月別アーカイブ: 2008年6月

相浦の球状閃緑岩  多久市北多久町多久原

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相浦の球状閃緑岩  多久市北多久町多久原

佐賀県の天然記念物に「小川内のスギ」「早里のイスノキ」でふれているので、もう1つ話題。
多久市北多久町大工田・相浦地区に「カイガラ石」や「ナポレオン石」と呼ばれる石があり、国内外でも珍しく佐賀県の天然記念物に指定されている。
正確な岩石名は、「球状閃緑岩」(きゅうじょうせんりょくがん)。どんな石か。相浦へ見に行った。

多久市役所近く「多久原北」交差点から国道203号線多久バイパスへ入る。長崎自動車道の北側を通り、「多久IC」近くに「相浦入口」の道路標識がある。必ずバイパスを通らないと、IC道が混在し集落入口がわかりにくい。
この道へ入り集落の谷奥まで進むと「相神浦大権現」社がある。もう天山の山懐である。社殿右に大きな岩石が「佐賀県天然記念物」の標柱とともに据えられてあった。
この石が集落内で一番大きいと聞いた。

「カイガラ石」「ハマグリ石」「菊面石」とか呼ばれる種類の石。表面に球顆(たまつぶ)がぼつぼつ見えた。「ナポレオン石」とは、コルシカ島に産するため付けられた石名らしい。
神社境内には、イチイガシの推定樹齢300年の大木もあった。
佐賀県HP「佐賀県天然記念物の部」による説明は次のとおり。

相浦の球状閃緑岩(あいのうらのきゅうじょうせんりょくがん)

県指定天然記念物/昭和46年6月23日指定
多久市北多久町大字多久原 飯盛山   鉱物
球状閃緑岩は、火成岩中の深成岩の1変種で、基質中に白黒の同心球状の縞を持つ球顆(たまつぶ)が入っている岩石をいう。
天山南斜面標高100m〜400m地帯は、角閃石片岩・黒雲母片岩・石英片岩からなり、多久市北多久町大工田・相浦地区では、球状閃緑岩の転石が散在する。相浦地区では、カイガラ石と呼ばれ、球顆は5〜18cmの楕円形。水田の石垣、川の護岸石、神社の土台石などに利用されてきた。
現在、我国では宮城県白石市・愛知県猿投山など7ヶ所程で確認されているに過ぎない。また一般に球顆岩石と称されるこの種の岩石は、世界的にも珍しく、イタリア他2〜3の火山国で知られるだけで、ヨーロッパではナポレオン石と呼ばれている。

小川内のスギ  神埼郡吉野ヶ里町小川内  

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小川内のスギ  神埼郡吉野ヶ里町小川内

「さが名木100選」の木をやっと訪ね終えた。ホッとして佐賀県HP「佐賀県天然記念物の部」を見ていたら、「小川内のスギ」「早里のイスノキ」が県指定天然記念物なのに、100選の木に選ばれていない。
他の木は、すべて100選の木となっているのに、なぜこの2本は選ばれなかったのか。「小川内のスギ」は福岡県側での五ヶ山ダム建設により、伐り倒されるような運命にあり、少しは事情はわかるが、今のうち訪ねないわけにはいかない。

吉野ヶ里町小川内は、福岡県境をなす東脊振の山奥である。長崎自動車道「東脊振IC」で降り、福岡那珂川へ行く国道385号線へ入る。前は坂本峠越えしていたが、今は東脊振トンネル(トンネル部分が有料道路)ができ便利になった。
ぐいぐい山手へ登る。途中に吉野ヶ里恵みの直売所「さざんか千坊館」展望台がある。トンネルを越して少し下り、県境「佐賀橋」から左折する。小川内の方へ県道136号線を進み700mほどで、山祇神社前に着く。

佐賀橋に案内はなかった。一帯で大々的にダム建設工事が行われていた。スギがどうなるかは確認していない。早く訪ね写真に残していて良かった。
佐賀県HP「佐賀県天然記念物の部」による説明は次のとおり。

小川内の杉(おがわちのすぎ)

県指定天然記念物/昭和31年3月1日指定
神埼郡吉野ヶ里町小川内   植物
神埼郡吉野ヶ里町小川内は、脊振山の東面、標高約400mにある山村で、福岡県との県境に位置している。この山村にある山祇神社(やまずみじんじゃ)の境内に、スギの巨木がそびえて立っている。
この小川内のスギは、大小3株からなっており、根元でお互いにくっつき合い、癒着しており、その根回りは13.5mにも及ぶ。また、樹高は27mと高く、3本の巨大な主幹が、そろって垂直に天をつくように伸びており、その姿は壮観であると同時に、極めて美しいものがある。
小川内のスギは、山祇神社の神木として、長い間、村民に大切にされ、今日まで保護されてきたものであり、県内において、まれに見るスギの巨木として優美な姿を持つのみでなく、3株が癒着し同一根となっている珍しい存在でもある。

