月別アーカイブ: 2007年12月

「大正九年三月設」の標石のある石垣  長崎市高浜町

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「大正九年三月設」の標石のある石垣  長崎市高浜町

これは路地裏探検「ラビリンス」の部類の郊外編。「みさき道」の道筋に目にするので、一応紹介しておく。長崎市高浜町の町中の家にある。
「みさき道」は先項の長野観音堂跡公民館の方へ行かず、高浜郵便局から右のまっすぐな小道に入る。すぐ川沿いの車道に出るが、角の商店から小道を直進する。道は緩やかにカーブしながら国道499号線と出合う。高浜バス停の先となる。

この国道に出る手前に、見事な石垣と塀のある広い屋敷がある。左側の石垣の上を見ると、中間くらいでコンクリート塀が白壁となり、その境目に「大正九年三月設」の標石をはめ込んでいる。なかなか凝った石垣の造りと標石である。
榎の大木がある国道側に玄関があり、新しい家となっている。坂を上がって覗くと庭も立派だった。

今来た道を振り向くと、長崎半島南の第一高峰、ゴルフ場内の二ノ岳(標高325.5m)が遮るものなく聳える。いかにも街道の道である。なぜ「二ノ岳」と言うか。ピークが2つあるためらしい。
この家は本村宅。高浜に本村姓が多い。街道沿いであり特別に由緒ある家かと思ったが、近隣の人に聞くと、明治時代からの大農家であったようだ。
「みさき道」は国道を横切り、なお古い家並みの中を行く。高浜海水浴場前の八幡神社前に出るが、八幡橋の架かる川の河口は渡らない。

 「○月江金公」の石碑  高浜の長野観音堂跡公民館の庭先

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「○月江金公」の石碑  高浜の長野観音堂跡公民館の庭先

長崎市高浜町野中の「奉供延命水」水場の碑に続き、高浜の町中にある「みさき道」沿いの珍しい碑について、次項とも2つを紹介する。
「みさき道」は、延命水から高浜の町中へ下る。野母崎高校の正門前を通り、橋を渡って高浜警察官派出所と高浜郵便局の前の道を直進する。ここは分岐となり、真直ぐな小道が「みさき道」だが、左へ曲がる広い車道を行くと、すぐ左手石垣上に榎の大木が目立つ「長野公民館」がある。

新しい公民館は4年前に建った。この高台が「長野観音堂」の跡地である。公民館建設のため、観音堂が壊され石碑などが庭先の隅に移されている。
「延命水」でふれた11月初め長崎市高浜公民館からもらった資料「たかはまの字名の由来考」の43頁、「本村名 長野」の中にこの「○月江金公」の碑を上のとおり記していた。庭先に横倒しされ、「野母崎町郷土誌」にも記録がなかったようなので、これまで全く気づかなかったため、12月15日に碑を確かめに行った。

写真のとおり碑は横倒しにされてあった。しかし、上部の「○」の刻みは大きくすぐわかるが、「月江金公」の字がわかり難い。浜石の自然石に浅く刻んだもので、字は磨耗しているようだ。「月」の字のみ、石面のくぼんだ所に掘られ、何となくわかる。
「○」の印は、「禅僧のなかでも特に高僧だけ許された禅僧の印だそうで」とは新しい見解であった。これまで深堀や末石などの墓地・地蔵堂で同じ様な石に、上部に「○」や梵字を刻んだのは多く見ていて(別項あり)、これは経筒を納めた「経塚」と思っていた。

刻字は碑の石を見たかぎりわからない。今、この画像を首を左にして眺めると、たしかに「月江金公」とうっすらと写っている。資料の著者は、高浜の入江の月夜を風雅な文で綴っている。この碑の記録はロマンを感じる資料である。
なお、昭和61年「野母崎町郷土誌 改訂版」144頁から「長野の観音堂」は次のとおり。緑泥片岩の手洗石が珍しい。この観音堂は、脇岬観音寺と関係はないらしい。
榎の大木は公民館隣家の人に聞くと、堂の裏手にもあと1本あったが、幹が伸びて下の家にかかっていたため伐採している。

「長野の観音堂」
高浜の正端寺の裏山の北側に台地が出っぱっている。これが長野の観音堂である。入口に念仏塔がある。この境内に宝篋印塔の相輪がある。簡略化されており、高浜小学校出土と同じである。又、緑泥片岩の手洗石は、加工して、岩石のさけ目をつけており、製造年月日はないが、中世起源と考える。なお、これと同じ様式の手洗石は浜添の八幡神社境内にある。 

