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長崎の西空の夕日  11−06

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長崎の西空の夕日  11−06

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 4  平成23年 7月 7日の19時50分頃
写真  5〜 8  平成23年 7月 8日の20時27分頃
写真  9〜12  平成23年 7月 9日の19時33分頃

長崎外の古写真考 目録番号: 303 松島(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 303 松島(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 303 松島(1)
〔画像解説〕
日本三景の一、松島。湾内には波の浸食を受けた様々な形の島が浮かぶ。八百八島と称されるが実際には210数島。写真では、頂に松を載せた角錐形の美しい島が三つ、ちょうど三角形の頂点に立つ形で並んでいる。

目録番号:4459 松島(16)
〔画像解説〕
隣接の鳴瀬町の野蒜海岸にある小岩峰で不老山と呼ばれているが、漂砂の堆積と隆起傾向にある地盤変動により、現在は島の全てが完全に陸地化しており、松林の中にある状況である。背後は海水浴場と宮戸島の山並みである。

■ 確認結果

目録番号: 303「松島(1)」は、次の目録番号:4459「松島(16)」の画像解説どおり、宮城県桃生郡鳴瀬町(2005.4.1合併により東松島市となる)の野蒜海岸にある「不老山」である。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 宮城県商品一覧にも、「93645宮城 松島 不老山」として同じような景色の写真がある。

長崎外の古写真考 目録番号:5067 鉄製外柵と宮廷

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5067 鉄製外柵と宮廷

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5067 鉄製外柵と宮廷

■ 確認結果

目録番号:5067「鉄製外柵と宮廷」は、外国ではない。東京都港区元赤坂にある「旧東宮御所」(現在の「迎賓館赤坂離宮」。明治以降の建築物では、国宝第1号)である。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 東京都商品一覧に「4454東京 東宮御所」をはじめ6点がある。次の他店の絵葉書も見る。

現在の写真は、ブログ「テニスとランとデジカメと」2010年6月の記事から。記事は次のとおり。
ベルサイユ宮殿を彷彿とさせる赤坂迎賓館
迎賓館は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、明治42年(1909)に東宮御所(後に赤坂離宮となる。)として建設されたもので、当時日本の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した日本における唯一のネオ・バロック様式の洋風建築物である。
戦後、わが国が国際社会へ復帰し、国際関係が緊密化してゆくなかで外国の賓客を迎えることが多くなったため、「旧赤坂離宮」を改修して迎賓館とすることになった。

なお、「東宮御所」の作品は「写真の中の明治・大正 ー国立国会図書館所蔵写真帳からー」にも、次のデータにより掲載されている。
掲載資料 東京府名勝図絵  刊行年 明45.5  請求記号 YDM24135
住所表記(明治期) 赤坂区元赤坂町  住所表記(現在) 港区元赤坂
江戸期(末期) 紀州徳川藩邸  現在(平成19年1月現在) 迎賓館

長崎外の古写真考 目録番号:6772 猿橋(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6772 猿橋(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6772 猿橋(2)

目録番号:4279 猿橋
〔画像解説〕
山梨県大月市猿橋町に所在する桂川に架けられた猿橋である。猿橋は「木曽の桟(かけはし)」「周防の錦帯橋」とともに日本三奇橋と呼ばれ、昭和7年(1932)に国名勝に指定された。猿橋は橋脚を用いない「ひじ木けた式橋」である。写真は桂川の上流部から猿橋を望み撮影されたものであり、橋の上に多数の人物が写っているが、撮影時期等は不明である。

■ 確認結果

目録番号:6772「猿橋(2)」は、次の目録番号:4279「猿橋」と同じ写真である。〔撮影者:A.ファサリ〕であろう。
HP「広重再考」から安藤広重作 「甲陽猿橋の図」と現在の「猿橋」(猿橋-水路-国道20号)。

(2016年2月10日 追 記)
「猿橋」の現在の写真を末尾に2枚追加。ギャメロンさんのブログぶら〜り日記から。

長崎外の古写真考 目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1)
〔画像解説〕
解説はないが、京都の大原女と思われる。街道を行く娘たちは着物の裾をたくし上げ、手甲、脚絆をつけ、首に手拭いを巻き、頭に手拭いでほっかむりをしている。前掛けをしている女性もいる。頭上の荷物は風呂敷包みである。

目録番号:4401 頭で荷物を運ぶ女たち(2)   (同写真 掲載略。撮影者:小川一真か)
〔画像解説〕
大原女姿の五人の女性が頭を手ぬぐいで覆い、その上に荷物を載せ、街道を歩いている。脚絆を巻き、草鞋姿で、腰帯の結び方から見て、かなりの距離を歩く様子のように見える。

目録番号:1892 頭に荷を乗せて運ぶ人びと
〔画像解説〕
どてら風の服に手拭いを垂らし、草鞋履きの男たちが頭に荷物をのせて一列にならんで歩いている。珍しい光景のため、撮影したのだろうか。

■ 確認結果

目録番号: 413「頭で荷物を運ぶ女たち(1)」と、目録番号:4401「頭で荷物を運ぶ女たち(2)」(同写真 掲載略)は、京都の大原女の風景であろう。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 京都府商品一覧に「34042京都 彩色 大原美人」、キャプションに「KYOTO」とある。

