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諭鶴羽山  兵庫県南あわじ市

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諭鶴羽山  兵庫県南あわじ市

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
洲本から水仙郷の先、黒岩バス停まで行き「諭鶴羽山登山道」の標識があり、バイクで登ったが、路面に小石・枯葉が散乱し、この南麓表参道側の近畿自然歩道車道は悪路だった。灘小学校から登る県道535号を利用すべきだろう。
諭鶴羽神社から山頂までは約400mを歩いて往復。帰りは北麓の上田林道を約10km下った。まだ山頂側で一部未舗装区間があるが、後は快適な車道下りだった。

諭鶴羽山

諭鶴羽山(ゆづるはさん)は兵庫県の淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある標高607.9mの山である。諭鶴羽山地の最高峰であり淡路島の最高峰でもある。南あわじ市の神代浦壁・北阿万稲田南・灘惣川の境界に位置する。一等三角点設置。柏原山、先山とともに「淡路三山」の一峰。古名に譲葉山とも[1]。

概説
山名はユズリハが多く見られることから、また、この山に群落をなす照葉樹が春から夏にかけて葉を更新して(若葉に譲って)いく様から名付けられたとされる[1]。
紀伊水道に浮かぶ沼島との間を通る中央構造線の北側にあたり、堆積岩である白亜紀の和泉層群の砂岩・礫岩などで成り立っている[2]。 南斜面は断層崖となっているため急傾斜で海岸線まで落ち込んでいる。 これに対して東西の尾根は起伏が少なく穏やかに伸びている。
瀬戸内海式気候に含まれる諭鶴羽山一帯は温暖で冬季に雨が少なく[3] 、北側山麓には灌漑用の諭鶴羽ダム・牛内ダム・大日川ダムがある。

自然
瀬戸内海国立公園に属し、山頂一帯の諭鶴羽神社の社叢林は国立公園の特別地域に指定されている。照葉樹林が広がり、標高450mあたりから上のアカガシの極相林は県内一といわれ、1974年(昭和49年)に兵庫県の重要文化財に指定されている。 また南側斜面にはスイセンが約7haにわたって自生していて、灘黒岩水仙郷として例年12月下旬から観光客を集めている[4]。
哺乳類ではニホンジカ、イノシシ、ニホンザル、タヌキなどが生息している[5]。

諭鶴羽神社
諭鶴羽神社山頂の南側約400mに鎮座する諭鶴羽神社は創建が開化天皇の治世と伝えられる古社である。祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命。三角点のある山頂は諭鶴羽神社の御旅所で、毎年4月第2土曜日に行われる春の例大祭には神輿が上がる[6]。

自然崇拝に始まったとみられる諭鶴羽参りは平安時代になると修験道の一大道場として隆盛を誇った。長寛元年(1163年)に書かれた『長寛勘文』の「熊野権現御垂迹縁起伝」によると、熊野神は英彦山から石鎚山、諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵の峯へ渡られたとされる[1]。一帯に28宇の伽藍が建ち並び、熊野権現元宮・熊野本宮と称えられて京の都にまでその名が聞こえた。『枕草子』にも「峰は ゆずるはの峰 あみだの峰 いや高の峰」とある[7][6]。

しかし康正2年(1456年)に戦乱で全山が焼失。天文年間に美作藩主の助力で18宇を再建したが、天文18年(1549年)6月9日に石川紀伊守の乱で再び焼失。再興の望みがないため資料を後世へ伝えるべく天文21年、美作の乗蔵らが各社堂・神仏を碑石に刻んで残した。これらの碑石が奥宮・十二所神社に安置されている[6]。
その後、承応年間(1652年から1654年)に徳島藩主の蜂須賀氏により本殿、拝殿などが再建されたが、明治初年の神仏分離令によって衰退した[6]。

