月別アーカイブ: 2007年9月

大音寺のクロガネモチ  長崎市鍛冶屋町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

大音寺のクロガネモチ  長崎市鍛冶屋町

長崎市鍛冶屋町の大音寺境内にある。現地説明板は次のとおり。

市指定天然記念物  大音寺のクロガネモチ  指定年月日 昭和50年6月26日
クロガネモチは、亜熱帯、暖帯の沿海地に分布する暖地性の樹木である。長崎近郊の山にも自生は珍しくないが、このクロガネモチも、おそらく自生のものと思われる。
胸高幹囲2.6メートル、樹高15メートルで、クロガネモチとしては極限に近い。
クロガネモチは、雌雄異株の樹木である。この木は雌株であるから、晩秋から冬にかけて、真紅のつぶらな小果で木全体を覆う。
長崎市教育委員会 (62.12設置)

奇縁氷人石  鍛冶屋町清水寺下聖天堂

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

奇縁氷人石  鍛冶屋町清水寺下聖天堂

長崎市鍛冶屋町清水寺境内にある。社務所の入口となり門の入口右側に立つ風流な石。清水寺は堂が現在改築工事中。すぐ上の石段右手には「時雨塚」なる石柱もあった。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊8頁による説明は次のとおり。

門の入り口右側に大正5年に建てられた奇縁氷人石がある。正面に「奇縁氷人石」、右面に「おしゆる方」、左面に「たずねる方」と刻んである。仲人のことを月下氷人というが、この石は良縁の仲人役ということである。掛けた目印(紙札?)で多くの見知らぬ同志が結ばれたことであろう。古き時代のロマンが想像され、長崎年配者の若人を思う心づかいが偲ばれる。

(注 「大正5年に設けられた」とは、長崎市史地誌編清水寺の記録によるようだが、この文意が不明。奇縁氷人石は江戸時代のものとも考えられるという住職の話である。)

(追記 平成20年7月6日)
「奇縁氷人石」については、西の高野山といわれる五島市玉之浦町「大宝寺」境内において、まったく同じものを見た。次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1080

大願王碑  風頭町幣振坂上

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

大願王碑  風頭町幣振坂上

長崎市風頭町にある。寺町墓地から風頭へ上る幣振坂のほとんど上の方となり、上から下るのが近い。港と市街の展望が良い草むらに鳥居形をした碑が建っている。別項愛宕山の大石に刻まれた「大願王」との関係から、ここに特に載せる。
岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年刊48頁の説明は次のとおり。

舗装された道を下って行くと住宅が途切れ、草むら空き地に珍しい鳥居形の碑が立っています。額に「大願王」と刻まれ、「女人講中」享保十四己酉(1729)四月二十五日、右下には銀屋町、左下には磨屋町と読みとれます。また柱には寛政三年辛亥(1791)銀屋町中とあります。
愛宕山の大願王の大石とは形は異なりますが、柱の銀屋町中から推察すると何らかの因縁で町の人たちが奉納したのでしょう。

2−特 大崎林道鹿尾町尾根  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十八号)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

2−特 大崎林道鹿尾町尾根  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十八号)

「長崎要塞地帯略図」の○地点でない線上の地点に、初めて標石が見つかった。平成18年1月24日、会で八郎岳から熊ヶ峰へ縦走した。大山からは古い山道を土井首へ下ることとし、大崎林道に出会った所で林道を少し上り、竹林の道へわざと入った。その途中で偶然見かけた。

この山道は熊ヶ峰の登山路で以前に数回通っているが、下りはほとんど通っていない。標石は左右気をはらい、登り下りと視点を変えると見つかることがある。ここは鹿尾町内の植林地である。下の林道から入ると70歩位歩いたその右道脇となる。
標石は15cm角、高さ82cm。「長崎要塞第三地帯標」「第十八号」とあったが、改刻部分は「2ndZ」となっており、「第二地帯標」が正しいと思われる。ここで発見されたことにより星取山が推定できた。また、佐世保柚木村記録にあったような略図のほか里道のあちこちに標石が建っていたことがうかがえる。標石の改刻利用・設置替えの状況がわかる石である。

2−H 風頭から寺町へ下る石段道路脇  (確認 長崎要塞第二地帯標 第三十五号)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

2−H 風頭から寺町へ下る石段道路脇  (確認 長崎要塞第二地帯標 第三十五号)

この標石は高橋氏が以前の調査で見つけられていた。玉木学園から風頭公園へ行かず、十八銀行研修センターのある所から寺町へ下る。石段道となって50m位下ると、すぐ右道脇の電柱の根元に並ぶようにコンクリートで埋められている。高さは腰ほどで高く、上部は三角に少し欠けている。

「長崎要塞第二地帯標」(刻字は「第三」だが、上部は「2nd」とある。要塞地帯地図から「第二地帯標」と考えられる)「第三十五号」である。
長崎要塞地帯地図は、 https://misakimichi.com/archives/54

高橋氏から位置図をもらい確認に出かけたが、地元の人もすぐ知っていた。この道は地蔵堂があり、丸い石柱は近くの道脇にある道路改修記念碑。昔の街道と思われる。
視覚は山の尾根に遮られ、右は東高、左は鍋冠山しか見えない。写真が新しいのは、高橋氏が最近、標石の掃除をしてくれたためである。

伊王島灯台付近で見た標石

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

伊王島灯台付近で見た標石

平成19年9月9日、長崎港外伊王島に史跡めぐりを兼ねたウォーキングを実施し、伊王島灯台へ行った。灯台入口バス停から灯台までで見た3種の標石。

灯台入口バス停前の四叉路東側角にあった。コンクリート製で損傷し、鉄筋がむき出しになっている。炭鉱のマークがあり、ここは以前、炭鉱住宅があったので、昔の炭鉱会社の敷地境界柱である。

