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戸町4丁目で、アーチ式石橋が見つかる  長崎市戸町4丁目24街区

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戸町4丁目で、アーチ式石橋が見つかる  長崎市戸町4丁目24街区

2013年10月20日(日)、みさき道歩会例会で長崎市南部の山、大久保山(標高233.7m)に登り、女神大橋魚見岳トンネル上部尾根から戸町切通バス停へ下った。その下りの途中、M氏とK氏が気付いた。私はこの道を2,3回通っているが、今まで全然、覚えがない。

場所は長崎市戸町4丁目24街区角。国の税務職員などのアパートが建っていたところ。現在は民間駐車場となり、郵政職員アパートA棟のみ残っているその登り口手前である。
地元の人に聞くと、潜伏キリシタン「金鍔次兵衛」にちなみ、このあたりも金鍔谷というようで、この川も金鍔川(正しくは「岩井浦川」か)としておこう。

山に囲まれたかなり広い谷間。昔は田が一帯に広がっていたが、戦時中まで「火薬庫」の建物が建っていたと言う。石橋の造りは立派で、やや新しい時代に軍道?の橋として架橋されたと思われる。架橋年代・橋名とも不明。
橋下からも調査したが、その状況は写真のとおり。念のため、周辺一帯も調査した。駐車場を越した南側の小川にも、桁石橋が見つかった。

メジャーを持参しておらず、2つの橋の正確な調査と計測は、石橋HPの宮崎市贄田氏にお願いする。「ねじりまんぼ」形式といい、たいへん珍しい興味深い石橋らしい。

(2013年10月31日 追記)  石橋上部の「長崎税関戸町火薬庫の歴史と標石」

2013/10/31(木) [ JOKAMOTO ] 氏コメントがあった、大蔵省関税局編「税関百年史 上巻 」日本関稅協会昭和47年発行197頁は、次のとおり。
火薬庫場所は、地元松林氏の記憶によると、現在ここにある郵政職員アパートや民間駐車場一帯で、2棟の煉瓦造り平屋建物が建っていたが、大戦中はもう使用されていなかったということである。
コメントどおり、近辺には欠損した標石2本(1本は「長崎…」と刻む)が現存しているのを確認したが、火薬庫境界石とは断定できない。
税関と火薬庫との関係は、輸入品だったなら火薬類一時保管庫をここに設置したのだろうと言う長崎税関の話である。
税関の火薬庫で、私が「軍道?の橋」と説明したのは、間違いがあるようなので訂正したい。

「…火薬類の保管については、旧幕時代のものが引きつづき使用されたが、明治五年正月、西泊郷に新しく一棟が新築され、これが利用されることになった。その後、二八年五月には、西彼杵郡戸町村の岩井浦に、新しく火薬庫が新築されたので、これに移転している。
また、(註 以下は梅香崎税関建物の記述のよう)上屋の施設についても、六年四月、梅ケ崎沿岸の海岸を埋立て、はじめて税関上屋一棟が建設されたが、翌七年八月、暴風雨によって倒壊したため、九年三月、これを再建している。しかし、日清戦争の時期には、これらの施設では狭隘となったので、三〇年二月には、あらためて吹抜上屋一棟の増設が実現した。…」

(2014年1月13日 追 記)
追加の写真は、同じく[ JOKAMOTO ] 氏からの火薬庫跡の追加情報。近くの民家庭に「長崎爆發物貯庫」と刻む標石が保存されていたので、標石を確認した。
不在だったので、もともとこの標石がどこにあったかは不明。

大久保山の藩境石塚を調査し、戸町電波塔山へ 2013年10月

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大久保山の藩境石塚を調査し、戸町電波塔山へ 2013年10月

2013年10月20日(日)快晴。大久保山(標高233.7m)の藩境石塚を調査し、戸町電波塔山へ。参加10人。みさき道歩会の例会。
女神バス停9:30—白崎台場跡9:56—白崎藩境石10:04—大久保山藩境塚群10:45—大久保山11:30(昼食)12:05—魚見岳トンネル上部展望岩12:42—戸町4丁目石橋13:
35—戸町切通バス停14:00(徒歩距離 約8km)

女神から白崎バス停まで歩き、石段を上がって行く。左の竹林内へ入ると、「白崎台場跡」で、不思議な長い石柱が残る。石段の突当りには、藩境石「従是南佐嘉領」が石垣に組み込まれている。長崎港口を見ながら小ヶ倉の方へ少し進み、大久保山の尾根に取り付く。
藩境石に続く藩境塚群をたどる。西尾根のこの間は8基が確認できる。「八郎岳子午線標」の先が、すぐ大久保山の山頂である。

