月別アーカイブ: 2011年6月

長崎外の古写真考 目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 435 田子ノ浦沼川からの富士山(4)
〔画像解説〕
白雪の富士を背景に、沼川にかかる木製の橋に人力車、人物、老人を配している。帆柱は1本、帆は1枚の四角帆で正中にかかっており、この船は当時の荷船であるベザイ船と思われる。田子の浦に白雪の富岳は、古来より我が国で親しまれた景観である。

目録番号:4676 田子ノ浦沼川からの富士山(18)
〔画像解説〕
富士市田子ノ浦港(吉原湊)の港口から北方の富士山を遠望したもの。港の奥には小さく石水門が見えるため、明治18年以降の撮影。手前の便道に架る田子ノ浦橋の橋脚にはX字の補強があり、欄干も低いため、再建された橋と思われる。橋の上には人力車が配され、大小4艘の船が見える。

■ 確認結果

目録番号: 435「田子ノ浦沼川からの富士山(4)」は、吉原湊口に架けられていた「便道」の橋(田子ノ浦橋?)であろう。1880年代の撮影。
HP「古絵葉書に見る東海の富士」に、同じ写真の絵葉書が掲載されている。同解説は次のとおり。

「富士川より」とあるが、明らかに吉原湊。
この橋は明治4,5年に吉原湊口に架けられたものである。旧東海道は、鈴川−依田橋−吉原宿−青島−平垣−松岡−富士川渡船場というルートだったが、街道を行き来する人にとっては、鈴川−吉原湊−前田−柳島−五貫島−富士川渡船場というルートのほうが4kmも近くなるので、県はこのルートを「便道」と唱え、県道とした。しかし、その後、高波で破壊されてからは船渡しに変わり、さらに明治22年の東海道線の開通により、この便道を利用する人はいなくなり、明治24年に県道は廃された。1880年代の撮影。下の写真は橋脚の支えがついていることから、幾分年代は下りそうだ。

橋脚のX字補強は、次の目録番号:4676「田子ノ浦沼川からの富士山(18)」が解説しているが、HP「古絵葉書に見る東海の富士」に絵葉書掲載はなかった。

長崎外の古写真考 目録番号:4206 茶畑からの富士山(2) (再掲)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4206 茶畑からの富士山(2) (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4206 茶畑からの富士山(2)
〔画像解説〕
富士市鈴川(すずかわ)あたりの砂丘上にある茶畑から北方の富士山を遠望したもの。茅葺きの民家の先で丘陵は終わり、その先には東海道に面した鈴川の町屋(元吉原宿:もとよしわらしゅく)の瓦葺屋根が見える。瓦葺の屋根の先には、浮島ヶ原(うきしまがはら)が広がる。茶園には茶摘みをする4人の女性が見える。

■ 確認結果

目録番号:4206「茶畑からの富士山(2)」は、画像解説どおり間違いないようである。
本ブログの次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2688
HP「古絵葉書に見る東海の富士」に、同じ写真の絵葉書が掲載されている。同解説は次のとおり。

「大宮より富士遠望」となっているが、宝永噴火口のようす、浮島が原のようすなどから柏原附近からの撮影。明治20年測図 同35年修正版図には、鈴川駅東南に茶畑の記号があり、この地で小規模な茶畑が営まれていた様子がうかがえる。
オリジナルはA.ファサーリ撮影。

長崎外の古写真考 目録番号:4046 茶器を持つ娘

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4046 茶器を持つ娘

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4046 茶器を持つ娘
〔画像解説〕
前掛けをした茶を出す若い女性。大工さんや左官さんなど職人の雇いごとをした時、このような姿の人が茶を運んでくる。まだ若いので行儀見習いの女性かもしれない。

■ 確認結果

目録番号:4046「茶器を持つ娘」は、〔撮影者:ベアト〕であろう。横浜開港資料館蔵。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊117頁に掲載されている。
〔解説編〕横浜写真小史再論の同頁による解説は次のとおり。

(ベアトの写真の魅力)
…人物を写した写真にも工夫がこらされている。図版34は娘が茶器を持って立っているだけだが、被写体を塀に対して斜めに立たせ、シメントリーが陥りやすい単調な印象を避けている。塀に差す影によって画面に立体感が生まれている。

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「稲佐山から
長崎の港を俯瞰」 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」

