月別アーカイブ: 2007年9月

岩屋神社のスギ群  長崎市岩屋町

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岩屋神社のスギ群  長崎市岩屋町

長崎市岩屋町の岩屋神社境内にある。現地説明板は次のとおり。

市指定天然記念物  岩屋神社のスギ群  指定年月日 昭和46年3月15日

スギは、本州・四国・九州の主として太平洋側に分布する日本特産の針葉樹である。
最も普通に植林される木で、神社や寺院の境内にも多く植えられている。ここの境内のスギ群も、江戸時代の岩屋山神宮寺の頃に植えられたものと思われる。
胸高幹囲1.5メートル以上のものが18本あるが、最大のものは幹囲5.4メートルで、樹齢は300年以上。他の17本も樹齢130年をこえる。
湿気のある谷間という敵地のため、樹勢は旺盛である。
長崎市教育委員会 (62.12設置)

時津の奇岩 「鯖くさらかし岩」を近くで見る

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時津の奇岩 「鯖くさらかし岩」を近くで見る

西彼杵郡時津町の継石バス停西方上にある大岩。国道206号線が通り交通量が多い。「こけし人形」の形をしており、今にも頭が落ちそうで落ちない。魚売りが通るに通れず魚を腐らせた伝説がある。バス停の名前となった「継石坊主」とも言う。国道の歩道にある現地説明板は次のとおり。
継石坊主(鯖くさらかし岩)
雲の流れ、陽の光によって面相が変わる。徳川時代、一世の狂歌師として有名な蜀山人大田南畝(長崎奉行所支配勘定方)が長崎在勤中の文化二年(西暦1805年)時津に遊びこの奇岩を眺めて「岩角にたちぬる石をみつゝおれば になえる魚もさはくちぬべし」と歌ったので一躍名高くなった。
平成13年12月28日記念物(名勝)として町文化財に指定。時津町教育委員会

ところで、上下2つの岩の接合部はほんとうに大丈夫なのか。岩のところに登って写真を撮ってみた。フェンスが張られもちろん岩自体には登れない。近くで撮影した。
この岩の補強と地学上のことは、布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊120〜122頁に次のとおり詳しい解説がある。

…以前、上の岩はわずか三つの接点でささえられているだけで、裏側から上下の岩のあいだをのぞきこむと、むこう側がみえていた。つよい地震が起これば、ほんとうに落ちる危険性があったし、風化と浸食がすすみ、不安定になるおそれがあった。そのため、一九九六年から翌年にかけて補強工事がほどこされ、つぎ目に石と接着剤のようなものがつめられ、すきまは完全にふさがれた。
この岩は、全体が長崎火山岩類の角閃石安山岩質の凝灰角礫岩でできており、まわりより浸食につよい部分が石柱となってとりのこされたものである。岩石は変質して緑色になっており、変質のない岩石よりも、風化しやすくなっている。岩のつぎ目は、もともと地層面にそった割れ目か断層面だったと考えられる。こうした、つぎ目のある岩の柱は、穴弘法の霊泉寺境内にもあって、上にのっている岩は原子爆弾の爆風によってずれた状態がいまもそのままのこっている。
(穴弘法の岩の写真は、「被爆した岩や石など」で別項とする)

なお、藤野保編「大村郷村記」第四巻153頁の時津村「継石之事」の記述は次のとおり。
長崎往還路傍西の方継石といふ所にあり、俗に是を鯖腐石と云、曾て鯖といふ魚を荷て通りけるに、石の危く落ん事を畏れ居る内、鯖の腐りけれは夫を名とすと云傳ふ、下の石高サ拾壱間、横弐間半、上の石高サ三間、横弐間、此石往還より観望するに形ち重卵の如く、其危さ直に途上に顛倒せんとする状態にて實に奇岩也

金比羅山琴平神社の狛犬

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金比羅山琴平神社の狛犬

金刀比羅神社の三ノ鳥居から右手の崖上の道へ入る。「長崎金星観測碑」の方へ行く道となるが、三本足石燈籠のあるところを通ると奥に小さな琴平神社がある。ここの狛犬は新しい年代の寄進物だが秀逸で、姿態を再掲してみる。
岩永弘著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊2頁による説明は次のとおり。

