昭和初期頃の栄上の岩屋 三和町文化協会誌「水仙」から
昭和初期頃の栄上の岩屋(通称 栄岩または岩家)のことが、三和町文化協会機関誌「水仙」第6号1991年(平成3年3月)発行の17頁に、地元武次久次氏の記憶として掲載されていた。
本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成19年発行71頁に、次のとおり考察していたが、その事実が確認され、栄上の岩屋の場所がスケッチによってわかった。
本ブログ記事は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/367
A 現在の国道蚊焼入口付近は、当時どのようであったか
詳しいことはわからないが、ここも峠と言われ、元松尾の道塚から真直ぐ来ると鞍部にあたり、道塚があった。栄上からは今の国道沿いに小道はあったが、体育館の所に大きな岩があり、当時はまだ主要路でなかったようである。明治以後整備されてだんだん通れるようになったのではないか。今の蚊焼入口バス停横の武次宅のところに茶屋があり、「みさき道」から下って休んでいたと聞いた(蚊焼桑原兄夫婦談)。浦歯科の谷から水はあったと思われる。
普通はここを蚊焼峠と考えがちだが、関寛斎の日記はそうでない。茶屋は峠の入口にあって、そこから長崎の港口と沖の諸島が見えなければならない。武次宅は尾根の反対側に下ったところにあり景色は見えない。これはこの道がメインになった大正の頃の話と思われる。…
武次 久次氏稿 栄上の岩屋(通称 栄岩または岩家)
昔(昭和5,6年以前)の蚊焼村海岸から、けいばん山の坂道を登り栄上を通り、布巻から流れる大川を渡り(その頃は川は飛び石)大川沿いに道路が為石近くのとんとん川の難所を通り為石村に至り川原村まで通ずる幹線道路、その頃は荷物運搬の駄貸牛が5,6頭連なって毎日通っていた。
蚊焼から歩を発して今の蚊焼入口停留所付近からの右の谷間に下り曲がりくねった里道の山の裾野伝いに深い谷間を通り、道行く人の肝をえぐるような薄気味悪い大きな栄岩が道端にあった。現在、勤労者体育館の前辺りになる。その岩屋はスケッチに示すように大きな岩のかたまりに出来た、幅2間(4m)、高さ3m、奥行きが3m位の洞穴で丁度、家の屋根を思わせるように豪快な岩屋であった。
僕が16才(昭和9年)頃の記憶であるが、我が師の使いで為石まで月に1,2回通っていた。岩屋は道端にあり見上げるような大きな岩屋。薄暗い谷間に小さな川があり、せせらぎの音が聞こえ鬱蒼とした深い杉林に覆われ昼間でも薄暗く、その岩屋の奥から狐や狸のお化けが出てきそうな、そんな衝動に駆られ肝を小さくして通る道であった。
その気持ちの悪いところをたとえ師匠の言い付けとはいえ、朝早くまた夕方日没に通るときの恐ろしさは未だ大人になっていない僕は心の動揺計り知れなかった。恐ろしさのあまり小急ぎで岩の側を通り過ぎようとする時、岩屋の奥から白い煙が尾を引くように立ち上ぼり、その辺り一面に漂い奥の暗い所に真っ白い上着を着た髪のぼうぼうとはやした男、或は髪を前に長く垂らした女、雨のしとしとと降る日は恐ろしさこの上もない思いであった。
実はその当時、遍路さんや乞食、物貰い等が岩屋に一夜の宿を借り雨露をしのいでいた。また狐狸も時に出没していた。女子供達がその道を通るのを嫌がっていたのも無理はない。
その当時、県道が蚊焼まで出来たのは昭和5年の終わり頃で、野母港線が出来たのはその2,3年後である。現在の総合運動場の埋め立てが出来たのは31年頃である。それまでは谷間のたんぼの向かいの山裾の赤道を通って大川を渡り布巻為石に通ずる兵隊の分かれ道に出ていた。
現在の県道側の勤労者体育館敷地の荒造成の時は、未だ岩屋の頂点(頭部)は県道の地面から50cm位出ていた。その岩屋の頭に道行く行商の鰯売りの女達が鰯を1,2匹置いて交通安全を祈り、また狐にいたずらをされないようにと、商いをする女達の心暖まるしぐさであった。
実は狐狸が生の鰯がほしいため、いたずらをしていたと言う話もあり、商いの帰りはそこに置いた鰯は消えてなくなっていた。今はその岩屋の頭も見えず残念である。
その岩屋の現物が現在まで残っていたら三和町の町興しのアイデアに成っていたかもしれない。返す返すも残念である。出来うれば埋めたてまえを調べてその位置だけでも確かめて地上に小さな印の柱を建ててもらいたい。町当局にお願いする次第です。 (平成3年1月22日)