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冠嶽園・仙人岩・冠 岳  いちき串木野市冠岳ほか

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冠嶽園・仙人岩・冠 岳  いちき串木野市冠岳ほか

串木野市街の国道3号線大原町交差点から、県道39号串木野樋脇線により樋脇町・市比野温泉方面へ行く。県道左に見えてくる高い山が冠岳の3岳。冠岳小学校入口を過ぎ、しばらく進むと「冠嶽園」入口の赤い橋がある。
中国風庭園のある冠嶽園の背後の岩が仙人岩。冠嶽園から冠岳山腹の展望公園まで上がると日本一の徐福像がある。車はまだ上の鎭國寺頂峯院まで行き、途中から登山道を40分登ると冠岳(西岳 標高516.4m)山頂へ着く。車道の一周道路は、県道39号線手前の西岳登山口からも上がり、串木野ダム脇を通って行く。

鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊観光かごしま」いちき串木野市観光スポットによる説明は次のとおり。仙人岩の植物群落は、鹿児島県博物館HPの文化財から。

冠嶽園(かんがくえん)   所在地 いちき串木野市冠岳13511-7 (旧串木野市)

冠嶽園は、薬草の宝庫でもある山岳仏教の名山「冠岳」の縮景と、その名の由来である「方士徐福」の伝承を顕現するため頂峯院跡地に設けられた中国風庭園です。また、串木野市が東海(東中国海)をはさんで面している南部諸市省を中心に、中国との友好関係を深めたいと願いをこめたものでもあります。入り口の渓流に木橋の2連橋が架かり、散策路に最適です。

冠岳展望公園        所在地 いちき串木野市冠岳(西岳中腹)

串木野市内や東海や西岳(冠岳)が眺望でき絶景である。 また、東海や中国を眺めて立つ日本一(高さ8m)の「徐福像」が建立されている。

冠嶽山鎭國寺頂峯院    所在地 いちき串木野市上名7647-111 (旧串木野市)

冠嶽(かんむりだけ)は、秦の徐福来山以降二千年余の歴史を有する薩摩屈指の霊山です。用明天皇(聖徳太子御父君)の御代、蘇我馬子は勅願により紀州熊野権現を勧請し、その別当寺として興隆寺を建立しました。平安時代、阿子丸仙人が天台宗となし、室町時代勅を受け名僧宗寿法印が京都東寺より下るに及んで、真言宗鎭國寺頂峯院(ちんごくじ ちょうぼいん)と改められました。藩主島津家歴代の信仰も厚く、寺運は大いに高まった方と伝えられますが、明治の廃佛毀釈以後その全容を知ることは困難となっていました。 昭和58年、現山主村井宏彰師が入山。山麓に結ばれた葉衣菴に百年ぶりに法灯が灯されました。同61年には宗教法人として認可。平成元年大師堂が落慶し、その後黄不動堂、熊野薬師堂、庫裡と漸次建立され現在に至っています。

冠 岳(かんむりだけ)    所在地 いちき串木野市冠岳 (旧串木野市)

昔も今も信仰の山として畏敬の念をもたれる霊山冠岳。ここは古代山岳仏教発祥縁の地であり、真言密教の地としても知られ、また不老不死の霊薬の言い伝えがあるほどの薬草の宝庫でもあります。数多くの奇岩や怪岩、様々な欧穴などが不思議な魅力を譲し出し、残された様々な史跡が昔日の彼方に消えていった歴史の面影を今に伝えています。
また、その周辺には、親水公園や中国風庭園「冠嶽園」などがあります。11月23日には「かんむりだけ山市物産展」が行われ、秋の風物詩となっており、多くの人で賑わいます。また、冠岳の中腹を一周する冠岳ウォーキングコース(歩行者専用道路・約10キロ)があり、様々な古代山岳仏教史跡が残っていますので、これらをお詣りしながらの登山も楽しめます。