参道である諭鶴羽古道は、表参道が一の鳥居のある灘黒岩から18町。裏参道が神代浦壁・賀集牛内から30町。1町毎に町目地蔵が安置されている。また古道から発掘された町石は建武元年(1334年)銘で、在銘町石として県下最古のものである。また社叢林の原生林には前述のアカガシの他にタブノキの群落も見られる[6]。

その他
NTTコミュニケーションズ諭鶴羽無線中継所が山頂の南側に、兵庫県洲本土木事務所諭鶴羽中継局が山頂の北側に、近畿移動無線センター淡路送受信所が平和祈念塔の南西側に建つ。
山頂 – 諭鶴羽神社間の諭鶴羽古道(裏参道)沿いに「奥之院 篠山神社」がある

ハイキングコース
南北どちらからも尾根までに急登がある。
北麓の諭鶴羽ダムから – 諭鶴羽古道(裏参道)で二十八丁(約3.1km)。諭鶴羽ダムに駐車場あり。登山口周辺にバス停は無い。
南麓の灘黒岩から – 諭鶴羽古道(表参道)で十八丁(約2km)。近畿自然歩道で約5.7km。鹿除けゲートあり。(コミュニティバス「らん・らんバス すいせん号」黒岩バス停)

車で
南北どちらも狭隘道路で、中型自動車(マイクロバスなど)以上は通行できない。また、小石程度の落石もある。諭鶴羽神社前の駐車場から山頂までは諭鶴羽古道(裏参道)で約400m。
北麓から – 国道28号立石交差点より市道を南へ。社家公会堂付近から上田林道(こうだりんどう)を南へ約10km。未舗装区間あり。
(※ 円行寺交差点より南へ延びている兵庫県道535号灘市線は諭鶴羽ダム(国道28号より5km南)で行き止まり)
南麓から – 兵庫県道76号洲本灘賀集線灘山本より兵庫県道535号灘三原線を北へ約5.4km。一部簡易舗装あり。

鞘状褶曲(鞘型褶曲)  兵庫県南あわじ市沼島

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鞘状褶曲(鞘型褶曲)  兵庫県南あわじ市沼島

沼島港ターミナルに展示している岩石説明パネルによる説明は、次のとおり。
このような同心円構造の鞘状褶曲(さやじょうしゅうきょく。「鞘型褶曲」とも記す)は、この他にフランスで1ヶ所発見されているだけ。
午後からの遅い便で島内を、大立神岩から沼島灯台など通り、鞘状褶曲が見られる黒崎海岸へ回ったが、海岸への下り道が荒れていて、日没となり帰りの船の都合もあったので、途中で断念した。

案内標識はない。島内遊歩道から黒崎海岸への下り口は、多分ここだろう。2枚目写真の大きな木と踏跡があるところ。沼島港から向かうなら1枚目道標地点の少し手前。
したがって、黒崎海岸現地の私の鞘状褶曲写真はない。案内人まで必要としない。危険がないなら、「日本の地質百選」。案内標識と道の整備をしてもらいたい。
沼島港ターミナルの展示している岩石と説明パネルを、往きに写していた。
黒崎海岸の場所は、前記事沼島の「沼島全体マップ」など参照。

さや状褶曲 (さやじょうしゅうきょく)

1994年(平成6年)、沼島の北端にある黒崎の海岸で同心円状になった世界でも珍しい形の岩石が発見されました。
「さや状褶曲」といい、地下深い場所で複雑な力により生まれたと考えられています。約1億年前の地球内部の動きがわかる貴重な天然記念物として、現在は南あわじ市指定文化財に指定【2004年(平成16)】されています。また、2009年(平成21)には「日本の地質百選」にも選ばれています。

展示されているこの岩石は、以前から民家の庭石として使われていたものです。黒崎にあるものと同じ「さや状褶曲」の特徴がそのまま出ています。(山野清氏寄贈)
南あわじ市・南あわじ市教育委員会

後ろの2枚は、2013月10月27日BS放送「ぐるっと瀬戸内の旅」から。金子貴俊さんが、沼島地学の会会長の案内で黒崎海岸の現地を訪ねていた。私は竹林のところで引き返したが、この下り道に間違いなかった。

