月別アーカイブ: 2007年7月

本河内浄水場正門左脇にある「秋葉山大権現道」の標石

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本河内浄水場正門左脇にある「秋葉山大権現道」の標石

本河内低部水源池の底に消えた長崎街道は、高部水源池との間に上り、これから右岸の旧道を行く。この本河内浄水場正門左脇に、朱塗りの刻字が残る立派な「秋葉山大権現道」「妙相寺」「右」「左上宮迄八丁」の標石がある。

「秋」の字は何故か偏と旁が逆である。裏面は「従寛光孫山城国久世郡槇嶋之住 太田野右衛門尉行三男 太田益右衛門直徳 建立」。30cm角、高さ1m。上部は四角錘でどっしりしている。

今は「妙相寺入口」バス停から入る。「長崎街道」越中先生の稿は、この辺りを「明治十九年、我が国で三番目に建設された水道の水源池が建設されたとき、水源池新道が造られ、古道は失われてしまったが、先年その水源池の中より分かれ、奥山峠を越え、旧矢上村中尾に行く途中の妙相寺川に、幕末のころ架けられたアーチ型の小さな石橋が発見され、市の文化財に指定され保存されている」と書かれている。

秋葉大権現とは、妙相寺から烽火山に登る道の途中となる。妙相寺は、長崎市立博物館刊「長崎の史跡」によると次のとおり。今の石門は、この標石の所にあったらしい。

「175 妙 相 寺(曹洞宗・瑠璃光山 所在地:本河内町2439番地)
妙相寺は、延宝7年(1679)皓台寺5代住職逆流が開創。寛永19年(1642)開創の今籠町の宗円寺が衰微したもので、逆流がこれを再興、宝永4年(1707)現在地に移転した。文化6年(1809)以降、異変の際の中国人の避難所とされた。後山は秋葉大権現祠、柊大明神祠、天満天神祠などが祀られている。なお、境内の石門はかつては長崎街道沿にあったが、水源池が建設されるに及び現在地に移された」

滑石4丁目にある式見手熊道「右志きみ 左てぐま」の標石

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滑石4丁目にある式見手熊道「右志きみ 左てぐま」の標石

長崎市立滑石公民館に行くと、1988年地元編纂委員会編「写真構成 長崎滑石郷土史誌」があり、139頁に珍しい標石の写真があった。
「右志きみ 左てぐま」と読み取れる石である。

「この地蔵の近くの4丁目多以良初見宅に保存されている式見手熊道標石は、元もと4丁目山の口の小川の道路改修記念碑そばにあったもので、左へ上る旧道が手熊への山道であった。石柱は自然石で幕末ころのもの」と、写真説明がある。
地蔵とは「現在の4丁目もと木下川内にあった下山堤の守り神として堤のそば式見追分の入り口にあった」が、団地造成で堤は埋没され、地蔵も流転している。

滑石4丁目多以良初見宅は、以前通っていた「あぐりの丘」へ行く道の途中である。道路改修記念碑近くのお宅を、一度訪ねてぜひ標石を見たいと、平成18年2月19日川上君と出津・黒崎調査の行きがけ寄ってみた。

多以良氏は団地連絡協議会長や郷土史誌編纂委員長をされていた。今は高齢となられ娘さんが住まわれている旧家の庭の大きなヤマモモの木の根元に、健在であったが横倒しにされて標石はあった。
岩屋山の西肩を越して、古道はまだ残る。

矢上「滝の観音道」の標石

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矢上「滝の観音道」の標石

脇岬観音寺へ至る、脇岬海岸国道上にある元禄10年(1697)「従是観音道」の標石は、「みさき道」の道塚で紹介している。
これは同じ「観音道」でも、矢上にある「滝の観音道」の標石。
間ノ瀬川の中流約2.5kmのところ。平間町に滝の観音は位置し、滝の景観・落差は市内で第一級と思われる。山峡谷間の幽玄郷。普茶料理を味わえる。
昔から諌早家の祈願寺となり、参詣が多く、立派な道標の標石が建った。

参詣道の標石は、まず矢上側国道からの間ノ瀬入口に、「瀧山観音道」の大きな石碑が建つ。25cm角、高さは1.5m。天保12年(1841)の建立。新しく再建されたとも見受けられた。
上写真の右側、低い方である。

次は、松原町の親和銀行保養所「迎仙閣」(ぎょうせんかく)の庭にある標石。
国道からは、JR「肥前古賀駅」の標識から入ってすぐの場所である。
ここは故井上米一郎氏が、先代より継いだ紙業隆盛の頃この地を選び、静寂な住み家として昭和21年建築。没後、銀行が譲り受けた。

見事な庭園の中に据えられている。刻面は4面。「松原乃たきみち」「左長さ紀 松原名 若者中」「瀧観音」「弘化三歳次丙午二月且立焉」と読み取れる。
寸法は23cm角、高さ1m。上部は四角錘。かなり大きく立派な標石であった。
この標石はもともと国道入口にあったのが、20年ほど前ここにとりあえず仮設されているらしい。
近くの道にも他に小さい標石が2本あったが、これは道路工事の時からか、不明となっている。 

