月別アーカイブ: 2007年12月

大崎にあった大ツバキ  長崎市大崎町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

大崎にあった大ツバキ  長崎市大崎町

平成7年12月発行の長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第4集」は、長崎市茂木地区が載せられている。この中に49頁「大崎町」の紹介で、
「町内には、市立南小・中学校があり、市天然記念物のツバキは樹齢250年以上で、ツバキとしては極限に近い状況である」とあり、茂木地区公民館「茂木 ミニガイド」の地図でも大崎にツバキのイラストを描いていた。

大崎に行ってツバキの木を聞いてみた。県道脇の「大崎枇杷集出荷所」建物先の角から左へまっすぐに坂道を浜の方へ下る。80mほど下ると竹林の中に枯れた幹のみ残っていた。
幹回り1.2m位、高さ5m位のところで折れて、腐りかけた幹だけ立っていた。近所の人の話では、5〜6年前に枯れたらしい。

中里虚空蔵山と大山尾根の藩境塚を見る  平成19年12月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

中里虚空蔵山と大山尾根の藩境塚を見る  平成19年12月

平成19年12月9日(日)晴。参加11人。多良見から畦別当まで近郊の山の尾根縦走。コースは、喜々津ー中里虚空蔵山(標高295.6m)ー四角山林道ー大山尾根ー大山(標高424.2m)ー猪見岳分れー畦別当。
9時03分シーサイドライナー発。喜々津駅から囲トンネル上の正法寺脇から山道と林道を辿り虚空蔵山神社のある山頂へ11時着。また20分ほど歩いて虚空蔵山公園の展望台に着く。四角山林道終点で昼食。

いよいよ大山尾根にかかる。ここは諌早領大草村と大村領伊木力村の藩境。文久2年(1861)「郷村記」には次のとおり記している。本日の目的は、この史跡の塚見学。三方境とは当時天領だった古賀村を指す。
「同岩首最合塚より三方境折木最合塚まで八町四拾間(944.8m)、此間峰尾境にて境塚 塚数四拾三、内二ッ最合塚 あり
塚上立石 高廿四尺廻り五尺 あり、左右山なり、諌早領との境此處にて終る」

写真のとおり見事な藩境塚が多数残り、立石もある(この塚のことは別項により報告済み)。地元をはじめほとんどの人に知られていないが、参加者は納得してくれたものと思う。
畦別当に下り流合橋バス停まで歩いた。石橋2つを見た。写真の橋は畦別当4号橋。

茂木のマキの木  長崎市茂木町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

茂木のマキの木  長崎市茂木町

長崎市茂木町の若菜橋近く茂木郵便局の裏手にある。おおよそ幹回り1.8m、樹高13m位。巨樹ではないが、茂木の町中にある名木となっているようだ。
もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」資料による説明は次のとおり。樹齢の推定のため、資料にあるマキをお手植えした「閑院宮織仁殿下」を調べてみた。出典フリー百科事典『ウイキベディア』でははっきりしない。
「織仁親王」は「有栖川宮」で6代目。宝暦4年生れ〜文政3年没。「閑院宮」の6代目となると「戴仁親王」。明治5年継承〜昭和20年没。茂木の資料に名前の間違いがあると思われる。懇談会で調べてほしい。
マ キ の 木

昔の造り酒屋、湊屋の跡で閑院宮織仁殿下の御手植えのマキの木で郵便局の裏手にある。

なお、この資料には記していないが、長崎大学附属図書館が所蔵する幕末・明治期古写真にマキの木が写っているようなので掲載してみる。左端の木か?。撮影時期は明治中期となっている。同じような写真が茂木若菜川河口(1)にもある。

茂 木(1)   写真説明

若菜川口。橋は若菜橋。川の左奥の大きな建物は茂木役場、中央の船は当時小回し(近距離)用の荷船であり、「イサバ船」と呼ばれた。

旧唐人屋敷内天后堂塀の「福建地堺」と地番標石  長崎市館内町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