仙人岩の植物群落      県指定 天然記念物

指定年月日 昭和29年5月24日  所在地 いちき串木野市冠岳
いちき串木野市の北東にある冠岳は,標高516mの山で,西岳,中岳,東岳に分かれます。仙人岩は,東岳の下にある冠岳神社の裏手にある小峰で,高さ70mの絶壁に囲まれた場所です。
この岩の北側頂上付近にはキクシノブが自生し,スダジイやイスノキ,リュウキュウマユミ,サツマルリミノキ,リュウビンタイ,ハヤトミツバツツジなどを構成種とする特徴的な照葉樹林が発達しています。シイ林の中にはヤッコソウも自生しています。

薩摩金山蔵  いちき串木野市下名

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薩摩金山蔵  いちき串木野市下名

国道3号線が串木野市街へ入る手前、野下口の交差点から右折して行く。三井金山資料館がある。施設入館料は無料だが、坑道貯蔵・仕込蔵トロッコ見学は、大人700円。
薩摩金山蔵株式会社HPによる説明は次のとおり。

薩摩金山の歴史に身をゆだねる
今から約350年も昔、薩摩藩、第19代大守島津光久公の頃に鉱脈が発見され、ひと頃は、日本一の産金量を誇っていた串木野金山。江戸時代初期以来、薩摩の財政を支え、明治維新の原動力となったといわれるその存在は、数々の物語を私たちに語り、伝えてくれます。坑道の奥深くに刻まれた時と、時代の流れを感じてください。

本格焼酎のルーツ、そして仕込蔵の今
500年にもわたり、さまざまな変遷を経ながらも、庶民が楽しむ蒸留酒として生き続けてきた薩摩の本格焼酎。薩摩金山蔵では、串木野金山の350年に亘り掘り続けられた総延長120キロメートルにもおよぶ坑道に、甕仕込みと甕貯蔵の蔵を構えております。
…仕込みの様子は、坑道内の仕込蔵で実際にご覧いただけるようになっております。また、坑道内は1年を通して20℃前後という一定した気温に保たれ、地下ということもあり紫外線はゼロ。焼酎作りだけでなく、濵田蔵置場1,000リットル甕がずらりと並ぶ貯蔵にとっても、良い環境が整っているのです。…これほど地下深くに仕込蔵を持つ蔵も世界唯一、薩摩金山蔵だけです。

入来麓武家屋敷群  薩摩川内市入来町浦之名麓

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入来麓武家屋敷群  薩摩川内市入来町浦之名麓

JR川内駅前通りの右から高架を渡り県道42号川内加治木線により入来町へ向かう。大宮神社前で国道328号線と交差するので左折してさつま町方面へしばらく行くと、川が蛇行する所に橋があり、この奥の通りが「入来麓武家屋敷群」となっている。

鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊 観光かごしま」薩摩川内市の伝統的建造物保存地区による説明は次のとおり。清色城跡は、平成16年9月30日に国の史跡に指定された。

入来麓武家屋敷群  所在地 薩摩川内市入来町浦之名麓 (旧入来町)

入来のほぼ中央部に位置する麓地区は、中世からの古い町並みとして全国的に知られています。四隣に威を振った薩摩藩随一の堅城(山城)である清色城を中心に川原石を使った玉石垣による整然とした区画割、武家屋敷門(茅葺門)、大手門前の濠や広馬場、下門口を備えたお仮屋跡など多くの史跡、文化財が残っています。中世の息吹が聞こえる麓武家屋敷地区を散策してはいかがですか。

倉野磨崖仏  薩摩川内市樋脇町倉野木下

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倉野磨崖仏  薩摩川内市樋脇町倉野木下

薩摩川内市街の「267入口」交差点から国道267号線によりさつま町方面へ向かう。さつま町境に入る手前の南瀬交差点から右折して川内川の橋を渡り、県道394号線に入り東へ進む。すぐ県道346号線との交差点があり、県道の反対側に左折して車道を川内川の方へ向かうと、斜面地の岩面に薩摩川内市指定文化財「倉野磨崖仏」が見える。

鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊 観光かごしま」薩摩川内市の史跡による説明は次のとおり。
倉野磨崖仏  所在地 薩摩川内市樋脇町倉野木下 (旧樋脇町)

