月別アーカイブ: 2007年8月

川原本村海浜の蛇紋岩れき浜

イメージ 1

イメージ 2

川原本村海浜の蛇紋岩れき浜

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊、地質の項13〜15頁「三 蛇紋岩」から

蛇紋岩は超塩基性岩に属するかんらん岩が蛇紋石化してできたものである。脂肪光沢をもった濃緑色の岩石で、三和町では栄上を中心に為石、蚊焼、為石から野母崎町二ノ岳付近へと三和町の中心部一帯に広く分布し、野母崎町井上付近まで広がっている。…
風化の進みはじめた蛇紋岩は水を含むと崩れやすいものであるが、岩石そのものは緑黒色で重厚な感じのする岩石である。磨けば非常に美しく、記念碑などに好んで用いられる。

蛇紋岩地帯の東方にあたる川原本村海浜と宮崎海浜(川原海水浴場)には、蛇紋岩だけからできた「れき浜」が、数百メートル続き、蛇紋岩のみごとな円れき浜をつくっている。特に川原本村の海浜のれきは拳大の円れきがそろっており、自然な状態が良く保存されている。県下でもこれに類するものはない。三和町町民が有する天与の美しい財産のひとつと言って良い。

五家原岳石楠花尾根の地蔵標石

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

五家原岳石楠花尾根の地蔵標石

平成19年8月6日、先輩松林氏から多良五家原岳に珍しい地蔵標石があったと、画像をつけたメールが入った。

8月5日(日)、五家原岳にオオキツネノカミソリを見に行きました。水神の滝の上部の谷は毎年見事な群生が見られますが、今年は時期も遅く台風のあとでしたので、写真に撮ってみると見劣りしました。…仏の辻まで登り、弁当を食べて石楠花尾根の方へ降りてきました。ここに地蔵が2体あります。
「右小江村、左太良嶽、道」とあり、施工者は小江村の左兵ヱとあります。小江から登ってきて、五家原の山腹を横切り、中岳の下に出て金泉寺へ参拝したのでしょうね。

古く珍しい標石の情報は大歓迎である。山歩きの楽しみが増す。8月9日、さっそく水神池から見に行った。明治時代の標石のようだ。私が撮ったオオキツネノカミソリと水神池などの画像を添える。
なお、白木峰「青少年自然の家」の上から五家原岳へ登る車道とこの多良広域林道に入る分岐のところにも「右たらだけ道」の石柱が建っているのを見つけた。

道路元標  長崎県庁前の国道起点

イメージ 1

イメージ 2

道路元標  長崎県庁前の国道起点

長崎市江戸町長崎県庁前の歩道石垣に組み込まれている。国道34号線などの起点の標石。
長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第一集」平成5年刊3頁によると次のとおり。主要道路に水準点は設置されているので、その関連からこの項に載せた。

2 道路元標(江戸町、県庁正門脇)
(正面) 国道起点
(右側) 昭和三十五年七月 長崎県
碑  250×240×490mm

白崎台場跡  大きな石柱2本残る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

白崎台場跡  大きな石柱2本残る

女神から小ヶ倉へ行く海岸沿いの国道に「白崎」バス停がある。小峰商店横から石段を登りつめた所の宅地石垣に「従是南佐嘉領」の藩境石が埋め込まれていることは、知られている。
しかし、長崎港を警備するため平戸藩が幕命を受けて、明暦元年(1655)築いたという「白崎台場」はどこにあったか。長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」や南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書」台場・番所の部を見ても、台場絵図・史料規模などはあるが、具体的な場所がよくわからない。

この台場のことは、昭和53年発行小ヶ倉小創立百周年記念誌「小ヶ倉の歩み」四、ふるさと史料の中にも規模だけ書いてあったので、地元竹内唯夫氏に聞いたところ、場所はバス停小峰商店のすぐ上。古い石垣と竹林の中に大きな石柱が残り、ここではないかと言っていたから、2年ほど前、探しに行って確認したことがあった。
石柱の存在はほとんど人に知られていない。どじょう会の調査もまったく別の場所で記録がない。石柱が何のためのものか判らないが、今回、また行って写真を撮ってきたから、とりあえず紹介してみる。

