月別アーカイブ: 2007年7月

出島にある居留地時代の地番標石

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出島にある居留地時代の地番標石

安政6年(1859)、出島のオランダ商館は廃止され、領事館が設置されました。さらに慶応2年(1866)には外国人居留地に編入されます。この石標柱は居留地時代の出島の地番を示したものです。現在、敷地の東側から中央部にかけて、道路沿いを中心に7箇所の石標柱が残されています。(標石説明板より)

長崎歴史文化博物館の史料により、明治9年「地理局測点」が「出島居留地 五番□□通衝」にも設置された記録があり、念のため現地を調査に行った。その形跡はなかったが、運よく四番・五番の境を示す地番標石が現地に説明板をつけて展示されていた。

大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査

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大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査

長崎県立長崎図書館(現在は長崎歴史文化博物館に移管)の古記録によると、佐嘉領小ヶ倉村と大村領戸町村の藩境紛争が天明七年(1787)に解決し、大久保山と戸町岳の間に69の塚を築き、道路が藩境を通過する地点の塚の上に境石を建てている。

「従是南佐嘉領」と刻んだ形のよい藩境石の標石は、新戸町団地バス停近くと白崎バス停上に2本あることは知られていたが、大久保山から戸町岳にかけて築いた69の藩境塚の存在はこれまで知られず、調査が行なわれていなかった。

これは、古賀敏朗著「くにざかいの碑」(1983年峠の会 福岡)のある記述と、御境絵図から藩境となる両方の山の尾根を踏査し、まだ藩境塚33基が現存していたことを確認した平成17年春の調査記録である。(画像は、一部松林氏協力)

(2014年9月4日 追 記)
大村郷村記「戸町村」分が、2014年発刊されている。大村市立史料館へ照会したところ、戸町村と小ヶ倉村境の塚について、「一、佐嘉領境三國境ゟ小ヶ倉迄、先年ゟ論所之處、天明六午年熟談 論所差分相極、同七年塚築立、同八年膀示石建」という記述があるとわかった。

追加の2図は、入江氏作成。「地図上に藩境塚と思われる地点に赤い点を付けました。小ヶ倉村古地図からは、写真の解像度の問題から、これ以上判断できませんでした。赤い点が小さいので見にくいと思いますが、ビューワーで拡大して御覧下さい。現地調査される際はGPSを活用されると良いと思います。」ということである。

大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認

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大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認

「みさき道」の調査仲間で友人である川上正徳君が、峠の会(福岡)昭和58年発行の古賀敏朗著『くにざかいの碑—藩境石物語』の本で知り、調べていた。本の著者が地元樫山の人へ聞いてもどうしてもわからず、実見できなかった石である。
大村郷村記三重村144頁に「佐賀領境傍爾石之事」として藩境銘のある大塚の石2、その他大塚、建石(竪石)を相当数建てた記録があるのに、地元で存在が確認されていないことは不思議なことであった。著者は茫漠とした「竪石」がどんなものか気になっていたようだ。

川上君が、長崎県立長崎図書館で御境・石塚位置の古地図をデジカメ写真に撮って見当をつけており、平成17年9月と10月の2日間、同行して調査した。現実に何の苦労もなく、偶然に見つかったのは幸運としか言いようがない。
三重崎の突端海岸部の山中に、境大塚が1基完全な姿で残り、あと2基ほど壊れたものがあった。竪石は赤岳頂上(標高118mの三角点)から北側の海岸断崖部に、列をなして完全なのが3基確認された。後日また行くと列の崩れたのが、頂上直下の北側下りに7基ほど確認された。
「竪石」とは単なる平たい少し大きめな自然石を、藩境線の地上に間隔を置いて埋めたものであった。

櫻の首白眼に建てられた銘のある大塚「従是 東北大村領 西南佐嘉領」は、三重リハビリセンター事務局長木浦氏の記憶によって、東樫山町836番地新道宅前の空き地に放置されていたのが判明した。ここは樫山バス終点の奥にあたる。この路地が藩境だったと言われるが不明である。
三重崎の同大塚「従是 西北佐嘉領 東南大村領」は、同じく長崎市三重支所の玄関スロープ植え込みの中に移設されてあった。調査において「灯台もと暗し」はよくある。この石は支所に何の記録がなく、どうしてここにあるのか不明となっている。いきさつを地元でよく調査して、説明板をつけるなり、元の場所に戻した方が良いのではないだろうか。