昼食後、女神大橋魚見岳トンネル上部の方へ下る。少し登ると大橋と長崎港の展望が良い岩場がある。ダンギクが自生していたが、撮影忘れた。ここから戸町電波塔山へ縦走する予定だったが、道が荒れて先がわからない。仕方なく戸町切通バス停へ下った。
お蔭で戸町4丁目の郵政職員アパート手前の川で、アーチ式石橋と桁石橋を発見。ここに戦時中、火薬庫があり、軍道の橋と思われる。石橋の項は別の記事とする。
ダンギクは、戸町4丁目自治会掲示板文化ニュースが、珍しい大陸系花として掲載していた。

本ブログ2007年7月記事「大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査」は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/85

洲本奥畑のメグロチク  兵庫県洲本市奥畑

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洲本奥畑のメグロチク  兵庫県洲本市奥畑

現地説明板は、次のとおり。
洲本市街から県道125号で西へ。上内膳交差点から五色への県道472号に入る。神戸淡路鳴門自動車道のガード下をくぐり、先山西麓の奥畑まで行く。
奥畑バス停の少し手前から右の広い車道へ入り、集落の奥まで進む。谷間の左方対面に指定の竹林が白い説明板とともに見えるので、野良道を上がる。

県指定文化財 洲本奥畑のメグロチク
指定年月日 昭和45年3月30日
所有者・管理者 井筒君

メグロチク(芽黒竹)とは、節と節の間の桿(かん)の芽溝部だけが黒色をおびる全国でも極めて稀なハチクの一変種である。若竹よりも2〜3年生の竹に特長がよくあらわれ、夏ごろから冬にかけて色づく。
竹林の規模は25アールに及び、ハチク、クロチク、ゴマダケなどが混在しているが、その中の4アールにメグロチクがよく繁茂している。そのうち、最も成長のよい2アールについて、現在、日本で唯一の自生地として、県指定天然記念物に指定された。
平成7年2月   兵庫県教育委員会

先山(せんざん)・千光寺  兵庫県洲本市上内膳

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先山(せんざん)・千光寺  兵庫県洲本市上内膳

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
洲本市街から県道125号で西へ。下加茂交差点から五色への県道46号に入る。神戸淡路鳴門自動車道の手前から、県道465号へ入る。自動車道ガード下をくぐり、登って行くと、千光寺下の駐車場へ着く。
後ろの写真は、桑間交差点角の「先山道」標石。広田橋と鮎屋川ダムから望んだ先山。

先 山
先山(せんざん)は、兵庫県の淡路島中部にある標高448mの山。洲本市上内膳に位置する千山山地の最高峰。愛称は淡路富士[1]。

概要
山名は国生み神話でイザナギ・イザナミの二人の神が淡路島を創ったときに、最初にできた山がこの先山であるとされることから[1]。
領家変成帯の花崗岩でてきていて西側は緩やな津名丘陵が続き、東側には南北に通る先山断層を挟んで大阪層群の丘陵が広がっている[2]。
山頂の展望台からは大阪湾はもとより四国まで望むことができ「洲本八景」の一つに数えられ[3]、 また本山と諭鶴羽山(608m)、柏原山(569m)で「淡路三山」とも呼ばれる。
1804年(文化元年)、谷文晁が出版した『日本名山図譜』は全国の著名な87の山を水墨画で描いたものだが、この中に大阪湾を隔てて望んだ先山が富士山のような姿で描かれている[4]。

千光寺
山頂には淡路島第一の名刹、先山千光寺が建つ。本尊は千手観音。縁起によると大猪に化身した観音菩薩に導かれた狩人が開基したとされ、境内には狛犬ではなく神使として猪が置かれている[3]。
梵鐘は弘安6年(1283年)の銘があり国の重要文化財である。本堂の鰐口は天文15年(1546年)のもの。また仁王像は運慶の作であるといわれる。古くから信仰を集めており、今も大晦日の夜の「除夜詣」から正月の初詣にかけて賑わう[1]。

アクセス
頂上の千光寺まで北側から車道が通じ駐車場がある。また南東側には麓からの参道がある。

市原大歳神社のクスノキ  兵庫県洲本市中川原町市原

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市原大歳神社のクスノキ  兵庫県洲本市中川原町市原

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記による説明は、次のとおり。
洲本市街から県道125号で西へ。下加茂交差点から右折し、五色への県道46号へ入る。神戸淡路鳴門自動車道近くが中川原町市原で、市原公会堂(公民館)背後の神社にクスノキがある。

名称 市原大歳神社のクスノキ(いちばらおおとしじんじゃのくすのき)
樹種 クスノキ
樹高 27m(注1 環境庁「日本の巨樹・巨木林 近畿版」による)
目通り幹囲 5.3m(注1)
推定樹齢 不明
所在地の地名 兵庫県洲本市中川原町市原
天然記念物指定 なし