石柱は石段道のすぐ左道脇。竹林の中の斜面地に落ちたようにして2本転がる。30cm角。かなり大きな石。長い方は3m、短い方は1.2mくらいある。

茂木植物化石層  県指定天然記念物

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

茂木植物化石層  県指定天然記念物

長崎市茂木町。天草フェリー前の長崎市茂木支所庁舎の裏手となる。現地説明板は金網が邪魔し写真の字が読み取れないので、「長崎市の文化財」HPの説明を掲げる。

茂木植物化石層  県指定天然記念物

指定年月日 昭和54年7月27日  所在地 長崎市茂木町字片町 所有者 池山寅一郎
茂木町北浦の白浜海岸に露出する地層である。露頭の下部の、厚さ1.5mの泥岩の層に植物化石を含んでいる。植物化石は31科40属52種が識別されているが、その大部分は双子葉類で、ブナ・イヌザクラ・フウ・ケヤキなどである。この化石から推定されるこの地層の地質時代は、新生代第三紀鮮新世の終りごろ、1000万年前と考えられている。
1879年(明治12年)、スェーデンの探検家ノルデンショルドが長崎に立ち寄った際にこの化石を採集し、本国へ持ち帰った。これを古生物学者ナトホルストが研究し、発表したが、これが日本の新生代植物化石の最初の記録となって国際的にも有名である。

竈神社の大クス  長崎市宮摺町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

竈神社の大クス  長崎市宮摺町

宮摺バス停奥から市民の森へ登る車道に入る。集落上手に竈神社はあり、すぐ大きなクスノキが見える。現地説明板は次のとおり。

市指定天然記念物  竈神社の大クス
指定年月日 昭和48年7月27日  所在地 長崎市宮摺町竈神社境内
所有者 竈神社

日本の樹木のうち、樹齢と樹高ではスギに勝るものはないが、幹囲りと枝張りではクスノキに勝るものはない。
この大クスは、神社創建の寛永3年(1626)当時からあったと伝えられている。樹高およそ25m、地上50cmの幹囲10.50mで、本県屈指のクスの巨樹である。枝張りも雄大で、地上すぐに2本の大支幹を広げ、これが更に4本の幹に分かれる。これらの幹から出た大小の枝は、東西に40m、南北に37mの大樹冠をつくっている。
長崎市教育委員会(平成16年12月設置)

太田尾の大クス  長崎市太田尾町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

太田尾の大クス  長崎市太田尾町

長崎市太田尾町の県道34号野母崎宿線の沿道にある。現地説明板は次のとおり。

市指定天然記念物 太田尾の大クス
指定年月日 昭和53年3月20日  所在地 長崎市太田尾町2112番地
所有者 野口 昭治
クスノキは、暖地に自生する常緑高木で、日本の樹木では最大の幹回りとなる。九州には国の天然記念物に指定された巨木も多い。
このクスノキは、胸高幹囲5.80m、樹高20mで、第一級の巨樹ではないが、地上2mで分かれた3大支幹は更に大小の枝を伸ばし、見事な球状の樹形をつくっている。
もともと狭い雑木林内にあったもので、この木の根元にはツバキ・ハゼノキが、幹にはオオイタビ・カカツガユ・ノキシノブが着生している。
長崎市教育委員会(平成17年1月設置)

岩屋山の風景

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

岩屋山の風景

平成19年8月6日、長崎市北部の岩屋山(標高475m)に行く。小江原林道の終点から約1km。九州自然歩道の急な道を35分ほどゆっくり登った。山頂にあった説明板は次のとおり。

岩 屋 山 標高475m
「長崎図志」によれば「大権現」の三字を刻んだ碑があり、かたわらに数十人が入れる石窟があったので、これにより岩屋山の名がつけられたものです。
また伝説によれば行基菩薩が開山した岩屋山神宮寺もこの山にあったといわれます。
江戸時代には長崎七高山の一つに数えられ大村純長が建立した神宮寺があったものです。
自然を美しく大切に 環境庁・長崎県

岩屋山の地形
岩屋山、稲佐山、金比羅山、英彦山の山々はもともと広い台地状の大きな火山であったと云われています。約200万年前から活動を始め、約60万年前には長崎市の中心部を埋めつくすような溶岩台地ができあがりました。
この火山は、活動が終ると侵食されて山体のほとんどを失ってしまいました。残った部分が、今、長崎市の周辺部を取り囲む山々であると云われています。
環境庁・長崎県

