月別アーカイブ: 2008年6月

旧泰邦寺跡のシャクナゲ  北松浦郡佐々町志方免

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

旧泰邦寺跡のシャクナゲ  北松浦郡佐々町志方免

佐世保市相の浦町まで行き、松浦鉄道沿いの県道139号線により、佐々川河口に架かる見返橋を渡る。左岸を少し上ると、支流志方川を堰き止めた水門があり、手前左から川沿いの細い農道へ入る。

一軒の大きな農家の角に「志方小学校跡」碑と「旧泰邦寺跡」の説明板があり、石段を上った左手の堂前の斜面にシャクナゲの木がある。堂は「平戸新四国第五十八番札所」。
江里峠を越し江迎への県道227号線に入ってから見ると、田の先の川向かいに説明板が見える。地元では「志方小学校跡」と聞かないとわかりにくい。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

シャクナゲの大木

佐々町志方の旧泰邦寺跡の堂横にある。2本のツクシシャクナゲ。近くの玉置山から植栽されたもので、樹齢数百年と言われている。
2本のうち1本の花はほとんど散っていたが、もう1本は僅かに花を残していた。訪れるのが遅かった。
長崎県のツクシシャクナゲの自生は現在では、多良山系と西彼杵半島(県民の森など)にしか見られない。他は盗掘で絶滅してしまったという。

千人堂近くのスタジイ  佐世保市佐々町志方免

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

千人堂近くのスタジイ  北松浦群佐々町志方免

佐世保市相の浦町まで行き、松浦鉄道沿いの県道139号線により、佐々川河口に架かる見返橋を渡る。左岸を少し上り江里峠を越し江迎への県道227号線へ入る。この谷間の集落が志方免。集落を過ぎ山手へかかると椎木橋がある。

橋手前に「千人堂入口」の標柱があり左折。標柱に従い左山手の集落まで約600m坂道を進むと千人堂に着く。スタジイは堂から少し下った道脇に立つ。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

スタジイの巨木

佐々町志方・千人堂近くにある。千人堂から左の道を進んだ右手の道沿にある。
幹は根元でふたつに分れ、太い幹はさらに4本に分かれている。幹からは多くの若枝が立ち上がっていて、幹周りはおよそ7mはある巨木。樹高20mほど。樹齢700〜800年と言う。
1563年、平戸軍と相浦軍との戦いで戦死した柴加田一族にまつわるもので、御神木になっている。県北地域でも最大のシイと言われる。
シイの傍は広場になっているが、そこに黒髪神社がある。お墓にしか見えない神社だが、山にあった黒髪神社をここに移したとのこと。
シイの巨木の多くは、洞ができていたりして、老木という印象があるが、このシイは生き生きとしていて樹形もいい。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (4) 鉄道橋と千々石(釜山)砲台跡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (4) 鉄道橋と千々石(釜山)砲台跡

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
愛野駅を除き駅跡の碑を全部写したので、写真が多くなった。その(4)は余談。

長崎本線(大草経由)を済み次は温泉鉄道跡をと、鉄道橋を調べるのが本来の目的。
川や道をまたぐことはあまりなく、煉瓦アーチはなかった。唐比手前で短い桁橋が2つ残っていた位である。
国道57号線から千々石商店街へ入ったところで、親和銀行千々石支店横に清流が流れる。道路下を覗くとアーチが見えた。石造橋かとときめいたが、コンクリート張り。
地元の識者島村酒店の主に確認したら、戦後造られたという。この川は上流に「柳原水源」、下流に洗い場のよいのがある。千々石ホテル跡もある。

千々石(釜山)砲台跡とは、温泉鉄道の千々石第一トンネルと関係する。ほとんど知る人はいないが、トンネル右横の海を向いた高台岩場に砲台が構築された。
太平洋戦争末期、米軍の九州本土侵攻を阻止するため。すでに廃線となっていたトンネルの横腹に穴を開け、砲台への出入りと大砲格納に利用した。トンネルが工廠だった話も聞く。
戦後、壁面を塞いだ。トンネル内にその跡がはっきりわかるから面白い。
橘湾沿岸の戦争遺跡の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/9

