月別アーカイブ: 2007年7月

八郎岳天測点と大久保山子午線標の調査

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八郎岳天測点と大久保山子午線標の調査

恒星を観測して経度・緯度の座標を決める天文測量に使用した天測点は、全国に48点あり、長崎八郎岳(標高589.8)には、地理調査所によって昭和33年設置された。その対となる子午線標は、天測点のほぼ真北、約4.6kmの大久保山にある。
機器の改良によって、昭和34年以降は使われず、つかの間に役目を終えた標石となった。

外海地区の佐賀藩深堀領藩境石 2  寄稿 川上 正徳

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外海地区の佐賀藩深堀領藩境石 2  寄稿 川上 正徳

「ゆうこう」と呼ばれる柚の一種は、長崎市土井首などに昔からあった(写真下がゆうこうの実。優しい香りと筋の山があるのが特徴)が、友人川上君らの尽力により新種の果樹であることがわかり、園芸学会で認められた。
世界スローフード協会の「味の箱舟」に登録されるよう、2006年10月イタリアトリノ世界大会に参加している。

この果樹は、出津教会ドロ神父がもたらしたのではないかと考えられ、川上君は長崎県内や佐賀県馬渡島などキリシタンの関係地で木の分布を調べるとともに、佐賀藩深堀領の飛地が多かった外海・三重地区でその藩境と石塚の調査に取り組んでいる。

正月登山・大久保山  寄稿 松林 重宗

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正月登山・大久保山  寄稿 松林 重宗

松林水彩ギャラリー別館・お遊びの部屋「低山趣味の山登り」(松林重宗ホームページから)
2006年1月4日(日)曇の記録
魚見岳の台場跡、大久保山の藩境石塚と子午線標、もう一つの古道戸町から白崎を紹介している。 

多良見西川内の道路改修記念道案内標石

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多良見西川内の道路改修記念道案内標石

多良見JR市布駅から後方川沿いの谷間車道を上流に向けて走る。西川内のバス停終点からまだ500mほど行くと、橋の手前で広い駐車場があり、車道が左右に分かれる。写真のとおりののどかな場所。無線柱の根元にこの標石がある。城跡津屋岳の山腹に長崎バイパスが見える。

古賀町陸角氏が3年くらい前、たまたま津屋岳からこの道の方へ下ってきて見かけたという。話を聞いたとき、長崎街道などで見る藩境石と思った。平成19年2月16日陸角氏の都合がつき、森田氏の車で織田先生も誘って出かけたが、そうではなかった。場所ものどかだが、しかし、標石も苔むしてのんびりとして珍しかった。
寸法は、21cm角、上面四角錘まで高さ170cm。右面「改修記念」、「名代」1人と「改修委員」6人の名前あり。右面「大正十二年春」。正面がふるって、上に「指差し」の絵あり「大草村 伊木力村へ上り十三丁十間」とあつた。

「指差し」から、左右の分岐は右コンクリート道が改修道路と思われるが、最近地形図では途中から山道となって多良見普賢岳の鞍部を越す。陸角氏は地元からあと1本あったと聞いているが、まだ探しきれない。改修道路の起点と終点に建てたのだろう。
どこかにある標石をまねたのか、年代は新しいが格調高い造りと織田先生は感心しておられた。多良見郷土誌から調べてみたい。

研究レポートでこの標石の写真を見た京都市上西氏(近代測量史研究)から、宮城県白石市にも似たような標石があると、連絡を受けている。(一番下の画像)
「上から指向する手の形、つぎに英文筆記体で横書き「Main Road Tokio」、その下から縦書き「一等道路東京街道」とありました。彫りが薄く、写真にはうまく現れていません。」

多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊新版の750〜751頁には、西川内の標石は次のとおり紹介されていた。
7,道路改修記念碑 ここ源八から千年首(千人首)までの道を改修整備した記念の碑。「大草村、伊木力村へ上り十三丁十間 大正十二年春 改修記念 名総代松尾喜久之助」他改修委員五名の名を刻む。十三丁十間は約一・四粁である。

