月別アーカイブ: 2011年2月

長崎外の古写真考 目録番号:4622 茶屋(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4622 茶屋(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4622 茶屋(3)

■ 確認結果

目録番号:4622「茶屋(3)」と同じような建物が、横浜の英字新聞 ”THE FAR EAST” Vol.1 
No.12 1870/11/16 に、横浜「根岸の茶屋」として掲載されている(資料は、九州大学デジタルアーカイブから)。
建物の造りや道路の立木など一部違うが、全体的に似ており、新しく改築した姿とも考えられる。

長崎外の古写真考 目録番号:4598 峠の茶屋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4598 峠の茶屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4598 峠の茶屋

目録番号:1183 日光馬返しの茶店
〔画像解説〕
馬返しは中禅寺道の起点であり、これよりつづら折の山道の難所を経て大平に至る。写真には山駕籠と茶屋が写っている。茶屋はつた屋であろう。

■ 確認結果

目録番号:4598「峠の茶屋」は、次の目録番号:1183「日光馬返しの茶店」のとおり、中禅寺道の起点「日光馬返し」の茶屋であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:4111 茶屋(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4111 茶屋(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4111 茶屋(2)

目録番号:3145 根岸の茶店
〔画像解説〕
元治元年(1864)末、生麦事件に懲りた幕府は、外国人の足を東海道から遠ざけるため、横浜の東南方、根岸から本牧にかけて、外国人遊歩新道を開設した。沿道には外国人相手の茶屋が建っていた。これはそのうちの根岸村にあった茶屋だと思われるが詳細は不明である。

■ 確認結果

目録番号:4111「茶屋(2)」は、次の目録番号:3145「根岸の茶店」と同じ茶屋である。
したがって、確証はできないが、目録番号:3145 のとおりとするなら、根岸村にあったと思われる茶屋となろう。

根岸から本牧にかけての茶屋については、ブログ ”HONMOKU VILLAGE 【本牧村】”の 2009年09月27日「チャブ屋(1)」の記事に、次のとおりある。

1859年 – 横浜が開港され、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5ヶ国が今の関内に住む。(地図:外国人居留置) また、その居留置の外国人を保護する為、今の山手の丘にイギリス軍(赤ラシャ隊)、フランス軍(青隊さん)駐屯。

1865年 – 外国人遊歩道(地図の赤ライン)が出来き幕府は、その沿道の民家13軒に外国人用の休憩場「茶屋」を開店させた。そこから、私娼が始まったが2つの説がある。
①「茶屋」で酒や料理を始め女性が接待を行った延長。
②本牧十二天側の「海の家」が酒や料理を出し風俗営業。但し、呼び名は「曖昧屋」や「もぐり屋」と言われてた。

1877年 – 当初の13軒以外にも北方、本牧方面に30軒程度まで増えた。

長崎外の古写真考 目録番号:3137 茶店の人々

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3137 茶店の人々

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3137 茶店の人々
〔画像解説〕
茅葺(かやぶき)の茶店に大勢の子供や大人たちが休憩している。手前に写っている、杭などから川辺か海辺にある休憩所と思われる。

目録番号: 114 不動坂の茶店
〔画像解説〕
英語で「ミシシッピー湾の家、横浜の近く」とある。これは、ミシシッピー湾(根岸湾)に向かう外国人遊歩新道の不動坂にあった茶店である。ちょうど、数人の女性が休息中であり、子供がお茶を運んでいる。

目録番号:4663 不動坂からの本牧岬(16)
〔画像解説〕
丘の下は根岸村、正面遠方は本牧岬で、左より一の谷・二の谷・三の谷が見える。根岸湾は、外国人にはペリーが名付けた「ミシシッピー・ベイ」の名称で知られて、外国人遊歩新道の不動坂からの風景は、外国人によって「世界一美しい」と讃えられた。

■ 確認結果

目録番号:3137「茶店の人々」の茶店は、次の目録番号: 114「不動坂の茶店」や目録番号:
4663「不動坂からの本牧岬(16)」のとおり、横浜「不動坂の茶店」ではないだろうか。

高い場所から写されており、不動坂の丘の下は根岸村、正面遠方は本牧岬となる。手前に写っている杭は、馬など繋ぐ杭だろう。川辺か海辺にある休憩所なら、奥に水平線を写せないのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号:3618 桜咲く川辺り

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3618 桜咲く川辺り

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3618 桜咲く川辺り

■ 確認結果

目録番号:3618「桜咲く川辺り」は、写真右側に写る常夜灯に特徴がある。場所は、東京隅田川「向島墨堤」の花見風景である。
「墨堤の常夜灯」は、明治4年に作られ、隅田川では大変有名だった。もともとここに牛島神社があり、参道に奉納された。この常夜灯は、隅田川を航行する船にとって大変よい目印となった。