上立神岩  兵庫県南あわじ市沼島

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上立神岩  兵庫県南あわじ市沼島

現地説明板は、次のとおり。沼島港ターミナルから直行で、歩いて約25分かかる。
場所は、前記事沼島の「全体マップ」など参照。

上立神岩

「矛先」のような形をした沼島のシンボルの岩です。高さ30mで国生み神話の「天の御柱」とも言われております。主として、緑泥片岩からなる巨岩で海鵜(うみう)の休息場となっています。
和漢三才図会*(わかんさんざいずえ)では、竜宮城伝説の表門ともいわれ、国生み神話の舞台となっています。

*和漢三才図会(わかんさんざいずえ)は、1712年(正徳2年)頃出版された日本の百科事典である。いわば絵入りの百科事典とでもいうもので、項目ごとに異なった執筆者により記事が執筆されている。

沼島庭園  兵庫県南あわじ市沼島

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沼島庭園  兵庫県南あわじ市沼島

現地説明板は、次のとおり。伊藤邸の庭だが、現在は空家。玄関の施錠なし、自由に見学できる。作庭は江戸時代初期という説もある。植物の化石も使われているらしい。
場所は、前記事沼島の「全体マップ」など参照。

沼島庭園

沼島庭園は、室町時代に戦乱が続く都を離れ、沼島へ逃れてきた足利十代将軍義植が作庭したと伝えられている池泉鑑賞式庭園です。
王の森を背景に、黒色片岩や緑色片岩を用いて力強い石組みが施されているこの庭は、立体感に溢れ、山口県にある室町時代の画家雪舟の庭によく似ています。
県下で最古の室町時代の作庭として歴史的価値の非常に高い庭園です。
近畿自然歩道   環境庁・兵庫県

梶原五輪塔  兵庫県南あわじ市沼島

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梶原五輪塔  兵庫県南あわじ市沼島

現地説明板は、次のとおり。八角井戸のところから入る。
場所は、前記事沼島の「沼島全体マップ」など参照。

梶原五輪塔

この境内にある五輪塔(写真右側の塔)は、永禄から天正初期にかけて島主として沼島水軍を支配していた梶原一族の祖、梶原景時の墓と言われています。
景時は、源平の石橋山の合戦で平家方として源頼朝の軍を破ったが、洞窟に潜んでいた頼朝を故意に見逃し、後に源氏が復活した際に頼朝方につき、頼朝が死ぬまで側近として勢力を振るった人物です。(県指定重要文化財)
近畿自然歩道  環境庁・兵庫県

八角井戸  兵庫県南あわじ市沼島

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八角井戸  兵庫県南あわじ市沼島

現地説明板は、次のとおり。梶原五輪塔の入口のところにある。
伝説とは「後醍醐天皇の皇太子のお妃が、沼島に漂着したときに使われた井戸がこの井戸だ」といわれているようなことである。
井戸の場所は、前記事沼島の「沼島全体マップ」など参照。

八角井戸

沼島では、井戸のことを川(かわ)と呼びます。
この川は、玉川と呼び島人たちの生活用水として、今でも昔同様に大事に使用されています。
八角の形は、中国の占いによると八角は、吉相を示していると云われ、その数は、昭和46年の調査記録によると、40数箇所記録がのこっています。
沼島の伝説にも出てくる有名な井戸です。

神宮寺庭園  兵庫県南あわじ市沼島

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神宮寺庭園  兵庫県南あわじ市沼島

南あわじ市HPの生涯学習文化振興課「県指定文化財」による説明は、次のとおり。なお、HP「神宮寺」(TOP不明)に、以下の記事があった。
境内には、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』(淡路島出身の豪商・高田屋嘉兵衛を主人公にした物語)の記念碑がある。学芸出版社刊「重森三玲 庭園の全貌」(昭和期の 日本の作庭家・日本庭園史の研究家)が、沼島神宮寺庭園を記しているそうだ。
神宮寺の場所は、前記事沼島の「沼島全体マップ」など参照。