6)琴平神社 木立の中の道途中に、三井物産が明治13年(1885)勧進した琴平神社があり、当時の盛会の様子を刻した銅版が立ててあります。社前の剽軽な狛犬は珍奇です。奉納した人にどんな気持ちがあったのでしょう。

金比羅神社の参道石と上宮道標石

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金比羅神社の参道石と上宮道標石

立山から金比羅神社に登る緩やかな参道坂道の左手に古い石柱をいくつか見る。これは「五間」とか寄進者の町名や名前が標されており、よくある参道石の寄進碑である。
三ノ鳥居から神社社殿を過ぎると、その裏となるが凧揚げ広場へ行く広い木立の中の道に1本の標石がぽつんと立っている。「従是上宮道」。人はあまり気にとめない。前に別項で載せていたが、字の写りが悪かったので撮り直した。

城の古址  夫婦川町・片渕2丁目(春徳寺背後の山)

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城の古址  夫婦川町・片渕2丁目(春徳寺背後の山)

長崎市夫婦川町の春徳寺背後の山。現在近くに長崎市立片渕中学校の城を模した校舎が建てられており、西山ダムから車道が学校裏のすぐ山頂近くまで入る。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊18頁による説明は次のとおり。

城の古址は唐渡山・舞山・鶴城などの名で呼ばれ、昔、長崎の領主、長崎小太郎重綱の城砦があった所である。小高い丘は岩肌むきだしの岩盤があり、龍頭巌と言われている。町より直ぐなので近郊の人はよく散策していたようである。

承応年間(1652〜55)に城の古址観音堂が創設されたもので”即非禅師の座禅石”とも呼ばれた。
石室に正面「大園通黄檗隠元書」左面「南無観世音菩薩即非書」右面「園通萬畳山即非書」

ここより若干登った林の中にドルメンではないかと考えられる巨石が残っている。

”龍頭巌の伝説”
(イ)1600年代、朱印船の貿易ならびに長崎の代官として権威を奮った末次家が、先祖の墓造成のため岩を削り取ろうとしたところ、鮮血がほとばしりでたので祟りを恐れて直ちに中止した。
(ロ)笛の上手な娘と美青年武士との恋物語。武士は蛇の化身で幻と消えた。岩を叩くと「たんたん竹女の音がする」といわれた。

十三仏  立山2丁目(永昌寺墓地上)

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十三仏  立山2丁目(永昌寺墓地上)

長崎市立山2丁目にある。長崎歴史文化博物館前の道から左に入った永昌寺の墓地上になるが、ホテル長崎の立山バス停から老人ホーム”プレジールの丘”前を行き、「望呉山碑」のある所から坂段を下った方がわかりやすく近い。
台座の建立銘板によると、昭和11年6月、松本亥之吉ら3人が発起者、大師講会寄付金などで建立している。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊50頁による説明は次のとおり。

県立美術館の上隣はユースホステルで、此の前の道は2つに分かれ、右の坂は車も通るが左の坂は人道となっている。此の人道を登って行くと、左側斜面一帯は永昌寺の墓地である。急な坂段を180段程登り、左に折れて上の森を目指し、100段程登りつめると岩盤地帯となり、此処に不動明王と12体の石仏像が並んでいる。十三仏の先隣に、長崎四国第19番霊場の立江地蔵堂があり、延命地蔵菩薩が祀られている。
岩盤上の平地に、釈迦牟尼仏を中心として8体の石仏がとり囲んでいる。

川平金山の坑口と金湯鉱泉の跡  三ッ山町六枚板

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川平金山の坑口と金湯鉱泉の跡  三ッ山町六枚板

福田網場脇の観音崎「金水温泉」跡は、別項ですでに紹介している。三ッ山町の六枚板にも”金湯”という冷泉の湯治場があった。斉藤茂吉が訪れている。
長崎市立博物館平成17年3月19日「長崎学史跡めぐり(6) 西山街道を行く(2)」の資料による説明は次のとおり。