墨田区公式ウェブサイトによる「写真で見るすみだの風景  明治  向島墨堤の花見2」及び「観光案内 すみだ散策ツアー 向島・墨堤コース」から関係写真と記事を載せる。

墨堤植桜の碑(歩く時間の目安:5分から10分)
住所:向島五丁目1番
交通:東武伊勢崎線曳舟駅から約7分、バス停・向島二丁目

古来隅田川は、場所や時代によって、大川、浅草川、墨水、澄江と呼称されました。近世になって、水難を避けるために利根川の水路つけかえが行われ、以後築堤がすすみます。
享保2年(1717年)、八代将軍吉宗の命により堤に桜が植えられたことにより、墨堤の桜として江戸の名所となり、詩文に詠われ、浮世絵師が競って題材としました。
明治20年建碑、榎本武揚の筆になる「墨堤植桜の碑」はその経緯が述べられています。

長崎外の古写真考 目録番号:6598 伊豆下田 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6598 伊豆下田 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6598 伊豆下田

目録番号: 639 鎌倉の海岸
〔画像解説〕
海辺に漁村というには少々小さすぎる家並みが見えるが、これらは漁師小屋であろうか?裏手にはさらに棟が続き、遠くには畑のような開けた土地が広がっているようだ。舟は小型で陸に揚げられている。水車は灌漑、精米、製粉に用いられた。

■ 確認結果

ボードインコレクションの目録番号:6598「伊豆下田」と同じ写真は、横浜の英字新聞 ”THE
FAR EAST” Vol.1 No.14 1870/12/16 に、横浜「本牧の屠場」として掲載されている(資料は、九州大学デジタルアーカイブから)。
彩色された次の写真、目録番号: 639「鎌倉の海岸」も、同じ場所である。

日本で最初の屠場は、「元治元年(1864年),当時居留地として指定した横浜の海岸通りに幕府は屠牛場の開設を認めた。これがわが国最初の屠場といわれている」と云う説がある。
また、慶応3年(1867年)5月、外国人に牛肉を供給していた中川屋嘉兵衛が、江戸荏原郡白金村に屠牛場を設立したが、これが日本における近代的屠場の最初であろうともいう。
ブログ「横浜閑話」には、次のとおりの記事があった。

1859年横浜開港により、居留外国人の方が多くなると、当然ながら、牛肉の需要が増え、横浜に屠場ができ、屠場で余った肉を使ったお店が、大岡川の川沿いにずらりと並びました。
そして文久2年(1862年)横浜入船町で居酒屋を営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が煮込み式の牛鍋を出し、これが牛鍋の発祥と言われています。

長崎外の古写真考 目録番号:4508 相生滝(雄滝)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4508 相生滝(雄滝)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4508 相生滝(雄滝)
〔画像解説〕
英文キャプションにある「一の滝」とは、霧降滝の上部、荒沢の裏見滝の下流、大谷川支流田母沢にある羽黒滝などの別称である。しかし、この写真は明治19年発売の「日光山眞圖」に描かれた、田母沢支流の根取川にある「若子相生滝(相生雄滝)」の姿とほぼ同一である。

目録番号:5483 日光霧降第一の滝

目録番号: 386 日光霧降滝(1)
〔画像解説〕
日光霧降高原の東を流れる霧降川に落ちる滝である。日光三名瀑の一つに数えられる霧降の滝は上流の一の瀧と下流の二の滝からなる。 二の滝は岩に衝突し二つに分れて流れ落ちあたかも霧がかかったように白くけぶるのでこの名がある。人が下流に立ち瀑布の大きさが際たつ。

■ 確認結果

目録番号:4508「相生滝(雄滝)」は、明治19年発売の「日光山眞圖」にどのように描かれているかわからないが、現在の同滝は様子が違うように思われる。現在の写真は、HP「日光の旅2」から。相生滝は現在でも数回、沢を徒渉して行く不便な場所にある。

かえって、次の目録番号:5483「日光霧降第一の滝」と同じ滝ではないだろうか。英文キャプションは、ともに同じ「一の滝 日光」。滝左右の樹木や滝下右側には倒木の大木があり、様子が似ている。

3枚目の目録番号: 386「日光霧降滝(1)」の画像解説に、「日光三名瀑の一つに数えられる霧降の滝は上流の一の瀧と下流の二の滝からなる」とあるから、この有名な滝ではないだろうか。
霧降の滝は、現在は危険なため立ち入り禁止。遠望写真のみで、古写真に合う画像を見つけきれない。

長崎外の古写真考 目録番号:3203 日光裏見滝(5) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3203 日光裏見滝(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3203 日光裏見滝(5)   
〔画像解説〕
大谷川支流の荒沢川にある裏見滝は、華巌滝、裏見滝と並ぶ日光三大名瀑。写真のように、以前は不動明王が祀られている滝の裏側まで行けたが、明治35(1902)年の大水害で道は崩落した。元禄2(1689)年、この滝を訪れた芭蕉は、「暫時は滝に籠るや夏の初」の句を残した。

