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長崎外の古写真考 目録番号:3224 精錬所 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3224 精錬所 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3224 精錬所

目録番号: 408 有馬(但馬が正)の生野銀山
目録番号:5066 神戸の海岸線

■ 確認結果

目録番号:3224「精錬所」は、明治天皇巡幸に随行した内田九一の写真と思われるが、巡幸写真に掲載がなかった。やはり有名な鉱山の精錬所だった。兵庫県朝来市(旧生野町)にあった「生野銀山」。内田九一は巡幸の途中、神戸から立ち寄ったのだろう。
「生野銀山」は、大同2年(807年)に開坑し、信長・秀吉・徳川幕府の時代を経て明治元年には政府直轄となり、その後は皇室財産にまでなった大鉱山。1200年以上も銀山として栄え、昭和48年に閉坑した。現在は史跡、鉱物館、体験観光施設となっている。

古写真のポイントは、手前にある川の橋、石門の門柱、背景の山。参考写真は
1 日本名勝旧蹟産業写真集 刊行大正7年の生野銀山古写真 (国立国会図書館所蔵写真から)
2 生野銀山の現在の川の橋と背景の山 (HP色々な画像:生野銀山01から)
3 生野銀山の石門の門柱 菊の御紋入り (HP神戸観光壁紙写真集から)
関連作品の目録番号: 408「有馬(但馬が正)の生野銀山」は、小川一真撮影。生野峠の街道風景であろうか。

(追 記 2014年3月25日)
関連作品の目録番号: 408「有馬の生野銀山」が、長崎大学データベースで最近、タイトルが「有馬の剣山」と修正されていた。
蓬莱峡出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、次のとおり。「有馬の剣山」のタイトルの方に間違いないようである。
目録番号:5066「神戸の海岸線」も、有馬街道で蓬莱峡上部あたりの景色と思われる。

蓬莱峡  
蓬莱峡(ほうらいきょう)は兵庫県西宮市の六甲山地にある峡谷。瀬戸内海国立公園の指定区域。

概要[編集] 蓬莱峡は、六甲山の裏側(北側)を有馬高槻構造線に沿って西から東へまっすぐ流れる大多田川の上流部、支流の座頭谷川との合流地点より上流(西側)にある。風化した花崗岩が鋸歯状の鋭い岩峰の稜線を見せる峡谷である。断層破砕帯にあたり、地質学では「バッドランド(悪地)」と呼ばれる地形であるが、これほど険しい地形は世界でも特異とされる。右の写真にある白い岩は著しく風化した花崗岩であり、その表面は素手で簡単に崩せるほどもろい。
殺伐とした白い無数の剣山があまりにも非現実的な風景であることから、映画やテレビドラマのロケ地としてしばしば採用された場所であったが、現在は六甲山地への代表的な登山ルートの一つとして広く知られる存在である。

写真説明
蓬莱峡:白く尖った地形は風化した花崗岩、その奥の茶色の崖は段丘が侵食されたもの
北側から見た座頭谷と蓬莱峡:左の砂防ダムが並んだ地形が座頭谷座頭谷は、その昔、ここを通りかかったひとりの座頭が道に迷い、ついには行き倒れになったという言い伝えから名づけられたものである。

歴史[編集]
・豊臣秀吉が大阪から有馬温泉へ向かうときに通行した道「有馬街道」の難所であった。
・江戸時代の儒学者貝原益軒か著した「有馬山温泉記」(1711年)では「剣岩」・「大剣」・「小剣」と記されている。
・黒澤明監督「隠し砦の三悪人」(1958年)の主な撮影地となる。

長崎の古写真考 目録番号:3222 大光寺(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3222 大光寺(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3222 大光寺(2)        同作品 目録番号:3220 大光寺(1)(彩色あり) 

目録番号:3251 大光寺(3)
〔画像解説〕
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮影したと推測される。同じ写真の無彩色もコレクションの中にある。

■ 確認結果

長崎市寺町の浄土真宗本願寺派「大谷山大光寺」の境内。3作品は彩色のあるなしはあるが、まったく同じ写真である。
目録番号:3251「大光寺(3)」では、「内田九一撮影の大光寺と男性。…明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮影したと推測される。…」と画像解説している。