鎌倉末期に彫られたとされる磨崖仏は、梵字17・陽刻仏像1・陰刻五輪塔3・その他仏種子などからなっています。梵字を刻むことは仏像を彫ることと同じ意味で、この梵字の中で最も注目されるのは中央月輪中に書かれているオーンクです。梵字の下に天保2年(1318年)の年号が記され、9月5日寂円房が亡親の供養とともに、村人の平安を祈願した旨が明記されています。近くには、吉野朝初期の逆修塔といわれる十数基の石塔、倉野殿墓があります。

「川内田堀切橋」の現況  御船町大字滝尾字川内田

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「川内田堀切橋」の現況  御船町大字滝尾字川内田

熊本県上益城郡御船町に残るアーチ式石橋や主な桁石橋を、本年8月下旬訪ね次の記事にしている。  https://misakimichi.com/archives/1963
上益城平坦地区広域農道の川内田大橋下の沢に残るアーチ式石橋「川内田堀切橋」を、ただ1橋、薮に行手を阻まれ到達できなかったので、今回、鹿児島の帰り11月1日に寄ってみた。

現況は写真のとおり。現地へ到達でき石橋と確認できたが、今にも雨が降りそうな空模様。橋の薮払いどころでない。薮のまま橋の写真を撮っていると、すぐ大雨が降り出し早々に退散した。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータを次のとおり再掲しておく。同HPから借用している橋の画像は、前記事にあるから参照。

写真  2〜  6  №1,662   川内田堀切橋   御船町大字滝尾字川内田(かわうっだ)
橋長:4.7m  橋幅:2.0m  径間:2.45m  拱矢:1.4m  環厚:25cm
輪石:要石から右岸側4列、左岸側6列、計11列
国道445号線、滝尾から左折「上益城平坦地区広域農道」を県道221号「古閑原」方面へ進み、途中「川内田大橋」を渡ってすぐ川内田地区方面へ右折、200mほど下り、さらに右折、大橋を潜って左カーブ手前でクルマを停め、徒歩にて右手に進み50mほど坂を登るとこの川内田堀切橋です。

さつま町に残るアーチ式石橋  下手橋・求名橋・中福良橋・橋掛橋

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さつま町に残るアーチ式石橋  下手橋・求名橋・中福良橋・橋掛橋

さつま町(旧薩摩町)に残るアーチ式石橋の一部を紹介する。石橋は鹿児島県には数多いが、今回、幹線道路を通っていて見かけた各石橋である。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは次のとおり。詳しくは同HP参照。

写真  1〜  3   №516   下手橋(石行橋)   さつま町下手寺屋敷
前 川   橋長:25.0m   橋幅:4.0m   径間:10.8m   拱矢:5.3m
架橋:大正6年
国道267号線の羽有地区公民館方面へ右折、300m先左手に架かっています。完全に廃橋となっています。右手は公園になっています

写真  4〜  6   №514   求名(ぐみょう)橋   さつま町求名下中
前 川   橋長:21.5m   橋幅:5.7m   径間:9.0m   拱矢:4.5m
架橋:明治37年
国道267号線から県道402号線へ分岐するすぐ上流に架かっています。

写真  7〜  9   №512   中 福 良 橋     さつま町求名戸子田
求名川   橋長:12.3m   橋幅:5.5m   径間:10.9m   拱矢:3.7m
架橋:明治37年
国道267号線の左手集落とさつま幼稚園に入る道に架かっています。

写真 10〜 12   №513   橋 掛 橋       さつま町求名
橋掛川   橋長:8.0m    橋幅:5.0m   径間:5.0m   拱矢:3.0m
架橋:明治41年
中福良橋から国道267号線を1.8Km北上。橋掛口バス停から左手旧道へ左折したところに架かっています。

いちき串木野市に残るアーチ式石橋  大六野橋・八牟礼橋・岩下橋

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いちき串木野市に残るアーチ式石橋  大六野橋・八牟礼橋・岩下橋

