月別アーカイブ: 2009年4月

釛山恵美須神社  長崎市飽の浦町

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釛山恵美須神社  長崎市飽の浦町

バス停は「飽の浦神社前」下車。菱重興産ビルの裏となる。この神社が「釛山(こがねやま)恵美須神社」である。「恵美須町」の町名の由来になった恵美須様を、江戸初期に恵美須町から移して祀られた。
神社の前は海で、有名な「恵美須波止」があり、「金島(こがねじま)」という島があった。明治の初め、長崎製鉄所(現在の三菱重工(株)長崎造船所)の建設によって、姿を消した。
神社へ行くと平成21年1月、380年祭を記念して立派な説明板が設置されていた。
2006年江越先生作成資料「女神大橋周辺巡り」による神社の説明は次のとおり。

恵美須神社

寛永10年(1633)に小柳五郎左衛門という人物が、恵美須町の恵美須様を移して祀ったもので、浦上村渕でただ1つの神社(江戸時代、渕神社は万福寺といい弁天様を祀っていた)として信仰された。当時は神社の前はすぐ海で、海中に石灯籠が立っていたが、埋め立てられた折に取り払われた。また、沖にあったこがね島は、一時期刑場であったらしく伊藤小左衛門も処刑されたといわれる。
五箇所商人建立石灯籠  この神社が五箇所の商人の援助を受けていたことを示している。
渕村役場建築費寄付人名の石碑  神社のとなりに明治31年10月まで渕村役場があったが、境内に役場の建築費を寄付した人々の名前を彫った石碑が立っている。目に付くのは、岩崎弥太郎の嗣子で明治29年に三菱3代目を受け継いだ久弥が百円を寄付して筆頭者になっていることである。

小榊の散策 (6) 木鉢・小瀬戸・神ノ島の風景

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小榊の散策 (6) 木鉢・小瀬戸・神ノ島の風景

「小榊の散策」(6)は、木鉢・小瀬戸・神ノ島のそのほかの風景。
女神大橋から続く道、みなと坂団地の通り、船の公園、鼠島の廃船と貝掘り、木鉢浦、大悲寺、小榊小学校のアコウ、神ノ島の湊、神ノ島桟橋とコバルトクイーン、池之神社、神ノ島教会、マリア像の岩場、四郎ケ島と小島、工業団地内の観音岩、長崎市西部下水処理場

小榊の散策 (5) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

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小榊の散策 (5) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

「小榊の散策」(5)は、神ノ島・四郎ケ島で見かける「長崎要塞第一地帯標」3本と、その他珍しい標石類。そして神の島公園からの展望。

写真  1〜    8 長崎要塞第一地帯標
長崎要塞の第一地帯とは、明治31年(1898)から建設が進められた神ノ島砲台等を中心とした長崎要塞の法が適用される「防御営造物の各突出部を連結する線」内の地帯を指す。その区域の外線に設置されたのが「長崎要塞第一地帯標」と思われる。

1−A  四郎ケ島北側海岸(確認 長崎要塞第一地帯標 第一号)  神ノ島から四郎ケ島へ繋ぐ佐賀藩が築いた石積みの海道約270mは、コンクリートにより護岸され、これを渡りきってすぐ右手海岸の岩の上に建っている。岩自体も少し高く標石も高い。神ノ島を向いており、神ノ島側からすぐ望見できる。
1−A−2  四郎ケ島小島の小ピーク上(確認 長崎要塞第一地帯標 第二号)  小島は四郎ケ島の東の島だったが、台場構築のため埋め立てられ、地続きになっている。小島には2つのピークがあり、東側突端の低いピークの岩場上にも要塞地帯標の第二号があるのを、後日、発見した。神ノ島内海側の釣り人がよくいるコンクリート堤防の上手である。
1−B  同上海岸神ノ島側(確認 長崎要塞第一地帯標 第二十九号)  四郎ケ島の第一号標石のちょうど対面にある。海道にかかる道のすぐ右脇となるが、竹が密生した中にあるので気をつけて探す。第一地帯を一周した最終番号標と思われる。第一地帯標はこのうち、現在のところ7本を確認している。

