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薩摩川内市里町(上甑島)の風景・史跡 (3)

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薩摩川内市里町(上甑島)の風景・史跡 (3)

甑島列島は、鹿児島県薩摩川内市に属し、串木野新港から38kmの県西方海上にある。上甑島・中甑島・下甑島が連なり、全長は約35km。面積は約119k㎡。甑島県立自然公園となっている。串木野新港から甑島の玄関・里港まで、高速船50分、フェリー1時間10分である。
鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊 観光かごしま」観光スポット里町などによる説明は、次のとおり。

写真  1        甑島風力発電所       里町里山神
里港から見える山の上で、大きなプロペラが回っています。これは九州電力の日本初の実用風力発電所で、直径28メートルの羽根で風を受け電力を生み出しています。無人全自動、100%天然のニューエネルギーです。水平軸プロペラ式、タワー高30メートル、最大出力250キロワット。…運転開始 平成2年3月。

写真  2〜  4    ◇須 口 池
長目の浜湖沼群。浜堤は里町地域内の湾曲に富む海岸線の一部を形成しています。海との境が比較的小粒な礫であるため海水が通りにくく、殆ど淡水でウナギやボラなどを産する池とされています。

写真  5〜  7    長目の浜展望所(手前側の展望所)からの眺望

写真  8〜 10    ◇長目の浜展望所からの眺望
左から「鍬崎池」、「貝池」、「なまこ池」。はまゆうで仕切られた海岸線を境に右側は、東シナ海の大海原です。

長目の浜湖沼群(ラグーン)  里町地内
島の北西部の山裾が太古から風波に崩れ潮風で造った幅50メートル、長さ約4キロにわたって続く砂州で、なまこ池、貝池を海と仕切っています。長目の浜の延長には鍬崎池、さらに須口池を抱く砂州もあり、これらの「甑四湖」は甑島有数のビュースポットとなっています。なまこや魚介類の生息するなまこ池は海水と淡水二層からなり、貝池には30億年前に出現した微生物クロマチウムが現在も生息するなど、大小四つの湖沼群は自然の神秘を秘めています。
藩政時代、島津光久公が巡視の際に「眺めの浜」と命名し、その景観をほめたことが名前の由来といわれています。田之尻展望所が最高のビューポイントです。

(長目の浜の「貝池」「なまこ池」は上甑町となるため、次の上甑町記事に載せる)

写真 11〜 12    ◇鍬 崎 池
長目の浜湖沼群。浜堤は里町地域内の湾曲に富む海岸線の一部を形成しています。

薩摩川内市里町(上甑島)の風景・史跡 (2)

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薩摩川内市里町(上甑島)の風景・史跡 (2)

甑島列島は、鹿児島県薩摩川内市に属し、串木野新港から38kmの県西方海上にある。上甑島・中甑島・下甑島が連なり、全長は約35km。面積は約119k㎡。甑島県立自然公園となっている。串木野新港から甑島の玄関・里港まで、高速船50分、フェリー1時間10分である。
薩摩川内市観光協会甑島案内所作成サイトによる「里町観光情報」の説明などは次のとおり。

写真  1〜  2    里地頭仮屋跡(里小学校校庭)

写真  3         津口番所跡

写真  4〜  9    ◇武家屋敷跡
ここは、江戸時代の郷士たちが住んでいた武家屋敷のあったところです。数百メートルに渡り丹念に積まれた玉石垣は保存もよく、訪れる者をいにしえの世界へといざないます。

写真 10        ◇八幡神社
祭神は(ににぎのみこと)。平安時代初めの嘉承2年(西暦894年)に、川内の新田八幡の宮里壱岐が分霊をいただいて来島、里村に社を立てて奉祀した。祭礼は、旧暦9月19日。古式による饗(あえ)の儀式や巫女舞が奉納される。