いちき串木野市に残るアーチ式石橋の一部を紹介する。石橋は鹿児島県には数多いが、今回、幹線道路を通っていて見かけた各石橋である。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは次のとおり。詳しくは同HP参照。

写真  1〜  2   №1,108   大六野(だいろくの)橋 いちき串木野市生福
大六野川   橋長:8.0m   橋幅:6.8m   径間:7.1m   拱矢:2.8m
県道39号線の生福郵便局前に架かっています。

写真  3〜  5   №1,106   八牟礼(はちむれ)橋  いちき串木野市冠岳
五反田川   橋長:16.5m   橋幅:3.8m   径間:14.3m   拱矢:4.5m
架設:大正7年
県道39号線を東進、冠岳小学校の入口道路に左折、下ったところに架かっています。

写真  6〜  8   №1,105   岩 下 橋         いちき串木野市冠岳
五反田川   橋長:12.1m   橋幅:4.2m   径間:9.2m   拱矢:4.2m
県道39号線、串木野市・樋脇町境の400m手前。現橋の下流に平行して架かっています。

長崎の古写真考 目録番号:5381 長崎湾口の集落(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5381 長崎湾口の集落(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
目録番号:5381「長崎湾口の集落」の以前の記事は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1874

朝日新聞長崎地域版2009年11月5日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」にこの古写真が掲載された。タイトルは「幕末の茂木海岸 船ひしめく漁業の町」と変えられ、解説されている。
後段には「この写真の場所はしばらく不明でしたが、ネットを通じて郷土史家の方から情報を提供していただきました」とある。私は連絡などしないし、郷土史家でもないが、私のブログ上での指摘が、いくらかでも大学側の目にとまって、反映されてはいるようだ。

ところで新聞記事の解説内容である。「右の白壁の大きな家は1665年に設けられた浦見番所で、海の警備と問屋を兼ねていました」だろうか。
古写真の撮影場所は、現在の若菜川を弁天橋で渡ったSマート先にある茂木郵便局前あたり(長崎代官村山等安別邸跡。後に茂木村庄屋宅、そして道永エイの茂木長崎ホテル、ビーチホテルとなる)から、若菜川河口対岸となる茂木集落の方(現在の茂木バス停方面、今も旧通りに商家・倉庫跡が残る)を写したものである。
浦見番所があったのは、弁天崎の現在の茂木郵便局次の、石垣囲いの広い屋敷(現伊達木宅)がある所であるから、場所的に写ることはありえない。
浦見番所は治安・行政を司どるため設けられた。屋敷の裏山は弁天山になる。

次に古写真の茂木集落「背後の山は悪所岳方面」ともならない。悪所岳(標高506m)は宮摺のまだ南にある山で、撮影場所から悪所岳までは見えない。
以前の記事に書いているとおり、この山は茂木の山間部「峠」集落あたりの山であろう。わかりやすく説明するなら、「現在の市民の森方面」とした方が良いのではないだろうか。
先週10月29日付記事「樺島のにぎわい」で、「前方は長崎半島先端の遠見山方向に当たります」も、正しくは前方中央の山は「殿隠山」、左に山半分写っているのが「遠見山」となろう。

薩摩川内市に残るアーチ式石橋  白津橋・降来橋・上之湯橋・野下橋・新大橋

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薩摩川内市に残るアーチ式石橋  白津橋・降来橋・上之湯橋・野下橋・新大橋

薩摩川内市に残るアーチ式石橋の一部を紹介する。石橋は鹿児島県には数多いが、今回、幹線道路を通っていて見かけた各石橋である。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは次のとおり。詳しくは同HP参照。

写真  1〜  3   №1,120   白 津 橋    薩摩川内市西方
白津川    橋長:10.5m   橋幅:5.8m   径間:8.6m   拱矢:3.8m
架設:大正時代
西方の人形岩前、国道3号線現橋のすぐ上流に架かっています。

写真  4〜  8   №1,117   降 来 橋    薩摩川内市宮内町
銀杏木川   橋長:9.0m   橋幅:4.8m   径間:6.7m   拱矢:2.7m
架設:明治25年
川内駅前から国道3号線を北上、大平橋を渡り600m先左折、800m先、新田神社前に架かっています。

