「諫早市の木」に選ばれている。
諫早市役所の敷地内にもヒゼンマユミの大木がある。

諫早公園の眼鏡橋近くにある桁石橋

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諫早公園の眼鏡橋近くにある桁石橋

諌早市高城町の諫早公園へ移築復元されているアーチ石橋の名橋「眼鏡橋」を見たら、近くにある趣きのある桁石橋も訪ねてみよう。
「くじら橋」「御書院の太鼓橋」「慶巌寺の参道橋」は、いずれも諫早藩のご城下、眼鏡橋のふるさとにふさわしく見ごたえがある。

慶厳寺の参道橋の親柱は、「享和三年」と刻まれている。同寺の摩崖仏三十三観音・名号石などは史跡の項で別項。
HP ” Fwd−net 長崎・諫早 ”の中「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のとおり。

写真  1  第 k-002 番   く じ ら 橋       諌早市高城町(諫早公園内)
安政年間(1858年頃)
郷土の聖人、土橋多助翁が、旧好古館(現諫早市役所)の裏門にに架けた橋。現在は諌早眼鏡橋の奥に移築。

くじら橋と土橋多助翁

諫早公園の、眼鏡橋の後ろに、小さな石橋が架かっている。これを「くじら橋」という。この橋は、元々、旧好古館(現諫早市役所)の裏門に、安政年間(1858年ごろ)に架けられた橋で、今でいう、市役所と北島医院の間に架かっていたという。
橋が架かっていた掘割は、山下淵から、水を取って、輪内(仲沖)に、水を通していた、用水路です。この用水路は、今も商店街を横断して、仲沖に水を送っている。

その後、明治6年に諫早小学校を建てるため、旧道路を潰したので、この橋が小学校の裏口となったが、大正10年から、始った諫早公園造りが一応の完成をみた後、上り口にの掘割に木橋を架けたが、木陰で腐食が早いため、大正末期に、くじら橋を、諫早公園昇り口に移した。
昭和の時代になり、何時しかこの橋の謂れも、忘れ去られて行き、昭和32年の諫早水害のあと、眼鏡橋を諫早公園に移築する際、盛土をするため、くじら橋は撤去することになったが、この橋が、「くじら橋」であったことは知らなかったが、良い橋で勿体無いため、眼鏡橋の池に架け替えることとなり、現在の位置に架けられている。

この橋が、くじら橋と呼ばれるのは、現在で言う新橋の上まで、鯨が迷い込んで来ることがあったからだというが、今となっては定かではない。
この橋が、「くじら橋」の名を取り戻したのは、昭和52年頃から、城下町の調査を始めた、諫早高城会の、山口祐造氏の、ご努力に拠ったものである。…
土橋多助翁が架橋した橋は、上記の鯨橋以外に半造橋、段堂橋、田代橋、森山の多助橋(市道下名多助橋線であれば現在の下井牟田からの市道)であったという。全て石橋であったという。…

写真  2  第 k-003 番   御書院の太鼓橋      諌早市高城町(諌早高校内)
江戸時代
藩政時代の庭園に架かる桁橋

旧諌早家の御書院(諫早高校)

現存する大名庭園が、そのままの姿で残っている諫早高校のシンボル「御書院」の庭園です。旧領主である、諫早家から寄贈された日本庭園を、諫早高校の生徒達は、「御書院」と呼んで大切にしています。…
庭園の中央に、大きく配した心字池は、どの角度から見ても心を和ませてくれます。庭園内には、楠木の古木が力強く茂っています。…
紅葉が池に映えて、良い雰囲気です。この日本庭園が学校敷地内にあるんですから、諫早高校は贅沢な学校ですよね。

眼鏡橋の諫早公園とは隣接し、諌早市体育館の後ろを回る高城回廊に御書院の入口があり、この御書院に入れます。
御書院には、梅雨の前に白い花をつける「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の木」がある。満開の時は、雪の積もったように見事だ。…

写真  3  第 k-017 番   慶巌寺の参道橋       諫早市城見町
享和3年(1806年)    長さ 8.0m 幅員  3.3m
筝曲六段発祥の地として有名。
諫早の眼鏡橋の川向にある慶厳寺の参道橋。摩崖仏三十三観音など見るべきものが多い。

慶巌寺(城見町)

本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる。天満町〜蓮光寺〜此処、そして安勝寺と、本明川河畔に名刹が続く。
諫早の旧市街の中央に慶巌寺がある。有名な八橋検校がここで筝曲「六段」を創ったといわれる。毎年秋には、「六段祭り」も開かれる。
また、摩崖仏「三十三観音」があり、市指定有形文化財となっている。文化財かどうかは別にしても、古の民人達の信仰の深さが偲ばれる。