写真 11〜 16   ◇隠れ山
藩政時代には薩摩藩において真宗の信仰が厳禁されていました。天保か文久の時代にかけて大弾圧を受けた際に、里村の信徒たちが仏像や経文をここに隠し、隠れ念仏の場所として難を逃れたと言われています。

薩摩川内市里町(上甑島)の風景・史跡 (1)

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薩摩川内市里町(上甑島)の風景・史跡 (1)

甑島列島は、鹿児島県薩摩川内市に属し、串木野新港から38kmの県西方海上にある。上甑島・中甑島・下甑島が連なり、全長は約35km。面積は約119k㎡。甑島県立自然公園となっている。串木野新港から甑島の玄関・里港まで、高速船50分、フェリー1時間10分である。
鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊 観光かごしま」観光スポット里町などによる説明は、次のとおり。

写真  1〜  2    里町交流センター「甑島館」   里町里
薩摩半島の西方海上に浮かぶ甑島の玄関港、里港に建つ里町交流センター「甑島館」は、海のブルーとのコントラストが美しい白い建物。甑島唯一の滞在型温泉施設です。全客室から紺碧の東シナ海を望み、甑島ならではのオーシャンビューを堪能できます。この館の自慢は、サウナや露天風呂も備えた天然温泉。湯は赤褐色がかった塩化ナトリウム泉で、体の芯から温まります。… (近くのモニュメントは「里の風」)

写真  3〜  4    薩摩川内市合併記念碑・薩摩川内市里支所

写真  5〜  6    トンボロ地形              里町
里町の集落はトンボロと呼ばれる面白い地形の上に成り立っています。海を隔てた島が、沿岸流でできた砂州で結ばれた陸繋島をイタリア語でトンボロといい、海底や沿岸流によって運ばれた砂や石が、波の作用によって水面上に現れたものです。一般的に細長くて低く、里トンボロは、南北に約1500メートルで最大幅1000メートル、最小幅250メートル、高さは2、3メートルあります。
里町の陸繋は、里の東浦を東より襲う台風と、西浦へ西より吹き付ける冬の季節風によって、沿岸海底の砂礫が押し上げられてできたものと考えられています。

写真  7〜 10    市の浦キャンプ・海水浴場    里町市の浦
市の浦海水浴場は、きめ細かい白砂と澄んだ遠浅の海が広がる里町北端のビーチです。野島や筒島など大小の島々を望む素晴らしい景勝地です。透明度の高い海での海水浴はもちろん、魚釣りや磯遊びは格別。…

写真 11〜 12    ◇市の浦遊歩道
野島や筒島など大小の島々を望む素晴らしい風光と市の浦海岸を望みながら散策できます。…(以下とも甑島観光協会HP)

写真 13〜 15    ◇亀 城 跡
小高い丘の上に残された亀城跡は、承久の変で戦功のあった鎌倉方の武将:小川太郎季能の子:季直が地頭とし築城したと言われています。南方の丘には甑隼人の城であったという鶴城跡があり、両者合わせて[鶴亀城]と呼ばれています。

写真 16〜 17    ◇釣 鐘(通称ドン)
明治23年に発布された教育勅語30年を記念して、大正9年10月30日に里村青年団が亀城跡(通称一の段)に鐘楼を建設し、その中に釣鐘を設置しました。釣鐘は「ドン」という愛称で住民に親しまれ、鐘が打たれると「ドンが鳴った」と言われました。…

長崎学さるく “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” (2)  平成21年11月

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長崎学さるく “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” (2)  平成21年11月

平成21年11月9日(月)晴。長崎学さるく幕末編行事 “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” 参加スタッフとも12人。講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者で長崎街道ネットワークの会江越弘人先生。
諏訪神社鳥居前9時半発ー新大工通りー春徳寺ー城の古址ーししこまさまー焼山城跡ー七面山妙光寺(昼食)ー烽火山番所道ー烽火山・狼煙台窯跡ー南畝石ー秋葉神社ー妙相寺15時着(徒歩約14km)