目録番号:4496 日光裏見滝(6)
〔画像解説〕
大谷川支流の荒沢川にある裏見滝は、華巌滝、裏見滝と並ぶ日光三大名瀑。元禄2(1689)年、この滝を訪れた芭蕉は、「暫時は滝に籠るや夏の初」の句を残した。不動明王が祀られている滝の裏側まで行けたが、写真のように明治35(1902)年の大水害によって崩壊している。

目録番号:4764 日光裏見滝(7)  掲載略

■ 確認結果

3作品の画像解説において、「大谷川支流の荒沢川にある裏見滝は、華巌滝、裏見滝と並ぶ日光三大名瀑」と記しているが、日光三大名瀑は「華巌の滝、霧降の滝、裏見の滝」であろう。
次のHP参照。「浦見の滝」は、「裏見の滝」の方が正しいだろう。
http://www.interq.or.jp/rabbit/shiro/maku2land/edu-nikkou_taki.htm

長崎外の古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋 (再掲)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋 (再掲) 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3077 川に架かる鉄道橋

■ 確認結果

目録番号:3077「川に架かる鉄道橋」は、F.ベアトの作品。明治初期に建設された見事な煉瓦橋梁を写した貴重な写真だが、データベース上では「撮影地域:未詳」となっている。
「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖(ちょう)」(平凡社)に「七條磧鉄道」と記され掲載されていて、明治初期、官設鉄道(現JR)東海道線に造られ、昭和初期に姿を消したとされる国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)と確認できた。インターネットで調べた京都新聞の2008年8月記事は下記のとおり。
この項の前記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2353

現在の写真を、京都市に住み近代測量史を研究されている上西勝也氏へ依頼した。2月4日撮影し、送信してもらったので、この記事を再掲した。先生のサイトは、”史跡と標石で辿る「日本の測量史」 旧題:三角点の探訪”がある。
現在の東海道線桂川横断は、まったく新しく造られていて、遺構の残存確認はできない。
1枚目がJR桂川鉄橋。左在来線で右新幹線。2枚目が在来線鉄橋。3枚目が在来線橋脚。
「桂川の右岸、西京区下津林の堤防、在来線と新幹線の間から撮りました。橋脚のレンガは上塗りが剥離して一部見えるところがありましたが、さほど古いものではなさそうです。立ち入り禁止のところが多く近寄れませんでした」とのことである。

【京都】明治初期に造られ昭和初期に姿を消した、れんが造り25連アーチ鉄道橋「下津林避溢橋」の全体写真確認(画像あり)
1:西独逸φ ★:2008-08-13 19:24:13

明治初期、官設鉄道(現JR)東海道線に造られ、昭和初期に姿を消したとされる国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)の写真を、山田奨治・国際日本文化研究センター准教授が確認した。これまで不鮮明な写真はあったが、25連アーチ橋の全体像を収めた写真は珍しい。橋が撤去された記録はなく、「近代化遺産としての価値があり、軌道下の土手中に埋まっている可能性もある」という。

写真は、明治初期の日本の風景を記録した「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖(ちょう)」(平凡社)の中の1枚。写真の解説文を担当し、調査していた山田准教授が、鉄道専門家に聞くなどして確認した。

避溢橋は、洪水時に線路の土手が水を遮らないよう平地にアーチ型などの形状で設けられる橋。下津林避溢橋は、大阪−京都間開通の前年、1876(明治9)年に完成。長さ447フィート(約136メートル)、高さ推定約5・5メートルで、避溢橋では国内最長。25のアーチが連続する構造で、第四有楽町高架橋(東京)を上回る最多のれんがアーチ数とみられる。

地元では、「25の丸がた(形)」と呼ばれ、原っぱの中のモダンな景観として親しまれたが、いつしか姿を消した。1930(昭和5)年の複々線化に伴い、現在のような土手になったとみられるが、記録は残っていない。写真を見た中川浩一・茨城大元教授(歴史地理学)は「桂川の水害防止の環境が整い、避溢橋の機能が不要になったのではないか。南禅寺境内の『水路閣』をはるかにしのぐ規模で、『鉄路閣』と呼ぶにふさわしい」と話す。

鉄道遺構に詳しい鉄道総研(東京)の小野田滋氏は「鉄道の構造物は、列車の荷重や地盤沈下、温度伸縮などで複雑に変形する。25連のアーチ橋は設計の限界への挑戦といえる」と指摘し、今も軌道下に埋まっている可能性を示唆する。
ソース 京都新聞
【画像】25連アーチが独特の景観を醸していた下津林避溢橋。「大日本全国名所一覧」では「七條磧鉄道」と記されていた。1881(明治14)年ごろまでの撮影とみられる。