月別アーカイブ: 2007年8月

豊前坊(飯盛神社)の両国力だめし石と蛤石

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豊前坊(飯盛神社)の両国力だめし石と蛤石

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)豊前坊(標高340m)の項、18〜19頁に次のとおり紹介がある。

…石段を登ると、飯盛神社があります。社殿の背後の山は飯を盛った形をしているので、飯盛山といい長崎七高山の一つにあげられています。豊前坊というのは、英彦山にある社寺の豊前坊の名をもらったものです。…
社殿の左横には、両国梶之助土俵の力だめし石があります。地元本河内出身の両国関は、昭和三年(一九二八)、国技館で初土俵を踏み、小結、関脇と昇進し、十三年春には四八連勝中の横綱双葉山にうっちゃりをかませ、観客をわかせましたが、結局物言いがついて敗れました。

碑は「両国関初土俵力験之石 昭和二年十一月」とあり、石はその右の丸石であろう。
なお、両国碑の右側には、「蛤石」を飾っている。後の「蛤石の由来」碑文は次のとおり。

昔より当山に蛤石のあること傳説ありしが、昭和二十八年秋発見せり 此蛤石の頭をなで祈願すれば万病不思議になをる
昭和二十八年十月 発見者 五島作太郎ほか6名を連記 管理者 本河内町中

豊前坊(飯盛神社)へ行くには、田手原バス停先に案内標識があり、参道口の広場まで車が入ってすぐである。

彦山の昭和十三年長崎アルカウ會「質実剛健」の碑

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彦山の昭和十三年長崎アルカウ會「質実剛健」の碑

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)彦山(標高386m)の項、19〜20頁に次のとおり紹介している。この碑のことはミラン山の会のHPにも写真があった。

彦山へ登るには、飯盛神社の石段を少し下がった所から左におれ、広場の右端から製材作業所の前を通って行きます。
頂上にある英彦山神社へ登る石段のわきに、珍しい石碑があります。「質実剛健」と達筆で刻まれた文字の右横に「大正十一年九月十八日創立」、下に「長崎アルカウ會」、左横に「昭和十三年十二月十八日二百回登山記念」と刻まれています。
山の上には、ロボット雨量計の中継局やマイクロウエイブの巨大なバラボラアンテナがたっています。
山頂からの眺めは長崎の町が一望に見渡せ、稲佐山にそって深く湾入した長崎港の港口には、香焼や伊王島が浮かんでいます。

実際行くには、田手原バス停の先に「豊前坊神社」の標識あり、車が広場まで上る。これから左へ山道を登って20分、山頂の「英彦山神社」参道石段にかかった左脇にある。横幅4m、高さ2mほどある大きな石面。まさに達筆である。山の先駆団体の記録が見あたらないのが残念である。

彩雲(さいうん) 長崎の西の空に見た

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彩 雲(さいうん)  長崎の西の空に見た

平成18年6月15日午後7時57分、長崎市南部晴海台団地から五島灘の西の空に見た。いつもの夕焼けと違う見事な彩雲であった。

彩雲は、太陽の近くを通りかかった雲が、緑や赤に彩られる現象である。この現象は、日光が雲に含まれる水滴で回折し、その度合いが光の波長によって違うために生ずるもので、大気現象の1つである。。巻積雲や高積雲、風で千切れた積雲などに見えることが多い。
彩雲は昔から吉兆とされるが、実際はありふれた気象現象である。古くには「景雲」「慶雲」「端雲」などとも呼ばれた。(HPフリー百科事典『ウィキベディア』から)

太平洋戦争中期から使われた大日本帝国海軍の艦上偵察機が「彩雲」と名づけられた。

国道202号線沿い (3)東樫山海岸風景

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国道202号線沿い (3)東樫山海岸風景

平成19年8月4日、外海方面の藩境石塚の写真撮影のため出津まで行った。途中で見た海岸などの風景。式見沖神楽島の変化を主に撮る。

東樫山の天福寺は深堀領主が創建か。これより少し登ったところに皇太神宮がある。境内に十字架をつけたキリシタンの碑あり。如何にも樫山らしい。「殉教者茂重翁之碑」は、昭和49年8月吉日、地元関係者が建立。顕彰碑文は次のとおり。墓は三重崎墓地内にあった。

殉教者茂重翁之碑  顕 彰
慶応三年より明治初期に至る信者に対する幕府の迫害は浦上四番崩として有名でペートロ茂重翁も当時聖像隠匿の疑ひにより長崎奉行に連行され厳しい拷問責苦も同志をかばう一念から堪え忍んで牢死なされた信念の人であり殉教者である。依って吾等は百有余年の歴史を顧みて翁の徳望を讃え慰霊の誠を捧げます。

長崎学と「ゆうこう」  寄稿 川上 正徳

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長崎学と「ゆうこう」  寄稿 川上 正徳

私が純心大学「長崎学講座」を最初に受講したのは平成10年でした。12年の講座終了後の茶話会で受講生の中島 勇氏から「岬道」を歩く三和町公民館行事の案内を受け、翌年早々参加しました。その13年4月、私は支所長兼土井首地区公民館長の発令を受け、早速、公民館活動で地元の歴史を学んでもらうため岬道を歩くことにしました。しかし、地元では深堀の殿様が佐賀藩へ行き来した「殿様道」があるので公民館講座では「殿様道」を歩きました。