(2016年3月7日 追 記)
ブログ「たけさん日記 パート2 自然派集合」の次を参照。天然記念物の大杉は、7億8千万円をかけて杉を倒さず根掘りしたまま持ち上げ、目的場所の高台に移設された神社の近くに移植する工事が始まっている。
五ヶ山ダム建設のため御神木の大杉移植  http://blogs.yahoo.co.jp/denkan_takeo/46837170.html?vitality

佐賀新聞LiVE 2015年6月19日の記事は、次のとおり。

県天然記念物「小川内の杉」 移植に7億8600万円 220メートル先 佐賀側の負担金なし

ダム建設に伴う水没を避けるため、移植されることが決まっている佐賀県指定天然記念物「小川内(おがわち)の杉」(神埼郡吉野ヶ里町)について、佐賀県教育委員会は、事業主体の福岡県が申請している移植場所や工法を許可した。事業費は7億8600万円で、来年5月末ごろに完了する見込み。

小川内の杉は、福岡県との県境の小川内地区の山祇(やまづみ)神社境内にあった神木で、樹齢700〜800年とされる。3株の杉が根元で癒着しており、樹高39メートル、根回りは13・4メートル。地元が移植保存を望んできた。

五ケ山ダム建設を進める福岡県は地元との協議の結果、先に移転している山祇神社の横を移植場所とした。高さ43メートル、南に220メートル移すため、山の斜面に盛り土をしてレールを敷き、10メートル四方の鋼製の箱に杉を入れて動かす工法を提案した。

主な事業費の内訳は、杉の引き上げ作業に4億6700万円、盛り土やレール敷設の搬送路設置に3億1800万円となっており、佐賀県側の持ち出しはない。

県教委は、土木や造園、樹木学の専門家を交えて検討し、今月15日に県天然記念物の移植に必要な現状変更許可を出した。文化財課は「移植後1年間は樹勢をモニタリングする計画も含まれており、文化財としての価値を維持できると判断した」と説明している。これほど巨木の針葉樹の移植作業は「全国的にも聞いたことがない」という。

早里のイスノキ  伊万里市瀬戸町早里  

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早里のイスノキ  伊万里市瀬戸町早里

「さが名木100選」の木をやっと訪ね終えた。ホッとして佐賀県HP「佐賀県天然記念物の部」を見ていたら、「小川内のスギ」「早里のイスノキ」が県指定天然記念物なのに、100選の木に選ばれていない。
他の木は、すべて100選の木となっているのに、なぜこの2本は選ばれなかったのか。「小川内のスギ」は福岡県側でのダム建設により、伐り倒されるような運命にあり、少しは事情はわかるが、「早里のイスノキ」のは何もないようだ。訪ねないわけにはいかない。
県指定天然記念物になったのが、平成18年3月であるためだろうか。

伊万里市瀬戸町早里とは、「伊万里湾大橋」の近くである。長崎からなら伊万里二里大橋から松浦の方へ国道204号線を行って、大橋を渡り戻ってすぐである。伊万里市街からなら同じ国道204号線が伊万里湾沿いを行くので、玄海町方面へ向かう。
イスノキは、「早里」バス停のすぐ近く北西側小高い丘に立つ。一面の干拓地を望む。
佐賀県HP「佐賀県天然記念物の部」による説明は次のとおり。

早里のイスノキ (はやりのいすのき)

県指定天然記念物/平成18年3月31日指定
伊万里市瀬戸町字早里   植物
早里のイスノキは、江戸時代の干拓地を望む小高い丘の上に立っている。樹高15m、胸高幹周り3.1mの巨木で、枝張りは南北15.5m、東西13.9mにも及ぶ。樹齢は200年以上と推定される。周辺にはスダジイ、マテバシイ、クロキ、アラカシなどが生育している。
イスノキはマンサク科イスノキ属の常緑高木で、日本においては、本州(伊豆以西)、四国、九州という広い範囲に分布する。西日本ではユスノキというのが一般的である。材質は緻密で高い強度をほこる。用途は、建築材(床柱、床材)、家具、鉢、算盤など多様である。また、樹皮の灰は釉薬の原料としても使用され、鉄分が少ないため最良とされる。
磁器生産が盛んな伊万里・有田地区においてイスノキが釉薬の原料として使用されるようになったのは、17世紀の中頃からと考えられる。当初は地元のイスノキを使ったと推察されるが、次第に地元のイスノキだけでは需要に追い付かなくなり、日向や薩摩などで生産されたイス灰を購入するようになる。
近年、イスノキは開発による伐採のため減少し、自生するものは稀である。県内では早里のものが最大である。

JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)沿いの風景 (2)

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JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)沿いの風景 (2)

平成20年5月30日、JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋を見に行った。そのついでの風景。写真の説明はわざと省略した。自分の目で探していただきたい。

琴ノ尾岳を越す松頭トンネル入口までを(1)、松頭トンネルを出てからを(2)としている。
鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋は、次を見てほしい。
(1) https://misakimichi.com/archives/942
(2) https://misakimichi.com/archives/943

JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)沿いの風景  (1)

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JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)沿いの風景 (1)

平成20年5月30日、JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋を見に行った。そのついでの風景。写真の説明はわざと省略した。自分の目で探していただきたい。