灯台が見えてくる道路の左右道脇にある。「燈臺」しか見えないが、草つきの中にあった石柱には「燈臺敷地」とあった。格式のある標石。伊王島灯台は、慶応2年(1866)に米・英・仏・蘭の4カ国と結ばれた江戸条約によって全国8ケ所に設置された中のひとつ。明治4年(1871)に本点灯した。当時からの標石とも思われる。あと数本同じものが敷地内にあるようだ。
灯台公園の表示板手前には小さな標石があった。これは「伊王島」とあるが、下部は埋設で不明。やはり灯台敷地境界柱でないだろうか。

灯台の突端北方にある石垣の根元に立てかけられている。これは別項「長崎の要塞地帯(区域)標」に詳しく載せた標石。

区—7 伊王島  (確認 長崎要塞区域標? 第十五号)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

区—7 伊王島 (確認 長崎要塞区域標? 第十五号)

略図に描かれてないが、伊王島にも標石があった。高橋氏が昨年春、伊王島に行き、丘町から真鼻の伊王島灯台に行く道路脇に建っているのを見つけている。
標石は「長崎要塞区域標」「第十五号」である。

(注) この標石は、2005年(平成17年)3月15日付け長崎新聞に高橋氏調査「長崎の戦中物語る資料」として記事中、写真が掲載されている。上記文は私がこれに基づき、平成18年4月の研究レポート第2集159頁に報告したもので、私は実際、この標石を見たことがなかった。

平成19年9月9日、機会あって伊王島の史跡めぐりを兼ねたウォーキングを実施した。この標石を確認したところ、伊王島灯台の先端石垣の根元に立てかけられてあった。現在の写真は上のとおりである。
高橋氏によると灯台手前5mほどの右道脇にあったが、海岸側へ落ちそうになっており、自分が運んでここへ移したという。末長く保存しておいてもらいたい。

良くみるとこの標石は、上部は「2ndZ」下部は「第二」の刻みがあり「第二地帯標」となる。「長崎要塞地帯略図」が示しているのは、香焼島の先端栗の浦あたりまでが第二地帯で、伊王島の灯台あたりは第三地帯となり、他例から「長崎要塞区域標」の刻みのある標石が設置されるはずである。標石の刻みにいささか疑問がわく。高橋氏に相談し解明が必要なようだ。

(追 記 2014年4月14日)
1昨年、伊王島灯台を訪ねたとき、この標石は灯台石垣工事のため灯台記念館横の階段のところに移され、放置されていた。長崎市伊王島行政センターへ、もともとの所に建てるよう苦情を言った。本来の場所はわからず、高橋氏の記憶に近い場所として、灯台手前から右下海岸へ下る石段の少し手前、遊歩道右側つつじ植え込みの間に、私が立会い行政センター職員と建立しなおした。それが後ろの3枚の写真。

伊王島史跡めぐりウォーキング

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

伊王島史跡めぐりウォーキング

平成19年9月9日(日)、晴。長崎港外伊王島の史跡めぐりを兼ねたウォーキング。長崎文献社社長など14人参加。
午前10時15分発の船で伊王島に渡り、船着場から沖ノ島天主堂—炭鉱跡ー円通寺—台場跡—俊寛僧都墓—千畳敷—伊王島灯台—小島海水浴場—やすらぎの伊王島と歩く。

ゆっくりと約3時間の行程。温泉入浴後、バーベキュー料理で乾杯。午後5時半大波止ターミナル帰着。

被爆した岩や石など  穴弘法岩・長大医学部裏門・浦上天主堂ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

被爆した岩や石など  穴弘法岩・長大医学部裏門・浦上天主堂ほか

昭和20年8月9日の原爆に被爆した長崎ならではの岩や石造物などの遺構の一部。

江平1丁目の山手にある穴弘法奥の院霊泉寺内の奇岩は、上にのっている岩は原爆の爆風によってずれた状態が今もそのまま残っている(布袋氏著)。陽石ともされる。
坂本1丁目の長崎大学医学部裏門の大きな門柱。当時は長崎医科大学。左の門柱のみ傾いていて、爆風の強さがよくわかる。裏門へは大学病院の道から入る。
本尾町の浦上天主堂の左側、川端の石垣内に惨状をそのまま知るため残されている鐘楼の赤レンガ。聖堂の廃墟の一部は、平和公園原爆中心碑近くに残されている。
坂本2丁目の山王神社の有名な被爆鳥居。片足だけが残っている。境内には被爆クスノキの大きな2本もあり、苗木が各地で育っている。 
最後は長崎要塞地帯(区域)標調査で見かけた浜平1丁目1街区、浜平中央ビル下角にある「陸軍所轄地」標石。上部分が黒く焼けており、原爆の熱線を受けた跡と思われる。

仙人窟  虹が丘町岩屋神社境内

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

仙人窟  虹が丘町岩屋神社境内

岩永弘著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春21頁による説明は次のとおり。

(11)仙人窟
境内先左の苔むした数十段の石段をのぼると、大きく抉られた岩の仙人窟があります。長さ20m、奥行き5mの広い岩窟で、立派な石祠も祀られています。端の壁にいつ頃からか「鬼の足跡」と言われる凹みがあります。

なお、岩屋神社一の鳥居は、岩屋口バス停から道の尾JR線路脇の一方通行道路の中間くらいとなる左側道にある。鳥居は明治12年(1879)の奉納で、「岩屋神社」の額字は、「嵒」(いわ)の上下逆の字体「嵓」(がん)が使われ、脇に聖観音坐像(天明六丙午歳十月吉辰・1786年)がある。いわゆるこの道が岩屋神社の参道口だった。先の方は時代の変遷で道も変化している(同17〜18頁)。