写真  5〜    9 その他の珍しい標石
「陸軍」「防二」   四郎ケ島へ渡る海道の神ノ島側右海岸にある。第一地帯標二十九号のすぐ近く。「防二」の意は不明。
「陸軍」        四郎ケ島へ渡る手前の神ノ島側集落の墓地内にある。陸軍用地の境界標柱と思われる。
「四建三角点」「四建基点」   四郎ケ島へ渡って左手の埋め立てた小島の堤防の方へ行く。小島の小ピーク草つきの間にある。長崎外港計画にかかった当時の、建設省第四建設局が設置した工事用の三角点の基点と思われる。
「四建水準点」  上記三角点のすぐ近く。最近、ブルが均した道の終点あたりの広場で見つかった。これも同工事用の水準点と思われる。

写真 10〜   10 神の島公園
長崎港の西側先端部。小瀬戸と陸続きとなった神ノ島の高台。かつて「長崎要塞」があったところが、「神の島公園」として整備されている。神の島バス停から徒歩10分。
平成16年度完成の韓国風展望所がある。長崎港口の諸島と海の展望が良い。東に女神大橋、南西には百万ドッグの造船所が見え、西には五島灘が一面に広がり、夕日が映える所である。地元で花壇を作り、各種のアジサイを多く植えている。

小榊の散策 (4) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

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小榊の散策 (4) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

2009学さるくの江越弘人先生作成資料「神の島から福田まで」などによる神ノ島関係の説明は次のとおり。
「金水温泉跡」は大浜町の町域となるが、網場の脇の近く海岸にあるためこの項に含めた。

写真  1〜    2 神ノ島の埋め立て
神ノ島はもともと文字通りの島で、佐賀藩深堀領であった。対岸の小瀬戸は幕府領で浦上村淵の一部であった。神ノ島と小瀬戸との間の海峡は、長崎と福田方面との大切な航路となっており、江戸時代には、船が通過できるようにしばしば浚渫していたという。
この海峡が何時埋め立てられたのか、長崎の年表や諸書には記載が無く不明である(市立博物館発行『長崎の史跡 北部編』には、昭和42年に埋め立てによって陸続きになった、とある)が、土地の人々の話によると「戦時中、捕虜の人々の手で神ノ島、小瀬戸両方の山を削り埋め立てた。それは昭和16,7年のことである」(小瀬戸の人の話)とか、「自分が小学5,6年生の頃(昭和11,2年ということになる)、朝鮮の人々の手によって埋め立てられた。その人達の宿舎が木鉢や小瀬戸にあった」(神ノ島の人の話)などと様々である。
なお、昭和42年は、長崎外港臨海工業地帯造成の一環として深堀・香焼島間の埋め立てが翌43年に渉って行われているので、神ノ島・小瀬戸間は既に陸地化していたものを、土地を均したり、護岸をしたりして整備したものではないか。

写真  3〜   11 長崎要塞地帯と神ノ島
嘉永4年(1851)に佐賀藩が四郎ケ島に当時最先端の台場を築いたが、この時、対岸の伊王島や地先の神ノ島にも台場を設け、最新式の大砲を設置した。神ノ島の標高78mの山頂で字名を「飛渡」というが、ここにも砲台が設置され、外海の中ノ島・松島の方向に砲口を向けていた。四郎ケ島や伊王島、神ノ島の大砲は、明治維新前後には撤去され、戊辰戦争の時には、佐賀藩の重要な戦力として大活躍をしたという。
なお、明治維新後の長崎の防衛は、大黒町の佐賀藩蔵屋敷前に砲台を設置し、長崎守備砲隊を置いたことに始まる。その後、明治32年に佐世保要塞砲兵連隊の一個大隊が竹の久保に配属され、翌年、近くに(現在の淵中学校)長崎要塞司令部が設置された。
長崎要塞は、長崎港を防衛するのが目的であったから、まず、神ノ島と蔭の尾島に砲台が構築された。神ノ島には、「飛渡」の地に高砲台、島の西南堂の下に低砲台の2つの砲台が設置された。高砲台は28cm榴弾砲8門が港外に砲口を向け、低砲台は、9cm速射カノン砲4門で長崎湾口に砲口が向けられていた。