目録番号:6165 稲佐山から見た長崎鳥瞰
〔画像解説〕  古写真ボードインコレクションから
元治元(1864)年頃、稲佐山の中腹から長崎市街を望んだ珍しい写真です。この写真により、和船は五島町あたりに停泊し、外国艦船は大浦の沖に停泊していたことが分かります。また、左の中央には西奉行所西役所や出島の建物が鮮明に写し出されています。中央奥は新地蔵と湊です。その上には小島養生所の建物も見えます。右の大浦居留地のバンド(海岸通り)の建物も鮮明です。その丘の上には文久2(1862)年に建った日本最初のプロテスタント教会である白い英国聖公会教会も見えます。その右の旗竿が建つ建物はイギリス領事館です。 -6165-

■ 確認結果

上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」は、「写真の開祖 上野彦馬 −写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部昭和50年発行の126頁に掲載されている。長崎大学データベースでは見当たらない。
この写真は、127頁と見開きになっている4枚組のパノラマ写真(クリック拡大)。右に飽の浦、左に渕町まで写している。稲佐山山頂からの写真のようだが、そうでもない。

扇精光株式会社HP「上野彦馬ギャラリー」が、具体的な撮影場所を探している。「稲佐山の山の中(多分、中腹位) 残念なことにこの撮影場所までの遊歩道はもうありません」
次のHPを参照。 http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html
撮影場所をぜひ一度、訪ねたいと思っているが、木立が繁り現在でも4枚組パノラマの右左まで、景色が見通せるのだろうか。
現在の写真は、稲佐山の山頂展望台からのをとりあえず掲げた。したがって、尾根の状況など古写真どおりとなっていない。

次はボードインコレクションにある目録番号:6165「稲佐山から見た長崎鳥瞰」。前記作品とは、手前の尾根は同じようだが、尾根に近づいて撮影の高度感が低い。明らかに山腹のより下から撮影されている。
私が探した撮影場所は、長崎清風ホテルの先、水の浦トンネル上の「天狗岩」だが、まだ確証となっていない。対岸の三景台は山が削られている。長崎清風ホテル左上の「九電三菱電機分岐線2号鉄塔」の場所も可能性はあるが、木立に囲まれ確認できない。
本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1608

長崎大学附属図書館HP「古写真ボードインコレクション」長崎のパノラマ風景対比写真は、別の尾根を写しているようだ。対岸の愛宕山の位置が合っていない。

(追 記 2011年6月28日)
明治34年測図国土地理院旧版地図は、最後のとおり。稲佐山中腹バス停から長崎スカイホテル横の石段を上がり、九電北長崎25号線鉄塔を通って、稲佐山展望台真下の車道(2枚目左手前、カーブミラーがある)へ出る明治地図の山道を登ってみた。

扇精光株式会社HPのこれが遊歩道なら、現在も荒れてなく歩けるが、長崎港や市街を見渡せるような岩場などなく、HPの撮影場所がどこかわからなかった。
上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」の最初の1枚だけ見ると、撮影場所は少し中腹?となるかも知れないが、4枚組パノラマの全体を撮影できた場所となると、当時の稲佐山山頂からと考えて良いと感じた。

長崎外の古写真考 目録番号: 656 函館海岸 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 656 函館海岸 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 656 函館海岸
〔画像解説〕
入り江になった波静かな海岸。函館山の東端、立待岬付近かと思われるが、正確な場所は不明(鞍掛岩?)。前景中央に人物が一人配され、その背後、ほとんど波のない海面に屹立する巨岩がいくつか。遠景には対岸の山の稜線が見える。

目録番号:2423 小樽の海岸風景
〔画像解説〕
『小樽市史』第1巻(昭和33(1958)年刊)所収の同写真には「立岩附近のアイヌ 明治七年頃」というキャプションが付けられている。

■ 確認結果

目録番号: 656「函館海岸」は、次の目録番号:2423「小樽の海岸風景」のとおり、小樽市堺町の海岸にあった「立岩」である。
本ブログの次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2362

目録番号: 656「函館海岸」などは、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊62頁に、「6 明治14年明治天皇北海道・出羽巡幸写真」として掲載されている。同解説は次のとおり。
61頁には、「写真撮影は、随行の大蔵省印刷局写真師によることが『明治天皇紀』にみえる。ここでは、巡幸とは直接関係ないが、明治30年以前と推定できる北海道のアイヌ写真6枚を加えた」とあるが、6枚は別頁にありこの写真は巡幸写真?と思われる。

1 小樽堺立岩ノ景
近世オタルナイと呼ばれた小樽には、明治5年(1872)札幌の建設に伴って手宮に埠頭が建設され、さらに明治13年には小樽ー札幌間に鉄道が開通して、北海道の中核都市札幌の玄関として発展した。本図は小樽市堺町の海岸にあった立岩の景観。

