長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4111 茶屋(2)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:4111 茶屋(2)
目録番号:3145 根岸の茶店
〔画像解説〕
元治元年(1864)末、生麦事件に懲りた幕府は、外国人の足を東海道から遠ざけるため、横浜の東南方、根岸から本牧にかけて、外国人遊歩新道を開設した。沿道には外国人相手の茶屋が建っていた。これはそのうちの根岸村にあった茶屋だと思われるが詳細は不明である。
■ 確認結果
目録番号:4111「茶屋(2)」は、次の目録番号:3145「根岸の茶店」と同じ茶屋である。
したがって、確証はできないが、目録番号:3145 のとおりとするなら、根岸村にあったと思われる茶屋となろう。
根岸から本牧にかけての茶屋については、ブログ ”HONMOKU VILLAGE 【本牧村】”の 2009年09月27日「チャブ屋(1)」の記事に、次のとおりある。
1859年 – 横浜が開港され、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5ヶ国が今の関内に住む。(地図:外国人居留置) また、その居留置の外国人を保護する為、今の山手の丘にイギリス軍(赤ラシャ隊)、フランス軍(青隊さん)駐屯。
1865年 – 外国人遊歩道(地図の赤ライン)が出来き幕府は、その沿道の民家13軒に外国人用の休憩場「茶屋」を開店させた。そこから、私娼が始まったが2つの説がある。
①「茶屋」で酒や料理を始め女性が接待を行った延長。
②本牧十二天側の「海の家」が酒や料理を出し風俗営業。但し、呼び名は「曖昧屋」や「もぐり屋」と言われてた。
1877年 – 当初の13軒以外にも北方、本牧方面に30軒程度まで増えた。