最後の写真は今回、富津の「額栗岩」下の鉄道沿いに大きな防空壕を見かけた。頂上岩は監視所のみで、この防空壕が大砲を据えた富津砲台とも考えられる。
温泉鉄道跡は、緑のトンネルも続き景観はよく、鉄道の歴史にひたりウオーキングに向いた道である。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (3)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (3)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(3)は、木津の浜駅から肥前小浜駅までの区間。終点は北野のこの信号の手前で、旅館街へは送迎バスだった。国道の上から見た風景、富津や小浜の写真も入れた。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (2)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(2)は、千々石駅から木津の浜駅までの区間。沿線近くの写真も入れる。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (1)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(1)は、愛野駅から海水浴場前の千々石駅までの区間。沿線近くの写真も入れる。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

明治時代?の新街道伝える「一里標」  西彼町に残る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

明治時代?の新街道伝える「一里標」  西彼町に残る

次はHPにより調べた平成16年(2004年)7月2日828号、西広島タイムスの新聞記事。

明治時代の新街道伝える 道しるべ「一里標」を設置

▲新街道で道しるべとして設置されていたという「一里標」
【大竹市】明治維新後、江戸時代の西国街道に替わってつけられた新街道で道しるべとして設置されていた「一里標」。現在の大竹市油見三丁目あたりに建っていたと思われる一里標を、保管していた大竹市油見一丁目の伊藤正保さんが大竹市教育委員会に寄贈し、市教委は六月二十三日(水)、市総合市民会館(立戸一丁目)敷地内に説明板とともに設置した。
山坂が多く難路だった西国街道は明治時代に入り、平たんな海岸沿いに移す計画が上がった。廿日市−大竹間の工事は一八八○(明治十三)年に完成。開通の五年後には西国街道の一里塚に替わって、新街道に一里標が設置された。
大正時代まで設置されていたと推測される一里標は現存しているものが少なく、市民会館に設置されたものはその中の貴重な一つ。御影石造りの高さ百六十四センチ(地中部分含め全高百八十三センチ)ほどの道しるべには、大和橋まで「拾三町五拾六間二尺五寸」と里程などが刻まれており、当時の様子を推し量ることができる。市教育委員会は「昔の国道に設置されていた道しるべを多くの人に見てもらいたい」と話している。

西海市西彼町八木原郷に、これと同じような「一里標」が残っていた。江戸時代の街道一里塚と違う、明治から大正時代にかけての「一里標」のようだ。
場所は国道206号線西海橋の少し手前となる。真珠園療養所を過ぎると八木原で、「八木原 JA長崎せいひ大串支店」がある。このすぐ先の国道沿い左手、倉庫としている空家の庭先に石柱が2本立つ。通るたびに手前のは気にかけていた。
5月31日伊万里・佐賀方面に行くとき、バイクをUターンして調べてみた。奥にあと1本あるとは今まで気づかなかった。いずれも18cm角、高さ1.1mの石柱。手前のは無刻か表面が削られている。

奥のには4面に刻字があった。正面「長崎十二里」、裏面「面高三里二分」、右面「一里標」、左面「長崎縣」。「一里標」とは珍しい。
これは県が設置している。通りかかった高齢の地元井田喜八さんに聞いてみた。
「この石柱はもともと少し先の中郷集落船着場の所にあった。面高(西海町面高郷)を起点に設置され、昔は数本あった。空家の主牧山氏が石柱を貰い受け、この庭先へ据えた」という話。

長崎県にも何も設置史料は残っていないと思われる。日本がメートル条約に加盟したのは、明治19年(1886)。尺貫法併用から完全にメートル法に移行したのは、実に昭和33年(1958)年のことだ。国土地理院の旧版地図は、明治34年測図。一般的な地域のみ。西彼杵半島の特に外海地方は、戦後もまだ陸の孤島であった。
これらを勘案し、設置年代の手がかりとするほかはない。「西彼町郷土誌」に記述がないだろうか。この手の種類として珍しく、貴重な標柱であることは確かだ。