長崎外の古写真考 目録番号:6645 金沢城(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6645 金沢城(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6645 金沢城(1)

目録番号:3465 琵琶湖唐崎の松(7)
〔画像解説〕
また、「近江八景」の1つ、「唐崎の夜雨(からさきのやう)」で有名な、通称「唐崎の松」。写真は2代目の松にあたり、東西72メートル、南北86メートル、高さ10メートルある巨松で、横に伸びた枝は湖上にまで突き出し、数多くの添え木や石垣で、その枝を支えている。この松は大正10年(1921)に枯死し、現在では3代目の松を同地で見ることが出来る。

目録番号: 741 海岸の民家
〔画像解説〕
大きな石の連なる海岸。岸辺からすぐ山が立ち上がっているのであろう。山から引いた水が樋から勢いよく流出し、その下で男がその水を浴びている。単なる水浴びなのか、別に意味があるのか不明である。

■ 確認結果

目録番号:6645「金沢城(1)」などは、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊49〜57頁に、「4 明治11年(1878)明治天皇北陸・東海両道巡幸写真」として掲載されている。同解説は次のとおり。
この巡幸には、当初写真師長谷川吉次郎が随行の予定であったが、出発以前に吉次郎発病のため、代理に古賀焼・山際長太郎の2名が随行した。(43頁)

9 金沢旧城三之丸
戒厳態勢の下に10月2日午後に金沢入りした天皇は、4日旧金沢城内にある金沢屯営歩兵第七連隊に行幸した。本図は、石川門内の金沢城三之丸東側から西南のニ之丸方向を撮影したもので、右から河北門・ニの丸菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門が写っている。これらの建物群は明治14年(1881)1月10日の火災で全焼した。

12 唐崎松
滋賀県大津市下阪本町所在。唐崎は平安時代に七瀬の祓所の一つとされ、そこに生える唐崎松は「唐崎の一つ松」とされ近江八景のうち「唐崎夜雨」として著名。

21 熱海山之湯滝
静岡県熱海市の中央部にある熱海温泉は、奈良時代から万病に効く霊湯として知られ、近世には将軍家をはじめ、東海道を往来する諸大名や江戸の町人まで湯治に利用した。2枚の写真は、海岸の温泉宿から流出する筧の湯を浴びる男性を撮影したもので、明治天皇の巡幸路とは無関係だが、台紙の状況等から明治5年(1872)巡幸時に撮影したもので、明治8年に没した写真師内田九一の撮影と推定できる。

目録番号: 741「海岸の民家」は、本ブログの次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2366

長崎外の古写真考 目録番号: 550 住吉神社の反橋(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 550 住吉神社の反橋(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 550 住吉神社の反橋(3)
〔画像解説〕
住吉大社反橋を、真横より写す。水面に映る橋の像がみごとにとらえられている。

目録番号: 148 大阪城外堀六番櫓(2)
〔画像解説〕
西の丸の戌亥(いぬい)、すなわち北西の隅を守る櫓。矩折れ(かねおれ=L字型)総二階造りという、珍しい構造をもっている。千貫櫓とともに、大坂城の現存古建造物のなかでは最も古いものに属する(1620年着工)。

目録番号:1226 大阪造幣局(3)
〔画像解説〕
造幣寮創業時の貨幣鋳造所は老朽化のため昭和3年に解体されたが、その玄関部は後に復元され、桜宮公会堂を経て、現在は桜宮ユースアートギャラリーとして当時の姿を伝えている。

目録番号:2858 大阪造幣局(5)    (同写真 掲載略)

目録番号:4479 大阪造幣局(6)    (同写真 掲載略)

目録番号:3229 大阪の河口の風景
〔画像解説〕
川口波止場である。大阪は慶応4年(1868)7月15日に開港した。安治川河口から約4キロ上流のところに設けられ、税関・電信も設置された。写真に写っている船は外輪船である。遠くに見える洋館は、外国人居留地の建物である。明治20年(1888)ころと思われる。

■ 確認結果

目録番号: 550「住吉神社の反橋(3)」などは、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊35〜37頁に、「3 明治10年(1877)明治天皇畿内行幸写真」として掲載されている。同解説は次のとおり。
行幸に随行した写真師は、記していない。(27頁)

10 住吉ノ反橋
2月14日、明治天皇は住吉神社を参拝した。大阪市住吉区住吉にある住吉大社は摂津国一ノ宮で、『日本書記』によると神宮皇后が三韓出兵に神助のあった筒男三神を住吉の地に鎮祭させたのが起源という。摂津の西堺の神、また海上交通の守神として崇敬をあつめ、神階は正一位。社前の反り橋は国指定重要文化財である。着色写真。