あまり知られていない長崎市東部の山、焼山と烽火山(標高426m)の史跡を山歩きを兼ね訪ねた。見学場所は次のとおり。江越先生作成資料から「11 烽火山番所道」は概略を載せる。
本ブログにもすでに「烽火山かま跡・番所道・南畝石など」の書庫あり。各記事を参照。

10 七面山妙光寺 コウゴウ岩
11 烽火山番所道 新番所跡・旧番所跡・大荷床
烽火台までの登路は、「長崎市史」に詳しく記しているが、今日まで、登る人がいなく、廃道となって、一時期、その登路を確認することができなかった。平成19年にようやくこの道を発見して、登れるように整備したが、市史に記されてからかなり時代が経っており、周りの様子など違ってきている所がある。そこで、市史の記述をもとに現状を比較してみよう。…
(現 状)
番所道は、妙光寺のかなり下手の住宅地が途切れる辺りから右に曲りすぐ左に登っていく。畑が尽きたところに、小さな石橋(板状)が架かっている。単なる畑道や山道にしては、立派な石材を使っているので、これが番所道だと知ることができる。石橋を過ぎると左手に深く刻まれた急な山道を登っていく。今では、樹木が繁り、展望は全くない。番所の跡は、僅かに残る石垣と平地からようやく判断することができる程度である。
残念なことに「染筆松」の石碑は、どこを探しても見つからない。また、谷間の泉も、大水害で谷筋が変ってしまって見つけることができなかった。
12 烽 火 山 狼煙台窯跡・南畝石(その他 亀石・人面岩)
13 秋 葉 山
14 瑠璃光山妙相寺(曹洞宗)

次回は、11月29日(日)に”橘湾沿岸の台場跡めぐり” 講師は諌早市郷土館織田正人先生。9時30分東望道バス停集合。

長崎学さるく “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” (1)  平成21年11月

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長崎学さるく “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” (1)  平成21年11月

平成21年11月9日(月)晴。長崎学さるく幕末編行事 “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” 参加スタッフとも12人。講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者で長崎街道ネットワークの会江越弘人先生。
諏訪神社鳥居前9時半発ー新大工通りー春徳寺ー城の古址ーししこまさまー焼山城跡ー七面山妙光寺(昼食)ー烽火山番所道ー烽火山・狼煙台窯跡ー南畝石ー秋葉神社ー妙相寺15時着(徒歩約14km)

あまり知られていない長崎市東部の山、焼山と烽火山(標高426m)の史跡を山歩きを兼ね訪ねた。見学場所は次のとおり。江越先生作成資料から「9 焼山城跡」は概略を載せる。
1 大 手 橋
2 桜馬場天満宮(真言宗 威福寺跡)
3 上長崎村役場跡
4 桜馬場天満宮と雲龍寺跡
5 長崎村庄屋跡(長崎甚左衛門館跡)
6 華嶽山春徳寺(臨済宗建仁寺派)
7 城の古址 龍頭巌・末次平蔵政直の墓 金鍔谷 タンタンタケジョ 城の古址観音堂
8 ししこまさま
9 焼山城跡
焼山は、八気山とも書かれ、標高190m余の山城で、時代は不明であるが、長崎氏が築いたものである。現在、城塞の大部分が崩壊しているので、城の状態を知ることはできないが、僅かに崩れ残った石塁などから、高さ1m余の石塁が周囲300m以上に亘って焼山を取り囲んでいたものと思われる。
山頂の船人首塁(ふなとくびつか)と呼ばれる所は、かつて処刑されたポルトガル人の首を埋めた所という言い伝えがある。…