高浜延命水の碑文図と野中の一本松跡場所がわかる

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高浜延命水の碑文図と野中の一本松跡場所がわかる

「高浜延命水の水場とはどこか。野中の一本松はどんな松だったか」については、先の項で野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」の話なども載せて紹介していた。
このたびわかったのは、この石碑に刻んでいる碑文図と、戦後すぐ枯れた野中の一本松が立っていた場所である。11月初め長崎市高浜公民館から講座の資料「たかはまの字名の由来考」(著者は古里出身。現在錦2丁目にお住まいの松尾秀喜氏)をもらった。高浜地区の南越・本村・以下宿・黒浜の旧名とその小字名の由来について、詳しくよくまとめられている資料である。

この資料の52頁に「本村名 野中」の項があり、「野中」の呼称の由来と「延命水碑」の図があった。本日12月15日、図の刻字を確認に行った。
右面の「奉供延命水」と、正面の「ひょうたん」マーク及び左角の「安政四年中秋吉祥日」と「施主 長崎市木下町 中尾茂助 高浜世話人 市三郎」は前からほぼ判読でき、他資料にもほとんど記していることである。
わからなかったのは、「ひょうたん」マークの右下の字で、図では上の資料画像のとおり、二行を判読し描いている。

現地の碑を本日、苔をはがすなどしてよく見たが、結果は前と変らなかった。よほど学のある人が拓本でも取らない限り、この二行の字を判読できない。
「たかはまの字名の由来考」は、延命水の水場が「御崎観音詣で」の道(みさき道)の「一休する場所」であって、「年々先豊水の因」となるよう願いをこめて碑が奉供されたことを記録した貴重な資料である。

戦後枯れた「野中の一本松」が立っていた場所は、高浜の町中で偶然出会った本村藤夫さんの話からわかった。氏は現在、高浜海水浴場前の八幡神社総代。昭和20年当時は中学生で16歳。
一本松は枯れていたが、この延命水の地蔵堂のすぐ右脇に立っていた。根元には空洞があり、人がかがんで1人は入れた大きさだったと話された。場所は植林林前にまだこんもりしている。

長崎街道のフジ  長崎市中里町

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長崎街道のフジ  長崎市中里町

長崎街道沿いの有名な「古賀の藤棚」。長崎市中里町の古賀人形小川家前にあるフジ。現地説明板は次のとおり。傍に「楓園」の碑もあった。

古 賀 の 藤 棚

長崎から四里七町(16.3キロ)。諌早から三里十八町(13.6キロ)の距離で、郷土人形として有名な古賀人形の小川家は中里町のこの地にあり、家の前には大きな藤棚がある。昔は、長崎街道を通る諸大名や旅人たちの休憩所となった茶屋である。

Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

長崎街道のフジ  フジ(藤) マメ科フジ属 落葉高木

つるは長く伸び右巻きに巻きつく(ヤマフジは左巻き)。葉は奇数羽状複葉で小葉は5〜9対あり、卵形〜卵状長楕円形。4〜7月、総状花序を出し、紫色〜淡紫色の蝶形花を多数咲かす。豆果は9〜10月に暗褐色に熟する。
長崎街道の東長崎・中里町にあるフジ(小川宅)。長崎と諫早の中間地点にあたり、藤棚茶屋として休憩場所になった。小川宅は古賀人形作りを受け継いでいる。

西大道・元松尾の「みさき道」道塚と「三和町字図」による字の境

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西大道・元松尾の「みさき道」道塚と「三和町字図」による字の境

A 西大道の道塚地点は、岳路みさき道との分岐か

晴海台団地の上を過ぎ、そのまま直進して鮨の市衛門から90m位行き、右手の畑道に入る。桑原氏の畑はここである。この先すぐ道は二手に分れ、ここに道塚が建って「みさき道」は左を指し車道上沿いを行く。一方、右手の道は畑の中をだんだんと下り、いったん晴海台と松尾への車道に出、墓地脇からそのまま住宅の中の小径を蚊焼小学校の正門まで下る。この道は蚊焼大川沿いに岳路へと続いているのである。
岳路海水浴場バス停下に「みさき道」の道塚があることから、岳路に真直ぐ続くこの道の分れを、海沿いを行く「岳路みさき道」の分岐でなかったかと推定したわけである。明治17年信教の自由が認められても、カトリック教会に復帰することに反対して善長から岳路に移住した人は、先祖の墓が善長にあるため、この道を通って墓参したし、八幡社の祭礼も昭和7年頃まで守ったと言われる。