茂木河平の「戸町二至ル」標石

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茂木河平の「戸町二至ル」標石

茂木へ下る途中の「河平」バス停から、コンクリート舗装の急坂道路を100mほど下ると、河平川谷間の旧県道(明治新道の茂木街道)へ出る。出合い口の両脇に標石はある。
左は「戸町二至ル」「昭和三年十一月 御大典記念 河平青年団」。寸法は、16.5×14×53cm。この標石は、茂木街道から分岐し、現在の唐八景の市民の森入口(八郎岳縦走東登山口)を越え、戸町に至ることを指す。
標石の写真は、どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第四集」に載せられ知られている。

気づいたのは、道路の反対右側。別に苔むした古いコンクリート石柱が石垣に倒れるように立てかけられていた。上の方に「指差し」マークの凹みがあるが、下部は摺り減って字がわからない。寸法は、18×11×87cm。
鶴見台森田氏の記憶では、これは茂木地区によくあるバス停上の「四国茂木八十八ヶ所第七十九番霊場」札番所へ行く道案内標石である。

(追 記  平成21年9月11日)
「戸町二至ル」標石が指すルートについて、宮さんの本日付ブログ記事があったので次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21001284.html
当時のルートの参考のため、明治34測図国土地理院旧版地図を最後に掲げる。現在の地形と比べてもらいたい。

旧版地図の右端、水車小屋のマークがある下の分岐が「戸町二至ル」標石がある所である。唐八景の鞍部へ向かって登り、道が交差する所が現在の市民の森入口(八郎岳縦走東登山口)。この鞍部はまっすぐ越し戸町側の谷間へ入る。
ちびっこ創作村・立岩大師を通って、星取山手前から下ってきた小径と合い、現在の小ヶ倉水源池の湖底に明治時代から戸町へ下る街道があったことがわかるであろう。
昔の戸町への街道跡は、唐八景の鞍部からも以下湖底へ消えるまで、まだ残っているのを確認している。

多良山系大花山の藩境塚 (1)

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多良山系大花山の藩境塚 (1) 平成18年12月

長崎・佐賀の県境となる多良山系の縦走路の線は、昔から佐賀(諫早)・大村藩領のせめぎ合いがあった。萱瀬ダム手前田下から五家原岳直下の横峰越までは、昭和44年国体コースとなり主に整備された。大花山はここにあり、富川渓谷から上がったりして、しゃくなげの群落を見ていた。

林先生著「長崎県の山歩き」を読んで、35年ぶりに昨年12月、会の行事を組んで行った。小川内渓谷はやまめ釣りや渓流遊びで、その後も数年かよっていたが、山に登ることはなかった。黒木小岳小屋辺りは、河川公園として整備され一新していた。

横峰越にやっと上がり、西へ小ピークを越え、大花山の方へと向かう。地籍調査の測量柱とともに、古めかしい石塚を6基ほどこの間に見た。上部に「+」を刻んだ古い石柱もあった。予定の鳥甲山は時間がなくなり、手前の峠から黒木へ下ったが、大花山の先には、塚は見られなかった。

後日調べた「大村郷村記 第二巻」萱瀬村の項181頁の記述は次のとおり。
「内三方境土器石より廣荷床一の塚まで四町弐拾壱間、境塚あり 塚数拾七、内壱ッ諫早領と大村領との最合塚と云 左右野なり、此間につるの岳と云ふ険阻の野岳あり」
地名の判断ができず、これかどうかわからないが、郡岳(野岳か)の西登山口近くでも見ている。大花山のも富川の方の尾根が藩境と思われ、一度尾根を歩いて調べてみたい。

長崎街道の鈴田峠から、大村に向かって右手に入ると、風観岳に上がれる。享保10年(1725)藩境石塚は、約30m間隔で三百数十基築かれたそうであるが、諌早西部のこの丘陵地帯に、60基ほど確認されている。詳しくはインターネットに、「今村川畔の藩境石」とともにある。

追 記: 2011年2月、宮さんが撮影した大花山の藩境塚写真は、次の(2)を参照。
https://misakimichi.com/archives/2558 

矢上普賢岳・多良見経ヶ岳  平成19年1月

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矢上普賢岳・多良見経ヶ岳  平成19年1月

矢上普賢岳は標高439m。普賢神社と不動明王・白衣観音像が山頂すぐ下の岩場にあり、1,800はある石段登りは有名である。少々覚悟して行った方がよい。参道入口は、矢上交差点から入った侍石に鳥居がある。情緒残る坂道をしばらく歩き、矢上霊園脇からいよいよ石段登りにかかる。この左手に小さな「普賢山道」標石が写真上のとおりある。

