長崎要塞地帯標・軍港境域標」カテゴリーアーカイブ

1−特 小瀬戸遊園地の右角隅  (長崎要塞第一地帯標? 所在不明)

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1−特 小瀬戸遊園地の右角隅  (長崎要塞第一地帯標? 所在不明)

小瀬戸郵便局の右側に小瀬戸遊園地がある。前小榊小学校跡地で車道に面した右角の電柱脇に10年前位まで陸軍省の石柱があった。近くの小瀬戸久田氏と別に前自治会長峯氏から聞いた。略図にない地点だが、確かな証言である。今回の調査(平成17年12月20日から約1か月間に及ぶ)により新しく判明したが、所在は不明となっている。

(この標石は上記のとおり研究レポート”江戸期の「みさき道」第2集”平成18年刊147頁に調査結果を報告。小瀬戸遊園地は木鉢カトリック教会登り口右側のフェンスがある所。標石があった右角隅は側溝が整備され、電柱が立っていて写真を撮っていない)

2−A−特 福田崎 (確認 長崎第二地帯標 第ニ号)

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2−A−特 福田崎 (確認 長崎第二地帯標 第ニ号)

長崎要塞第二地帯標が、思いがけない場所で新たに見つかった。福田本町の福田崎。ほかの用件があって福田崎へ行き、きのう偶然に見つけた。
福田崎には、式見から瀬渡し船がある。歩いて行くには「ゴルフ場入口」バス停手前から海岸へ下る釣り人の道がある。山道に入ってすぐ二手に分かれるが、右下の植林地内の道を谷間へ、 10分ほど下ると海岸に出る。

しかし、これからが大変である。丸石の浜の先に断崖が待ちうけ、危険な岩場をロープ伝いなどして20分ほど先へ進む。海に突き出た高い岩場の上に標石の姿を見た。
「長崎要塞第二(刻面は第二区)地帯標」「第ニ号」「昭和十四年三月」「陸軍省」である。「昭和」の年月は珍しく、資料のとおり、告示3次改正の一時期のものと判断された。18cm角、高さ70cm。

これと同じものは、小江の野島にある。野島はかつて小江の湾にあった小さな島。今は埋立てられ、島の姿は埋立地内にそのまま残る。平成18年3月、野島のピークに「第一号」があるのを確認していた。野島の標石は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/127

福田崎の標石が、この「第二号」である。手持ち資料「長崎要塞地帯略図」の標石地点に表われていない場所。釣り人は知っていたであろうが、新たな発見となった。
標石番号は第一号から時計回りで整理していたが、実際の標石番号は逆回りのようだ。昭和の標石で仕方がないので、福田崎の整理番号は「2−A−特」とした。
ほんとうの福田崎の目指すものは、まだ30分海岸を先へ歩いても到達できず、瀬渡し船でしか行かれないことがわかった。

石段にされていた陸軍省標石  伊万里市東山代町

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石段にされていた陸軍省標石  伊万里市東山代町

佐世保市在住の高橋輝吉さんは、戦時中、佐世保鎮守府があった佐世保や、軍需物資の積み出し港として宇品(広島市)とともに全国で2ヵ所、陸軍輸送港域に指定されていた佐賀県伊万里地域の陸軍省標石を、丹念に調査されている。
高橋氏の足跡はこれまでも紹介しているが、先日、また珍しいコピー写真が送られてきた。場所は伊万里市東山代町浦川内あたりと思われる。4年ほど前とのこと。メモ書きは、
「伊万里東山代より松浦市への山越えの横道で、3,4回目、此の一帯石の手掛かりなし。偶然に発見。先方、佐賀のGHQがと後は声なし。奄美でも20本を海へドブンで終わり。旧陸軍の遺物を整理したのかなー」

写真を見ると、数本の標石が石段にされている。伊万里一帯には、当時はそれこそいたる所の里道、海岸、山中などに100本以上が、陸軍の警戒区域を示す標石として設置されていた。
戦後、大戦の遺物をGHQが撤去した際、不要な標石をこのような石段に転用することも許したかも知れない。今となっては、珍しく貴重な光景である。
高橋氏は1年前、再びこの場所を訪ねた。石段はすべてコンクリートの新しい階段に造り代えられ、標石は上の広場に放置されていた。お蔭で石をひっくり返し、リストどおり標石の刻字を確認できたが、後日の保存が心配となる。

