長崎要塞地帯標・軍港境域標」カテゴリーアーカイブ

陸軍省要塞地帯標 豊豫要塞に「F.Z.3rdZ」があった

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陸軍省要塞地帯標 豊豫要塞に「F.Z.3rdZ」があった

これも佐世保市住まい、陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。高橋氏は佐世保のみならず、全国へも出かけ、これら標石の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。
本文は、大分県「豊豫要塞地帯標」調査の記録である。資料・写真は多くもらっているが、ここに掲げるのはその一部であるので、了承をお願いしたい。
「F.Z.3rdZ」の意味は、https://misakimichi.com/archives/2433 を。

高橋輝吉氏稿  陸軍省要塞地帯標 豊豫要塞に「F.Z.3rdZ」があった

先の日清戦の後、明治32年「要塞法」が出来た。下関・長崎・豊豫も、その流れの中に組み込まれた。日露の時代を通り越し、軍拡の時代が来た。証しとして建てた、要塞地帯を示す標石が、下関には多くの標石が「S.M.」より「F.Z.」まで。長崎「F.Z.」3本。佐世保なし。奄美大島3本。

当地「豊豫」はと、3年位前より調査。古写真「S.M.1stZ 豊豫要塞第一地帯標」佐賀関標石は今は現物なし。要塞司令部は佐賀関に、豊豫海峡を睨む。特に大きい人が通る。誰だ。「大和」さんだ。「要塞法」により、昭和15年になると、拓く四国・宇和鼻一帯。臼杵・佐伯の海岸一帯が海峡。水道を中心に、要塞線が出来た。
臼杵の高い山「姫岳」(標高619.9m)に其の証しがあった。「F.Z.3rdZ」です。「大和」は昭和16年、此処を通る。○秘の時代と戦後の間、「姫岳」に立って居た。(注 昭和9年1号、昭和15年11号陸・海軍省告示参照)

下関方面が少し済み、「佐賀関」はと、3,4人の方と当り、探し求めたが今1つ。臼杵の史談会の方に当り、三角点と他に石有りと、此れかなと思い「姫岳」へ。豊豫水道を睨む標石「F.Z.3rdZ 豊豫要塞第三区地帯標」「第13号」「陸軍省」「昭和15年10月」(書は2日)。
地元の方は「F.Z.3rdZ」は、良く解しなかったと思う。「大和」が通った。「姫岳」標石は役目を果たしたのかなー。次に「武蔵」も通る。(「大和」昭和12年起工、昭和16年4月完、昭和20年4月7日沈没)

(写真説明の別書き) 姫岳頂上に有った「陸軍省」
豊豫要塞司令部は佐賀関だった。昭和15年になると、元の要塞地帯を広く、広く、東の方四国は西海岸一帯から、大分の「坂の市」下る「佐伯」に至る山の中、上は「戸塚山」より「石神越」に至る地域。
何んでこのようなー。若しや大きな人が2人通る。豊後水道を。「大和」「武蔵」さんだ。「大和」完成当時、2艦は極秘だった。頂上にあった標石も、2つ上の「F.Z.」で有ったが、少し標石には違和感を…。他の連山にも有るかなー。

陸軍省要塞地帯標 軍縮の標石を見た壱岐

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陸軍省要塞地帯標 軍縮の標石を見た壱岐

これも佐世保市住まい、陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。高橋氏は佐世保のみならず、全国へも出かけ、これら標石の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。
本文は、「壱岐要塞地帯標」調査の記録である。資料・写真は多くもらっているが、ここに掲げるのはその一部であるので、了承をお願いしたい。
壱岐要塞「黒崎砲台」跡の現況写真は、私が2008年9月、壱岐を訪れた際に写していた。猿岩展望所のすぐ近く。

高橋輝吉氏稿  陸軍省要塞地帯標 軍縮の標石を見た壱岐

下関と対馬間の島「壱岐」。軍縮の大砲を据え付けた島「壱岐要塞」。大正13年以降に実施。戦艦「土佐」より外した大砲。当時の軍部は困った事だと思った人が何人居た事か。今日思うと無駄な事だと思うが、当時としては「軍縮」が先です。
当時はすべてが大陸へ、大陸へと向かって居た。総てが大陸へ行けば何んとかなるさと。不況となって居た。大砲もその当りが来た。「ドイツ」より古い大砲。軍費の節約か。