外国人居留地跡のある境界標石の受難

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外国人居留地跡のある境界標石の受難

郷土史家故永島正一氏が昭和34年10月「長崎手帖 第21号」で紹介した長崎市広馬場町の十善会病院前、森米屋の店先にある外国人居留地跡の当時の境界標石である。

撮影してから約47年を過ぎた今、現地に行ってみると、上の写真と記事のとおり変っていた。碑のわびしい姿がまたひとしおであった。

鳴滝塾跡・出島和蘭商館跡の史跡境界標石

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鳴滝塾跡・出島和蘭商館跡の史跡境界標石

鳴滝2丁目川端通りの蜀山人歌碑を見に行った帰り、裏通りに入り、シーボルト記念館の赤い建物の角にかかった。古い石段の坂道が上へ上がり、上段に石柱の姿が見えた。何だろうと登ったら、この石柱であった。
「史蹟指定地」「大正十二年九月一日」「内務省」
奥に立派な門構えの旧家があり、玄関先にも標石があった。合計で5本ほどあった。また帰りによく探すと、記念館正門入口と敷地左隅にもあった。

関連するのは、出島和蘭商館跡。南公民館どじょう会「長崎の碑 第一集」平成5年の1頁に「2出島和蘭商館趾界標(出島町 海江田病院前)」として、同じような標石の存在を記録している。しかし、今これを探しに行っても見当たらない。資料館の人の話では、電車通り側青いビルの横が駐車場となっているが、この境の石垣段差の中ほどにあった記憶があるらしい。同第2集平成6年「石標調査表」では、同じ界標が「出島神学校前角」にもあったとしている。

念のため出島復元室学芸員の方に所在を聞いている。居留地の「地番標」は6本あって、2本は出島内現地に説明板をつけて展示しているとの話であるが、地番標の全体の数も、当時のどじょう会調査数より少ないと思われる。

本河内の宝篋印塔(ほうきょういんとう) 市指定有形文化財

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本河内の宝篋印塔(ほうきょういんとう) 市指定有形文化財

国道34号線「妙相寺通」バス停手前の道路右にある。車中から見える。説明板は次のとおり。場所は国道工事で再三移転している。
塔前にある狛犬も古めかしく、後ろ足を立てた珍しい格好であった。

市指定有形文化財 本河内宝篋印塔
指定年月日 昭和50年3月10日 所有者 長崎市
この本河内宝篋印塔は、文化8年(1811)、本篭町の薬種商中村盛右衛門仲熙・嘉右衛門茂済父子が造塔施主となり、肥後の人豪潮が建てた供養塔である。豪潮は全国に2千基の塔を建てたという。
笠の隅飾は華麗で、蓮座の下にさらに第2の塔身があり、いずれの種子も重厚である。同様な形式のものは清水寺・禅林寺・春徳寺に現存するが、この塔はその中でも最大のものである。
長崎市教育委員会(平成元年3月設置)

脇岬観音寺の宝篋印塔(県指定)も豪潮作である。熊本の名僧「豪潮」が長崎の福島清七の寄進により建立。「豪潮塔」と言われる。県下では7基だけしかないと言われる。このため本河内の塔を見に行った。

「関寛斎」の人物像と、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」に見る晩年

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「関寛斎」の人物像と、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」に見る晩年

「関寛斎」は、天保元年(1830)千葉県東金市生まれ。ヤマサ醤油当主の知遇を得、長崎医学伝習所に来たのは30歳のときです。松本良順の63番目の弟子となり、オランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。後に阿波徳島藩の典医など勤め、晩年は北海道足寄郡陸別町(阿寒湖近く)に渡り、長男とともに未開の地の開拓にあたり、83歳で亡くなりました。同町の駅には開拓の祖として資料館があります。(同町のHPあり)

幕末を彩なした蘭方医学者、松本良順・伊之助こと司馬凌海・関寛斎が、司馬遼太郎の朝日新聞に連載された小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。(新潮社昭和54年などの刊行本あり)
題を『荘子』からとって「封建社会の終焉に栩栩然(ひらひら)と舞いとぶというのは化粧(けしょう)にも似た小風景といわねばならない。世の中という仕組みがつくり出すそのような妖しさは、単に昔だったからそうだということではなかろう」と最後は結ばれ、彼のことや陸別の地を訪れたときの感慨を「血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった」とも「寛斎の影がいよいよ濃くなってくるような気がした」とも表わされている。ぜひ一読をお薦めしたい本である。