写真 12〜   22 金水温泉跡
大正7年の福田村郷土誌に紹介されている「金水温泉」は、硫黄分を含んだ鉱泉(冷泉)で、あまりにも不便な所にあったため、収支が償なわず放置され忘れられてしまった。
現在はすぐ側を神ノ島工業団地への道路が通り、ゴミ焼却場の真下を通る「金水トンネル」出口下側の海岸に湯治場はあった。木鉢村の近藤栄次氏が経営していた。

金水温泉跡は、2007年6月記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5433

小榊の散策 (3) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

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小榊の散策 (3) 神ノ島の史跡・風景  長崎市神ノ島町

2009学さるくの江越弘人先生作成資料「神の島から福田まで」などによる神ノ島関係の説明は次のとおり。
四郎ケ島台場絵図は佐賀県立図書館の所蔵史料から。最後は4月12日夕方に四郎ケ島沖を出港中の大型客船”CRYSTAL SYMPHONY”

写真  1〜    1 神の島天主堂
神ノ島2丁目の人々は、三重樫山につながる隠れキリシタンであった。元治元年2月12日(1865.3.17)に大浦天主堂で浦上の信徒が信仰を表明したのに続き、一月程遅れて神ノ島から信徒の代表が天主堂を訪れてキリシタンであることを名乗り出た。信仰の自由が許されてから明治9年に仮教会が建ち、フランス人のラゲ神父が赴任し、木造の教会を建立した。
この教会は、白蟻の害で腐朽し、明治30年にジュラン神父の設計によりロマネスク風の煉瓦造り天主堂が建て替えられた。現在の天主堂は、長崎市では大浦天主堂に次いで古く、建築学的にも珍しいものであると言う。

写真  7〜    2 神の島のマリア像
神の島天主堂下にあるドンク岩と呼ばれる岬に、昭和24年(1949)聖フランシスコザべエル渡来400年を記念し、信者の拠出金と労働奉仕によりマリア像は建てられた。この時はコンクリート製で高さ1.7mだったが、潮風の影響で亀裂が生じ、侵食が進んだので、昭和59年(1984)6月に再度、合成樹脂製の高さ4.6mの聖母の白像が再建された。『岬の聖母』と呼ばれ、現在、白亜の教会とともに長崎港のシンボルとなっている。

写真 11〜    3 高鉾島
長崎外港の真ん中に浮かぶ高鉾島は、3つの顔を持っている。1つは、オランダ人が「パーペンベルグ」(殉教者の島)と呼んでいた聖地としての顔である。元和3年(1617)に時津町の鷹島で殉教したナワレト神父とエレナンド神父を匿った2人の宿主が高鉾島で殉教した。その後、西坂での殉教者の多くは、島の周囲の海中に投げ込まれたという。
2つ目の顔は、台場という要塞の島である。文化9年(1812)の高鉾島の台場と大砲(石火矢)の数は、承応2年(1653)築造の古台場には4門、文化6年(1809)築造の新台場に3門、文化9年(1812)の2つの増台場には10門、計17門を備える要塞の島であった。
第3の顔は、交易船保護の島であった。高鉾島の三角形の島影は、北西の風をよく遮っていた。そこで、島の東側海上は外国船一時停泊と定められた場所であった。旧暦9月20日は、オランダ船の出帆の日と定められていたが、出島前から高鉾島前まで来ると、一応出帆したことになって、ここで停泊して遅れた出帆の準備を続けたという。

写真 12〜    4 四郎ケ島台場跡
文化5年(1808)のフェートン号事件で大失態を演じた佐賀藩では、嘉永6年(1853)に藩の総力を挙げて佐賀藩独力で四郎ケ島に最新鋭の台場を完成させた。
工事は神ノ島と四郎ケ島とを繋ぐ約150間(約270m)の堤防造りから始まった。非常な難工事の末、嘉永4年7月に2つの島を繋げると、今度は四郎ケ島を石垣で囲み砲台場を築いた。大砲は佐賀で鋳造し、四郎ケ島に150ポンド砲2門、80ポンド砲8門、36ポンド砲と12ポンド砲を各2門の計14門を備えた。さらに、佐賀藩では神ノ島と伊王島にも台場を築き、合計54門の大砲で長崎港口を押さえたのである。
ちなみに、国指定の史跡で、当時最も装備が整っていた魚見岳の3つの台場には1貫5百目砲2門、1貫目砲5門、8百目砲3門、7百目砲2門、6百目砲1門、5百目砲5門、3百目砲4門の計22門が備えられていた。12ポンド砲が2貫5百目砲とほぼ同じであったから、魚見岳台場が四郎ケ島に比べるといかに玩具のようなちゃちなもので、四郎ケ島台場の大砲が最新式で飛び抜けた威力をもっていたかがよく分る。