(平成22年5月29日 追記)
この記事は、ブログ「標柱図鑑 〜明治期標石・標柱類 博物館〜」を参照。
http://racoon60.cool.ne.jp/Meiji_milestones/Meiji_Ser.html

佐賀市街松原川の風景  

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

佐賀市街松原川の風景

平成20年5月31日、佐賀市へ行く。佐賀城北濠沿い貫通道路の裏通り松原1〜3丁目の松原川の風景。
平成元年、佐賀市市制百周年記念事業の一つとして、「松原川環境整備事業、松原川の親水歩道づくり」を行い、周辺に数基の石桁橋やアーチ橋風の橋が整備された。
fed−net長崎・諫早Y氏HPには、長崎市の中島川よりよっぽど雰囲気が良いとある。
松原神社北の太鼓橋は、切石の石造アーチ橋として造られた。(石橋の項)
松原川の現地説明板は次のとおり。
松 原 川

多布施川左岸水路、市中を平行して東流。市民に安らぎと親しみを与えてくれる佐賀市の代表的な川。
多布施川左岸、NTT前のポンポン井樋から分流して東へ向い、松原神社の東北角から南へ折れ佐嘉神社角派出所まで750m。これから道下をくぐり小水路に分流し人目につかなくなる。
訪れる文人墨客は歴代、この川の美しさ、思い出等を文学に記し絵に描いてきた。多くの橋が架かり、それぞれ市民に親しまれている。             県庁通り商店連盟

多久市に残るアーチ石橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

多久市に残るアーチ石橋

多久市に残るアーチ石橋は、2橋である。西多久町の「笑郷(わらいごう)橋」と南多久町の「谷下の森永宅橋」。谷下の橋は最近見つかった。2はコンクリートアーチである。

西多久町大字板屋の「笑郷(わらいごう)橋」は、多久聖廟の入口となる「市立病院前」交差点から、女山峠を越し武雄市若木の方へ向かう県道25号線により行く。
「西多久分岐」は県道24号線と分かれ右を取る。西部小学校・物産館「幡船の里」・正善寺入口を過ぎ、少し行き、左方の農道へ入る。「山口」バス停のまだ手前である。
農道は牛津川上流に出、まっすぐの所は、2の「川の上橋」(コンクリートアーチ)、手前農家の方から上流の方へ行くと、1の「笑郷橋」である。

この農家の主の話では、山上に平野集落があり、橋はそのための道だった。昭和29年の水害により流され、「笑郷橋」は修復し残った。両橋名はこの方に確かめた。
N氏HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋 佐賀県の石橋」によるデータは次のとおり。
2はあくまで参考のため載せられている。

写真  1  №2,972  山口無名橋(笑郷橋)  2007.09.08  多久市西多久町大字板屋
牛津川   橋長:7.68m  橋幅:2.5m  径間:4.5m  拱矢:2.25m  環厚:30cm
架設:昭和29年頃
世戸さんの情報です。北方町から多久市へ入りました、時間はすでに17時半です。
左岸下流側から車にロープをくくりつけて降りました、ロープが見えています。
壁石は布積み。

写真  2  眼鏡橋風のコンクリートアーチ(川の上橋) 2007.09.08  同
牛津川   橋長:8.0m  橋幅:2.8m
世戸さんの情報です。山口無名橋から約150m下流です。

次に新しく見つかった南多久町の「谷下の森永宅橋」(仮称)を紹介する。
写真  3        谷下の森永宅橋           多久市南多久町大字花祭(谷下)
谷下川   橋長:3.65m  橋幅:1.8m  径間:2.22m

前記1,2の橋名を地元では「笑郷橋」「川の上橋」と言い、私が多久市役所へ念のため電話確認した。その際、商工観光課前田さんが、「多久市史」の中で南多久町谷下の石橋を記していると写しを送ってくれた。
平成20年5月31日現地確認。場所は県道25号線南多久「平瀬橋」交差点から江北へ向かう県道35号線へ入る。すぐ石原橋の次が「谷下」バス停となり、やや手前から大神宮へ上る道へ入る。防火水槽先の左4軒目の家が森永宅で玄関前の小川に架かる。
下流側要石にのみ、「大正拾五年一月新成 石垣建築石橋工事 新設者森永百助 石工國信安馬」との刻字があった。
多久市「多久市史」の記述は次のとおり(発行2002年?・掲載巻頁未確認)。