11 大阪城
2月14日大阪へ入った明治天皇は、旧大阪城の大阪鎮台に到着、練兵場での操練、砲兵支廠等を天覧した。着色写真。

12 大阪造幣寮
2月14日夕刻、明治天皇は大阪での行在所であった造幣寮泉布観に入った。図は大阪市北区の大川(旧淀川)端にある造幣寮の全景。着色写真。

13 大坂川口ノ景
大坂市港区の安治川河口にある船着場の光景。着色写真。

長崎外の古写真考 目録番号:3011 函館港の遠景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3011 函館港の遠景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3011 函館港の遠景
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
撮影年代は、写真中央付近から左方向にかけて市中に林があることから明治11年(1878)以前であることが分かる。この林は浄玄寺(じょうげんじ)・称名寺(しょうみょうじ)・実行寺(じつぎょうじ)が建ち並んでいるところで、明治11年に大火にあって焼失している地域である。その林の右側の白い建物は函館病院である。撮影位置は現在の船見町(ふなみちょう)と弥生町(やよいちょう)の境付近からで、撮影目的は、撮影年代とも関係してくるが、明治9年(1876)7月に明治天皇が東北巡幸後函館を訪れるが、その際のものではないかと思われる。港内をみると大型の船が碇泊しており、その船形をみると明治9年7月16日から18日まで碇泊していた明治丸と思われる。明治丸の舳先の右下の建物は天皇が上陸した税関である

目録番号: 539 山手からの函館市街
〔画像解説〕
函館山側から函館市街と函館港を望む。彩色は乱雑で、かなり色褪せてしまっており、映像は極めて不鮮明。手前に草木の緑、その先に市街地、中景に港湾、遠景に亀田半島の山並みが見える。

■ 確認結果

目録番号:3011「函館港の遠景」などは、〔撮影者:長谷川吉次郎〕と思われる。
学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊26頁に、明治9年(1876)明治天皇東奥巡幸写真として掲載されている。同解説は次のとおり。
巡幸に随行した写真師は、内田九一の弟子「長谷川吉次郎」であった。(13頁)

21 函館港
北海道函館市は、近世から松前三湊の一つとされ、日米和親条約により安政2年(1855)開港、明治2年(1869)の函館戦争の舞台となった。北海道の玄関口として栄える。明治天皇一行は、7月16〜18日函館に滞在し、五稜郭等に臨幸した。図は、函館山からの市中を俯瞰したもの。

長崎外の古写真考 目録番号:1199 天神橋と八軒家

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1199 天神橋と八軒家

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1199 天神橋と八軒家
〔画像解説〕
天満橋八軒家は、淀川を上下し、京・伏見と大阪を結ぶ三十石舟の船着き場であった。橋の南詰めに八軒の家があったことからこの名が残ったという。

■ 確認結果

目録番号:1199「天神橋と八軒家」は、〔撮影者:内田九一〕と思われる。
学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊5頁に、明治5年(1872)明治天皇大阪・中国・西国巡幸写真として掲載されている。同解説は次のとおり。
巡幸に随行した写真師は、内田九一等である。(1頁)

5 大阪天神橋
大阪市北区天神橋筋と東区を結び大川と堂島川・土佐堀川の分岐点に架かる橋で、現在市道天神橋天王寺線が通ずる。明治天皇の臨幸コースとは関係ないが、6月6日前後の中之島側からの撮影とみられ、同一写真は東京国立博物館・霞会館にも保存されている。着色写真。

長崎の古写真考 目録番号:3245 大音寺

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3245 大音寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3245 大音寺

■ 確認結果

目録番号:3245「大音寺」は、〔撮影者:上野彦馬〕であろう。座っている1人の人物が同じ。
長崎:江崎べっ甲店所蔵『上野彦馬撮影局ー開業初期アルバムー』中の写真。尼崎市総合文化センター編「アルバムに見る幕末・明治の写真 −上野彦馬撮影局 開業初期アルバム大公開ー 目録」2007年5月発行の71頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

36.大音寺              慶応2(1866)年頃
長崎の浄土宗名刹大音寺の本堂。間口11間半、奥行き10間の入母屋作り。幕末に荒廃したが元治元(1864)年に大改修が施された。この写真は大改修直後のため漆喰が新しい。同じころ相前後してベアトも何枚かこのアングルの写真を残している。