リストにあるのは、法改正により佐世保を削り長崎とした明治32年7月14日「長崎要塞区域標」が7本、昭和15年6月10日「陸軍輸送港域第一区標」が1本の計8本。
高橋氏は伊万里地域でこのほか、23本ほど探し出している。後のカラー写真がその主なものの一部。黒髪山から縦走コースの青螺山山頂で見る標石も、この種の1本「陸軍輸送港域第ニ区標」「第四十号」である。

1−E 帆掛山の山頂直下  (確認 長崎要塞第一地帯標 第十五号)

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1−E 帆掛山の山頂直下  (確認 長崎要塞第一地帯標 第十五号)

尾根道を北に向けて急な登りが10分ほど続き、帆掛山(植林地となり地元で「ヒノキ山」とも言う)三角点172.2mに着くすぐ手前、竹林内平地の溜穴の傍らに建つ。
標石は「長崎要塞第一地帯標」「第十五号」である。

この道は、女神大橋天門峰から飽の浦峠を通り稲佐岳へ続く縦走路である。障子岩山は戦時中、陣地構築のため山容を変えた。今は西泊ヶ丘と称し広場となっている所もあるが藪である。
障子岩山の今も残る陣地跡や三菱造船所が直下に見える立神山を通るが、この尾根道には地帯標石2本と天門峰の地理局測点以外、見あたらない。

なお、その後の平成19年7月29日、飽の浦峠の手前、旧峠道市道の道脇に「長崎要塞第一地帯標」「第一六九号」が見つかっている。
詳しくは、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/145

1−D 西泊中学校裏のピーク  (確認 長崎要塞第一地帯標 第十四号)

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1−D 西泊中学校裏のピーク  (確認 長崎要塞第一地帯標 第十四号)

木鉢側から西泊中学校のグランドへ石段を上がり、校舎左脇の山道に入り5分ほど登った小高いピークにある。
標石は「長崎要塞第一地帯標」「第十四号」である。

波佐見の宿橋で見た長崎要塞地帯標  東彼杵郡東彼杵町宿郷

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波佐見の宿橋で見た長崎要塞地帯標  東彼杵郡東彼杵町宿郷

9月4日、波佐見町中尾山の窯元「山慶」前の煉瓦造アーチ石橋を見に行った。その帰り川棚へ戻るため、波佐見町の現在の中心通り県道1号線でなく、南側の街中の旧道を通った。
大イチョウを過ぎると、川棚川に架かる「宿橋」を渡る。
橋のたもとに古い標石が立っていた。何かと見ると今は架け替えられている「宿橋」の、昔の橋名銘や架橋年月日のある親柱類。この一角に大切に保存されていた。

このようなことは、他所の橋でもよく見られる。気をひいたのは、真ん中の大瓶の下の低い標石。2面上部に「陸」と「第」の刻字があり、黒ペンキ塗りされている。下部は埋められ刻字不明。
まぎれもない佐世保地域の「長崎要塞地帯標」である。裏面へ回ると「長」の字があった。
説明板がなく、この標石の詳しくはわからない。佐世保の高橋輝吉氏へ聞いてみなくてはならない。高橋氏は、この場所の標石の存在を知っているのだろうか。

原書房刊「海軍制度沿革史」巻十五 昭和47年発行(海軍省編 復刻原本=昭和17年発行)127〜130頁の「◎長崎二於ケル陸海軍防禦営造物ノ地帯区域」によると、波佐見地区は、「要塞地帯法」関係の次の告示改正別図に表われる。
「長崎要塞地(其二)」の図中、「上波佐見」「下波佐見」の地名のあるところが、概ね宿郷「宿橋」のある地点である。(其一)は長崎市、(其三)は五島灘江ノ島近辺の図。

昭和十一年八月一日(陸軍省 海軍省告示六)
明治三十二年八月陸軍省海軍省告示中左ノ通改正ス
「長崎要塞地」ヲ「長崎要塞地(其一)」二改メ左ノ図ヲ加フ
長崎要塞地(其二)
長崎要塞地(其三)

長崎要塞地帯標は、明治32年設置されてから、何回かの法改正と地帯変更があった。終戦後、戦争遺物の市町村資料はすぐ廃棄され、標石はほとんど撤去された。地元でも詳細を知る手がかりがない。
波佐見町「宿橋」の標石は、上記の頃の告示改正が設置年代の目安となるだろう。詳しくは高橋氏が調査し、地元へ伝えてもらえればと思う。

高橋氏のこれまでの調査によると、波佐見地区の標石を同氏は次のとおり確認している。
① 第 1号 川棚民俗資料博物館にあり ② 第11号 西有田民俗資料館にあり
③ 第22号 個人宅にあり ④ 第32号 有田近くの寺にあり