石 橋  めがね橋に代表される石橋は長崎県や熊本県に多く構築されているが、多久市に現存する石橋で古来の技術を留める石橋は谷下の谷下川に架けられた一橋だけである。市道から森永宅に渡る専用の橋で、幅一・八二㍍、長さは上間で三・六五㍍、下間二・二二㍍、高さ二・三八㍍のアーチ式である。大正十五年(一九二六)一月に施主森永百助、石工國信安馬によって構築されている。
東原の篠砂川にも石橋が架けられていたが、平成二年七月の水害で被害を受け、復旧工事で消滅した。橋本体は無傷であったが、裏込め部分から奥の道路が抉られ、石橋の構造上の堅固さを証明する結果となった。大正九年頃の構築であった。

(追 記 平成20年6月19日)

ところで、写真1の「笑郷(わらいごう)橋」は、橋名の由来を書き忘れていた。多久市商工観光課前田さんから送ってもらった「多久市史」の中778〜779頁にある伝説話。
西多久地区には「女山の女盗賊」にまつわる話(民話・言い伝え)が、次のとおりある。女盗賊が短刀の血を洗った場所が「洗い江」と呼ばれていた。それが「笑郷」になったのだろうということである。

西多久町                 女山の女盗賊

伊万里に向かう女山峠には女盗賊が出没し、旅人から身ぐるみ剥ぎ取ったり命を奪い、大変恐れられていた。二重あたりで獲物(旅人)が往来するのを覗いて、谷から出て来て旅人を襲い、血のついた短刀を川で洗った。女盗賊が人の往来を見ていた場所を人見と呼び、よく出てくる所を出口、身ぐるみ剥がした所をはぎの原、短刀の血を洗った所を洗い江と呼び、血洗い橋と言う所もあった。また、時には赤子を背負って出て来て、旅人が通ると赤子の尻をつねって泣かせ、旅人が「どうしたのか」と尋ねると「病気にかかっている」といって同情を誘い、隙をみて強盗を働いた。子供をおぶって出てきた所を子峠とよんだ。…

以下は略。女強盗の名はおつる。最後は、おつるに小さいときから苦しい思いをさせた父親のじいさんが金をつくって折角迎えにきたが、それとは知らずに父を殺めてしまった話のようだ。    

早里のホゲ岩  伊万里市瀬戸町早里

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

早里のホゲ岩  伊万里市瀬戸町早里

伊万里市瀬戸町早里へ佐賀県指定天然記念物「早里のイスノキ」を見に行ったとき、近くに「ホゲ岩」という珍しい岩があると聞いた。早里は伊万里湾の瀬戸で、半島や小島の周辺を埋め立ててできた干拓地である。海に突き出ていた岩場が海食によってホゲて、天然アーチになった。これが干拓地の中に残っていると言う。
石橋に関連し天然アーチも調べている方がいる。fed−net長崎・諫早HP「長崎県の石橋を訪ねて」にこの項がある。佐賀県となるがそのY氏のためにも、写真で情報を知らせたく岩へ寄ってみた。

国道204号線は伊万里湾沿いに通る。伊万里市街から玄海町方面へ直接行くか、伊万里湾大橋を渡って戻ると瀬戸町早里に着く。「早里」バス停先に海に向けて干拓地の中を行く道路があり、この道に左折して100mほど進むと、ホゲ岩が道路沿い右手にある。
規模は小さく観光地でないため、案内板はない。小さいながら見事な天然アーチだ。干拓地の中に残っている姿がよい。穴の先は大きな農家の入口道路だった。
天然アーチは、佐世保市瀬戸越町の眼鏡岩、同吉井町のお橋観音、同世知原町の弦掛観音でも見ている。(別項にあり)