深堀の女島大神祠 香焼埋立地に残る

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深堀の女島大神祠 香焼埋立地に残る

深堀のすぐ手前の海に、かつて「女島」という小さな島があった。昭和43年(1968)深堀〜香焼間の海面埋立てが完成し、三菱重工などの工場が進出した。この埋立地の中にまだ「女島」の島影が残っている。

場所は、深堀バス終点前の角に深堀公番がある。埋立地大通りを香焼側に50mほど行くと右に入る道があり、奥に赤い鳥居があってここが境内である。
アコウの大きな枝分かれした木の根元に「女島大神」が祀られ、中にはぐるぐる蛇がまいたような不思議な石の神体があった。女島は小さな岩礁だったので昔からあったのは、この祠だけと聞いた。他の祠や浜恵比須は後でどこからか持ってきているらしい。

外国人居留地跡の標石リストと所在地図 どじょう会調査記録から

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外国人居留地跡の標石リストと所在地図 どじょう会調査記録から

外国人居留地跡の標石リストと所在地の一覧地図 南山手・東山手・出島。
長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」平成6年調査記録から。 

魚見岳と天門峰山頂岩にある「明治九年地理局測点」

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魚見岳と天門峰山頂岩にある「明治九年地理局測点」

平成17年12月、女神と神崎鼻を結んで「女神大橋」が開通した。長崎港口をはさんでそれぞれ対面する山に、ある標石が大橋の架かる前からあったが、人にあまり知られず、標石が何のためのものかわからなかった。

1つは、国指定史跡「魚見岳台場」最上の「一ノ増台場」から大久保山に上る登山道があり、約15分ほど登った190m位の標高地である。尾根はさらに南東大久保山へと続き、山の形をしているように思われないが、先日神崎神社上宮から見たら、たしかに山の格好をしていた。ここが「魚見岳」(実際、魚見をしたところは台場あたりで、その背後の山の意か)と思われ、ピーク手前300m位のところの道脇に字を刻んだ標石は立っている。15cm角、高さ45cmの石柱。

1つは、大橋を渡って神崎神社上宮先に橋脚の下をくぐる歩道があり、これから山道に入って、長崎名勝図絵に白衣の観音に見立て観音山と呼ばれたと記す「天門峰」(「しらと」とも言う)に15分位で登れる。166mの標高地は大橋を俯瞰し、市街・外洋の景観が良い。山頂の高さ1m、幅1.4m位の大岩にある字の彫りこみがあり、上面には一辺20cm位の四角い溝が彫られ、対角の線らしいものも見られる。明治34年地図を見ると「鰯見嶽」(イワセン)の山名で独立標高点167.7mがあったが、現在の地形図に三角点はない。

双方の字の刻はともに「地理局測点」「明治九年第□月」。月だけ違い、魚見岳は「五月」天門峰は「四月」である。女神大橋が架かったことによって、2つがより結びつけて考えられ、日本の近代測量史の証しとなる標石でないかと考えた私は、その後、いろいろ調べてみることとした。
長崎に残る2つの「地理局測点」は、地図や測量研究の専門家である茨城県山岡光治氏、京都市上西勝也氏、国土地理院九州地方測量部次長宮崎清博氏(その後異動)に注目いただき、ことに上西氏には、平成18年2月来崎して現地調査いただくなど、さまざま世話になっている。

長崎の測点標石は、「内務省年報・報告書」第2巻 明治八年七月〜九年六月下に記録がある。同書によれば
「…東京大阪京都横浜兵庫神戸長崎新潟ノ事業ハ全国三等三角測量ヲ各地方二施行シ之レカ各部ヲ聯測シテ国図ヲ画成スルモノ二メ共二全国測量二属ス…長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼嶋神ノ島等ノ地二於テ測点ヲ二十九箇所二撰定シ其新大工町ト片瀬郷二アル二点間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日二至リ全ク成ル又底線地ノ高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス…」
とある。東京・大阪・京都につぎ5港、6鎮台と事業が開始され、重要港湾である長崎港の測量が明治9年4月から施行された。魚見岳と天門峰にある「地理局測点」標石は、この測点標石の1つに違いない。

その後、魚見岳では標石の傍らに基盤石があることを宮崎氏が発見された。他の測点の場所についても、上西氏の後日の調査により長崎歴史文化博物館に史料があることが判明し、私が閲覧して現在、現地調査中であるが形跡はなく、思った成果は上っていない。
なお、長崎の「地理局測点」などは、上西氏のインターネットサイト「三角点の探訪」上巻・下巻に追加して掲載されているので、参考としていただきたい。

(画像は、一部上西氏サイトから)