B 字名の「西大道」とはどういう意味か

平凡社「長崎県の地名 日本歴史地名体系43」58頁の「御崎道(みさき道)」の説明によると「正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「野母道」「大道」などするのが(「御書其外書抜」菩提寺文書)、当道に相当する」とある。
「御書其外書抜」をこれ以上調べるすべは知らないが、「大道」は「みさき道」に関係してつけられた字名と思われる。ただ、この「西」「東」は、みさき道の「大道」が西回りと東回りとあると考えられかも知れないが、そうではないようである。三和町の三村(蚊焼・為石・川原)では、広い字は便宜的に二つに割っていることが多く、字の方角で例えば「東」「南」とかも出て来る。一番多いのはやはり「東」「西」である。深く考える必要はないようである。
平山台上タンク地点からこの道塚まで字名は、「東国安」「赤道」「東下り道」「東大道」「西大道」となる。すべて道に関係してつけられたと思うが、「東下り道」は開成学園前の晴海台側斜面である。「みさき道」がここから下ったという意味でないようである。今は埋立て晴海台団地となった谷間へ下る道があった意であろうと思う。
土井首村のダイヤランドから鹿尾川の渡り場まで、同じように字「古道」「大道」がある。団地が開発されると従来の字名や境が変わる。今のうちにこういった資料は調査しておく必要がある。思えば「みさき道」のルート探しは、ダイヤランド・鶴見台・平山台・晴海台と団地巡りの感じがする。

C 字の境はどうして決められたか

ただ関心するのは、この先秋葉山側の三和史談会が設置した「みさき道」看板のある長阪入口まで、このあたりは見事に字の境が「みさき道」となっているのである。正保2年国絵図作製のため村境が定められたと先で記したが、村の中の字もこのとき同時にある程度が定められ、その境として主に使用されたのは、やはり当時不動と考えられた街道の道や山の尾根・谷・川でなかったろうか。
従って、時代がさがり道が変っても、今の字境が古道であったことが多い、とも言えるのである。ここで得た教訓は、岳路の道塚判定に生きた。なぜあの場所にあるのか。上の道路の工事で滑ったのでないかと不思議であった。その時はまだ蚊焼村古地図は資料として持たなかったが、字境図を見るとちょうど三つの字境に建っていたのである。この字境が古道であったと推測された。後で蚊焼村古地図と明治地図が手に入り確認すると、そのとおりであった。

D 蚊焼に道塚がなぜ多いのか

「みさき道」の道塚はこの西大道のほか、国道に出る手前、元松尾にもある。蚊焼に現存する道塚は岳路も入れると4本である。このほか蚊焼で道塚があったとされるは、次のとおり8箇所である。
①平山台上タンク地点 ②国道から古茶屋坂登口(桑原組倉庫裏) ③同坂途中の鳥山宅前 ④草積祠先島村宅角 ⑤蚊焼峠推定地点 ⑥妙道尼信女墓付近  蚊焼桑原兄夫婦の記憶談 ⑦平山台の裏口三叉路 ⑧蚊焼上防火水槽付近      中島氏「野母半島みさき道図」説明から
考えられるのは、蚊焼は「みさき道」のちょうど中間地点に当り、深堀と平山方面から両方の道が交錯していること、そして先も徳道回りか岳路回りか、詳しい地図などなかったためと思われる。このあたりは都市化が及ばない山間部であり、船で長崎から蚊焼へ石を運びやすかったこともあるかも知れない。蚊焼を主に調べた結果のため数が目立つが、他の地区でも聞けば出てくるであろう。
蚊焼は、深堀菩提寺の末寺地蔵庵が古くからあり、明治13年寺として独立。地蔵も多い。

晴海台団地上あたりの「みさき道」と「蚊焼村彩色絵図」

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晴海台団地上あたりの「みさき道」と「蚊焼村彩色絵図」

A 晴海台団地の上あたりは、街道がそのまま車道となったといわれるが本当か

一部区間を除いてほぼ間違いない。このあたりは高島が正面に見え海の景色がよい。昔の街道の雰囲気を残す。県立図書館に佐賀藩が作成した各村の古地図があったが、蚊焼村はなかった。あるとき三和公民館ホールの民俗資料コーナーを覗いていたら、展示ケースの中に肝心な地図を見つけた。萬延元年(1860)「彼杵郡深堀蚊焼村彩色絵図」である。複写ものかA3サイズの小さな地図である。原図はどこにあるかわからない。当時の村の様子と道がわかる貴重な地図である。大籠の村境から「みさき道」をなぞると、岳路上の高浜・河原村境までほとんどそのとおりである。この地図は蚊焼茶屋と蚊焼峠の判断にも役立った。

