月別アーカイブ: 2014年3月

三和のみなとメディカルセンター?  長崎友愛病院

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三和のみなとメディカルセンター?  長崎友愛病院

長崎市布巻町の長崎友愛病院が、昨年7月起工し別館建設工事中。3月の竣工を目指しており、その後も本館の改修を約3ヵ月をかけて行う予定。
写真と記事は、たっしゃかかい(地域の健康と医療を考える会)第11号から。

ハウステンボス 花と光の王国「チューリップ祭」(2) 2014.2.15〜4.13

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ハウステンボス 花と光の王国「チューリップ祭」(2) 2014.2.15〜4.13

世界最大級のイルミネーション、日本最多品種のチューリップ、桜と芝桜の競演など、ご来場日によって様々な楽しみ方ができる特別な「春」。
さあ、あなたはいつ訪れますか?  2014年3月7日(金)の様子。妻が出かけた。

ハウステンボス 花と光の王国「チューリップ祭」(1) 2014.2.15〜4.13

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ハウステンボス 花と光の王国「チューリップ祭」(1) 2014.2.15〜4.13

世界最大級のイルミネーション、日本最多品種のチューリップ、桜と芝桜の競演など、ご来場日によって様々な楽しみ方ができる特別な「春」。
さあ、あなたはいつ訪れますか?  2014年3月7日(金)の様子。妻が出かけた。

3 網場砲台 2014年3月の現況  [所在地:長崎市春日町]

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3 網場砲台 2014年3月の現況  [所在地:長崎市春日町]

本ブログ「橘湾沿岸の戦争遺跡」2007/6/20(水) 午後 5:00 の次記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/7

・四五口径三年式十二糎砲を1門設置(吉岡さん証言)
・老人ホーム「橘の家」付近の県道下の海岸部に、コンクリート砲台1基の格納壕を確認
・左奥砲側庫には鉄板施工、通用坑、換気孔2基、鉄環1基
(高谷氏資料から)

それから7年近く経過したおととい2014年3月3日(月)午後2時過ぎ。東長崎の織田武人先生からSOS電話があった。地元岩崎さんと2人で、網場砲台を先日2時間かけ、きょうも昼から探しているが、どうしても見つけきれない。現地へ直行を頼むという電話だった。
場所は、県営バス春日車庫下の谷間。県道がカーブする手前からその谷間の小さな畑道を下れる所まで下る。川の脇に杉の植林がある。右手の雑木斜面の方へ回り込むと、まずやや大きな土穴(壕横からの出入り口?)があり、その先にコンクリート造の砲台壕が現存する。

海岸部から約50m位の高地にある砲台。照準は牧島の弁天島付近と考えられる。7年前、上記資料「玉名荒尾の戦争遺跡をつたえるネットワーク」玉名市の高谷先生、及び織田先生も案内したことがあった。私も場所がもううろ覚えになっていた。いっときは探しきれなかった。
織田先生は、長崎市東公民館で歴史講座を持っている。この下調べで急に思い出し、私の研究レポート第3集204頁の記録をもとに、現地調査を再び2人でしていたということである。
受講生を近々、講座で現地に案内するらしい。

網場砲台7年ぶりの現況写真は、上のとおり。場所がうろ覚えになっていたため、もう少し高部で、別の空気穴(換気孔)1か所も見つけた(最後の2枚の写真)。
研究レポート「江戸期のみさき道」第3集204頁の、当時の記録は次のとおり。参考に掲げる。

B 別図第二 砲台配置及水中障害物設置海面概区〔挿図第三十六〕関係

4 網 場      12×1 海軍海面砲台十二糎砲一門

長崎市の東部日見が網場である。湾の南方には海上に立つ「立岩」(ルイ14世岩)がある。砲台跡は立岩の上手山中。網場町の先、春日町の老人ホーム「橘の家」の手前、県営バス「春日車庫前」の下手から降りると立岩との中間くらい。尾根筋のすぐ下に見事なコンクリート造り壕が口を開けていた。
壕の存在は昨年末下調べしたとき、近くに畑を持つ網場溝口さんと吉岡さんから聞いていた。溝口さんは20年位前一度行ったきりである。場所をよく覚えず、今どうなっているかわからないとのことであった。
1月28日、矢上普賢岳帰りの午後4時頃、現地に立ち寄って半時間ほど探したがどうしてもわからず、ミカン畑に出ると運よく溝口さん夫婦がおり、案内してくれると言った。溝口さんの記憶をたどりつつ鎌で藪を払ってやっと土穴を見つけた。しかしこれでない。返って奥さんが昔ツワ取りに行って偶然見かけた壕の姿を覚えており、土穴の下手に回り込むとコンクリート造りの壕があった。標高は50m位の地点。正面に牧島が見える。
高さ2m、全幅3.5m、奥行きは陥没して4.2m位の横穴壕。上部に砲身をつるして出し入れする金具が取り付けられていた。今回の調査でコンクリート造を始めて見た。ここは土面だが、どうしても壕を築かねばならず、前面をコンクリート、奥は炭鉱の坑道と同じように材木を組んだのではないか。上で見かけた土穴は、出入り口のようである。空気穴もあった。
あと1人、畑で話しを聞いた網場吉岡増治さんは、老人ホーム「橘の丘」土地の旧所有者。戦時中、この高台の畑が取られ、沖縄戦に赴く兵隊が高射砲訓練をする広場となっていた。砲座は5門くらいあり、夜間は、海上と網場、春日から探照灯を照らし、撃ち落していた。網場養国寺が幹部の宿舎となり、軍刀を持った教官のような兵士が30人ほどいた。
網場バス停裏側、アバ美容室横の駐車場奥に5穴の壕があるが、これは部落の防空壕である。