藤田尾飛瀬海岸道に天保八年「領界目印石」2本見つかる

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藤田尾飛瀬海岸道に天保八年「領界目印石」2本見つかる

茂木町であった藤田尾名は、昔から為石村と日常生活のあらゆる面で関わりが深く、昭和22年茂木町と住民の懇願によって為石村に編入されている。

この茂木村ももともとは有馬領であった。その後秀吉によって収公された七ヵ村のひとつである。七ヵ村とは古賀・日見・茂木・樺島と、長崎港口の礼物徴収行為によって天正16年(1588)深堀領が没収された川原・高浜・野母の各村である。七ヵ村の支配は長崎代官などに分属した。一方、為石・蚊焼・御崎村は、佐賀藩深堀領のままである。

長崎半島の村はこうして、天領・佐賀藩・大村藩(戸町村は安政6年古賀村と交換されて天領となる)の入り組んだ支配となった。長年、もともと境界争いの絶えなかった地である。江戸後期になってその紛争が解決した幾例かを、三和町「三和町郷土誌」や平幸治氏「肥前国 深堀の歴史」が史料によって紹介している。

為石村と茂木村の村境については、藤田尾海岸の松の木が伐採されたことにより境界争いが再燃し、問題が生じた。平氏著書によれば「六〇年以前にも係争があり、、明和六年(1769)に双方で絵図面を取り替わし目印の塚まで築いたのに、再び領界争いとなったので、難航したのである。そして天保八年(1837)一二月になって、やっと解決をみた。その取り替わし証文によれば、獺越から浜辺まで双方の境に目印石を極め留りから三ッ瀬(為石では三ッ石と呼ぶ)見渡すところを境とする。また後年になって問題が再燃しないよう毎年一回双方の村役人が確認するというものであった」とある。

平成17年10月、私はふらりとこの海岸と尾根を探した。絵図面の様子と字図・現地図から目星をつけた。海岸は「飛瀬」という。為石から5分ほど、県道の「茂木まで16km」標識のあるすぐ先に、旧県道のカーブが海岸側に2つ残り、その2つ目から海岸に下る道があった。釣り人がよく利用している。

海岸へ下る尾根道の途中に、50mも行くとまず大きな境塚と思われる土盛りが1基残り、すぐ下の道路脇の大きな木の根元に、史料にある立派な「目印石」が建っていたのである。14cm角、高さ70cm位。上部は半円形。刻字はない。
釣り人は見ていただろうが、石柱の由緒はわからず、これは新しい発見と思われた。まさしく天保八年(1837)取替証文にある「目印石」であろうと判断した。

尾根の鼻にさらに100mくらい下るとあと1本、全く同じ石柱が建っていた。木立がなかったら橘湾の遠くまで見渡せる断崖上の道脇である。絵図面の海岸先端には「月(目)鏡岩」「飛瀬」「三ツ瀬」などの文字がある。海岸に降りると地形はそのとおりのようだったが、海岸の岩場一帯を探しても、他にこれというものは見あたらなかった。

帰りは県道に戻り、寺岳にかけての尾根を柴原まで探した。明らかな塚は残っていなかったが、それらしき石組みは少しあった。この上はすでに確認済みで、数基を見ている。

藤田尾 津々谷の滝(つづやの滝)

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藤田尾  津々谷の滝(つづやの滝)

為石から茂木方面へ行く県道34号線を約10分ほど、干藤トンネル手前から旧県道の上手道を3分位戻ると、滝の入口に赤い鳥居と次のとおりの説明板がある。
滝までは100mほど石段道を登る。落差は約20m。源は佐敷岳(標高502m)に発し、この藤田尾川は部落の取水源となっている。

津々谷の滝(つづやのたき)
津々谷の滝は、新四国霊場であり、昭和2年に薬師如来像が建立されたのを初め、昭和7年から昭和9年にかけて普賢菩薩像、弘法大師像、不動尊像が建立されている。また、最近では十三仏の石像が寄進され、霊場としての崇敬地となっているほか、八郎岳の鹿が水を飲みに姿を見せることもある。  ●4月21日…弘法大師の命日  ●9月28日…不動明王の命日