8 六枚板
六枚板という地名は、大きな榎があり、合戦のときその木から楯用として6尺の板が6枚取れたことから地名になったという。この六枚板では、以前に金鉱の採掘が行われていた。「郷村記」には、元禄6年(1693)に、浦上村淵掛の庄屋志賀藤右衛門が、その試掘を許可されたことが記述されているが、この志賀藤右衛門は、それ以前からも西城山のほうで金鉱の採掘を行っていたらしく、その場所は現在の金堀町という。
この金鉱にちなんでか、六枚板には”金湯”と呼ばれる冷泉があり、皮膚病や火傷などに効果があるといって、湯治客も多かったそうだ。斉藤茂吉(1882〜1953)も、長崎滞在中の大正9年(1920)の10月11日から15日まで、ここで療養している。
そのときのことは、「浦上の奥に来にけりはざまより流れ来る川をあはれに思ひて」「日もすがら朽葉の香する湯をあみて心しずめむ自らのため」などと詠んでいる。また茂吉は、この六枚板での療養中、昼間は教会やキリスト教徒の人たちの部落を訪れている。「かかる墓もあわれなり『ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳』」「小さなる御堂にのぼり散在する信者の家をみつつゐたり」などは、その時のことを詠んだのであろう。

斉藤茂吉は長崎医学専門学校(長大医学部の前身)の教授。単身赴任の不便な生活のため、同年9月感冒にかかり、これに端を発した胸部疾患の養生に、この年の10月末まで自宅療養から雲仙、古湯、更に嬉野へと転地している。
長崎の生活は決して順風満帆と言えなかったが、草かげろうに己を比す茂吉に生の意欲をかき立てたろう湯治となった、と書かれている(新訂「長崎の文学」平成3年刊第三刷146頁)。

川平金山については、布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊146頁に次のとおりある。
長崎市内に金山のあとがある。場所は川平の周辺で、東西二キロメートルほどの範囲に、金をふくむ鉱脈が十数条あって、それぞれ東西方向に走っていた。これから総称して「川平金山」とよび、明治のおわりごろには、地元に精錬所がもうけられていたという。鉱石一トンあたり、最高では、金が六百八十七グラム、銀が三百五十五グラム含まれ、品位(有用成分の含有量)がたいへんたかかった。…

さて、この川平金山の坑口と金湯鉱泉の湯治場はどこにあったのだろうか。地元で聞いて調べてみた。結果は上の地図と写真のとおり。地元でもあまり知らないことなのでまとめて紹介してみる。

布袋氏著地図にない掘りかけて止めた坑口跡が六枚板公園から兵底に上る古道右脇にあと1つあった。ここは「長崎県の山歩き 新版」94頁に記述と写真はある。南山グランドから下ると近く100mほどのところ。道脇の水路をたどるとすぐ坑口跡に着く。

六枚板公民館の下側付近となる坑口跡は、大水害により埋没し、全然わからなくなっている。ここに精錬所が設けられていたようで、戦後もガラの山から大きな水晶が拾えたらしい。
鉱泉の湯治場は、坑道に沿った今公民館上近くにあった。戦後も廃家が残っていたと記憶している人がいる。竹林の下の小沢から鉱泉が湧いて湯治場ができていたらしい。
石垣が残り、隣の畑の溝蓋に建物跡の煉瓦片が使われている。近くは最近地すべりがあり、古い風呂タイル・皿の片、湯呑、薬の小ビンが出土したのを近くの家の人から見せてもらった。

犬継側の坑口跡は、教会先からバイパスの上に架かった新平床橋を渡り400m位行ったところ。ここを字名か「小谷」と呼ぶ。川脇の大工小屋の対岸の崖面にある。横1m、高さ2m位だったと思われる完全な坑道が残っているようである。パイプを川に渡し、水を汲めるようにして、近隣の有名な水汲み場となっていた。

なお、永井隆博士の「長崎の鐘」に次のような記述があるのが、インターネット「六枚板」検索画面で出てくる。この項は後日、調べてから紹介したい。
「即ち六枚板鉱泉浴をした者は、しない者よりも平均二週間早く癒った。この鉱泉浴は外傷にも有効で、私自身も主としてこの泉の恩恵に浴した。まことに鉱泉こそは天然に与えられた薬局である」
「三ツ山救護所」の記録は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/286

兵底の古墓  長崎市三川町  

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兵底の古墓  長崎市三川町

長崎市北部の山、帆場岳と天竺岳の鞍部にある三川町兵底(ひょうそこ)。6軒の集落である。現在、長崎南山高校の総合グランドができている。道端で会った地元山崎さんから「ラグビー・サッカー場上の高台に珍しい古墓がある」との話を聞き行ってみた。