後の目録番号:1892「頭に荷を乗せて運ぶ人びと」も、〔撮影者:小川一真〕であり、同じ京都の大原の風景と思われる。

長崎の古写真考 目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

目録番号:1291 大音寺本堂(1)
〔画像解説〕 超高精細データベース
F.ベアトの撮影。大音寺は、本博多町にあったキリスト教の施設ミゼリコルディアが元和6年
(1620)に破却された跡地に、僧伝誉が創立したという浄土宗の寺院で、現在地へは寛永15年
(1638)に移転したと伝えられる。幕末期には堂塔の頽廃が著しかったので大修繕が施され、元治元年(1864)に竣工したというが、本堂は天保3年(1832)に改築されたばかりであったから、大修繕には及ばなかったかと推察される。がともあれ、撮影されたのはその竣工後、間もない時期であろう。本堂の形式は、間口11間半に奥行き10間の平面に入母屋造りの屋根を架け、正面に中央唐破風の屋根装飾がある向拝を付している。但し、昭和戦前期の写真では、向拝は唐破風がない形式となっているので、これは大正年間の大修繕時に変更されたのであろう。戦後、火災に遇ったため、昭和37年3月に鉄筋コンクリートによる再建が成就した。いずれも規模は不変で、堂前の蘇鉄は今も健在である。

目録番号:5359 大音寺中門(3)
〔画像解説〕 超高精細データベース
上野彦馬の撮影。大音寺は、本博多町にあったキリスト教の施設ミゼリコルディアが元和6年
(1620)に破却された跡地に、僧伝誉が創立したという浄土宗の寺院で、現在地へは寛永15年
(1638)に移転したと伝えられる。幕末期には堂塔の頽廃が著しかったので大修繕が施され、元治元年(1864)に竣工したという。右手の重層、入母屋造、楼門形式の建物が中門で、脇の築地塀、前後の石段ともども現存する。左手のアーチ型の石門は、その背後にみえる安永9年(1780)に完成した開山・伝誉上人碑への入り口で、門塀も同時期の建設とみられる。中門の左上は文化9年(1812)に再建された鐘楼で、その右手には本堂の屋根も覗いている。鐘楼の右脇の大木は、昭和50年に市の天然記念物に指定された「大音寺のクロガネモチ」である。本堂が戦後に鉄筋コンクリート造に建て替えられたり、画面に写る石灯籠が一部失われたりしているが、全体の景観は今もよく残されている。

■ 確認結果

ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 長崎県商品一覧にある「長崎彩色寺社名不明」の作品。
次のデータベース目録番号:1291「大音寺本堂(1)」と、目録番号:5359「大音寺中門(3)」のとおり、長崎市鍛冶屋町にある浄土宗の「正覚山大音寺」であろう。

中央唐破風の屋根装飾がある向拝、ソテツ、鐘楼、クロガネモチ、石灯籠など比較。明治時代?の貴重な古写真。長崎大学附属図書館が購入してほしい。
鐘楼は、同じ写真がHP「長崎古えはがき」の「DAIONJI」に掲載されている。

長崎の古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
撮影者不詳。大型アルバムに貼り付けられたモノクロ1枚もので、黒ペンによりNagasaki-Posteset telegraphe sur le ‘Bund’,on quai,→Collined’Oura(「バンド」(波止場)における電報電話局、大浦の丘)とフランス語のキャプションがある。これは出島の外海岸から梅香崎の洋館群を撮影したものである。4棟右端は梅香崎1番の長崎郵便電信局(明治19年<1886>に本博多町から移転)であるから、撮影は移転直後の明治20年(1887)頃であろう。以下順に2番デンマークの大北電信長崎局(わが国国際通信の草分け)、3番の日本郵船長崎支店(明治18年<1885>開設)、4番アーレン商会(後の明治36年<1903>に横浜正金銀行が大浦8番から移転)。その左は明治2年(1869)架設の梅香崎橋。その左手の白い建物は梅香崎5番。右端は明治10年(1877)の台風被害から再築された長崎税関の庁舎と倉庫。丘の上には十人町の日本人家屋が立ち並んでいる。