B 県養護学校のところに道塚があったのは本当か

ここは平山方面から蚊焼を結ぶ最短路で小径があったが、街道でなかったようである。このため養護学校のところに道塚が建っていたことは考えられる。ここにあった道塚は、西大道に畑を持つ蚊焼の桑原氏が自分の畑に持っていき、西大道にあった道塚とともに畑の蓋石としていたところ、20年前頃、三和町の関係者によって発見された。西大道にあった道塚は元の場所に戻し、この養護学校の1本は三和公民館に運び展示していたが、平成15年6月三和農水産物加工品販売所「みさき駅さんわ」が公民館前にオープンしたため、12月に説明板をつけてこの入口に屋外展示されることとなった。

C 県養護学校の分岐は、どんな道だったか

道塚はさておきこの小径の道は、長いこと課題を与えた。平山から来ると片田医院から右手へ平山台上タンク地点に登るのが街道である。養護学校は左手上に見えるのになぜ遠回りをするのか。三角形に例えると右辺へ行かず底辺が近道である。実際に平山天満神社の裏手から平山台上グランド右の林を通り谷を上がると開成学園のグランドの左下にでて養護学校正門のカーブ地点に出るのである。団地内は道が喪失しているが、開成学園の敷地内は許可を得て道跡を確認した。立派な道跡があった。
解決したのは、関寛斎の帰路の記述である。蚊焼茶屋から長崎道分れは半里ばかり。ここは茶屋の位置が遠くなっても1.5kmしかない。そして八幡山峠とする新田神社は見えない。明治地図を手に入れるとやはり小径でしかなかった。しかし蚊焼の人が平山を通って長崎方面に行くのによく使われた街道並みの道でなかったろうか。

小さな石の桁橋  烽火山番所谷と蚊焼松尾橋

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小さな石の桁橋  烽火山番所谷と蚊焼松尾橋

石橋には、アーチ型に石組みしたアーチ石橋と、数本の石柱をただ横にして渡した桁橋というのがある。石橋に関するHPを見ると、この石の桁橋にも関心を持って訪ね歩いている方がいる。調査の対象となるのは、もっぱら長大な橋であろう。
ここに紹介する桁橋は、恥ずかしいほどの小橋。路地裏探検のラビリンスの部類となるが、少し記しておきたい。

烽火山番所谷にある小さな小橋は、長崎街道歩きの江越先生が今年春、見つけられた。烽火山ののろし台が廃止されてから、永年歩かれていない番所道を「長崎市史」の記録から探し出し、その折にこの谷の小沢に石橋が架かっていることがわかった(橋画像は青田氏から)。
後の蜀山人、長崎奉行所支配勘定役大田南畝も烽火山に登って漢詩を詠んでいる。別項のとおり山頂に「南畝石」があった。この番所道を歩いたのだろう。
話を聞いたときアーチ型の小橋かと思ったが、桁橋だったから少し残念に思った。同じような小橋は、城の古址道を健山との鞍部近くまで来て山腹の竹林に入ったとき、もう1つを見る。こういった石まで運んで道を造っていることは、由緒ある道だった証拠でないだろうか。

前の三和町、蚊焼町松尾にある「松尾橋」は、町中にあるそれこそ今風コンクリートの小橋。近所だから気にとめていた。橋に似合わず、大きな銘柱をつけていた。
写真を撮りに行き、よく見た。銘柱の寸法は25cm角、高さ70cm。橋から少し下に立ち、刻面は4面。「松尾橋」が2面、後は「第五支部」「昭和六年七月」とある。橋は巾2m、長さ1.9m。
国土地理院明治34年旧版地図を見ると、ここは往時の「みさき道」から分かれ、蚊焼の浜へ下る里道となっていた。橋、銘柱ともコンクリート製。石橋と言えないが、古い時代を偲ばせ、もの珍しい橋と感じた。 