佐世保・下関・長崎と、要塞地帯を示す標石が平戸市北部の薄香にあった。「壱岐要塞区域標」で「第8号」「大正13年8月10日」(上段写真)。要塞標石は節約の時代に造ったのかなー。標石は「コンクリート」製で、他の要塞地石は御影石で一部硬い石です。
他にも有るかなーと思い、「渡島」に問い合せた所、外人が持ち帰ったとの事。平戸の分は、釣り人の方が通り道に有りと、自分と同じ生年月日と言ってましたから、確実と思った。各地の標石を見た限りでは、石にも軍縮の波が。他には改刻が多く見られます。

対馬、壱岐はどうなっているのかなーと思い、対馬へ行ってみた。対馬には知人が居ます。多くの石、発見です。さて対馬、今年3月「豆酸(つつ)」に標石有りと。此処で変な標石発見。此の石は友人の方も存じていない「F.Z.」で、「無号」。「明治36年6月」で、今日まで見た石の内で、一番変化。ビックリしました。
海軍省説明の書の中に、鎮海湾(元朝鮮) 要塞地の標石に無号、廃止と。大正2年11月21日「告示」上の事。大正13年7月3日「告示」。廃止「4本」。何々、壱岐要塞地より、要塞地帯を示す石が、壱岐より4本廃止と。「黒崎砲台」を残してかー。対馬を重きに置き、壱岐は少し落ちたのかー。

さて壱岐には、要塞地帯を示す石はないと言って居たが、有りましたぞ。早速行って見ましたが、何んだ此れ、平戸に有った石と同じ造りで「コンクリート」製。「年月日」同じ。だが、「S.M.3rdZ 壱岐要塞第三地帯標」「第29号」「陸軍省」」(下段写真。黒崎砲台近辺の山中に有ったのを持ち帰り、個人宅へ据える)。
壱岐の方は、平戸の石を知りません。私は2つの石を見て、嗚呼と思った。「軍縮」標石だと。当時、軍部は○秘でしょう。別に梅津湾などに「陸」と印した石有り3本。用地用です。小呂の島には、墓石となる4本有り。

陸軍省要塞地帯標 「F.Z.」の標石を探せ!

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陸軍省要塞地帯標 「F.Z.」の標石を探せ!

これも佐世保市住い、陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。高橋氏は佐世保のみならず全国へも出かけ、これら標石の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。
資料・写真は多くもらっているが、ここに掲げるのはその一部であるので、了承をお願いしたい。
写真は私の撮影。長崎市に残る3本の「F.Z.」標石(小江の埋立地野島ピーク・福田崎の先端・飽の浦峠手前の坂道 詳しくは、本ブログの項リストにより前の関係記事を参照)。
そして高橋氏の北九州調査を伝える2007年9月2日付け読売新聞記事。

高橋輝吉氏稿  陸軍省要塞地帯標 「F.Z.」の標石を探せ!

事の起こりは、長崎市小江の「野島」に有った陸軍省標石が、昭和14年で「F.Z.2ndZ」、長崎要塞第二地帯標で、「第1号」だった。何々、何んでやね。「S.M.」かと思って居た福岡県芦屋の「F.Z.2ndZ」を思い出し、筑前大島を調べた所「F.Z.」が有った。奄美大島にも「F.Z.」が大島中央の所に有った。

北九州市小倉「蓋井島」「蓋之島」を要塞地図にて調べると、両島に通じ旧陸軍省の標石有りと。「蓋井島」の方が確実性有り。新聞より、6カ月前の事です。「蓋之島」は此れより後の事です。4回目にて終了しました。新聞の通りです。奄美にも「F.Z.」。前に「S.M.」の標石発見。

長崎にも橋本さん「F.Z.」発見。3本有り。飽の浦峠近くのは「第十六九号」?。何んと言うのかな?。「第十?六九号」「F.Z.1stZ 長崎要塞第一地帯標」「明治32年6月10日」
対馬にも有った。変化の元ともなった。「第  号」(無号)「F.Z.1sdZ 対馬要塞第一地帯標」「明治36年7月3日」。対馬は第一地帯とすれば、別図では昭和15年→「F.Z.」。それまでは「S.M.」にて明治でも「F.Z.」地帯…?有りきかなー…?