北鹿児島の風景  長島町・阿久根市・薩摩川内市ほか

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北鹿児島の風景  長島町・阿久根市・薩摩川内市ほか

北鹿児島への旅。これまで紹介した史跡・巨樹・石橋以外の風景などの写真。

熊本県天草富岡港、下田温泉海岸、牛深港フェリー、鹿児島県長島町蔵之元港、蔵之元のアコウ、長島海岸展望所、黒之瀬戸大橋、阿久根市の肥薩おれんじ鉄道、薩摩川内市の川内川畔カッパ、樋脇町のセンダン、祁答院町蘭牟田の世界一郷水車、いちき串木野市の市来海岸吹上浜、冠岳道標(「串木野停車場」の刻みあり)、さつま町の下手田の神、伊佐市の財寶温泉大口工場、さつま町の平川道標(「米之津港(九里…)」の刻みあり)

郡山八幡神社  伊佐市大口大田

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郡山八幡神社  伊佐市大口大田

伊佐市大口市街地中心から国道268号を水俣方面へ向い、車で約8分。右手に郡山八幡神社がある。
琉球建築の情調も強く加味されており。国指定重要文化財となっている。日本最古の「焼酎」の文字がある木片は資料館「木樽」に展示されている。木片写真は近くの観光案内板から。
伊佐市HP「いさ(伊佐)市」観光地案内による説明は次のとおり

郡山八幡神社 (国指定重要文化財)

郡山八幡神社は、建久5年(1194年)に創建されたといわれ、現在の建物は京都・金閣寺より古い16世紀頃に建てられたものです。今から500年近く前の建物が中央文化から遠く離れた薩摩に残っていることは非常に珍しく、昭和24年に国の重要文化財に指定されました。
昭和29年の解体修理の際、本殿北東の柱貫の先端から宮大工の落書きが発見されました。これは施工主の寺僧がケチで、改築にあたっていた宮大工に一度も焼酎をご馳走してくれなかったのに腹を立てて書き残したものと思われます。これが、わが国における「焼酎」という文字の初見であるとされています。
永禄2年(1559年)当時、すでにこの地方では焼酎が飲まれていたことが裏付けられ、民俗資料としても従来の説を覆す重要な資料となりました。
住所 鹿児島県伊佐市大口大田1549

曽木発電所遺構  伊佐市大口曽木

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曽木発電所遺構  伊佐市大口曽木

「曽木の滝」ついては、前の記事にしているので参照。曽木の滝公園下側(滝からすると上部落下点 前記事写真5)に曽木発電所用の導水口があり、岩をくりぬいた導水路の隧道跡がある。
曽木発電所跡は曽木の滝の1.5km下流にあり、鶴田ダムへの県道404号鶴田大口線により下って行くと、対岸側から発電所跡のレンガ造建物を眺められる展望台がある。

なお、県道整備のため滝のすぐ下流側に「曽木大橋」を架橋工事中で、大きな橋脚を築いていた。伊佐市HP「いさ(伊佐)市」観光地案内などによる説明は次のとおり

曽木発電所遺構  (伊佐市大口曽木)

曽木の滝の1.5キロメートル下流に、今でも明治の面影を強く残している曽木発電所跡があります。曽木発電所は明治42年に竣工し、その出力は当時国内でも最大級のもので、水俣のチッソなどにも送電を行っていました。
昭和40年に鶴田ダムの完成とともに水没することになりましたが、現在では渇水期の5〜9月頃に中世のヨーロッパの居城跡を思わせるレンガ造りの建物が姿をあらわします。その時期以外は大鶴湖の湖底に沈み、存在をも忘れさせます。また、周辺にはヘッドタンクやずい道跡なども残っており、土木遺産として貴重なものとなっています。

創設者は野口遵で、牛尾大口金山に電力を供給するために明治42年に曽木の滝の水力を利用する電気事業を起こしました。当時としては大規模な800キロワットの電力を作りだし、余剰電力を使い水俣ではカーバイト生産を開始。後に、戦前における日本最大の化学会社へと発展したことから、この発電所は日本化学工場発祥の地といわれています。