長崎学さるく”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく” (2)  平成21年4月

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長崎学さるく”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく” (2)  平成21年4月

平成21年4月13日(月)くもりのち晴。長崎学さるく行事”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく”で本年度の幕末編をスタート。
講師は江越先生が所用あり、長崎楽会の中尾氏に依頼。見事な代役であった。参加・スタッフとも17人。

長崎市小榊支所前9時半発ー小瀬戸中番所跡ー神の島教会ー四郎ヶ島台場跡ー神の島公園(昼食)ー金水温泉跡ー大浜ー福田長兵衛兼明の墓ー小浦の福田大番所船囲場ー丸木問役所跡ー福田開港の碑ー千本松原・田子島台場跡ーオロシア井戸ー庄屋屋敷跡・琴爪の墓ー福田本町バス停17時着解散。

小瀬戸出発としたため、コースは約15kmあった。目いっぱい17時まで歩き、全員バテ気味。帰りが遅くなって迷惑をかけた。
小瀬戸中番所跡、四郎ヶ島台場跡、金水温泉跡、福田長兵衛兼明の墓など辺ぴな史跡を、この際訪ねた。山道・海岸道あり、登ったり下ったり。トンネルも金水と大浜の2つを歩いた。
史跡の詳しくは、「小榊の散策」「福田の散策」を参照。次回は4月18日(土)に”東山手居留地界隈と近くの山歩き” コースはさるくHPにあり。

写真を(1)(2)と分けた。(2)は網場の脇海岸の金水温泉跡から。
お宮さんのブログ記事も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/14752474.html

長崎学さるく”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく” (1)  平成21年4月

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長崎学さるく”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく” (1)  平成21年4月

平成21年4月13日(月)くもりのち晴。長崎学さるく行事”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく”で本年度の幕末編をスタート。
講師は江越先生が所用あり、長崎楽会の中尾氏に依頼。見事な代役であった。参加・スタッフとも17人。

長崎市小榊支所前9時半発ー小瀬戸中番所跡ー神の島教会ー四郎ヶ島台場跡ー神の島公園(昼食)ー金水温泉跡ー大浜ー福田長兵衛兼明の墓ー小浦の福田大番所船囲場ー丸木問役所跡ー福田開港の碑ー千本松原・田子島台場跡ーオロシア井戸ー庄屋屋敷跡・琴爪の墓ー福田本町バス停17時着解散。

小瀬戸出発としたため、コースは約15kmあった。目いっぱい17時まで歩き、全員バテ気味。帰りが遅くなって迷惑をかけた。
小瀬戸中番所跡、四郎ヶ島台場跡、金水温泉跡、福田長兵衛兼明の墓など辺ぴな史跡を、この際訪ねた。山道・海岸道あり、登ったり下ったり。トンネルも金水と大浜の2つを歩いた。
史跡の詳しくは、「小榊の散策」「福田の散策」を参照。次回は4月18日(土)に”東山手居留地界隈と近くの山歩き” コースはさるくHPにあり。

写真を(1)(2)と分けた。(1)は神の島公園の昼食まで。
お宮さんのブログ記事も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/14752474.html

小榊の散策 (2) 小瀬戸の史跡・風景  長崎市小瀬戸町

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小榊の散策 (2) 小瀬戸の史跡・風景  長崎市小瀬戸町

2007学さるくの江越弘人先生作成資料「女神大橋から四郎ケ島台場跡」などによる説明は次のとおり。

写真  1〜    1 鼠 島(皇后島)
昔の戸八の浦(深堀)の子(ね)、角(すみ)の方角に当たることから『ね すみ島』と呼んだとか、神功皇后が朝鮮からの帰りにこの島に立ち寄ったので『皇后島』と言うなど、色々と謂れのある島である。
寛永6年(1853)から安政元年(1854)にかけて日本は諸外国と和親条約を結んだ。その結果、長崎港にはイギリスやフランスの軍艦の入港が激増したため、幕府は、鼠島を外国人の遊歩場として開放した。
明治36年に、長崎市はこの島に海水浴場を開設した。以後、昭和47年に第2次長崎外港計画による埋立で70年に及ぶ市民の遊泳道場は閉鎖された。