(資料 下関要塞の標石の例) 要塞地帯標と要塞地区域標

標柱石の表示に使用する標名は、第1〜第3区地帯を示す「地帯標」と、第3区外の区域を示す「区域標」がある。地帯標には「S.M.」(Strategic Mark Monumentの略)及び「1st.Z」(第1地区)〜「3rd.Z」(第3地区)と上部に記載される(Strategic=戦略上重要な)。下部には「下関要塞第※区地帯標」(※=一〜三)と刻まれる。大正15年5月1日以降は「S.M.」は「F.Z.」(Fortified Zoneの略)に改正される(Fortified=要塞化された)。側面には通し番号、設置年月日、背面には「陸軍省」の文字が刻まれる。

区域標は正面に「要塞地区域標」と刻まれるのみであり、側面・背面は地帯標に準じている。これらは約500m間隔で設置されたという。また、要塞地帯の範囲が変更される都度に、地帯標・区域標も改めて設置されたという。
今回、情報を基に現在も標柱石が残っているか踏査したが、まだ踏査が十分ではないことがあるが、内ヶ磯窯跡周辺を除き6点しか確認できなかった。芦屋町洞山の標柱石は、第三区を第二区に刻みなおした形跡があるが、これは法改正による区の再編によるものであろうとの教示を得た。

(此のコピーでは100%信用=?。昭和10年で「F.Z.」有り?。明治36年でも「F.Z.」有り??。昭和20年は全部が「F.Z.」だー。)

佐世保周辺 陸軍省「長崎要塞地帯標」と海軍省「佐世保軍港境域標」

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佐世保周辺 陸軍省「長崎要塞地帯標」と海軍省「佐世保軍港境域標」

以下は佐世保市住い、これら標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。佐世保周辺でも本文は、このブログでこれまで取り上げた佐世保市小佐々町と針尾島及び西海市方面の標石探しの苦労話を特にまとめられている。
高橋氏はもちろん佐世保全域の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。資料・写真は多くもらっているが、ここに掲げるのはその一部であるので、了承をお願いしたい。
詳しくは、本ブログの項リストにより前の関係記事を参照。

高橋輝吉氏稿 佐世保周辺 陸軍省「長崎要塞地帯標」と海軍省「佐世保軍港境域標」

陸軍の標石調査が終りに近づいた頃、旧海軍の方はと見直してみた。旧海軍の地図が有った。此れかなーと思って、小佐々最西端方面へ。老人漁師の方と話し、「海軍省」と書いた石が有りますか、と尋ねると、有るような話しばかり。
その1つとして、楠泊に有った。「海軍水準」の石。「水路部」と有った。昔は出先の岬みたいな所に、海の神様が有った。其の先にみかげ石12cm角、高さ60cm位。老人の方が指さす方向を見た。左先の岩場にも何かがあるよと。「佐世保軍港境域標」の「第221号」。干潮時に行く。

後日、老人の方に船を頼み、近くの入江等々を探す。陸からも行かれますか?。船の人と海よりの話し。後で地図を見ると、陸からも行かれる。1日1本のつもりで、今まで10回位行ったかなー。一番行ったのは、神崎鼻。公園になり、一番変化していた。
山の老人と海の老人とは、話しの変化を見た。海の方は、要塞の話しは通用せず?。海の方は干潮時でも船が繋げる所を言う。地図では干潟の図なし。何回となく干潮時、満潮時と行ってみる。2通り有る事が解かった。この一帯「亀瀬」。今までは陸の石ばかり探していたので、高い所ばかり見ていたが、海のは違った。

入江。干潮時になっても船が繋がれる所。船は遠浅が一番きらい。幸いかな、小佐々。入江は天然の港が多い。海軍は此の入江、港に目を付けた。此れは日露の戦いの時、待ち伏せ用場所、入江かと思った。小型船ならば良い場所、入江で、天然の港ばかり。此の入江に海軍省の標石が多いのも、解かった次第です。
此の時点で読売新聞佐世保支局の「千田」さんに話す。「千田」さんも標石の所へ同行しました。針尾の方より近くに海軍省の石有りと、支局に電話有り。浅子よりも電話有りと。針尾は「第128号」「明治35年」。浅子は「第261号」「明治45年」。此れからが大変でしたね。海軍省標石探しに変った時かな?。

“年 月”2通りの話しを。特に西海市方面、用心!。西海橋下に有ると言っても、本気にはしなかった。千綿まで海軍は水を取りに行って居た。「ボイラー」に必要な水です。必ず有ると思って居た。1回目は解からず、2回目の時、四角の型石が見えたので、若しやと思い枯れ枝を取って見ると、なんと海軍省の石が青色になり、横倒しになって居たので、洗いよく見ると「第138号」でした。「明治35年11月4日」。