神宮寺庭園(じんぐうじていえん)

この庭園の作者と造られた時期は不明ですが、寺院が現在の地に整備された江戸時代初期の万治年間(1658〜1661)に造られたと考えられています。八幡神社から連なる裏山の急斜面の丘陵を利用して構成された築山式枯山水庭園(つきやましきかれさんすいていえん)です。沼島特有の結晶片岩を「人」字形に組み合わせて多用する技法は、迫力のある印象で、鑑賞上の効果に加え、独特の高い技術力もうかがえます。
また、島内の庭園史上、非常に価値の高い庭園として平成22年に兵庫県指定重要文化財に指定されています。

神 宮 寺

真言宗の寺院であり、元慶4年(880)の開基といわれている。梶原氏の菩提寺でもあったので、厨子、紺紙金泥経、曼荼羅など数々の宝物は梶原氏の寄進と伝える。
本堂の裏の庭園も有名。
神宮寺庭園
所在地:南淡町沼島  管理者:神宮寺
作庭時代:江戸時代初期 築山式枯山水庭園
本庭は沼島八幡宮との境の傾斜地を利用し、また、斜面の岩盤も生かして構成された庭園である。
庭園構成の細部の手法をみていくと、まず築山上部の中心に見事な二石組がある。高さ125cm・104cmの形の似た二石を組み合わせたものである。
このように、高さも形も同じような石材を並べて組むというのはなかなか勇気のいる組み方であるが、これが実に見事に力強く組んでいるのには驚く。これは蓬莱石でもあり、遠山石を兼ねた築山中心石といえよう。
その右方、約2.8mの高さに枯滝を組んでいるが、この石組は本庭最大の見どころである。板状の緑色片岩を「人字」形に組み、それを受けてまた傾斜させて人字形に組むという手法で、それは力学的にも道理にかない、安定した美しさと、力強さのあふれる造形を形成している。
傾斜を利用した築山の土留めも兼ねる護岸石組の中で、左端に組まれた三尊石組は石材は大きくないがこの組み方も実に見事な実用と美を兼ね備えた石組である。
長年の風雪に石の崩れが若干見られるが、重点的な石組は今日まで保存され、作庭当時の石組がほぼ見られることはありがたい。当代稀に見る斜石を駆使した石組として、日本庭園史上においても価値の大きい一庭と言えるだろう。

「沼島は小さい」記念碑文

沼島は、小さい。
ほとんど岩礁の大いなるものという程度の小さな島の住人ながら、船や船具、操船、航海に独自の開発をするところが多く、しかも豊臣期からはるか対馬沖にまで行って操業するという気概をもっていた。島の近くには鳴門の瀬戸があり、あるいは由良ノ瀬戸(紀淡海峡)があって、潮と風と波という地球の機嫌のなかでもっともやっかいなものについては、卓越した知識をもっていた。世界中で小島の住人は多いが、沼島衆ほどに気概と高い能力をもっていた海の民は、まれなのではないか。
司馬 遼太郎 菜の花の沖より  平成20年8月 泰山書

沼 島(ぬしま)  兵庫県南あわじ市沼島

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沼 島(ぬしま)  兵庫県南あわじ市沼島

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
福良から県道76号により灘土生の土生(はぶ)港へ行き、沼島汽船を利用する。沼島の主な個別記事は、次に載せる。
写真は、そのほかの土生港手前から沼島を望む、沼島汽船、弁財天神社、沼島八幡宮、山ノ神神社、沼島灯台、沼島港夕暮れ、沼島全体マップ(南あわじ市HP ズーム拡大)、沼島案内図(土生港ターミナル図 ズーム拡大)

沼  島

沼島(ぬしま)は、淡路島の南4.6kmの紀伊水道北西部に浮かぶ兵庫県南あわじ市に属する島。面積2.71km²、周囲9.53km[1]、 最高地点は117.2m。瀬戸内海国立公園の一部。人口520人(2012年11月末現在)[2]。