曽木の滝  伊佐市大口宮人

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曽木の滝  伊佐市大口宮人

伊佐市大口市街地中心のおおくちふれあいセンターから、国道267号線を宮之城方面へ向い、大口南中学校手前の三差路を右折し、県道404号線へ入る。そこから車で約5分である。
さつま町方面から国道267号線により大口へ入った場合は、曽木で伊佐広域農道が交差するので、広域農道に左折して西へ進むと「曽木の滝」へ着く。川内川の鶴田ダム上流となる。

伊佐市HP「いさ(伊佐)市」観光地案内による説明は次のとおり。曽木の滝の1.5km下流にある「曽木発電所遺構」は次項へ。

曽木の滝公園  (伊佐市大口宮人)

滝幅210メートル、高さ12メートルの壮大なスケールを誇り、「東洋のナイアガラ」とも呼ばれる曽木の滝。千畳岩の岩肌を削るように流れ落ちる水流とその轟音は、訪れる人々を釘付けにするほど豪快。一帯は自然公園となっており、四季の彩りも美しく桜や紅葉の季節には、イベントも開催されます。
大型駐車場も整備されており、園内には食事処・土産品店が軒を並べています。なかでも鯉料理や黒豚を使った料理は絶品です。

公園内の清水神社は縁結びと安産の神様が祭られています。この付近は、江戸時代に水運による米の輸送を行っており、その水路を開くために大規模な川浚えを行った歴史があります。またその当時の川浚え唄は今でも伝えられています。
下流には、レンガ造りの曽木水力発電所跡がダム湖に残り、夏季には中世のお城を思わせる風貌で水面に姿をあらわします。

新時代の景観を選ぶ「平成百景」曽木の滝が第24位に入りました!
この投票は、読売新聞社が創刊135周年を記念して行なわれたもので、全国から300か所の候補地をリストアップし、全国の読者からの投票を募りました。総投票数は全国で64万票を上回り、それをもとに選考委員会が開かれ、100景観が2009年(平成21年)4月中旬選定されました。曽木の滝は第24位に入りました。

山崎郷地頭仮屋跡  薩摩郡さつま町山崎

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山崎郷地頭仮屋跡  薩摩郡さつま町山崎

薩摩川内市樋渡町の「倉野磨崖仏」を見て、県道394号線により薩摩郡さつま町山崎に入った。山崎町交差点をまっすぐ進むと、山崎小学校前で国道328号線と合う。この角に古屋敷跡の門と大イチョウがあり、中の広場へ入ると「山崎郷地頭仮屋跡」であった。
現地説明板は次のとおり。大イチョウと置かれた石材が何か気になり、写しておいた。

山崎郷地頭仮屋跡

山崎郷は、島津藩政時代は藩の直轄地で郷内の行政は地頭仮屋で行われていました。
寛永16年(1639)の薩摩藩内の外城のなかに山崎の名があり、山崎村の成立は寛永年間と推察されます。この当時久富木村が含まれていたかは明確でありません。そしてその後の明暦〜万治(1655〜1660)の頃に、ニ渡・白男川・泊野は東郷から山崎郷に編入されています。
地頭仮屋は、文政10年(1827)の再撰帳によると「其時分地頭仮屋町中宿場内ニ御座候処文化十一年戌正月地頭仮屋直シ方ノ願申出又元ノ地頭仮屋敷ヘ引直シ有之候」と書かれており、一時山崎町の中宿場内にあったが文化11年(1814)の頃また元の場所(現在地)に移されています。
そして地頭仮屋は明治(1867)に入り、山崎戸長役場、山崎村役場、昭和28年(1953)に山崎町役場となり昭和30年に宮之城町と合併しました。
平成8年に山崎御仮屋跡の埋蔵文化財発掘調査が実施され、御仮屋時代の建物跡や陶磁器、古銭等が出土しています。また、この一帯には中世の頃に浄福寺があったといわれており、発掘調査で擁立柱2本が出土し、付近には多数の五輪塔が現存しています。