中腹の稲荷社までは車道が上がり、車道に出入りしながら、山頂をめざす。石段のすべては昭和12年頃寄進して造られ、数段ごとに遠く高浜村も名のある信者の寄進碑が傍らに建っていた。普賢岳頂上は橘湾の展望を楽しめる。

行仙岳から北西に尾根をとると、1時間ほどでNTTアンテナ塔のあるところで車道に出る。普通はここから東町彩が丘団地へ車道をそのまま下るが、山道が続かないかとNTTアンテナ塔裏手のピークに登ってみた。古い地蔵が大きな樅の木の根元にあって、広場にはあゆみハイキングが2001年設置した「多良見経ヶ岳」の山頂標識があった。彩が丘団地へは、尾根を下る山道が途中まではまだ判然としていた。

江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルートとその図

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江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルートとその図

これは、「長崎の空」277号(平成17年8月)長崎歴史文化協会短信の掲載稿である。
なお、『長崎談叢19輯』の引用文は、関寛斎『長崎在学日記』の原本と相違する字句があり、北海道陸別町同資料館にある原本の写しを、みさき道歩会の研究レポート第1,2集に収録している。

現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項

1 「みさき道」は特別なルートの道ではなく、旧来からあった長崎からの深堀道と御崎道ないし野母道をつないだ道である。これに分岐合流する長崎往還・岳路道・川原道等も考慮する。
2 近隣の集落で戦後もしばらく「脇岬参り」や「オカンノン様参り」という、正月や月毎に観音寺参りが行われていた。川原方面から半島東回りコースもあり、明治32年の道標石柱が現存していた。
3 脇岬沖が唐船の入出港経路であったため、「みさき道」や脇岬観音寺の密貿易(抜荷)との関連を言われるが、そういったことを推定できる文献はあまり見られない。
4 道塚を建立した今魚町も同じである。なぜこの町が道塚を建立したか。そして道塚が五拾本あったかは、依然として推測の域を出ない。
5 関寛斎日記に記した道中の「大きなる石」は弁慶岩、「笠山岳」は大久保山、「南岸の砲台」は小ヶ倉千本山にあったとされる砲台と考えられる。「加能峠」やいわゆる「古道」は不明である。
6 貴重な史料となる明治29年2月「深堀森家記録」が見つかり、源右衛門茶屋・鹿尾川渡り・深堀入口の鳥越険坂の状況が判明した。
7 ダイヤランド団地内には、開発前に道塚3本があった記憶談を得た。当時、測量に当られた方に聞くが所在はわからなかった。しかし、「みさき道」は確かにこの団地内を通ったと考えられる。
8 鹿尾川は、現土井首大山祗神社鳥居前で、「渡瀬」(飛び石)であった文献と地図類を確認できた。角川書店「日本地名大辞典」による「渡し場」は表現上の不足を感じ、後コースも疑問がある。
9 これより先、前記辞典の記した土井首村内のコースと、江川までどこを通ったかはまだ確定できないが、ある程度の考証ができる関係資料があり、現在も調査中である。
10 深堀までは、江川河口で二本の小橋渡り、鳥越峠越えして深堀に入った。そして深堀からは伝承がある地蔵が残る「女の坂」古道が街道であり、八幡山峠は大籠新田神社と推測できた。
11 平山台上配水タンク地点が関寛斎日記の長崎道分れ(帰路)となり、蚊焼茶屋は清水が今も流れていることがわかり、蚊焼峠とともに従来言われた地点と違うことが推定できた。
12 一永尾を通り徳道からゴルフ場裏門の道塚に出て、喪失した旧町道沿いに高浜毛首の延命水に下る。これが「みさき道」の本道であり、「岳路みさき道」また川原道との合流地点と思われる。
13 蚊焼から岳路を経由するもう1本の「岳路みさき道」があったと推定された。高浜の町中また古里までの道もほぼ確定でき、堂山峠までも街道の山道を草木を払って復元することができた。
14 これまで他資料による「みさき道」の説明は、観音寺で終わっていたが、関寛斎日記により帰路まで調査を行った。この結果、脇津の蒟蒻屋・観音道・堂山西の野母道などが明らかになった。
15 脇岬海岸にある「従是観音道」の道塚は、元禄十年(1697)建立。ひと昔前の古い道であるが、脇津村古地図にきちんと描かれており、字図調査と現地踏査によりこの喪失ルートを確認した。
16 関寛斎一行が、野母の船場に行き風強く出船なく、この後「野母権現山」に行った(野母崎町史年表)であろうか。漁家喫茶の前に「只一望のみ」とあり、時間的に無理であったと考えられる。
17 堂山西を通り高浜へ出る。これも「みさき道」形成の一つの要路である。今まで不明であった「野母道」を明らかにすることとなる。必ずしも海沿いでないことが判明した。
18 徳道から岬木場を通り、殿隠山・遠見山の尾根道を行く「みさき道」があったか。考えられなくはないが、道の連続がない。字長迫より井上(いかみ)集落などを通り脇岬へ下るようである。
19 国土地理院に明治34年測図旧版地図、県立図書館に明治18年「西彼杵郡村誌」があり、判断の基準となった。また天明七年の大久保山から戸町岳に残る藩境塚を新たに確認した。