富士見公園で長崎要塞地帯標が見つかる

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富士見公園で長崎要塞地帯標が見つかる

明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」のこれまでの調査結果は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/54
平成17年12月から佐世保市の高橋輝吉氏と合同調査を行い、現在までの次のとおり標石の現存を確認している。(第一地帯標「飽の浦峠」分も含む)
第一地帯標 確認 7本  第二地帯標 確認 7本  区 域 標 確認 10本 計 24本

調査の資料となった「長崎要塞地帯略図」の中、第二地帯標「2−E」の地点は西高や活水高あたりを考えたが、不明のまま次の「2−F」浦上駅とも爆心地に近く、もう標石は現存しないだろうと思っていた。
先日2008/8/19、ブログ記事を見た [ zarakiri ] 氏から思わぬコメントをもらった。
「同じような地帯標は市内の富士見公園にもあります。穴弘法の裏山でも変わったものが見れると思います 」

ありがたい情報である。さっそく出かけた。西城山通りの富士見町「富士見公園」正面から、園地の周りを左方へ車道か遊歩道で行く。城栄町側公園入口の石段脇の植え込みの中に標石はあった。
「陸軍省」「長崎要塞第三?地帯標」「第五十五号」「明治三十二年六月十日」を確認した。
「2nd.Z」と刻みながら、下部漢字が「第三地帯標」としか読めない。番号の続きも悪い。要塞地帯法がたびたび改正され、標石の転用は多く見たからいいとしょう。高橋氏が喜ぶであろう。

この標石は、移設されたことも考えられる。昔、このあたりの道路を通り、どこかで不思議な石柱を見た覚えが、私にもかすかに蘇えった。
「穴弘法の裏山の変わったもの」とはどんなものだろうか。 金比羅山の高射砲陣地防空壕跡などは見ている。要塞地帯標などであれば、ぜひとも場所など詳しく教えていただきたい。

海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」の標石  佐世保市隠居岳

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海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」の標石  佐世保市隠居岳

長崎市と近郊にある「長崎要塞地帯(区域)標」の所在は、これまで詳しく紹介している。
これは、平成20年6月8日、佐世保市隠居(かくい)の森ウォーカーズ・パークへ行って見かけた「海軍省」の標石。
隠居岳(標高670m)に登り、オサイ峠へ向かうため、山頂から宇戸越へ下った。「隠居岳山頂0.4k← 宇戸口橋0.7km→」の距離標の次に写しているから、このあたりの地点である。下山道の脇に古い標石を見かけた。

刻面は4面。「佐世保軍港境域標」「第二九八号」「海軍省」「昭和五年十月」とある。
とりあえず写真に写した。
この標石は、次のとおり記録がある。ここでは関係する一及び四の部分だけ抜粋する。(「研究レポート 江戸期のみさき道 第2集」163〜167頁に資料全文を掲載済み)。

(資料5)  三間 十郎氏稿 「長崎要塞地帯標石の一資料について」
佐世保史談会発行 「談 林」 第14号 昭和47年9月   21〜26頁
一、
何といっても私共の郷土にとって消えがたいのは、旧日本の影像でもあった佐世保軍港のことである。が今私がここにとり上げてみようとしているものは、その偉大な軍港、海軍といったかげに隠れたような存在であった陸軍の要塞についてである。
はなばなしい存在ではなかったが、この地域住民にとっては密接不可分的な陸軍省のお役所があった。その要塞法の遺物である標石がまだあちこちに見かけられるようである。
山登りのついで等フト道わきに見かけるそれらの標石の前に佇んでみたりして、なつかしいという程の思い出の種にはならぬにしても、そのあとづけに何がしかの興味を覚えられる方もあるだろう。…
四、
要塞地帯標とは別に軍港境域標と云うものがある。参考までに一部資料にふれておく。
佐建財第二一四號
昭和五年十一月七日               佐世保海軍建築部長
軍港境域標柱及標札建設二関スル件照会
今回佐世保軍港境域改正ノ結果貴村内(註柚木村)二於テ別図指定ノ民有地内二境域標柱及標札ノ建設ヲ要スル事ト相成候就テハ地主ノ承諾ヲ要スル義二付乍御手数別紙書式二依リ地主ノ承諾書ヲ徴シ回付方御取計相煩度(終)
(附図上二図示)
栗木越〜八天岳。第六一号〜六五号
八天岳〜隠居岳。第二八六号〜二九八号
(註)この間オサヨ越南〜隠居岳間第二九三より二九八号までをこの時新設した。
(参考)
昭和五年十月二十四日               海軍大尉 田中 健介
(軍港境域決定ノ件)
来ル廿七日(月曜日)ヨリ三日間貴村二関スル佐世保軍港境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)ノ決定ヲ致度就而貴村吏員一名御立会ヲ得度右通知ス(以下略)
(註)右に掲げた田中海軍大尉の書簡中に境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)と示してあるところの「西ノ岳」と云うのは所謂国見岳のことであろう。我々地元では「西ノ岳」と云へば通常隠居岳のことを指して謂うのであるが、而しながら国見岳のことを「西ノ岳」と云う例もある由。…