降来(こうらい)橋と擬宝珠  薩摩川内市指定文化財
「鎌倉時代中期の、正応三年(1290)新田八幡宮の降来橋において舞楽が催されたとの記録があり、この橋の由来は古く昔の盛時がしのばれる。
降来橋の下を流れる川を“忍穂井川”といい、橋から南に“八丁馬場”と呼ぶ参道が直線に伸びて、その入口は川内川に通じていた。その参道の両側に寺院が立ち並び“新田神社十二坊”と称されていた。
慶長七年(1602)島津義弘が、神社の神殿を修復した際、この降来橋の欄干に刻銘入り青銅製擬宝珠八個が取付けられたが、現在ははずされ、宝物殿に大切に保管されている。
太鼓橋は、明治二十五年十一月に架け替えられたもので、長さ八メートル、幅五メートルである。」

写真  9〜 11   №1,099   野 下 橋    薩摩川内市樋脇町市比野
五反田川   橋長:4.1m   橋幅:5.0m   径間:3.6m   拱矢:1.8m
架設:大正末期
野下小学校正門のすぐ東側に架かっています。上流側が拡幅してあるみたいです。

写真 12〜 14   №1,095   上之湯(かみのゆ)橋  薩摩川内市樋脇町市比野
城後川    橋長:13.2m   橋幅:5.7m   径間:10.5m   拱矢:3.9m
架設:明治36年
市比野温泉上之湯、市比野郵便局の北側に架かっています。

写真 15〜 17   №588    新大(しんだい)橋    薩摩川内市入来町浦之名
後川内川   橋長:24.7m   橋幅:4.1m   径間:10.9m   拱矢:4.4m
架橋:明治42年
船越橋より県道42号線に戻り1.5Km先左手に架かっています。現役の2連橋です。

国指定登録有形文化財  新 大 橋
「この橋は、後川内川に架けられており、県道蒲生線(現在の川内加治木線)の開通に伴い寄付金を集めて、当時の工費250円にて架橋されました。
昭和34年(1959)3月には、自動車等の普及による橋の拡幅工事が行なわれました。また、近くにある記念碑は、正面に由緒が記され、両側面と裏面に建設資金の寄付者名が記されています。」 指定日 平成16年(2004)11月8日

新田神社の大クス  薩摩川内市宮内町

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新田神社の大クス  薩摩川内市宮内町

薩摩川内市街を通る国道3号線の「267入口」交差点から、国道267号線に入らず反対方向の県道44号線に右折する。しばらく進んだ宮内交差点先の右手に赤い大鳥居があり、石橋「降来橋」を渡った高台に新田神社がある。参道の長い石段左右や拝殿裏手の森にも多くの大クスが見られるが、指定の大クスは拝殿右下近くの参道脇にある。

現地説明板は次のとおり。新田神社の大クスは「かごしまの名木」に選定されていない。
神社後ろの小山には、神代三山陵の1つにあげられ、明治7年、ニニギノミコトの墳墓と指定され宮内庁直轄で管理されている「可愛山陵」(えのさんりょう)がある。

薩摩川内市指定文化財  新田神社の大楠

昭和46年11月1日指定  管理者 薩摩川内市教育委員会
クスノキは、関東以西に分布し、樟脳をとる工芸植物としても重要な樹です。また、建材や船材として有用な樹でもありました。
このクスノキは、根回り13.3m、目通り幹回り9.9m、枝張りが東西17.2m、南北は15.5m、高さ約20m余り、根元近くは空洞になっていて、樹齢2000年ともいわれていますが、年輪成長平均率からすると約650〜800年と推定されます。
地上2mのほどの所に彫刻が施されています。これは慶長年間(1596〜1615)に新田神社を修築した時に、工事奉行の阿多長寿院盛淳(?〜1600)が自ら薬神ともいわれる大穴牟遅神の像を刻んで奉納したものと伝えられています。
可愛の山の樟の大樹の幹半ば うつろとなれど広き蔭かな    与謝野鉄幹
平成10(1998)年3月建立