続く「同じ写真の無彩色もコレクションの中にある」というのが、目録番号:3222「大光寺(2)」の作品であろう。これが本作品と思われる。同じ作品の目録番号:3220「大光寺(1)」とも、「撮影者:未詳」のままになっているので、画像解説とも調整してほしい。関連作品では出てくるが、撮影者検索では出てこない。

長崎の古写真考 目録番号:2415 鉱山の風景

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2415 鉱山の風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2415 鉱山の風景

■ 確認結果

朝日新聞2010年2月25日付長崎地域版「長崎今昔 長大コレクション」に載った”高島 近代化支えた立役者”により、データベースの目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の作品を昨日紹介したばかりだった。
きょう何気なく「鉱山」で条件検索すると、目録番号:2415「鉱山の風景」が出てきた。その石炭船積みの元となる「高島炭鉱北渓井立坑の操業風景」の写真なのである。

この古写真は、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の96頁に掲載があり、147頁の「図版解説」による説明は次のとおり。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1619

87 高島炭鉱の立坑
88 高島炭鉱の石炭搬送場          いずれも日本大学芸術学部所蔵
慶応4年(1868)、T.B.グラバーは領地支配者だった佐賀鍋島藩の長崎出張人松林源蔵と共同経営の協約を結んで、高島炭鉱の新規開発事業に乗り出した。本国から最新式の機器・技術を導入して、深さ70m余におよぶ堅坑道を穿ち、機械化によって大量の良質炭を採掘、運搬することに成功した。すなわちわが国鉱業の最初の近代化をもたらしたわけだが、経営の方はその後、紆余曲折があって明治14年に三菱商会の所有となった。
撮影は上野彦馬。明治中期頃であろうか。

87「高島炭鉱の立坑」の作品がそうであるが、88「高島炭鉱の石炭搬送場」とも、いずれも日本大学芸術学部所蔵とあり、長崎大学の古写真データベースにないと思っていた。長崎大学側もまだこの作品がデータベースに収録されていることを知らないと思われる。
高島炭鉱の写真はまだ数点ある。上野彦馬の撮影だろうか。彩色されたカラー作品となっているが、4本の煙突の噴煙は同じ向きで、同作品に間違いない。明治天皇の巡幸写真との関連で内田九一とも考えられる

長崎外の古写真考 目録番号:3225 大川辺りの風景 ほ

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3225 大川辺りの風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3225 大川辺りの風景

目録番号:3229 大阪の河口の風景
〔画像解説〕
川口波止場である。大阪は慶応4年(1868)7月15日に開港した。安治川河口から約4キロ上流のところに設けられ、税関・電信も設置された。写真に写っている船は外輪船である。遠くに見える洋館は、外国人居留地の建物である。明治20年(1888)ころと思われる。

目録番号:6578 大阪 安治川橋

■ 確認結果

1枚目の目録番号:3225「大川辺りの風景」は、「撮影者:内田九一」なのに「撮影地:未詳」となっている。「大川」とは、大阪では「旧淀川」の流域のようである。大川は、中之島で堂島川、土佐堀川の2川に分かれ、都心の川、堀を流れて、流末は安治川、尻無川、木津川の3川となり大阪湾に注いでいる。上流に「大橋」が遠く写る。橋が特定できれば良いが不明。「街路灯」が立つ。

2枚目の目録番号:3229「大阪の河口の風景」も、「内田九一」の作品。1枚目と風景が似ていることがわかるだろう。撮影場所は、大阪外国人居留地の「川口波止場」である。波止場に停泊中の「外輪船」。「街路灯」は右端に小さく写っている。
「外輪船」の奥に橋が写る別の角度の古写真もある(岩崎家近代建築古写真から)。

3枚目は目録番号:6578「大阪 安治川橋」。ボードインコレクションで撮影者未詳。中央に大きく写る「街路灯」。橋の中央部が「可動橋」となっている。
3枚とも「街路灯」は、大阪外国人川口居留地の「街路灯」のようである。したがって、1枚目の写真も、大阪「安治川畔」の風景と考えて良いと思われる。内田九一は最初、大阪で開業した。
大阪市HP「橋梁顕彰碑」安治川橋の説明は次のとおり。