田手原町重篭の「轟の滝」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

田手原町重篭の「轟の滝」

田手原町重篭の下の沢に「轟の滝」という滝があることは聞いていたが、なかなか行くことはなかった。どんな滝か確かめたく、平成19年8月5日の午後訪ねた。甑岩や飯香浦に行くバス道路で重篭のバス停を過ぎ、最後の家の下のコーラ自販機のあるところから、右手へ下る車道分岐がある。この道は沢沿いに高速道早坂インター横に出る。

その途中、分岐から600mほど下ると、青フェンスのあるハウスが石垣上にあり、ここが滝道の下り口で、ゴーゴーと滝の音が聞こえ、こどもの手製か小さな標識があった。竹林の中を5分ほど下ると滝に出る。薄暗い沢。落差8mくらい。滝壺を有し、小さいながらまとまっている。下にも1段ある。長崎近郊では珍しい滝である。この沢は茂木若菜川の上流となる。

滝道途中には、茂木河平「戸町ヘ至ル」の標石のところで見た同じ「指指し」のコンクリート石柱があった。滝場は霊場で地蔵などが多く祀られ、滝の右手岩場には不動明王が立っていた。

HPの古書長崎銀河書房によると、長崎人文社刊「季刊・長崎人」17号(1998/1)に「長崎重篭の滝」の掲載記事があるが、確認していない。

なお、岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年春刊、63〜64頁が次のとおり紹介している。
(4)重篭・轟の滝
古書長崎名勝図絵に載っているのに辺鄙な所のため、知る人のみぞの感があります。バス停から150m先の右に下る農道を10分余り歩き、数本目の電信柱に記された718・ヒ341号の手前8mの所にある山道を200m下ると川があり、目前に滝があります。落差10m位。15体の石仏と儚き礎石が残っています。
伝 説
a:元禄15年(1703)田上の観音寺(私寺徳三寺の前身)開山・天州和尚が滝側に轟山観音寺普門院なる仏堂を建てた。いつの頃か毎夜一人の美女が堂上に現れ、怪異な事が起こり、このため住僧も恐れて逃げ出し、以来住む人も無く享保20年(1735)廃庵となった。
b:滝壺には神竜が潜み、旱魃の時、里人が祭り事を行い長竿で釣りの動作をして祈ると雨をもたらしたという。
c:二人の水練者が底を極めようとしたが達せず、一人は耳が聞こえなくなり、一人は髪が抜けてしまった。

「長崎名勝図絵」32頁の説明は次のとおり。
77 轟潭 とどろきのたき 衛鹿峰の東。川の源になっている。広さは僅かに二三歩であるが、深さは底知れない。その上から水が湧いて、小瀑布となってこの潭に落ちている。高さは十数仞。車のわだちのような音を立てて落ちるので、轟潭というのである。神龍が潜んでいると言伝えられ、霊異が多い。…以下は岩永氏紹介のとおり

鳴滝と鳴滝岩

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

鳴滝と鳴滝岩

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」98頁の説明は次のとおり。

鳴滝は、もともと平堰と呼ばれたが、延宝年間(1673〜81)に長崎奉行牛込忠左衛門勝登が鳴滝と命名したという。かつては「春は桃花水に流れて錦繍を洗うが如し」などと詠まれ、長崎十二景の一つに数えられた名勝の地「鳴滝浣花」であった。現在でも岩面には「鳴瀧」と刻まれているが、これは林道栄の字とも晧台寺21代住職黄泉の字とも伝えられている。

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)209頁にまた詳しい説明があった。

桜馬場中学校前をすぎて左に曲がると、シーボルト通りです。鳴滝川に橋がかかっています。この橋の下に「鳴滝岩」があります。旧地名は「平いで」と言っていましたが、延宝年間(一六七三〜八一)長崎奉行牛込忠左衛門が「鳴滝」と命名して、儒者の林道栄が書いた「鳴滝」の二字を川の中の岩に刻んだそうです。その後「鳴滝」の文字がよく見えなくなったので、文政十一年(一六二八)に庄屋の森田氏が、晧台寺の住職黄泉の書を再刻したということです。

下2枚の写真の碑は、記念碑、シーボルト通り、鳴滝橋の碑。