月別アーカイブ: 2011年2月

釣れた? 釣具店の釣人 (17)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (17)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

2011長崎ランタンフェスティバル。こっちも開幕。

長崎外の古写真考 目録番号:4276 般若の茶店奈良坂

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4276 般若の茶店奈良坂

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4276 般若の茶店奈良坂

■ 確認結果

目録番号:4276「般若の茶店奈良坂」の、タイトルにある「般若」とは、日光の「般若滝」。いろは坂の上部あたりから撮影した写真でないだろうか。
現在の般若滝の写真は、HP「猫の目スチル」日光紅葉めぐり(6)いろは坂〜剣が峰から。

長崎外の古写真考 目録番号:4259 箱根畑

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4259 箱根畑

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4259 箱根畑
〔画像解説〕
湯本茶屋付近から眺めた双子山と箱根旧街道の様子。明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線を支えるための腕木が松に見えるので、電信柱を立てる前の仮設のものとすれば、敷設直後の写真であろう。この構図で電信柱のあるもの(目録番号4414等) は、本写真より恐らく時代が下ろう。

目録番号:2111 箱根旧街道畑宿付近(1)
〔画像解説〕
湯本茶屋付近からの双子山と箱根旧街道の眺望。明治6年(1873)に敷設された東京・長崎間の電信線が見えず、それ以前の撮影であろう。石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたもの。ここは休憩場所であったらしく、職人風の男二人が休憩している姿が見える。この写真と似た構図のものは極めて多い。

目録番号:4414 湯本からの二子山
〔画像解説〕
湯本茶屋付近から眺めた双子山と旧東海道。左の松の木の左手には、明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線と電信柱が見えるので、それ以降の撮影である。石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたものが残っている。職人風の男とやせ馬を背負った女性の後姿が見える。

■ 確認結果

目録番号:4259「箱根畑」のタイトルの意味がわからない。石畳は箱根旧街道の様子である。人が休んでいる。英文タイトルが「The Hakone field」なら、「箱根路」とかなるのではないか。
同じ構図の、次の目録番号:2111 タイトルは「箱根旧街道畑宿付近(1)」、電信柱に変わった目録番号:4414 は「湯本からの二子山」となっている。
「箱根畑」は、どうやら「箱根畑宿」のようで紛らわしい。同じ場所のが数点あり、タイトルの調整が必要。

長崎外の古写真考 目録番号:4235 菖蒲(夏)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4235 菖蒲(夏)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4235 菖蒲(夏)

目録番号: 80 堀切花菖蒲
〔画像解説〕
亀戸の藤と並ぶ江戸名所として堀切の花菖蒲は古来から有名で、 浮世絵や錦絵および紀行文にも描かれてきた。

■ 確認結果

目録番号:4235「菖蒲(夏)」は、次の目録番号: 80「堀切花菖蒲」と同じ場所の写真である。したがって、撮影地域は「東京」、場所は「堀切菖蒲園」であろう。
南葛飾郡堀切村は江戸後期より花菖蒲の名所として知られ、鈴木春信や安東広重等によって多くの錦絵が残された。

長崎外の古写真考 目録番号: 911 金沢八景(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 911 金沢八景(2)ほか 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 911 金沢八景(2)
〔画像解説〕
金沢への路上の展望。横浜から鎌倉までの風光さぐる遠足から取材した一組の写真である。金沢を遠望したもの。美しい谷戸の彼方に村がある。The Far East 明治4年(1871)7月1日号。

目録番号:6325 金沢八景遠望(2)

目録番号:3074 金沢八景遠望(1)
〔画像解説〕
金沢八景遠望。能見堂(のうけんどう)からの眺めか。右手が室ノ木、平潟湾を挟んで対岸が洲崎村、左手に町屋村、さらに左に野島が見える。八景の絶好の眺望地として知られた能見堂は、明治4年(1871)年に炎上。以後再建されることはなかった。

目録番号:3986 能見堂(1)
〔画像解説〕
金沢八景遠望。能見堂(のうけんどう)からの眺めか。右手が室ノ木、平潟湾を挟んで対岸が洲崎村、左手に町屋村、さらに左に野島が見える。八景の絶好の眺望地として知られた能見堂は、明治4年(1871)年に炎上。以後再建されることはなかった。