■ 確認結果

目録番号:4864「長崎梅香崎洋館群(1)」の撮影場所は、「これは出島の外海岸から梅香崎の洋館群を撮影したものである」としているが、「古地図から検索」画面のとおり、出島の東側海岸通りから対岸の梅香崎居留地(右から左へ1番〜4番)と梅香崎橋を望んで撮影している。
現在の長崎市民病院あたりとなるだろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1836 グランドホテル(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1836 グランドホテル(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1836 グランドホテル(3)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
海から海岸通りの東端を望む。中央の石壁の建物はグランドホテル旧館(居留地20番)。このホテルは写真家ベアト(Beato,Felice)ら数人が共同で所有する建物をグリーン夫人(Green,Mrs. M.E.)が賃借し、明治3年(1870)夏にオープンしたもので、6年にアメリカ人建築家ブリジェンス(Bridgens,Richard P.)の設計で改築されたのがこの建物である。22年(1889)に株式会社組織となり、翌年フランス人建築家サルダ(Sarda,Paul)の設計によって、隣接の18・19番に増築されたのが、写真の右手に写っている新館である。堀川の河口を挟んだ対岸、国旗用のポールの立っているのがイギリス海軍物置所、その向こうの桟橋をもつ敷地は太平洋郵船会社(Pacific Mail Steam Ship Company)の貯炭所である。グランド・ホテルは明治3年(1870)の創業、横浜を代表するホテルに成長するが、関東大震災で倒壊した。日下部金兵衛のカタログ番号505番の写真。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
バンド東端と山手方面を望む。グランドホテルは明治6年(1873)8月新装開業の旧館と18・19番の新館からなる。この建物は、フランス人居留地建築家サルダの設計になり、明治20年(1887)に落成した。

目録番号:4369 グランドホテル(7)
〔画像解説〕
バンド東端と山手方面を望む。18〜20番のグランド・ホテル新館・旧館から堀川を隔ててその奥にみえるのはイギリス海軍の物置所。のちに海軍病院の庭園になる。手前の人物が立っているのは、フランス波止場。

■ 確認結果

目録番号:1836「グランドホテル(3)」の、超高精細画像データベースの画像解説では、「海から海岸通りの東端を望む」と説明しているが、次の目録番号:4369「グランドホテル(7)」のとおり、突堤の「フランス波止場から」撮影している。

長崎の古写真考 目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
この写真は、英文で「長崎稲佐の景色」と題されている。飽ノ浦神社(恵美須神社)の境内越しに長崎港を遠望している。同じ写真が上野彦馬のアルバム(66-21)にも収蔵されている。明治初期の撮影と思われる。この写真は、日下部金兵衛写真アルバムに収められている写真である。写真の対象は、恵美須神社の境内とその前に和船が係留されている。写真左側に飽ノ浦の集落とその先に岬がある。対岸は長崎市街中心部の海岸線である。左側の山は金比羅山・立山である。その山裾が筑後町の寺院群であり、山裾の先端付近に諏訪神社がある。海岸線は長崎市街中心部の沿岸部の全域が撮影されている。写真左、岬の先の対岸は西坂付近で、左端が梅香崎付近である。神社の向こうの和船の先に、黒い一艘の船が見えるが、その付近が出島である。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
この写真は英文で「長崎、稲佐の景色」と題されている。飽の浦神社(恵美須神社)の境内ごしに長崎港の風景を遠望している。同じ作品が上野彦馬のアルバムにも収蔵されている。明治初年の撮影と思われる。

■ 確認結果

目録番号:1694「飽の浦恵美須神社(3)」の、超高精細画像データベースは〔撮影者:日下部金兵衛〕となっているが、メタデータ・データベースのとおり〔撮影者:内田九一〕である。明治5年
(1872)、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の1枚。

画像解説中「写真左側に飽ノ浦の集落とその先に岬がある。…写真左、岬の先の対岸は西坂付近で、左端が梅香崎付近である」は、「写真の神社左右が飽ノ浦の集落、左奥に水ノ浦、その先に大鳥崎、稲佐崎の岬がある。…写真左、稲佐崎の対岸は西坂付近である」となろう。
パノラマ写真の2枚目ならわかるが、「出島」や「梅香崎」は、この写真のまだ右外で写っていない。

この項は次の記事を参照。現在の写真は、恵美須神社の場所と背景の山並みがわかりやすいパノラマ写真を掲げた。
https://misakimichi.com/archives/1589
https://misakimichi.com/archives/1588

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

■ 確認結果

目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の、撮影場所は「鍋冠山」でなく、まだ東方の「星取山」からが正しい。「ドンの山」としている別作品の目録番号:4878「ドン山(から)見た大浦居留地・出島」(掲載略)もある。
現在の写真は、2枚目が「星取山」(山頂は木立となって、古写真どおり確認できない。少し中腹の港ヶ丘パーク墓苑上から写した)、3枚目が「鍋冠山」からである。
大浦川河口と市街地がこのような位置に写るのは、「星取山」からである。

以前から何度となく指摘しているのに、データベースは今となっても撮影場所が、「星取山」からに修正されない。困っているのは利用者や古写真集の出版社である。
最近でも間違った画像解説の写真の提供を受け、そのまま掲載している。長崎大学側は、このような事情がわからないのだろうか。現地確認のうえ、早急に修正すべきである。

4枚目のパンフレットは、2009年4月発行された「長崎さるく幕末編」目次頁。豪華なパンフレット公式資料なのに、左下に堂々と「鍋冠山から望む長崎港(慶応年間)」と説明している。
5枚目の本は、山川出版社が最近、2011年4月25日発行したばかりの古写真集「レンズが撮らえた 幕末の日本」。202頁に掲載された写真は、「鍋冠山からの長崎港」と解説している。

この項は次の記事を参照。いっこうに修正されないので、この作品をあえてまた再掲した。
https://misakimichi.com/archives/1877
https://misakimichi.com/archives/1598
https://misakimichi.com/archives/2736