概要
勾玉形の島で北西側の真ん中に漁業中心の集落と沼島漁港があり、対岸の南あわじ市灘土生の土生(はぶ)港[注 1]、 洲本市の洲本港との間を定期船で結ばれている。江戸時代末期に漁業や海運業で最も栄え、1955年(昭和30年)頃までは人口2,500人ほどを擁していたが、その後は人口流出が著しい[4]。

中央構造線の南側に位置するため、淡路島とは異なり全島が三波川変成帯の結晶片岩によって構成され、南岸の海食崖には緑・白・黒など様々な縞模様が現れている。また珍しい同心円状の鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)も見られる[注 2]。 崖下に磯が発達していることから磯釣りの名所でもある。

自然と観光スポット
・奇岩 – 上立神岩、屏風岩、あみだバエなど
島の南側の海岸線は太平洋の黒潮をまともに受ける場所であり、奇岩・岩礁を形作っている。なかでも高さ約30mの上立神岩(かみたてがみいわ)は「天の御柱」とも言われ、江戸時代の和漢三才図会には「龍宮の表門」と書き記されている。
・ウミウ越冬地
11月から3月まで越冬するため、ウミウとヒメウが本州北部から飛来して、島の南側の岩棚に数百羽の集団で越冬している。1971年(昭和46年)に兵庫県の天然記念物に指定[7]。ヒメウは日本国内では絶滅の危険が高いとして絶滅危惧IB類(EN)に指定されている。
・おのころ神社
小高い山の上にあり、この山全体がおのころさんと呼ばれる神体山である。天地創造の神である伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神を祀っている。
・沼島庭園(伊藤邸)
兵庫県下最古の石組みの庭園。別名鶴亀庭園。足利義稙が沼島在所時に逗留した大寺(おおじ)に作庭したと言う説がある。

交通
淡路島から沼島汽船を利用する。
洲本港 – 火・木・土のみの週3往復。所要時間52分。土生港 – 一日10往復。所要時間10分。

不動の滝  兵庫県南あわじ市灘大川

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不動の滝  兵庫県南あわじ市灘大川

神戸新聞の掲載記事は、次のとおり。福良から県道76号により沼島汽船土生(はぶ)港へ行く途中にあった滝。大川橋の不動滝前バス停から入る。

ひょうご滝探訪  2006年8月11日掲載
不動の滝  南あわじ市灘大川
山の奥へ小道が開け、滝つぼをたたく水音が響きわたる。苔(こけ)むした岩肌を滑る流水。手を差し伸べ、しばし涼感に浸る。
「お不動さん」。地元では滝つぼ横に鎮座した荒滝不動明王の石像とともにそう呼ばれる。地元の人たちは、今も昔も日参を続ける。
空を覆う木々を縫って陽光が差し込んだ。約十四メートルの岩盤から落下する流れが、スクリーンのように変化する。何やらロードショーが始まるような。
となると時代劇か、などと思う。(大森 武)

メモ 県道76号沿いにある「荒滝不動明王」の看板から徒歩約300メートル。真観寺の奥の院で、726年に行基が開いたとされる。

灘地野の海岸  兵庫県南あわじ市灘地野

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灘地野の海岸  兵庫県南あわじ市灘地野

兵庫県立人と自然の博物館HP「淡路の地層観察スポット」による説明は、次のとおり。
福良から県道25号と県道76号により灘方面へ向かう。灘地野の海岸へは、灘地野バス停少し右先の細い車道から下る。車道は一部区間が崩壊し、難路であるから注意する。

5 灘地野の海岸
淡路島南端近くの南あわじ市灘地野の南方の海岸には長さ1km以上にわたって和泉層群の泥岩・砂岩・礫岩の互層が露出しています。化石はあまり含まれていませんが、稀に貝やハコエビの仲間の化石を見つけることができます