自然石を立てた「勇大神」を祀るところの下の広い草場の斜面に、この古墓の群があった。40基ほどが見事に間隔を置いて林立している。近頃の墓地では見当らない光景である。話では士たちの墓らしい。もう1つの大村藩殿様道がこの脇を通り、帆場岳の山腹を行ったとも聞いた。

林正康著「長崎県の山歩き 新版」葦書房2000年刊の帆場岳の項94〜95頁は次のとおり。
…兵底には現在六軒の家が、平家落人の伝説を守って岩戸大権現を祀っています。平成元年(一九八九)に八百年祭をあげ、お堂を改築しました。
ここはまた、土地の人が”とのさまん道”と呼ぶ道があります。これはかつての長崎村西山口から大村へと続く昔の道で、大村純忠や長崎甚左衛門も通ったのではないかと想像されます。付近には四〇基をこす古い無縁仏の墓石が見られます。
サッカーコートの上部にあるヒノキ林の中を通る”とのさまん道”を登ると、林道に出て道は四つに分かれています。
左から一番目の道は、”とのさまん道”で恵の丘へ続いています。…

醍醐の滝  長崎市三川町

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醍醐の滝  長崎市三川町

長崎市三川町のバス終点から右手の観音橋の方へ行く。先が左右に分かれ、左は兵底の南山高校総合グランドへ、右は醍醐の滝へ通じる。御手水坂奥の小広場まで車は行く。滝一帯は古い歴史のある真言宗醍醐派の霊場。静寂な秘境の趣をなす。
岩永弘著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊99〜101頁による説明は次のとおり。

【三川町の探訪】 (1)醍醐の滝

…右側の材木小屋前を横切り川沿いの白い手摺(平成6年11月改修)に沿って250m上がって行くと案外近く、山道右側に鐘堂と丸い石柱の碑があります。碑には「鎮西最初の道場」側面に「醍醐の滝」そして創立261年昭和6年3月21日建立と刻まれています。因みに此の地は真言宗醍醐派の霊場で、年号から考えると今日までは300数十年の古い歴史があることになります。…

入り口右側に新しい道場と先方にお堂があります。これらの新しい建物については、次のような話があります。昭和57年7月23日の大水害で此処も流出の大被害を受けましたが、数年後、匿名の奇特な人の尽力により再建されたとのことです。お堂は水害後再建されたため、古来の仏像は流出してしまい数体の小さな仏像が祭られています。

お堂の右下が三川川の上流となり、此処に醍醐の滝があります。滝巾凡そ3m、水巾1.5m、滝の高さは6m位。また右側は崖状となり、高さ15mほどのしだれたきとなり落ちています。暫く堂の側に立ち、静寂のなか流れ落ちる水しぶきにふれると、昔からの霊場として宜なるかなの感じがわいてきます。

早坂町の洞穴 ②  茂木新四国八十八ケ所第71番霊場

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早坂町の洞穴 ②  茂木新四国八十八ケ所第71番霊場

長崎市早坂町にある霊場の洞穴。第36番霊場から「奥ノ院十三佛一丁」と岩に刻みがあり、竹林の道を10分ほどさらに行く。第71番霊場のこちらはすごい。北西矢岳を向いた高く大きな岩盤の根元に見事な洞穴があった。岩永氏著には2つしか紹介されてないが、その上にもう1つ大きな穴があった。こんな高い岩場に人は簡単に登って掘れない。3つとも人為の洞穴と一概に考えられないのではなかろうか。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊60頁による説明は次のとおり。

第36番霊場から更に6分山道を上った右前方に巨大な岩盤(推測巾50m、高さ20m)がある。此の根元に隣同士に2つの洞穴がある。此処が第71番霊場で剣五山弥谷寺・千手観音が祀られている。夫れ夫れの洞穴は畳10枚?は敷ける広さである。奥に祀られた高さ60cmの卵形石に「高岩山神社 大正十四年」とある。
洞穴が「鬼の岩屋」と呼ばれているのも正に其の名に相応しい。

☆茂木商工会のパンフレットによると、茂木の八十八ケ所が出来たのは茂木の先達が昭和4年に四国霊場の砂を持ち帰り、古くからあった祠の所に埋めて各霊場としたものだそうである。