琴ノ尾岳を越す松頭トンネル入口までを(1)、松頭トンネルを出てからを(2)としている。
鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋は、次を見てほしい。
(1) https://misakimichi.com/archives/942
(2) https://misakimichi.com/archives/943

JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋 (2)

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JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋 (2)

平成20年5月30日、JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋を見に行った。場所の説明はわざと省略した。自分で探していただきたい。
N氏HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の長崎県の石橋及び煉瓦アーチの長崎本線を参照。

多良見町伊木力あたりで、特に見事な鉄道橋が見られる。千々石ミゲルと見られる墓石の場所の入口のところには「山川内跨道橋」(煉瓦アーチ)がある。続けて山川内川に架かる大きな「山川内橋梁」、そばに「山川内東跨道」がある。
後の2橋は全体が完全に切石で造られていて、N氏は立派な「石造アーチ橋」としてカウントされている。
この鉄路の長い土手は、谷間反対側の県道33号線野川内入口のカーブ地点からよく見える。列車が通る時間に合わせて見る景色は秀逸だ。

また、鉄道沿線すぐ近くには、長与町高田郷の川平有料道路の入口あたりの県道沿い「洗濯工房」店裏の川に壊れかけたアーチ部分だけ残る石橋「高田の橋」がある。
多良見町野川内の谷にも、同じように壊れかけたアーチ部分だけ残る石橋「幸仏橋」があるので、今のうちに見ておいてほしい。
いずれも前に紹介済みである。この日の風景は別項とした。

JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋 (1)

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JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋 (1)

平成20年5月30日、JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋を見に行った。場所の説明はわざと省略した。自分で探していただきたい。
N氏HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の長崎県の石橋及び煉瓦アーチの長崎本線を参照。

多良見町伊木力あたりで、特に見事な鉄道橋が見られる。千々石ミゲルと見られる墓石の場所の入口のところには「山川内跨道橋」(煉瓦アーチ)がある。続けて山川内川に架かる大きな「山川内橋梁」、そばに「山川内東跨道」がある。
後の2橋は全体が完全に切石で造られていて、N氏は立派な「石造アーチ橋」としてカウントされている。
この鉄路の長い土手は、谷間反対側の県道33号線野川内入口のカーブ地点からよく見える。列車が通る時間に合わせて見る景色は秀逸だ。

また、鉄道沿線すぐ近くには、長与町高田郷の川平有料道路の入口あたりの県道沿い「洗濯工房」店裏の川に壊れかけたアーチ部分だけ残る石橋「高田の橋」がある。
多良見町野川内の谷にも、同じように壊れかけたアーチ部分だけ残る石橋「幸仏橋」があるので、今のうちに見ておいてほしい。
いずれも前に紹介済みである。この日の風景は別項とした。

道の尾温泉の歴史と風景  西彼杵郡長与町

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道の尾温泉の歴史と風景  西彼杵郡長与町

浦上水源池の畔にあるラジウム温泉「道の尾温泉」は、近くは通るがよく見たことはなかった。タッちゃんのブログで最近、長崎市の日帰り温泉「道の尾温泉」が次のとおり記事に出た。

明治元(1868)年創業というから長崎市近郊としては歴史のあるほうで、居留地の外国人や入港する外国船の乗組員に人気があった天然温泉。
そのうえ九州には数少ない飲泉の湯でもある。受付のすぐ近くに飲泉用の蛇口があるので、是非とも飲んだほうがいい。ちなみにボクが知っている飲泉で有名な他の温泉は、①佐賀県の嬉野温泉、②大分県の湯平温泉。
画像は、道標になっていた石柱・外にある効能の説明板・明治時代の版画。
( http://blogs.yahoo.co.jp/turbobf1516/42265747.html 参照)

この石柱を写しに行った。温泉の建物はリニューアルされているが、旧道沿いに昔のたたずまいを残す一角があった。泉源には「明治元年華氏八十度」(摂氏で26.7度)と書かれ、水神の石祠、大正九年の「架橋紀念」碑があった。
同温泉会社のHP「道の尾温泉 長崎の温泉 歴史」を読むと、「蓬菜(?)橋」という橋。温泉のそばに架けたとしかわからない。明治時代の版画にはもちろん表われないし、長崎大学の古写真もない。
碑の下に溝があり、石材だったようなものは転がっている。脇は山手からの小川が流れ、多分このあたりだろう。

近くには4,5軒の旅館とホテルもあったそうだ。旧家がそのまま1軒残り、花壇の公園らしき場所も旅館跡だった。
同HPによると、創業者古田吉平は事業経営のみならず地域発展にも貢献し、諫早ー長崎間の鉄道建設時のルート案を検討する際にも奮闘し、温泉から500mの位置に「道の尾駅」を設置。現在のJR長与線のルートとなっている。
古田氏は道の尾駅から温泉に至る農道を車の通る道路にするため、個人出資で自らも工事監督として整備を進めたため、古田氏自らを「道の王」と自称するようになり、俗に地名「道の尾」の由来は、ここからきているとも言い伝えられている人物である。