写真  8〜    2 小瀬戸遠見番所跡
遠見番所は、寛永15年(1638)島原の乱を鎮定した老中松平伊豆守信綱が長崎に立ち寄った時に遠見番所と烽火所の設置を命じた時に始まり、和蘭船や異国船の来航を見張っていた。番所は、最初には野母の権現山だけに置かれ、異国船発見の時には飛船で長崎奉行所に知らせていた(白帆注進)。番人は、野母・高浜・川原の百姓が当たっていた。
万治2年(1659)に遠見番10人、触頭2名の番士を公儀で召抱えることになり、役宅を十善寺郷に置き、十人町と呼んだ。元禄元年(1688)には抜荷取締強化のために遠見番10人を増員し、小瀬戸・梅香崎・永昌寺(最初は勧善寺)に遠見番所を増設した。
異国船発見の時には、旗や号砲で知らせることとし、抜荷を取り締まるために蘭船、唐船が出帆する時には、帆影が消えるまでに見送る任務も加わった。
遠見番所は、小瀬戸後方中央の通称トンカミ山(住民は遠見と言った)にあった。現在は、みなと坂団地内の「船の公園」となっている。

写真 12〜    3 同上 中番所跡
中番所は、小瀬戸後方の山、現在は天神天満宮境内地となっている。通常日は2人、来航船入津及び出津時は4人の番人を配置し、遠見番所番人からの通報を受け、これを不寝番所に連絡した。天満宮石祠の中に、小瀬戸注進船の水主組が奉納したことが刻まれている。

写真 15〜    4 同上 注進船つなぎ石・船引場完成記念碑
長崎市小榊支所裏の、駐車場となっている一角に移設されてある。

写真 16〜    5 長崎要塞第一地帯標
1−C 小瀬戸の天神天満宮裏畑地(確認 長崎要塞第一地帯標 第七号) 長崎市小榊支所の左道へ入り、墓地を通り上がる。小瀬戸遠見番所の中番所跡で、現在は天神天満宮が祀られている。その背後の畑の真ん中に立つ。みなと坂団地から行く方が近い。

写真 17〜    6 大 悲 寺
写真 18〜    7 長崎市編入50周年記念碑(小榊支所横)
写真 20〜    8 長崎市立小榊小学校

小榊の散策 (1) 木鉢の史跡・風景  長崎市木鉢町

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小榊の散策 (1) 木鉢の史跡・風景  長崎市木鉢町

2007学さるくの江越弘人先生作成資料「女神大橋から四郎ケ島台場跡」などによる説明は次のとおり。

写真  1〜    1 女神大橋
長崎市民が永年待望していた全長1289mの女神大橋が完成したのは、平成17年12月11日である。平成22年度には、高速道路の長崎インターと繋がる予定である。橋の上から素晴しい眺望を楽しむ人々で賑わっている。

写真  3〜    2 神崎台場跡・神崎神社
幕府は、長崎港の一番狭くなった港口の防衛に最も心を使い、女神側には、女神の古台場・新台場、魚見岳の増台場3ヶ所と併せて5ヶ所33挺の石火矢で守った。それに対し神崎側は、古台場・新台場・増台場の3ヶ所8挺であった。
女神大橋を降りて後戻るように下って行くと、左に天門峰への登り口、右へ行くと神崎台場跡へと進む。整備された歩道の岩盤地帯を越えると神崎神社の奥の院である。ここから少し下ると広場に出る。石祠や石仏が建っている。ここが新規御台場跡で、フェートン号事件後の文化5年(1808)に設けられた。新規御台場から12mほど岬の先端に行った所が一の増台場で、文化7年(1810)に設けられた。
また、新規御台場へ戻って右の石段を下ると神崎神社へと行く。左の薮の中の細い急な道を下るとやがて右手に平地らしき所がある。ここが煙硝蔵跡で、建物は残っていないが『従是神﨑御焔硝蔵掛并常住小屋境内』と刻んだ石柱が1本は倒れ、1本は傾いて立っている。ここからさらに下ると三の増台場跡があり、さらに下って石油タンクがある所に出る。
このタンクの東側海岸が古台場跡で、当時の石垣が残っている。三の増台場と煙硝蔵跡の中間から東へ平行に戻るように進むとすぐ平地に出る。ここも台場跡と思えるが記録に出ていないので単に平地としておく。ここからさらに東、港口へ行くとニの増台場跡がある。ここを抜けると神社へ下る石段と合流する。