余 録 — 「みさき道」の道探しや寛斎のこと

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余 録 −「みさき道」の道探しや寛斎のこと

私のすることは、家族からあきれ果てられ、同好の友を求めても今の時代はもういないのではないか。若い頃からの性癖は、今さら直しようがない。人に言わせれば世間から随分と外れており、他のことをするより健康のためマシで、まあ勝手におやりなさい。何の役にたつかということであろう。自分自身このことはよくわかっており、今回の調査で何度も味わい、途中で投げ出したくなったのは再三であった。「くにさかいの碑」の著者もそんな悲哀を述べられていた。
道を探して知らない山の中へ入る。服は破れる。手・足・顔まで傷だらけ。進退きわまって日没後の暗い山道を帰ったことが2回ほどあった。いくら地図を持参していても初めての場所は、どこがどこかわからなくなることがこの半島の山でさえある。道探しに再三来たくないから、目鼻のつく地点まで必ず行く。そうすると次々と分れ道が出てきて、結局はその道全部を踏査しなければならない。行ったり戻ったり、無駄な行動と時間を費やした。一面、長崎半島の地形と道はほとんど頭に入った。
難しい考えごとや本は頭になじめず、好きなことだけ行動を先走りさせるのが自分の取り柄である。

もう少し要領よく行いたかったが、史料や地図は少なく、現代とあまりかけ離れ過ぎている。地元の人に聞くにしても、一応歩いて調べたうえでないと話が噛み合わない。わざわざ連れて行ってくれと頼めないからである。そもそも江戸時代の道を知っている人は、もう生きていない。道の話は聞いた相手の人の年代や住んでる場所によって変わってくる。
やっと要領よくなれたのは、明治34年測図国土地理院の旧版地図を手に入れてからである。それにしても、佐賀藩の侍たちは領内の村の彩色絵図を良く書いている。一番感心したのは、為石村や脇津村の図である。カラーで紹介できないのが残念だが、鳥瞰的にこうも正確に描けるものだろうか。
地形上の制約があって半島には三通りの道がある。尾根にあった道が中腹から海岸へと時代によってだんだんと降りていったのが、半島の道の特色であろう。あとは波静かなときの海岸道とそうでないときの道である。平野部にある他の街道と違い開発があまり進まず、一部団地やゴルフ場を除き、古道の山道跡がそのまま残っていたのは、返って幸いであった。

川原木場の公民館前に地蔵堂がある。水道で顔を洗いながら地蔵がなぜあるのか考えていたら、70代とおぼしき年配のご婦人が公民館から出てこられた。この人の時代は集落の拠出と労力奉仕で、道は大分整備されていたようである。観音参りはまだその昔、二ノ岳の脇、今はゴルフ場となった中を通って、根井路の地蔵へ出たようだと覚えておられた。川原木場も平家落人の伝説があり、錆びた刀が出てきたという家が多いと言う。

先週よく見てなかったが、テレビ番組があった。宮崎の椎葉あたりの山村の一集落に古文書が残り、400年ばかり前、自分たちの先祖が移り住んできた道の記録があった。廃道となった道を探して30Kmほど、大勢の人が先祖の跡をたどって、その道を歩いたというものである。

二つの話を「みさき道」に重ね合わせ、いろいろ感慨がある。椎葉の道の思い出は、私にも昭和43年3月にある。九州脊梁の山を単独行で歩いた。現在、日本最南端のスキー場となった向坂山あたり。3月というのに小雪が降り、道はまだ残雪で埋まっていた。次はその記録の一部である。
「18日(晴) 狭い谷間にも朝明けは意外な早さで広がる。雪面は静かに白さをとりもどし、清新なせせらぎの響きがその下から明るい。それにしても昨夜は相当の冷えこみであったのだろう。外に出していたコッヘルの水は厚く凍っている。昨夜の豚汁を温め、けさは早立ちだ。キンザキリから谷をトラバース。斜面の雪はクラストとし2、3回のけこみが必要である。杉越でいよいよ霧立越の稜線に出る。
霧立越というものの普通の越とは大へんちがう。波帰から始まり椎葉尾八重狩底に至る延々20数Kmの尾根縦走路を昔の人は霧立越と呼んでいた。那須大八郎が平家の残党を追って通ったというのもこの越で、昔は椎葉へ通ずる唯一の関門。当時は牛馬の背で荷を運んでいたという。うっそうとした木立に身をおき、その長い悠久の日に思いをはせると感慨は深い。この一刻一刻が大きな歴史の潮流となり、現在から過去へ、過去から過去へと消え去ってゆく。そんな際限の瞬時を今無性に感じるのであった。」
私の原点は、こんなところかも知れない。