長崎大水害で流失した茂木街道の柳山石橋  長崎市茂木町

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長崎大水害で流失した茂木街道の柳山石橋  長崎市茂木町

強固な橋とは言いながら昭和57年の長崎大水害で流失・破損したものが多い。そして災害復旧の際に、防災の観点や修復費用の問題から修復されることなく消えていった石橋もあった。先人が残した郷土の財産である石橋。せめて関心だけでも持っていただければと思う。
「長崎県の石橋を訪ねて」HP氏の言だが、こんな運命をたどった石橋がかつて茂木町の若菜川上流に架かっていた。江戸時代の茂木街道の道筋にあった。

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」資料の説明は次のとおり。流失前写真も同資料から(カラーを取り寄せ中)。
・柳山石橋跡
若菜川に沿い辻を通り柳山、転石、田上を経て長崎に通じる石畳みの旧道があり、明和6年(1769)江波市左衛門温石の石畳を敷きつめ、その後安政5年(1858)長崎出来鍛冶屋町竹内億助、東築町蒲池喜兵衛の両名私費で浄善田の石橋を架け交通の便をはかる。
昭和47年6月 市指定有形文化財に指定  昭和57年7月 長崎大水害で流失

また、長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)第四集」平成7年刊56頁は次のとおり。
※柳山石橋(長崎市茂木町浄善田に所在した)
寛永十一年(一六三四)の長崎の眼鏡橋に始まる石橋には、近郊の石工や人夫多数が参加したと思われるが、彼等は見聞や経験を通じてアーチの理論を体得し、正規の切石ではなく、野石またはそれに近い自然石を巧みに積んで、アーチ橋を架けた。この柳山石橋もその一つで、安政五年(一八五六)六月、長崎の商人竹内億助、蒲池喜兵衛の両名が私費をもって架けた。
億助は天保十三年(一八四二)米百俵の施与を賞され、苗字を許されており、寛永二年(一八四九)には同じく私費をもって日見街道に石を敷き、旅人の難渋を救った。この橋はいた状の緑石麻岩を用い、川幅十一米に架かる。径間九・六米という。この種石橋の中では最大の誠に立派なものであった。(『昭和五十七年の長崎大水害で流失してしまった』)

なお、最後の絵葉書古写真は、長崎大学附属図書館が所蔵する幕末・明治期写真のタイトル「茂木道(1)」。次のとおり説明を「柳山付近と思われる」としているが、石橋でない。
背景の山の形も違い、これは柳山付近でなく、新道(旧県道)の河平川沿いの風景ではないだろうか。
茂木道(1) 写真説明
長崎から茂木に向かう江戸期からの街道。正覚寺下から八剣神社前を経て田上に至り、さらに転石、柳山を経て茂木港に達する。写真は田上から下り終えた柳山付近と思われる。道端には馬が草を食んでいる。道路は明治18(1885)年に新道(旧県道)として整備された。

茂木の旧県道に残る河平橋  長崎市茂木町

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茂木の旧県道に残る河平橋  長崎市茂木町

田上から茂木に下る現在の国道324号線の左谷間に河平川が流れる。旧県道は転石から左に入り、ホテル古都下を右にこの谷間を下って黒橋へ出た。明治18年(1885)人力車・馬車道として開通した。石橋はほぼこの中間地点、河平バス停手前のあの大カーブ沢の下流に架かる。

江戸時代の茂木街道にあった柳山橋が、昭和57年大水害により流失した(別項あり)後、河平橋は茂木に残る唯一のアーチ石橋となった。
石橋の写真は上のとおり。「河平橋」と「かわひらはし」と刻んだ橋の銘柱2本がある。橋上の縁石に横倒しされて利用されている石に「明治四十一年九月架」とあった。
最後のは、現代のコンクリート製アーチ橋。国道の道は昭和9年開通。黒橋手前の国道坂道で下から見える。

茂木旧県道の道しるべ  長崎市茂木町

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茂木旧県道の道しるべ  長崎市茂木町

田上から茂木へ国道324号線を下ると、ガソリンスタンドのある黒橋バス停のやや手前の右脇に立つ。花が供えられ、屋根の形から供養塔とも思われる。刻んである字句が読めれば、何の石碑かわかるのだが、どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)」にも紹介がない。

さるく博用により、もぎ歴史懇談会が作った「茂木の名所旧跡」の説明は次のとおり。「道しるべ(旧県道)」としているので、そのまま紹介する。旧県道とは下手の河平川に沿った道で、明治18年(1885)人力車・馬車道として開通した。
会の代表、宮本酒店の宮本氏に尋ねたが、石碑のこれ以上のことはかわからない。

道しるべ(旧県道)

旧県道開通時に建てられたと思われる。前は現在地の下の段にあったと云われ交通の安全祈願と思われる。