■ 確認結果

1枚目の目録番号: 911「金沢八景(2)」と、2枚目の目録番号:6325「金沢八景遠望(2)」は、3枚目の目録番号:3074「金沢八景遠望(1)」や4枚目の目録番号:3986「能見堂(1)」のとおり、金沢への路上というより、すべて同じ場所「能見堂」から撮影された写真と思われる。

2011長崎ランタンフェスティバル準備進む  長崎市新地町ほか

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2011長崎ランタンフェスティバル準備進む  長崎市新地町ほか

2011長崎ランタンフェスティバルが、2月3日(木)から始まる。準備進む長崎市新地町の主会場「湊公園」ほかの様子。同実行委員会作成のパンフレットは、次のとおり。

長崎市は、1571年のポルトガル船の入港以来海外貿易が始まり、西洋との交流によって発展してきた街です。市内には、港を見下ろす南山手の丘に数々の明治の洋館が建ち並ぶグラバー園をはじめ、東山手の洋館群、大浦天主堂、鎖国時代に海外へ開かれた唯一の窓口であった出島、そして中国との交流を偲ばせる唐人屋敷跡、眼鏡橋、崇福寺や興福寺などの唐寺、新地中華街と数多くの史跡や観光名所に恵まれています。 

このように異国情緒あふれる長崎で、中国色豊かな灯の祭典『2011長崎ランタンフェスティバル』が、平成23年2月3日(木)から17日(木)の15日間にわたり開催されます。

このお祭りは、長崎在住の華僑の人々が、中国の旧正月(春節)を祝うための行事として始めたもので、もともと「春節祭」として長崎新地中華街を中心に行なわれていましたが、平成6年から規模を拡大し、長崎の冬を彩る一大風物詩となりました。
期間中は、長崎新地中華街はもとより、浜市・観光通りアーケードなどの市内中心部に、約1万5千個にも及ぶランタン(中国提灯)が飾られ、湊公園をはじめ各会場には、大型オブジェが所狭しと飾られます。

鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

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鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

この稿は、研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」2006年4月刊184〜195頁に全文を資料とも掲載している。前記事(1)の参考として紹介する。関係資料は略。
写真は、鍋冠山展望台の山頂三角点169.3m、山頂北北西側斜面の採石跡と上人像など。

7 星取山の観測拠点「囲い石」と鍋冠山の「測点」はどこに
明治初期、アメリカ隊金星観測と地理局緯度電信測量測点を見る

(1)アメリカ隊の金星観測—星取山  掲載略

(2)地理局経度電信測量—鍋冠山

星取山の先の碑から山道を下ると鍋冠山へ行ける。次はこの鍋冠山にあった不思議な標石の話である。明治12年から13年にかけて、内務省地理局が鍋冠山と東京赤阪旧天文台との間に経差を電信測量した。山頂あたりの測点の場所に標石が建てられた。『方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象観測指点」とあり、両側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあつた』というのである。

これは、大正5年4月発行日本天文学会「天文月報」第九巻第1号に、田代庄三郎氏が「長崎に於ける経度電信測量の測点」として鍋冠山の測点を次のとおり報告している。
『明治四十三年報時球建設の当時経度を定める必要から、先第一に此山の測点を捜索したが分らなかった。爾来四閲年漸く昨今に至つて、其の標石だけを発見することを得た。其の位置は山頂より北々西の方へ稍下つた勾配の可なり急な草叢の中に二ッに折れて横つてあつた。標石は方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象観測指点」とあり、両側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあつた。勿論標石のあつた所に立てゝあつたのではないことは明白である。…』

田代庄三郎氏とは、鍋冠山の中腹に当時できた長崎報時観測所の所長である。同氏の報告は、金比羅山の煉瓦台再発見につながった重要な記録として、原口先生の報告書に表れている。
『(地元の方や伊原市議から)その話を聞きながら、記念碑からの方角や発見されたときの状況等をお尋ねした。そして、“それはまぎれもなく探し求めていた観測用の台であろう”という確信を持つにいたった。この煉瓦台については、大正5年に田代庄三郎氏が「天文月報」に次のように報告している。
「この碑を去る東十五間の所に、長さ二寸一尺、幅一尺九寸、高さ一尺六寸の煉瓦で築き上げた頗る丈夫な台がある。多分此の上に携帯用子午儀でも据付けて、時の観測をやったものであろふ」
田代庄三郎(1916):「長崎金刀比羅山金星経過観測記念碑」、天文月報8,3月号,P.141』