橋梁名:安治川橋(あじがわばし)   所在区名:西区  河川名:安治川

江戸時代初期までの淀川河口部には九条島が流れを遮る位置にあり洪水がたびたび起こり、また土砂堆積により舟運にも不便をきたすことが多かった。このため貞享元年(1684)幕府の命により、河村瑞賢が水路を開削し、安治川と名付けられた。その後、周辺に富島や古川の新地開発が進められ、元禄11年(1698)に完成した。安治川橋はこの新地の開発に伴い初めて架設された。
江戸時代末期、幕府は開国に備え、この地を外国人居留地として、準備を進め、明治新政府によって明治元年(1868)大阪開港とともに外国人に競売された。居留地には、洋館や舗装道路が造られ大阪の文明開化の拠点となった。
明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。
明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗しよく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。

そのほか参考資料は、HP上で調べると次のようなものがあった。
・明治大正図誌 大阪 「浪花安治川口新橋之景(長谷川小信)」
・明治18年測図 安治川橋付近の地形図
・大阪旧川口居留地模型(「なにわの海の時空間」施設に展示) 
・明治12年(1879年)版大阪府区分新細図ヨリ転写 「本田地誌」1933年版の巻頭地図

(2011年12月16日 追 記)
目録番号:3229「大阪の河口の風景」は、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊37頁に、「3 明治10年(1877)明治天皇畿内行幸写真」として掲載されているが判明した。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2801

同解説は次のとおり。行幸に随行した写真師は、記していない(27頁)。掲載写真を末尾に追加した。
13 大坂川口ノ景
大坂市港区の安治川河口にある船着場の光景。着色写真。

長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場
〔画像解説〕
鶏卵紙一枚もので裏に筆で「五十一長崎高嶋/石炭鉱」「長崎高嶋石炭」、鉛筆で「四百九」と書き込みがある。グラバーが開発した長崎港外の高嶋炭鉱における船着き場の、この写真は有名で、これまで上野彦馬の撮影とされてきた。しかしこの裏の書き込みは内田九一によるものであり、一連の関連から目録番号3230(整理番号66-11)と同じくこれも明治5年(1872)6月、天皇巡幸に隋行した内田九一の撮影と思われる。人夫が石炭を積んだトロッコを波止場の板の上まで押し、そこに空けられた穴から下の船の船腹に石炭を落としている。船は帆柱を持つ中型の石炭運搬専用のイサバ船で、積み込み中の船名は「榮力丸」と読める。この石炭は長崎港近くの貯炭場に運ばれ、大型船が入港すると「団平船」と呼ばれた小船で大船の腹からバケツリレーの要領よろしく石炭を積み込んだ。左側には鉱山技師と思われる外国人と監督の日本人が眺めている。向いの小島は飛島である。

■ 確認結果

朝日新聞きょう2010年2月25日付長崎地域版「長崎今昔 長大コレクション」に載った”高島
近代化支えた立役者”は、データベースの目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の作品である。本ブログでは2009年2月紹介済。 https://misakimichi.com/archives/1619

きょうの朝日新聞の解説は、取り立てて問題にすることはない。要望としては、冒頭の文が
「1872年7月、内田九一が撮影した「高嶋」(現在の長崎市・高島)の石炭積み出し風景です」とあまりに簡略されていること。データベースの画像解説にある「明治5年(1872)6月(新暦では7月)、天皇巡幸に隋行した内田九一の撮影した…」という背景説明は必要と思われる。
後段の「内田九一は官営化に備え、政府から現地撮影を依頼されたようです」も、そのようなことは考えられないことはないが、根拠があるのだろうか。

なお、この写真は内田九一の作品に間違いないと思われる。2010年1月東京ウォーカーで開催された「貴重な写真約130点を展示!坂本龍馬と幕末を知る写真展」に内田写真株式会社所蔵の内田九一が撮影した写真として展示されている.
展示作品は次を参照。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo07.html

戸町テレビ中継放送所のある山(ツク尾城跡)  平成22年2月

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戸町テレビ中継放送所のある山(ツク尾城跡)  平成22年2月