資料は以上のとおりである。「八天岳〜隠居岳。第二八六号〜二九八号 (註)この間オサヨ越南〜隠居岳間第二九三より二九八号までをこの時新設した」と記しているとおり、隠居岳に「二九八号」を設置した。
この標石が今も下山道の脇に残っていたのである。

この関係は、佐世保市高橋輝吉氏が標石の所在を詳しく実地調査されている。同氏の調査によれば、八天岳〜隠居岳間では半分あり。
オサヨ越南〜隠居岳間の第二九三より二九八号に限れば、二九四、五、六、八号はあり。二九三、二九七号は所在不明だそうだ。
戦時中の忌まわしい標石といえるが、そういう時代が再び国策によって招来しないよう、時の証人となって残っている。氏も次兄を陸軍船舶工兵として戦死させた。
最後の写真は、佐賀県黒髪山系の青螺山頂で見かけている伊万里港「陸軍輸送港域第二区標」「昭和一五年六月十日」の標石。

区—G 帆場岳(三つ山)山頂直下 (確認 長崎要塞区域標 第三十六号)

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区—G 帆場岳(三つ山)山頂直下 (確認 長崎要塞区域標 第三十六号)

この山の標石は山頂直下、登山道の尾根道から8mほど外れて下にあり、「長崎県の山歩き」に記述なく、あまり登山者に知られていない。標石があることを教えてくれたのは、平成18年1月2日「みさき道」初歩きに参加した大手町木村氏である。
西山台団地から現川峠に上がり、最左の現川山の神へ行く方向の車道を400mほど行くと、帆場岳造林管理用道路が山へ上がり、一般の車はチェーンを張って通行できないが、歩くのはよい。

この終点に標石「長崎要塞区域標」「第三十六号」はある。現川峠に道の案内板がある。帆場岳まで尾根登山道は約1.5kmである。どちらを通ってもよいが30分はかかる。
アンテナ塔がある山頂直下、最後の登りにかかる鞍部の道脇下の植林内に標石はある。林道終点のUターン広場が見え、気をつけて見るとわかる。この山が市内・市外のほとんどから眺められるように、山頂標高506mからの展望は抜群である。

「陸軍所轄地」などの標石が大村の三城城跡(忠霊塔)にもあった

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「陸軍所轄地」などの標石が大村の三城城跡(忠霊塔)にもあった

大村市三城町にある三城城跡(さんじょうじょうあと)は、JR大村駅先の裏手の小高い丘。大村純忠(すみただ)と、その子喜前(よしあき)にわたる2代の居城。慶長4年(1599)、喜前が玖島城を築いて移るまでの城跡である。現在、本丸跡には県下6万余の第二次世界大戦戦没者を祭る忠霊塔がある。(大村市HP)

三城城跡の大木を見に行った帰り、下りの道で道脇に立てかけられた標石を見つけた。ここは今、道路工事中で折れた石は上部のみ。「陸軍用…」とあった。付近をよく探すと、道の両脇に数本があった。ほとんどは「陸軍用地」と刻まれていた。
築城前墓碑跡の下の石には「陸軍所轄地」とあった。丁寧にも下の道路からの歩道石段には、上下左右の4本が立っていた。

大村市は、大戦中は軍都。今も自衛隊の部隊がいる。三城城跡の場所がどう利用されていたかわからないが、ここに忠霊塔が建てられているのは、軍の要衝の施設があったためではないか。
長崎市浜平1丁目の中央タクシー本社横、「浜平中央ビル」の下角にあった原爆の熱線を浴びたと思われる「陸軍所轄地」の黒い標石は、先項で紹介している。
大村へ出向き、たまたまここで見つけたこの標石も、その関連から記録しておきたい。