写真  7〜    3 天門峰
『長崎郷土史』に天門峯と書き、「シラト」とルビを振っている。また「一名を白崎と云い唐人は観音山と云えり。…往昔港内往復の船は必ず櫓を止めて遥拝し、唐船は入港の際金鼓を鳴らして礼をなし、通船するを例とせり。山角南に突出せるを神崎鼻と云い、今税関見張所あり。山下を男神と称し対岸女神と相応ず。…」と書いている。
166mの山頂に登ると、今渡ってきた女神大橋を眼下におさめ、長崎港内外の景色が素晴らしい。山頂の大石に文字が彫りこまれ「地理局測点 明治九年四月」とある。記録によると明治9年4月から6月にかけて長崎港をめぐる29箇所を測定し、24箇所に測点石を、12箇所に測標(これは木標の意味か)を設置したとある。岩に刻んだ天門峰の測点は、その1つかも知れない。
測点は、他に対岸の魚見岳頂上近くに標石が立っていることを橋本氏が発見している。いずれにしても、日本近代測量最初の頃の貴重な記念碑であることには間違いない。

写真 11〜    4 木鉢浦
奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年(1801)にアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。
なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていた。

写真 13〜    5 木鉢教会
明治43年(1910)に網場の脇に巡回教会が造られ、昭和13年に現在地に神ノ島教会の巡回教会として設立され、昭和37年に独立した。昭和56年に新築され、白い近代的な教会が丘の上に立っている。

写真 15〜    6 長崎要塞第一地帯標
1−D 西泊中学校裏のピーク (確認 長崎要塞第一地帯標 第十四号) 木鉢側から西泊中学校のグランドへ石段を上がり、校舎左脇の山道へ入り5分ほど登った小高いピークにある。
1−E 帆掛山の山頂直下 (確認 長崎要塞第一地帯標 第十五号) 尾根道を北に向けて急な登りが10分ほど続き、帆掛山(植林地となり地元で「ヒノキ山」とも言う)三角点172.2mに着くすぐ手前、竹林内平地の溜穴の傍らに建つ。

写真 19〜    7 長崎市西工場
昭和54年供用開始。焼却炉(処理能力2,000t/日)2基、水管ボイラ(蒸気発生量最大30t/h)2基、蒸気タービン発電機(連続最大出力2,000kW)1基を有し、長崎市で1年間に発生する可燃ごみの約4割、78,000t を処理している。
ごみ焼却の際に発生する熱を利用し、蒸気タービンによる発電、浴場、温水プールへの熱源供給(蒸気)などエネルギーの転換利用を行っている。

長崎の古写真考 目録番号:3939 高鉾島(35) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3939 高鉾島(35) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3939 高鉾島(35)
目録番号:4727 高鉾島(41)  関連作品:2865 高鉾島(12)、5623 高鉾島(33)

■ 確認結果

長崎港口の「高鉾島」関係。目録番号:3939 高鉾島(35)と坂段がある構図の目録番号:4727 高鉾島(41)、関連作品:2865 高鉾島(12)、5623 高鉾島(33)とも、これが現在の神の島教会から撮影された高鉾島の光景である。
高鉾島の奥が小ヶ倉で大久保山、その背後に熊ヶ峰から八郎岳への長い稜線が続く。2枚目の古写真には、高い坂段を上がり、石垣の角に座って景色を眺める人がいる。

神の島教会の石垣を見ると、この坂段の跡が写真のとおり、現在も残っている。神の島教会は明治14年(1881)に木造教会が建てられ、更に明治30年(1897)にレンガ造りとなり、 昭和36年(1961)増改築されて今日の姿となっている。
坂段を改修したのがいつかは不明だが、位置からすると現在の礼拝堂の入口あたりから、いずれも撮影された古写真と思われる。
神の島教会には、高鉾島を向いて「高鉾島殉教者顕彰碑」がある。