(注)この稿は、当会の研究レポート第1集26頁に掲載している。

千々川納手岩三段滑滝  長崎の隠れた名滝

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千々川納手岩三段滑滝  長崎の隠れた名滝

長崎のギネスブック「長崎なんでもNo.1」が昭和63年刊行されている。地形編で、大きい滝は「平間町 滝の観音 落差30m」しか紹介されていない。滝・巨樹・石・景観・古道等の調査が本にはあまりなく、ランクがないので物足りなく感じる。若い人が今後、ぜひこの方面の調査に挑戦してほしい。

「滝」の厳密な定義は知らない。長崎山岳会故臼木寅雄氏は「只見た時の感じに過ぎないので、たとえ二米そこそこのものでも落水有壺で遡行を妨げる崖を拾い上げたまでである」と注釈されている。
氏を取り上げたのは、千々川に関する貴重な記録を私が手元に持っているからである。
長崎山岳会会報「足 跡」No.13/1969.12。「特集…千々川」。

千々川は八郎山系の裏側にあり、橘湾にそそぐ。長崎半島で最大の流域と豊富な水量を有したが、当時は至って交通不便、辺ぴな地域で、遡行を試みる人は稀であった。
長崎山岳会がここに最初に足を入れたのは、昭和32年。それから10年をかけた踏査結果が、会報に「千々川遡行 臼木寅雄 昭和42.10記」として掲載されている。核心部分の記述は、次のとおり。

「八郎川の合流を左に見送り尚も遡行を続けると両岸から支稜が押迫り川筋を扼するようになると突如として一大岩壁が立塞がり滔々として落下する高三十米位の大滑滝が現われる。納手(のうて)岩と云う。右岸を注意して登ればザイルなしでよいが初心者には安全を期してザイルを用いる必要がある」

同会山崎氏撮影の「納手岩滑滝」当時の写真は、上のとおり。普段は水量がなく大雨の後しか出かけられないが、この記録と見事な写真を見て、千々川遡行を若い頃に3度ほど試みた。
現在の千々川は、長崎大水害後、大きく変貌した。川にはコンクリート堤防が何箇所も築かれ、上部宗津地区は地すべり防止工事があって山道が寸断されている。八郎岳を越す大崎林道もできた。

現在は川の遡行はできないが、この滝へかえって行きやすくなっている。滝の上部には前から部落の上水道取水口があったが、千々バス停から農道が奥まで上がり、農道終点手前からパイプを敷設している山道を20分ほど歩くと、取水口の淵に着く。この下流に10分ほど急斜面の山道を下ると滝下に出る。
最近の写真は、梅雨の合間を見計らい、増水した平成19年7月8日、現地へ行って撮ってきた。

私の印象から言えば、長崎市内第一の名滝は、この写真のとおり千々川の落差30mある「納手岩三段滑滝」、次に藤田尾「津々谷の滝」がランクされるのである。

14 茂木砲台

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[所在地:長崎市北浦町]
・海軍海面砲台十二糎砲1門を配置
・赤崎鼻側のダトママ(現在長崎南商高グランド)に2門あったと地元証言あり、調査中
・第一〇二分隊片淵敏夫兵曹長部隊
(一部高谷氏資料から)