「壮年者に示す」 いざ立てよ 野は花ざかり今よりは 実の結ぶべき 時は来にけり 八十二老 白里

「忍」    忍びてもなお忍ぶには祈りつつ誠をこめて更に忍ばん       八十三老 白里

「寛斎は、自分が買った土地を、開墾協力者にわけあたえてゆくという方針をとった。ただし、この方式に寛斎が固執し、息子の又一が札幌農学校仕込みの経営主義を主張して反対しつづけたために真向から対立した。協力者たちに対する公案が果たせそうになくなったために、百まで生きるといっていた寛斎が、それが理由で自らの命を絶ったともいわれている。」

「明治四十五年(1912)十月十五日、服毒して死亡、年八十三歳、翌日、遺志によって粗末な棺におさめられ、近在のひとびとにかつがれて妻お愛のそばに眠った。墓はただ土を盛った土饅頭があるのみである。
寛斎の医学書その他の遺品は、さまざまないきさつを経て、近年、陸別町に寄贈された。」

「長崎在学日記」に記された脇岬観音詣での記録は、彼の初期の紀行文となるが、あまり知られていなかった。同町教育委員会の協力により、当会がこれを江戸期の「みさき道」を解明する手がかりとし、研究レポートを刊行した。

市川森一先生の小説「蝶々さん」にみさき道が登場 長崎新聞に連載中

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市川森一先生の小説「蝶々さん」にみさき道が登場  長崎新聞に連載中

長崎新聞の毎週土曜日の紙面に、市川森一先生作の小説「蝶々さん」が昨年から連載されている。
2007年(平成19年)5月19日付、第53回「花影(八)」に「みさき道」が詳しく登場した。この回の関係文は、次のとおり。

みさき道とは、唐人屋敷の近くの十人町から、野母半島の突端の脇岬の観音寺まで延びている七里の古道をいう。深堀村はその途中にある。
十人町の百三十一の石段を上がりきると、活水女学校の校舎が現れた。活水の女学生になることを夢に描いてきたお蝶には、いつも身近に感じていた風景だったが、今日はその白亜の校舎が雪と共に溶けて消えてしまいそうに見える。お蝶は視線をそらして駆け出した。誠孝院の坂道を転がるように駆け下り、東山手と南山手にまたがる石橋を渡って、外国人居留地の丘を駆け抜け、戸町峠の二本松神社に辿り着いたところで、息が上がってようやく立ち止まった。
眼下には、湾口の島々が霞んで見えた。汗が引くと急に体中が冷え込んできたので、またすぐに歩き出す。そこからしばらくは、桧や雑木林が生い茂る山道を下って行く。お蝶の手荷物は弁当と水筒だけだが、懐剣と笛はしっかりと帯に差してきた。
お蝶の草鞋足は、寸時も立ち止まることなく鹿尾の尾根を登り、小ヶ倉村を見下ろす加能峠まで来て足を止めた。目の前には見慣れた深堀の城山(じょうやま)が見えてきたからだ。そこから江川河口まで下って深堀道に入り、ふたたび、鳥越という険しい坂の峠を越えた途端に、突然、懐かしい御船手の湊が広がった。
—着いた。
夜明け前の五時に水月楼を飛び出してから、四時間の徒歩で深堀に到着した。子供の頃から馴染んできた景色の中を足早で陣屋の方角に向かった。

なお、すでに次の回でも、「みさき道」の一部にふれた記述があっている。
第29回 遠い歌声(十)  2006年11月18日付
第35回 紅   燈(五)  2007年 1月13日付

陸軍省要塞標石探し  佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (1)

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陸軍省要塞標石探し 佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (1)

佐世保市木宮町の高橋輝吉氏(80歳)は、兄を船舶工兵として戦死させたこともあり、国策によって再び生命や自由が脅かされる忌わしい時代が招来しないよう、その時代の証人として現在も残っている明治32年などに陸軍省が建立した各地の要塞地帯(区域)標石探しを、長年にわたってされている。

氏の地道な研究を伝えた最近の新聞記事が、上のとおりあった。佐世保を中心に九州が主となる。長崎要塞関係ではその後、私との合同調査によって、合計23本が現存していることを確認している。

諌早市有喜の旧県道案内標石

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諌早市有喜の旧県道案内標石

平成19年2月16日はその足で、太平洋戦争の有喜砲台の事前調査に回った。街道歩きのベテラン陸角氏は、有喜にも珍しい標石があると言った。10年ほど前、島原街道歩きで故山口氏と見かけた上の写真の標石。

有喜の町から高台のパルコホテルに上がる旧県道の細い道を行く。ホテルのすぐ下の谷間、古具「田舎家」を過ぎた道分岐に建っていた。15cm角、高さ75cm。正面「右縣道道 ちかみち」、右面「大正八年三月一日建設」、左面「里名在郷軍人中」。根元はグラグラし、石を挟んでいる。

左が旧縣道であるから、今建てている位置はおかしい。陸角氏の記憶も、もう少し手前の道脇でなかったかということだ。簡単に動かされるが、現存されただけよかったと思うほかない。平仮名は良い。