旧唐人屋敷内天后堂塀の「福建地堺」と地番標石  長崎市館内町

この標石のことは、ブログ”パソ親父の「長崎さるく」珍道中&長崎情報”の2007.5.19記事「ラビリンスの謎〜長崎路地裏探検〜」に出ていたので訪ねた。
場所は長崎市館内町の旧唐人屋敷内。一番上の方に赤レンガ塀に囲まれた「天后堂」がある。正門から左へ回り、背後の小さい路地に入ると、その角に赤レンガ塀に埋め込まれてある。「福建地堺」と大きな石柱に刻まれ、根元には「壹號」と小さな地番標が別にあった。近くには家にくいこんだ大クスが残っていた。

長崎市指定史跡「天后堂」の説明板は次のとおり。標石の設置年代はこれから推測するしかない。「壹號」の地番標は天后堂前にもあった。旧唐人屋敷内を回ったが、他に森橋などで「境」と刻まれたような小さな標石を2〜3本見た。
先項により東山手・南山手町の外国人居留地跡標石を紹介している。唐人居留地の関係標石も大切なため記録しておく。
なお、稲佐国際墓地でも「福建墳?地界」と刻んだ標石を後日見つけた。

市指定史跡  旧唐人屋敷内 天后堂(てんごどう)
指定年月日 昭和49年10月15日  所在地 長崎市館内町12番地  所有者 長崎市

唐人屋敷は、徳川幕府が鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の居住区であり、元禄2年(1689)に完成しました。この天后堂の建立は、元文元年(1736)南京地方の人々が航海安全を祈願し天后聖母を祀ったのが起源といわれます。寛政2年(1790)修復、明治39年(1906)に改築し、現在に至っています。
長崎市教育委員会 (平成14年1月建)

長崎と港の夜景  (1)  

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎と港の夜景  (1)

平成19年12月6日の夜景。長崎外環状線、高台の川上町長崎霊園から写す。松ヶ枝埠頭に大型客船サファイアプリンセスが接岸している。ズームは中央部に長崎水辺の森公園の青い街灯が写っている。
後の写真3枚は、12月8日、同地からの昼景。曇天でさえないため、最後に8月15日撮影を追加した。

北浦大山祇神社のヤマモモ  長崎市北浦町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

北浦大山祇神社のヤマモモ  長崎市北浦町

長崎市北浦町木場の大山祇神社にある。現地は若菜川の中流域となり、茂木の黒橋から入るか、三景台から早坂町の谷へ下る道を行く。神社にはヤマモモとともにクスノキの大木があった。
もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」などの資料によると、神社の創建は寛永3年(1626)。境内後方の山林尾根上に昭和49年、弥生中期の竪穴式直径10m円墳が発見され「元木場古墳」という。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。北浦町を「矢上」とされているが、地区は「茂木」となるので修正した。

長崎市茂木のヤマモモ

茂木・北浦町の大山祇神社にある。石段を登りきった左手にある。幹は洞になっている。幹の上部で折れていて、そこから多くの枝が伸びている。幹周りおよそ4.5m。

長崎街道のクスノキ(二世)  東彼杵郡東彼杵町菅牟田郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎街道のクスノキ(二世)  東彼杵郡東彼杵町菅牟田郷

東彼杵から国道34号線を嬉野の方へ向い約5分、高速道のガード下を通りしばらくすると大畑小学校へ下る右分岐がある。クスノキは学校前の車道のもう一段下側の車道に入口があるので、下って回りこむ。
この下側の道が長崎街道。東彼杵の町から続き車道としても整備されており、この道をたどってもこの場所に来られる。帰りの大村湾夕暮れ空にジェット機が上昇した。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。樹齢3500年以上の大楠だったとは?。シーボルトが描かせた画も転載した。今ある木はその二世である。

クスノキ二世

東彼杵町ニの瀬にあるクスノキ。以前は樹高23.6m、幹周り16.3mで、樹齢3500年以上の巨木であった。長崎街道にあり、1826年(文政9年)シーボルトがその姿を描かせている。明治27年頃、樟脳の原料として切り倒され、小学校建設の費用に当てられたらしい。現在のクスノキはその二世である。大楠小学校の近くにある。
最下部の画は、シーボルトが描かせた大楠。〜「シーボルト(日本)雄松堂より」〜。
幹が空洞になっており、畳八枚ほどの広さだったらしい。

彼杵小学校のエノキ  東彼杵郡東彼杵町蔵本郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

彼杵小学校のエノキ  東彼杵郡東彼杵町蔵本郷

東彼杵町の町中に入るとすぐ国道に横断歩道橋があり、この左手に彼杵小学校がある。エノキは学校の体育館裏にあるので、学校正門前を車道は右へ行ってフェンス越しに木を見られる。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