関寛斎の足跡として「九州旅行 耶馬溪〜霧島」と地図にあった。しかし、年表を見ると明治25年4月、62歳のとき「月ヶ瀬の梅・耶馬溪・霧島山・阿蘇・高千穂」が行き先であった。椎葉は通過のコースとして考えられないことはないが、当時はまだ未開の地で険しかったと思われる。
この年表の記事に、「佐々木」氏の名前があった。観音詣でに同行した「旅宿」の人である。関寛斎は萬延元年(1860)30歳の時、浜口梧陵のすすめにより長崎行きを決心し同年11月3日江戸を出発した。この長崎行きに同行したのが佐藤舜海・佐々木東洋・益田宗三で、佐倉順天堂の同じ門下生である。正確には舜海は順天堂を開いた佐藤泰然に才を認められ養嗣子となり、塾頭であったので彼に寛斎らが同行した。「佐々木」氏とはこの「佐々木東洋」ではないだろうか。案内人の長嶺氏は長崎の人か。
同年表によると、関寛斎は翌年の文久元年、すなわち観音詣での年に幕府軍艦咸臨丸の補欠医官になっているが、何月かは不明のため記していない。

実はこれまで完全に紹介し忘れていたが、幕末期をあやなした蘭方医学者、松本良順・伊之助こと司馬凌海・関寛斎が、司馬遼太郎の朝日新聞に連載された小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。
題を『荘子』からとって「封建社会の終焉に栩栩然(ひらひら)と舞いとぶというのは化性(けしょう)にも似た小風景といわねばならない。世の中という仕組みがつくり出すそのような妖しさは、単に昔だったからそうだということではなかろう」と最後は結ばれ、陸別の地を訪れたときの感慨を、「血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった」とも「寛斎の影がいよいよ濃くなってくるような気がした」と表わされている。ぜひ一読をお薦めしたい本である。

本文87・88頁でふれた引用資料「橘湾の漁労習俗」の本は、香焼地区公民館にあった。借り出しがなくすでにお蔵入りしていて、3階の倉庫から探してもらうのに手をわずらわせた。
これは昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。文化庁の指導と補助を受け、長崎県における内湾水域の一つである橘湾沿岸の漁村に残存する漁労習俗に関して、記録・保存を図るため調査は実施された。海女(海士)・大村湾につぐ第3回目であった。
諸条件を考慮し、県内4地点が調査対象地域となり、池下など他の3地点とともに「為石・川原・宮崎」地域が選ばれた。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の道の記述はなかった。

「みさき道」や「脇岬村路」も、故老が健在な間にこんな方法を講じられたらと残念である。折しも県立図書館の資料課は、新しく建設している「長崎歴史文化博物館」への移行期に入り、文献の閲覧ができなくなってお手上げとなった。ここで一応、研究レポートに区切りをつけ印刷にかかった。                             (平成17年8月28日記)

研究レポート第1集『江戸期の「みさき道」−医学生関寛斎日記の推定ルート』に収録。

「Mみさき道歩会」の組織と活動の状況

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「Mみさき道歩会」の組織と活動の状況

1 会の名称と発足
「Mみさき道歩会」は、平成15年3月頃発足しました。この頃からそのような会の名称を使っているようです。2のとおり実態のない組織と理解してください。
読み方は「みさきどうほかい」と読みます。頭の「M」は「みさき」と「山」の意味で「M」をつけました。単なる語呂合わせです。「みさき道」を大いに歩くこと、また「みさき」とは長崎半島全体を指す言葉ですから、この自然を楽しもうということです。

2 会の目的と組織
三和町(合併前。以下同じ)は、「みさき道」の中間地点です。道塚4本が残っており、今でも街道の雰囲気がただよう長い山道にかかる、ちょうど入口となります。
このため三和町教育委員会や三和町史談会では、「みさき道」研究と保存が行われていました。私たちはこれに協力するため、草刈り整備のボランティア活動を主にして、同時に「みさき道」の調査研究も行うことにしました。
あわせて、「みさき道」に限らず対象エリアを広げ、八郎岳山系をはじめ、長崎半島と市周辺の山々になるべく親しむための行事を実施し、距離・時間の計測や道案内の道標プレート、休憩ベンチの設置などを手がけています。最近は、市外・県外の山への企画も組んでいます。

会と言うものの、特別な組織ではありません。地元を中心にした有志と、その他協力者の集まりに過ぎません。会則・会員登録・会費などありません。道の整備をはじめ、会としての行事に参加された方、調査研究に協力していただいた方が、会員と考えています。 対外的に必要なときだけ会の名称を使用します。あくまで連絡者として、代表1人がいます。

3 会の活動状況(略) 別項「長崎の山野歩き」の各記事とコース地図参照  
4 会の連絡先 (略)