県道46号(洲本五色線)が神戸淡路鳴門自動車道を跨ぐ地点から、県道沿いに北西に500mほど進んだ左手に市原公会堂があり、その背後に大歳神社が鎮座している。
そこにクスノキが立っている。クスノキの樹冠は、車窓からもよく見える。
ここは大歳神社の境内だと思っていたのだが、環境省巨樹データベースでは、公有物だとある。もしかしたら、クスノキが立つ場所は境内を外れているのかも知れない。
まだ若々しいクスノキである。現状ではまだ大きさに物足りないものがあるが、いずれは辺りを睥睨する大クスノキに育ってくれることだろう。

大上権神社のクスノキ  兵庫県洲本市桑間

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大上権神社のクスノキ  兵庫県洲本市桑間

HP「巨樹と花のページ」兵庫県による説明は、次のとおり。
洲本市街から県道125号で西へ。桑間交差点から右折して県道474号へ入る。すぐ洲本川に出るので、橋手前から上流側へ堤防沿いの車道を行く。川畔に目立つ木である。  

大上権(だいじょうご)神社の楠 (兵庫県洲本市)

環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/5.20m、樹高/20m、樹齢/推定500年。
クスノキの周囲は田んぼになっており、独立して立っているのでよく目立ちます。
洲本川の堤防が向こう側にあります。

名 称:大上権神社の楠
所在地:兵庫県洲本市桑間441-5
指 定:なし
アクセス:【車】神戸淡路鳴門自動車道・洲本ICから、県道125号を東に約2km。桑間交差点を左折し200m。

淡路島の洲本市を西から東に流れている洲本川の堤防沿いに大上権神社の楠と呼ばれている大クスが田んぼの中に1本だけぽつんと立っています。
写真をご覧のように周囲には田んぼと川があり遮るものがありません。それでも病院やその駐車場が徐々に大クスに迫ってきています。
大クスの前には「大上権神社」と書かれた小さな祠があります。治水の神様といわれています。

宮 滝  兵庫県洲本市千種

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宮 滝  兵庫県洲本市千種

HP「兵庫の滝」による説明は、次のとおり。
洲本市街から猪鼻第二ダム方面への県道481号に入る。千草川・竹原川の合流地点「落合橋」を渡り、県道を進むと、すぐ「みやたき市民の森」の案内標識がある。左折して終点の駐車場まで2.5km行く。ここから遊歩道を10分くらい歩くと、宮滝がある。

宮 滝
洲本市千草にある「宮滝」です。落差20m。大きな岩盤を2段になって落ちる美しい段瀑(ほぼ直瀑)です。この滝は「鮎屋の滝」とならんで洲本市を代表する滝ですが、普段は水量がなく、枯滝になっていることも多いようです。…
滝周辺は、祠や籠り堂があり、地域の信仰の場になっています。また、駐車場付近は「みやたき市民の森」として公園風に整備されています。…
駐車場からは比較的整備された地道の参道を徒歩10分くらいで滝に着きます。

千草のホルトノキ  兵庫県洲本市千草

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千草のホルトノキ  兵庫県洲本市千草

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記による説明は、次のとおり。
洲本市街から県道481号により猪鼻第二ダムの方へ向かう。青少年教育キャンプ場入口を過ぎ、しばらく行くと猪鼻公会堂(公民館)があり、その側にホルトノキがある。

名称 千草のホルトノキ (ちくさのほるとのき)
樹種 ホルトノキ
樹高 不明
目通り幹囲 4.8m(注2 社団法人兵庫県治山林道協会によるWEBサイト)
推定樹齢 不明
所在地の地名 兵庫県洲本市千草
天然記念物指定 なし

洲本市街から千草川(中・上流では猪鼻川)沿いに、県道481号(相川下清水線)を南下する。道なりに進んで行くと、やがて、まだ新しい猪鼻公会堂の隣に小さな森が見える。
森の中に分け入ると小さな石祠が3つ並んでいて、その隣に、力強い姿の巨木が立っていた。それがこのホルトノキである。
比較的若い個体のようで、樹皮は瑞々しく、失われた大枝もほとんどない。他の木々からひときわ抜きんでて、幅の広い大きな樹冠を戴いている。樹勢は申し分ないように見える。
幹囲のサイズとしてはまだ物足りない気持ちもするが、近い将来に於けるホルトノキ名木の有力候補であることは間違いない。今後のさらなる生長に期待したい。
ただし、どういうわけか、こんなに立派なホルトノキが環境省巨樹データベースから漏れ落ちてしまった。私も、たまたま上記WEBサイトを目にすることがなかったなら、せっかく淡路島に上陸したのに、訪ねることなく通り過ぎてしまうところだった。