平成22年2月23日(火)快晴。昼から戸町テレビ中継放送所のある山へ。この山は、長崎市南公民館どじょう会の平成3年城郭他遺構調査書に中世の「ツク尾城跡」として報告がある。
一度は登ってみたい山だった。宮さんが20日に山道を探した次の記事があり、景色が良さそうなので出かけてみた。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23672708.html

最初は、小ヶ倉バイパス「弁慶岩」バス停前から見た写真。標高120m。山名はないよう。背後は大久保山である。戸町2丁目の一方通行バス通りの中間に「ジュン理容院」があり、奥の畑小屋から竹林内をまっすぐ20分ほど急登すると山頂へ着く。各局の電波塔が建っている。山頂からの展望は写真のとおり。戸町小学校が真下に見える。危険な手袋岩に劣らぬ展望である。

帰りは女神大橋トンネル上や大久保山へ尾根が続いているようで、反対側へ歩いてみた。赤テープがずっとあり、尾根道はしっかりしていたが、最後は右手斜面の戸町3丁目の高台住宅地へ出る道。白い屋根の畑小屋の裏だった。
畑は柵囲いしており、こちらから登る場合は、山道入口がわかりにくい。写真から小屋の場所の見当をつけてもらいたい。薮は小屋裏だけ、すぐ雑木林の山道へ入る。戸町小前のバス通りからこちらは山頂まで30分位だろう。城跡の遺構はわからない。

長崎外の古写真考 目録番号:3231 松山城(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3231 松山城(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3231 松山城(1)

■ 確認結果

目録番号:3231の作品は、タイトルが「松山城(1)」。内田九一が撮影した明治天皇の巡幸写真には、「熊本城」があり「松山城」はなかったので調べたのだが、作品は「松山城」に間違いない。一行の帰路の艦隊は、鹿児島から瀬戸内海を通り、坂出の崇徳天皇陵など参拝した後、神戸へ入港したので、途中、松山へも寄港したことは考えられる。
画像解説やアルバム名がなく、なぜ「内田九一」の作品としたか説明がほしい。上野彦馬アルバム中の一連の関係や、それとも写真裏に書き込みがあったのだろうか。

長崎大学側が「松山城」とわかった経過は、HP”「おしろとぶけやしき」〜さむらいれじでんす〜”の2008年3月記事にあるようである。
「長崎大学附属図書館 幕末・明治古写真に掲載されている、「目録番号: 3231 タイトル: 城 」ですが、今までどこの城か不明だった為わかりませんでした。私はその謎に興味があったので、2年ほど前より独自に調査しておりましたが、…このお城は伊予松山城で、南櫓・太鼓櫓・土塀の古写真です…」

現在の「松山城」写真は、HP”覚ゑがき『記憶のそら』”から。古写真とまったく同じ構図の写真があったので、すぐ「松山城」と確認できた。
データベースでは、タイトルを「松山城」と変更しているのに、「撮影地域:未詳」のまま。撮影地域「愛媛」で検索しても、この作品は出てこない。

長崎の古写真考 目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3)

目録番号:5887 南山手からの大浦居留地(6)
〔画像解説〕
南山手から大浦海岸通りと東山手洋館群を望む。右前方の丘には活水学院(ラッセル館)、長崎港の奥に出島の一部が見える。明治10年代末。

■ 確認結果

目録番号:5631「南山手からの大浦居留地と出島(3)」と、目録番号:5887「南山手からの大浦居留地(6)」はまったく同じ作品であろう。
タイトル、画像解説など調整を要する。お互い関連作品でも出てこない。撮影場所は現在の南山手地区町並み保存センターあたりからと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5245 茂木通田上(2)    同作品 目録番号:5246 同(3)
〔画像解説〕
大正初期の茂木街道田上峠付近の絵葉書写真。田上は長崎県庁から一里、当時人家20〜30戸、茶屋10戸ほどで蕎麦と筍が名物。旅人の休息所であり、茂木に向かう旅行者はここで旅装を整えた。田上寺、観音寺、千歳亭など旧跡も存在する。写真から人力車による旅行風景がわかる。