観音様を拝したところで、石段を上ってみよう。右手には、天明7(1787)年建立の、俳聖芭蕉を偲んだ、翁塚がある。明治の神仏分離の折に、廃寺となった、お四面さまの荘厳寺から移築した、仁王門が見事。…
仁王門をくぐって境内に入ると正面が、本堂。紋を確認すると、佐賀鍋島藩の紋、杏葉が打たれている。慶巌寺は、二代藩主の室、慶巌院の志望により、慶長10年に建立されたもの、二代直孝公の時代に、佐賀鍋島藩と諫早藩の上下関係が確定したので、当然の紋ともいえる。
境内には、奇縁があって、この地に祀られる名号石もある。そのほかにも、水害の慰霊碑や十六羅漢像、なんと言っても、普段は見れないが、諫早家家宝、明珍の鎧も、ここで保管されている。

古写真に残る石橋風景  (5)諫早眼鏡橋

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古写真に残る石橋風景  (5)諫早眼鏡橋

昭和32年(1957)7月25日の諫早大水害にも流されなかった「眼鏡橋」は、諌早市高城町の諫早公園内に、昭和36年9月に移されている。国指定重要文化財。
もともと本明川に架かっていたのは、ここから下流約450mのところ。今はそこに「眼鏡橋」の銘板があり、歩行者専用橋が渡っている。
諫早公園の現地説明板は次のとおり。古写真も同説明板から。

重要文化財  眼 鏡 橋

この橋は、すぐそばを流れる本明川の下流、ここから約450mの所に架けられていたものです。
本明川は昔からたびたびの洪水で橋が流され、人びとは長い間苦しんでいました。そこで、永久にこわれない石橋を作りたいという切実な願いが起こり天保10(1839)年精魂込めて架けられたものです。
それからは「いさはやのめがねばし、いきもどりすれば、おもしろかなり」と数え歌とともに愛され、親しまれてきました。
昭和32年、死者539人を出した大水害で、本明川の橋はほとんど流されたのですが、眼鏡橋はそのままで名橋の名をとどめました。
水害復興で川幅を広げるため橋を取り除いてしまう計画でしたが、こんな立派な石橋をなくすのは惜しい、という市民の熱意が実を結び、石橋で初めて国の重要文化財に指定されて、昭和36年9月、もとのままの形でここに移されたものです。
橋の長さ  49.25m   幅  5.5m   石の数 約2,800個
昭和33年11月29日指定        文 部 省  諫早市教育委員会

なお、眼鏡橋の移築復元には、工法確認のため1/5スケールの精密な復元検証模型が造られ、埼玉県所沢市ユネスコ村に残されている。
貴重な模型をぜひ諌早へ呼び戻そうと、諌早市や市民団体など運動を行っているが、現在のところまだ進展がないので、協力を呼びかけている。
「長崎県の石橋を訪ねて」HP氏の ” Fwd−net長崎・諫早 ”の中の要旨は次のとおり。詳しくは同HPを参照。最後の写真はユネスコ村の同模型。

諌早眼鏡橋の復元検証模型を呼び返そう

【復元の実験に使われた眼鏡橋の模型】
復元工事の指揮にあたられた、山口祐造氏(当時諌早市職員)は前例の無い復元工事の工法確認に1/5スケールの精密なモデルを石で作って実験しながらデータの収集を行った。
諌早眼鏡橋を移築後は、実験に使った模型の出来があまりに素晴らしかったため、文化財に準ずる扱いで、ユネスコ村に残されることとなった。

…長崎新聞を開いたら「模型古里へ戻そう」の記事が目に入った。当サイトの「諫早眼鏡橋」でも紹介している、埼玉県所沢市ユネスコ村のミニ諌早眼鏡橋の記事だった。(06/08/2003)
新聞記事には簡単にしか触れていないが、この模型は移築復元の唯一の成功例といわれる諌早眼鏡橋移築の技術的な諸問題の解決のために造られたもの。

この橋は模型とはいえ、10mの大きさであるとともに、出来栄えの素晴らしさから文化財に準ずる扱いをする為に、ユネスコ村に移築保存されていた。
今ごろになって返して欲しいとは、ちょっと申し訳ない気もするが、諌早に帰ってこれれば、こんなに嬉しいことは無い。なんとか実現に協力できないものだろうか?