内務省地理局が実施した三角測量と経度調査については、原口先生の報告書215〜216頁に地理局年報・報告書などを資料として詳しい説明がある。ところが、田代氏が存在を発見し大正5年記している鍋冠山の明治12年「天象観測指点」標石のその後は、何もふれられてない。
このため、私は困ってしまった。

実は、この鍋冠山測点の田代氏稿「天文月報」掲載資料は、京都市上西氏から送っていただいたものである。天門峰と魚見岳の「地理局測点」を照会した「訪ねてみたい地図測量史跡」著者山岡光治氏が、長崎に寄こすかも知れないと言った知人が上西氏であった。長崎来訪を打ち合わせ資料を貰い、来訪は2月下旬実現した。21日午後到着し、天門峰・魚見岳・大久保山・八郎岳、翌22日は昼過ぎまで、金比羅山・星取山・鍋冠山を案内した。

さて鍋冠山の明治12年「天象観測指点」の標石である。山頂より北北西の急斜面でやや下った所とあり、巌岩の山で採石の跡とも表現がある。鍋冠山はそのとおりの山であった。昨年秋から展望公園として再整備完成して一変していた。標石は見当たらない。洞穴の採石跡と苔むした柱状節理の岩間に上人像があった。
上西氏のするどい観察は、山頂三角点に少し離れた場所に建ててある高さが人の肩ほど、台座のある石祠である。屋根を乗せていたが常夜灯の形をしており、屋根を外せば「子午機」を据えられる薄い平板の石が間にあった。仙台でそんなものを見たと言う。だが、石に連名の刻字は大正十五年のようだ。方位の刻みがないか、石は重くて外して見ることはできなかった。
上西氏は原口先生を一度お尋ねしたいと思われた。「天象観測指点」の標石のその後に関し記録や知っている人がいれば教えてほしい。

東山手町の「誠孝院」の入口を通り、「みさき道」は石橋へ下る。「誠孝院は、寛保3年(1743)誠孝院日健が創建。日健は岡山の人で、鍋冠山の山中で日親上人像を発見、大村因幡守純保に大浦(現大浦相生町)の地を懇請、小庵を建てたという。文化6年(1809)以降、長崎異変の際の大村藩の陣屋とされた。昭和初年、寺域狭隘のため、澤山精八郎の寄付により現在地に移転した」(長崎市立博物館刊「長崎の史跡」)

田代氏稿は、五で鼠島及び三菱造船所第三ドック附近にあった海図経緯度基点についてもふれられている。「小さい島や小区域ではあるが目標となるべきものも存在しておらぬ」結果だった。
鼠島については、陸軍省第一地帯標石がないかとも小瀬戸で聞いたが、話は聞けなかった。今は陸続きとなり、長崎県がコンテナ基地を造るためさらに埋め立ての計画があるらしい。
昭和58年平山久敏著「小瀬戸町史跡」はふれてないが、鼠島は黒浜・以下宿で見られる「変はんれい岩」という濃緑色の岩石(県天然記念物)と同類の角閃岩が見られる島である。地元の人は、開発一本やりで後世に残すべき自然や史跡があまりに破壊されつつあることを心配していた。
三菱造船所身投崎については、国土地理院九州地方測量部が探しておられるが、なにせ構内の入場がむつかしいらしい。

鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (1)

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鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

ほしなべ氏HP”長崎遠めがね”の2009年6月26日記事「鍋冠山の測点」は、興味深いからまず参照。 http://hoshinabe.ojaru.jp/276_nabesoku/276.html
鍋冠山の三角点近くの芝生の中に、一辺が16cmほどの石があり、長崎市史 地誌・名勝編 1938年刊 1967年再刊 p310 には、「明治12年に内務省地理局測量課が 経緯度測量に従事したのはこの(鍋冠山)山上である。今其の遺跡には高さ3尺余りの石柱の一部がある」と書かれているので もしかすると その石柱の「なごり」かもしれませんと、写真付きで紹介している。