柏 原 山  兵庫県洲本市千草丙

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柏 原 山  兵庫県洲本市千草丙

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
由良町生石側の県道76号から柏原林道へ入り、伊張山保塁跡を通って柏原山へ行く。地蔵追分の先に駐車場があるが、北側展望台の方へ車道を進み、途中から道標により登山道へ入る。
これから山頂までは20分くらい。展望はきかない。三角点の尾根を下ると、北側展望台へ出た。駐車場へ戻り千草へ下ったが、8枚目の標石は、途中で見た町石?
千草竹原川側の県道481号に、「柏原山森林公園登山道入口」の案内板があった。

柏原山

柏原山(かしわらやま)は兵庫県の淡路島南東部、諭鶴羽山地東部にある標高568.9mの山である。洲本市千草丙に位置する。諭鶴羽山、先山とともに「淡路三山」の一峰。

概要
洲本市内の最高峰であり淡路島では2番目の高さを持つ。四国から紀伊半島、瀬戸内海が見渡せ、晴れていれば神戸・大阪の街並みまで望むことができる。頂上そばに車道が通じ、急勾配ではあるが登山道もよく整備されている。
また夜空がきれいで天体観測にも向いており、1990年(平成2年)には環境庁(現環境省)主催の全国星空コンテスト・写真測定部門で第2位に選ばれている[1]。

施設
迦葉山瀧水寺 – 頂上東側

アクセス
柏原林道が洲本市千草から洲本市由良まで頂上東側を通っているため、どちらからでも上れる。兵庫県道481号相川下清水線、洲本市千草己から南へ上る。(アスファルト舗装)
兵庫県道76号洲本灘賀集線、洲本市由良から西へ上る。(コンクリート舗装)

伊張山堡塁  兵庫県洲本市由良町由良

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伊張山堡塁  兵庫県洲本市由良町由良

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。適当な解説がなく、由良要塞の項中の「伊張山堡塁」を参照。
「生石公園」から県道76号の入口へ戻る。南淡路水仙ラインをしばらく進むと、案内標識はないが、柏原山まで登るコンクリート舗装「柏原林道」が分かれる。林道に入りつき上がった高地の平地に「伊張山堡塁跡」の標柱があった。
廃止が大正2年なので、堡塁内部はかなり荒れている。柏原山はまだ先である。

由良要塞

由良要塞(ゆらようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞の一つ。大阪湾防衛の目的で紀伊半島と淡路島の間の紀淡海峡周辺に作られた。

概要
当初の由良要塞は大きく3つの地区に分けられる。1903年5月、鳴門要塞が編入され鳴門地区が加わり4地区となる。
由良地区
淡路島の由良(現洲本市由良)を中心に要塞司令部が置かれ、生石山砲台、成山砲台、高崎砲台、赤松山堡塁、伊張山堡塁、生石山堡塁からなり要塞の心臓部を成した。由良に置かれた由良要塞重砲兵連隊が運用。
由良要塞は終戦時には第2総軍第15方面軍直轄部隊であった。
友ヶ島地区  略
加太・深山地区  略
(鳴門地区・旧鳴門要塞)
鳴門海峡に置かれた鳴門要塞が編入され鳴門地区が加わる。

砲台・保塁
生石第一砲台:28cm榴弾砲(6門)
生石第二砲台:28cm榴弾砲(6門)
生石第三砲台:24cmカノン砲(8門)
生石第四砲台:27cmカノン砲(4門)
生石第五砲台:12cmカノン砲(4門)
成山第一砲台:15cmカノン砲(2門)、21cmカノン砲(6門)
成山第二砲台:12cmカノン砲(2門)、28cm榴弾砲(2門)
高崎砲台:24cmカノン砲(8門)
赤松山堡塁:9cmカノン砲(6門)
伊張山堡塁:9cmカノン砲(4門)
生石山堡塁:15cm臼砲(4門)

歴史
明治22年(1889年)3月 – 生石山第三砲台を起工、由良要塞の建設開始
明治29年(1896年)7月 – 由良要塞司令部開設
明治31年(1898年)10月8日 – 司令部は兵庫県津名郡由良町に移転[1]。
明治36年(1903年)5月 – 鳴門要塞を吸収合併
明治37年(1904年)2月 – 動員下令(日露戦争)
大正2年(1913年)4月 – 佐瀬川保塁、深山第一砲台、深山第二砲台、赤松山保塁、伊張山保塁、成山第一砲台、成山第二砲台廃止の方針が出る

跡地
第二次世界大戦では航空機が主力となり、活躍の機会はまったくなく終戦と同時に米軍により撤去された。現在は遺構の大部分が失われてしまったが、一部が残るほか、砲も展示されている。
生石砲台群:公園として整備され、砲台跡、棲息掩蔽部が残り、破損した砲身が展示されている。
成山砲台群:不明
高崎砲台 :不明
赤松山保塁:不明
伊張山堡塁:不明
生石山堡塁:不明