エノキの巨木

東彼杵町の彼杵小学校内にある。幹周り4.8m。目通りの高さにある枝は切断されていて、中は洞ができている。エノキの周辺はセメントで囲まれて保護されている。
小学校に隣接して彼杵(そのぎ)神社があり、彼杵宿本跡がある。近くを長崎街道が通っていて、このあたりが、長崎街道と平戸街道との分岐点になる。
近くの港には、二十六聖人乗船場跡がある。キリシタン禁止令によって捕えられた二十六聖人は、京都から護送されて、長崎街道を経てここに到着。ここから乗船して長崎に向い、西坂の丘で処刑された。二十六聖人も、このエノキを眺めたのだろう。

平戸街道川棚往還の大タブノキ  東彼杵郡川棚町百津郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

平戸街道川棚往還の大タブノキ  東彼杵郡川棚町百津郷

国道205号線が川棚町に入ったすぐに、JR大村線の鉄道をはさんで左手にこのタブの木が見える。川棚警察署手前の踏切を渡るが、細い道の踏切なので車は川棚駅前近くまで行き、城山交差点から海岸の広い埋立道路へ迂回して行った方がよい。
タブノキのあるところは、平戸街道の道筋である。住家の横の木の根元に川棚町教育委員会が建てた「平戸街道はここから北上し、根元に泉が湧いて旅人は憩いの緑陰に供した」との石碑があった。幹が大きく分かれている状況は、根元に葉が茂って写せなかった。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

川棚町のタブノキ

東彼杵町から川棚町に入った直後の国道205号線近くにある。国道から見ることもできる。
地上1mほどから幹が大きく二つに分れている。それぞれの幹周りは、およそ2.5mと3mほどはある。右の幹には洞ができている。地上4mほどから幹は切られていて幾つかの枝が伸びている。
幹には切られた跡がいっぱい残っていて、材木や薪として役だってきたことが想像され、「頑張ってきたんですね」と声をかけたくなる。
国道205号線は平戸街道と言われ、長崎街道の分岐点(東彼杵町)から平戸に至る街道である。昔、平戸に向う旅人は、このタブの下で休憩をとったと記されている。

川棚のモッコクとニワウルシ  東彼杵郡川棚町の街路樹

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

川棚のモッコクとニワウルシ  東彼杵郡川棚町の街路樹

モッコクの街路樹は、川棚町役場先の川棚小学校前通り。ニワウルシは川棚駅前から国道がすぐ川棚橋を渡るので、この川沿いの護岸にある。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)の説明は次のとおり。

川棚町の街路樹(一部の抜粋)

川棚町で街路樹として目立つのは、国道沿いのユリノキである。その他、川棚駅から町役場に至るクスノキの街路樹がある。
川棚小学校沿いには「川棚町の木」である モッコクの街路樹がある。道路の中央分離帯のモッコクはあるが、街路樹として植えられているのは、長崎では川棚町だけではないだろうか? 他に、まだ見たことがない。
また、川棚川沿いの一部には ニワウルシの街路樹がある。護岸の内側から伸びていて目をひく。

モッコクの街路樹
川棚小学校前にある。撮影は10月。赤い実が鮮やか。

ニワウルシ(庭漆)
ニガキ科ニワウルシ属 落葉高木 雌雄異株。葉は大形で奇数羽状複葉で互生する。小葉は6〜12対で、8〜10cmの長卵形〜卵状披針形で先は鋭く尖る。小葉の下部に鈍い鋸歯が1〜2対ある。6月頃、枝先に円錐花序をだし緑白色の小さな花を多数咲かす。果実(翼果)は秋に熟し、褐色になって散る。
1875年(明治8年)に渡来し各地に植えられている。シンジュとも言う。ウルシ科ではないので「漆」は採れない。葉はちぎると臭気がある。ひどく臭い!
写真は川棚町の川沿いのニワウルシの街路樹。翼果は6月初旬。川棚町・商工企画課によると、昔はこのあたりがメインストリートで、魚屋などいろいろな商店が並んでいたとのこと。日差しを避けるため、明治初期頃に植えられたらしい。