ほしなべ氏が資料としている「天文月報」や「長崎市史」の記録は、京都市に住み近代測量史を研究されている上西先生のサイト”史跡と標石で辿る「日本の測量史」 旧題:三角点の探訪”長崎県の三角点 鍋冠山(下記のとおり)から引用したものと思われる。
http://uenishi.on.coocan.jp/10lib-sankaku/p420nagasaki.html

私は、3年前の”長崎遠めがね”鍋冠山記事を見落としていた。上西先生から先日、「つぎのHPで鍋冠山の遺跡に関する記事を見つけました。まだ現地になにかあるようですね」と、メールをいただいた。
上西先生とは、5年来、懇意にしてもらっている。2006年2月に来崎され、私が天門峰や魚見岳の「地理局測点」など案内し、鍋冠山の標石も先生と探した。写真の場所は先生も見てる。
鍋冠山のこの時の調査状況は、文字数の制限から次記事(2)とする。研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」2006年4月刊184〜195頁に全文を資料とも掲載している。

さて、ほしなべ氏の記事の石だが、きょう宮さんと鍋冠山山頂へ確認に行った。掘り始めるとすぐ動き、石柱ではない。ほしなべ氏には悪いが、単なる平らな石だった。
鍋冠山へは、2006年2月以後、私は数回通い、山中をだいぶん探した。標石の痕跡は見つけきれなかった。もともと山頂部は柱状節理を成している。石柱に似たような石片が多いが、自然のものばかり。その後、調査はあきらめていた。
きょうの調査も上西先生へは、残念な報告をしなければならない。何かわからない新しいコンクリート石柱は西斜面に1本あった。

鍋 冠 山 (169.3米 四等 2006/2/22)
点名:戸町
地図:長崎西南部

長崎市大浦天主堂の500メートル南にある丘で全体が公園になっています。長崎の街と長崎港を望める展望台があります。三角点標石の北面には「009 864」の刻字がありました。

1879年(明治12)から翌年にかけ内務省地理局が、この鍋冠山と東京赤坂葵町にあった天文台との経度差を測定しています。しかし現在、その遺跡はなにも残っていませんが公式記録はあります。[内務省地理局測量課:日本全國三角測量報告 天文之部 第貳 明治十四年 長崎、大阪、京都 1881(気象庁蔵)]

其の位置は山頂より北々西の方へ稍下つた勾配の可なり急な草叢の中に二ツに折れて横つてあった。標石は方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象觀測指點」とあり、兩側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあった。 [田代庄三郎:長崎に於ける經度電信測量の測點 天文月報 九巻一號 大正五年四月 日本天文學会 1916 p5]

明治十二年 内務省地理局測量課が經緯度測量に從事したのは此の山上である。今其の遺阯にや高サ三尺餘の石柱の一片がある[長崎市役所:長崎市史 地誌編 名勝 清文堂出版 1938(1967再刊 p310)]

長崎外の古写真考 目録番号:3930 屋形船(7)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3930 屋形船(7)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3930 屋形船(7)

目録番号:3988 金沢
〔画像解説〕
瀬戸の料亭。平潟湾の眺望にすぐれ、明治以降、多くの文人や政治家たちが利用した。写真は瀬戸橋から撮影したもの。三棟のうち一番左が千代本楼(ちよもとろう)。正面に写る茶屋は扇屋(おうぎや)か村田屋か。

■ 確認結果

目録番号:3930「屋形船(7)」は、次の目録番号:3988「金沢」と、建物は同じと思われる。
したがって、撮影地域は「横浜」。「金沢八景」平潟湾の瀬戸橋近くから、茶屋「扇屋(おうぎや)か村田屋」前の屋形船を撮影した写真と考えられる。

石黒敬章氏著「続幕末・明治のおもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷33頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
屋形船の不思議
〔写真9〕金沢八景平潟湾の屋形船。撮影はたぶんスティルフリードだ。明治初頭の手彩色。六切大。