目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)
〔画像解説〕
大正初期の田上付近の竹林を撮影した絵葉書写真である。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町から採れるタケノコは古くから田上タケノコとして有名である。写真は明治18(1885)年に新道として整備された旧県道である。

目録番号:5248 茂木街道田上竹林(2)
〔画像解説〕
大正初期の田上付近の竹林と馬車による竹の切り出し風景を撮影した絵葉書写真。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町から採れるタケノコは古くから田上タケノコとして有名である。

目録番号:5249 茂木街道田上竹林(3)
〔画像解説〕
大正中期の田上付近の竹林と蝙蝠傘をさす少女たちが歩く姿を絵葉書写真にしている。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町の竹林は有名であり、ここからから採れるタケノコは古くから田上タケノコとして評判であった。

■ 確認結果

1枚目の目録番号:5245「茂木通田上(2)」と、同作品の目録番号:5246「同(3)」は、田上峠を過ぎ転石バス停から左へ入る。茂木街道の明治新道(旧県道)は、ホテル古都先からⅤカーブして河平川の谷間へ下るので、明治新道の下手からホテル古都あたりの上手の坂の道路を撮影していると思われる。
タイトルが(1)から(3)まで「茂木通?田上」。「茂木街道」とするのが一般的ではないか。

2枚目から4枚目の目録番号:5247「茂木街道田上竹林(1)」、目録番号:5248「茂木街道田上竹林(2)」、目録番号:5249「茂木街道田上竹林(3)」は、河平バス停の真下付近の河平川の谷間となる。河平川は若菜川の支流。
茂木街道の明治新道(旧県道)は、転石から河平川沿いに茂木の黒橋へ下った。3枚の古写真の撮影場所は、ちょうどその中間あたりと思われる。ここは茂木町となる。

同作品を含めたこの5点の、目録番号の前は「田上峠の茶屋」、後は「茂木の橋」を撮影した作品となっており、田上峠から茂木へ下る途中の場所の撮影と考えられる。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1520
https://misakimichi.com/archives/1528
「田上」付近とあまりにも誤解されそうなタイトルと画像解説はどうかと思われる。向井去来が訪れた「千歳亭」(現徳三寺境内に句碑がある)は、明治新道のルートでは外れた場所となった。

岳路からみさき道本道へ上がり鶴山へ  平成22年2月

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岳路からみさき道本道へ上がり鶴山へ  平成22年2月

平成22年2月21日(日)快晴。岳路からみさき道本道へ上がり鶴山(標高251m)へ。参加
15人。絶好の山歩き日和だった。
三和行政センター前9時30分発ー西大道ー蚊焼ー岳路グランドー前町境みさき道本道(昼食)ー鶴山ー秋葉山林道ー古茶屋坂みさき道ー三和行政センター2時45分着(徒歩距離約10km)

蚊焼入口から西大道の道塚にまず上がり、「岳路みさき道」へ入る。永一尾の山の稜線を行く「みさき道本道」の別ルートとして、海沿いの集落の蚊焼、岳路、黒浜、以下宿から高浜延命水で本道と合流する「岳路みさき道」があった。岳路海水浴場バス停下に、今魚町道塚がなぜか1本離れて残るため、私たちが推定したルートである。

きょうはその一部を岳路まで歩く。西大道から蚊焼小前まで下り、蚊焼大川沿いに松永工業まで行き、折山の裏手尾根を通り岳路の道塚へ至る。これが昔の集落を結ぶ道であり、一方のみさき道だった。岳路の道塚見学後、鶴山へ行くため岳路グランドから荒れた前町境尾根をみさき道本道まで登り、出合った所で昼食。

午後はみさき道本道を少し進み、稜線を離れて宮崎ダム上にある「鶴山」へ。八郎岳や川原大池、天草などの展望が良い岩のピークだが、あまり知られていない。名のとおり季節には鶴の渡りが真上に見られるが、きょうは残念だった。
下山路踏査のため、後は地図により秋葉山の山腹を行く林道を探しながら、三和行政センターまで戻った。きょうのコースは整備すると、冬場の1日歩きに良いコースとなろう。
宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23688091.html