その下調べでダイヤランドから山へ入り「ゆうこう」という蜜柑と出会いました。正式な名前が知りたくて「ゆうこう」の樹の写真をNHK趣味の園芸へ投稿したところ、12月、(独)農業研究機構果樹研究所かんきつ研究部の根角博久氏から手紙が届き、NHK出版から頼まれたということで「ゆうこう」の調査が始まりました。研究所のある焼津市へ種子や果実を送ったり、地元の協力で分布図、樹高、樹幅、幹周を調べ、根角氏が更に研究し出された結論は、「ゆうこう」は新種であるということでした。

「ゆうこう」は地元では古くから酢の物や遠足のジュース代わりに使われてきた蜜柑なのに新種という望外な結果で地元の皆さんも喜んでいただきました。この経緯は「長崎の空」第11集に掲載され、長崎県果樹研究所へ異動された根角博久氏が日本園芸学会へ発表されたのは平成16年9月でした。

根角氏から「ゆうこう」は外海町にもあるという情報で本年7月、私は調査に行って外海町歴史民俗資料館勤務の日宇スギノ氏と会いました。日宇氏もかねてから「ゆうこう」に関心があり、出津地区の「ゆうこう」の場所を教えていただきました。この地域では西洋せり(クレッソン)は「ドロさまぜり」と呼ばれているので「ゆうこう」も関連があるのではないか?と近所の方と話したことがあるそうです。現在、確認されているのは外海地区でも旧佐賀藩領ですし、土井首付近でも旧佐賀藩(深堀藩)ですので、どちらの「ゆうこう」が古いのか、また、新たな謎=課題が生まれました。長崎学への興味は尽きることがありません。
(純博 No.23 平成16年11月8日に掲載)

写真上が「ゆうこう」の実。優しい香りと筋の山があるのが特徴。下は発見のきっかけとなった土井首にある「ゆうこう」の木。(川上氏HPの画像)
なお、下3枚の写真は、平成19年8月17日撮影。川上氏の調査によるとここに4本の木を確認している。

ねずみ島(皇后島)の今昔

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ねずみ島(皇后島)の今昔

長崎港の入り口に、「ねずみ島」の通称で市民に親しまれていた「皇后島」がある。昭和13年刊「長崎市史」によると、昔は次のとおり。

鼠島は往時野鼠の発生多く作物悉く其の食ひ尽す處となつたので其の称を得たと云ふ。又其の地戸八浦の西北に當るを以て子角(ネスミ)嶋と唱へた。外人等はフイセルアイランドと称すと云ふ。又皇后島と称す。昔三韓征伐の途此の島に繿を繋け給ひしにより後人皇后島と称し、その音によりて佝僂嶋と書くものがあるのは誤である。
安政二年二月外国人遊歩場として本島を外人に開放した。蓋當地に於て否日本に於ける一般外人上陸開放の嚆矢であらう。…
明治三十六年七月…瓊浦遊泳協会を組織し…遊泳術教授に努むると共に一般人の海事思想普及上進に努めて居る。

毎年の夏休み、多くの子どもたちが通ったこの島も、長崎港の開発計画により1989年8月いっぱいで水泳道場は閉鎖され、島の3分の2が埋め立てられ、小瀬戸町と陸つづきとなった。現在は松山町の「市民プール」で水泳教室が行われている。
この島が地質学上、貴重な島であることはあまり知られていない。布袋厚氏著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊は、次のように指摘されている。

ねずみ島は全島が「変斑れい岩複合岩体」でできている。この岩石はあらい結晶の集合体で、こい緑色の部分と黄色っぽい部分が混在している。これは、野母半島西岸に分布する九州最古の岩石によくにており、おそらく同じものと思われる(…)。長崎港周辺でこの岩石が分布するのは、ねずみ島だけであり、ほかを探してもまったくみあたらない。
このように、ねずみ島とその海岸は、小さい島にもかかわらず、いろいろな価値が凝縮されているので、将来にわたって保存すべきである。開発優先の時代はおわっている。

写真はねずみ島の現況。特異な岩石とともに桟敷跡、神功皇后之御舊跡碑を写す。明治期長崎の古写真でも、野外パーティーを楽しむ外国人の姿は、背景に高鉾島や八郎尾根が写っており、この島に間違いない。

関寛斎一行は野母権現山へ行ったか

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関寛斎一行は野母権現山へ行ったか

野母崎町「野母崎町郷土誌」改訂版 昭和61年刊の野母崎町町史年表264頁によると「1861 文久1 長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)4月4日 棚瀬を見て野母権現山へ行く」とある。遠見番所は安政6年(1859)の開港ですでに休止していたか、この番所の廃止は明治元年(1868)である。
関寛斎日記は紛らわしい書き方をしているが、記述はこうである。

「船塲に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由って只一望のみにて漁家に喫茶す、此の處二百許り漁師住めり南西に高山あり四五年前には絶えず此の頂上にて望遠鏡を用ひ黒船を見張せしといふ、長崎迄一望中にあり且つよく遠方を見得て殊に景地なり。五つ半時(午前9時)發足し堂山の西を通り高濱に出て」

「只一望」が前にきて以下権現山の説明がある。脇岬を朝出発して野母を9時位に出る船に乗るつもりだったが、北風が強く船は出なかった。漁家に寄って喫茶しながら権現山を望んだだけのようである。山頂への往復は2時間かかり、天気のよい日でなく、時間的に無理であろう。