深堀陣屋跡の現況 (5)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (5)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年秋完成を目指し、行われている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果が公表されていない。最初の写真が、現在の教会。
周辺の石組みの保存方法について、「現状のまま維持保全してほしい」という要望書を教会関係者と文化財課、まちづくり推進室に送りましたが、当然反応はないと、12月2日、地元出身の心ある要望者(「肥前国 深堀の歴史」著者・芦屋市在住平氏)から聞いている。

工事開始から3か月が過ぎた。現地広場へ行って見ると、南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊され、深く掘り下げた基礎工事があっていた。
下の広場に無造作に積まれている石は、この礎石などではないのだろうか。そのまま埋め戻した形跡はない。手前フェンス内のは武家屋敷通りの壊された石塀などである。
ここに建てる建物は何だろうか。納骨堂や便所と思われる。「深堀陣屋資料館」として、歴史史料、遺構写真など展示し、石組みも残して見学できるようにしてほしかった。遺構を壊してまで、わざわざここに建てる必要がある建物なのか。

史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。深堀陣屋跡を長崎市史跡として指定しないのだろうか。市民にはまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を提出しているのに、明確な回答をしない。
建設工事の概要を、私たちは知ることができない。現在の教会前の広報板に、建物バースがあった。説明がないが、これが新しい「カトリック深堀教会完成予想図」と思われる。

また、教会広報紙「ひろがり」3月1日付第124号を掲示していた(ズーム拡大)。紙面は「深堀教会の紹介」でもHP検索できるが、新しい号にはまだ更新されていない。
http://www9.ocn.ne.jp/~fukahori/kouhou.htm
記事には「教会建設少しづつ目に見える形に」とある。史跡保存をどうするのか、どうしたのかのは、まったくわからないニュースである。

教会主体で建設工事が行われるのは、やむを得ないが、史跡保存にもう少し配慮するよう、長崎市文化財課が見識を持って強力に、教会側を指導するべきではなかったろうか。
将来に最も重大な禍根を残した深堀陣屋跡史跡破壊の実情だろう。私も早く現地を訪ねておけば良かったと、今、悔やまれてたまらない。
市指定天然記念物「深堀陣屋跡のアコウ」説明板も、現状は無神経としか言いようがない。

深堀城山の陸軍省要塞標探しと新ルート整備  2014年3月

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深堀城山の陸軍省要塞標探しと新ルート整備  2014年3月

2014年3月2日(日)晴。深堀城山(標高350.4m)の陸軍省要塞標探しと新ルート整備。みさき道歩会の例会。参加7人。
江川総合運動公園9:35—船舶装備尾根9:42—小ピーク10:36—炭焼き釜跡10:46—城山登山道出合12:35—愛宕神社跡12:40(昼食)13:20—竿浦下山路分岐13:30—竿浦14:50—江川総合運動公園15:10(徒歩距離 約 8km)

今回の目的は、次を参照。「長崎要塞第二地帯標」の竿浦の八郎岳側「第十一号」「第十二号」の現存が判明したから、深堀城山側の「第九号」「第十号」の調査である。
2−特 竿浦町大山祇神社北上の尾根  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十二号)
https://misakimichi.com/archives/3853
2014年1月19日(日) 竿浦から八郎岳一周とかき焼き新年会
https://misakimichi.com/archives/3907

竿浦や平山から深堀城山へ登る道はあまり知られていないが、数ルートの昔からの赤道が残る。城山山頂八幡宮へ正月参りや、愛宕神社の毎年6月の祭りには、神楽が舞いかがり火がたかれる。竿浦や平山からも地元民はこの道を利用して、昔は参拝が多かったと思われる。
陸軍省要塞標探しを兼ねて、私は先般からこの赤道調査をしていたが、標石はまだ見つかっていない。

「第九号」「第十号」とも竿浦集落内里道に建っていた(戦後、撤去された?)可能性があり、山中に標石が残るのはあまり期待していないが、調査だけは進めていた。
最後に残ったのが、竿浦サイクリング道路脇の「第十一号」と、深堀城山山頂の「第八号」を線で結ぶと、船舶装備尾根となる。赤道こそないが、こればかりは歩いて調査してみないとわからない。

ナフコ先の船舶装備尾根から城山山頂へ登られるように、新ルート整備のつもりで少し切り開き、陸軍省要塞標探しをしたが、やはり見つからなかった。難路で急登な尾根が続き、登山には無理があるだろう。城山山頂から言うと、愛宕神社跡の少し手前の登山道に出て、昼食とした。
午後はお水場分岐のところから、反対側の斜面へ知られている竿浦下山路があり、赤テープを伝って竿浦へ下った。