少し元気づいたので、前に1回連れられて行った西海町七釜白岳方面。陸軍の標石はと思い、前に1回行った家に行きましたが、老人の方は亡くなられて、どこか解かりませんと。実は「長崎要塞地帯標」の「第152号」と、「第151号」と、「第147号」です。
2人とも亡くなられて、場所が良く解かりません。ただ電線が見えたの思い出だけです。杉山ばかりで、方向が解からず、3年位かかったかなー。「第152号」発見。此の石を起点として、3ヶ月後「第151号」再発見。「第147号」は、畠の中に段差が有ったのを思い出し、3回目にて再発見。標石は埋めて有りました。石の角が見えましたので、みかげ石です。此の地方にはみかげ石なし。上よりは解からず、草一面です。段差が有ったので発見に至りました。此の度は方向西北、写真に撮り安心です。

さて、海軍省の石は、海軍省の図によると、大瀬戸町高帆山海岸近くに有るような気がしたので、大岩の近く、海抜3m位、海近くに海軍省「第202号」でした。長崎の橋本さんに石発見と知らせました。さて、「第158号」はと。地元の方と西海町の方、良く標石の事が解からず、再発見と別に新しく標石を、元の石の横に、なんと申しましょうか、2,3度電話しました。しまったと思った事でしょうか?。
海軍省の石3本発見。1本号なし、後は「第202号」「第138号」。陸軍省の石「第158号」「第152号」「第151号」「第147号」と、3本発見にて終ります。

小佐々方面 海軍省の石は、「第207号」「第208号」「第211号」「第215号」「第216号」「第217号」「第218号」「第221号」「第236号」「第261号」と10本になります。
後で陸軍省の石が有りますかと尋ねると、有りますと。野島へ渡り、島の左の方に林の中、「第140号」が有りました。冷水岳近くに「第138号」。「第139号」はなし、3回位山に行く。発見出来ず。陸軍要塞地図を見て下さい。臼の浦に海軍火薬庫有り。

大野原の猪見岳直下にある「陸軍」境界石  東彼杵郡東彼杵町

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大野原の猪見岳直下にある「陸軍」境界石  東彼杵郡東彼杵町

大野原高原は、長崎とは思えない大草原が広がる。猪見岳(標高589.8m)は手軽に登れて、大野原高原を一望できる景色の良い山だが、陸上自衛隊大野原演習場内の南端にあり、演習中は立ち入り禁止となる。実弾演習の着弾観測地点として利用されている。
千綿手前から四つ池へ上がり、遠目郷の方へ右折して林道蕪線へ入る。高い鞍部のカーブミラーがある所が登山口。標識は何もないが、植林地から草原をまっすぐ登ると猪見岳山頂である。

「陸軍」境界石は、9月12日(日)猪見岳に登った時、山頂直下で3本見かけた。10月野焼きのため、現在、境界の防火帯が草刈りされており、そこに「陸軍」と刻んだ珍しい境界石があった。
写真のとおり矢印、番号も刻まれ、帝国陸軍時代の古い標石と思われる。演習場の全域を丹念に調べると、何本も残っているだろうが、見やすい所の見本として、ここのを掲げる。

陸上自衛隊大野原演習場の【前史】は、HPによると次のとおり。後ろの写真は、中尾郷にある「大野原演習場廠舎」とその先の県境付近道路から見た大野原演習場。

県下で最大の広さを誇る雄大な大野原高原は、東彼杵郡東彼杵町と一部は佐賀県嬉野町にまたがる大草原である。千綿川をはさみ南に標高589mの猪見岳、北に492mの琴平岳が相対している。
1909年に陸軍省が演習場として買収し、区域内の人々は現在の太ノ浦の集落などに移転した。1945年の終戦で大がかりな開拓団が入ったが、46年に米軍に接収されて、再び演習場として使われ55年に自衛隊に引き継がれた。

有ったぞ 神崎鼻の海軍省標石  佐世保市小佐々町

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有ったぞ 神崎鼻の海軍省標石  佐世保市小佐々町

佐世保市の高橋輝吉氏から、8月19日に上記写真を添えて、次のメモをもらっている。
有ったぞ 神崎鼻の海軍省標石
海岸近くのやぶ林の中。地元方存じ(2本)。
林の中、標石より1.5m左より、伊島(右側)or黒島(左側)を写す。
オノ鼻より大島、崎戸、黒島、伊島、神崎鼻。海軍省図面どおりの所だった。
「第二〇七号」「佐世保軍港境域標」「明治四十五年三月十五日」

海軍省「佐世保軍港境域標」207号を、小佐々町神崎鼻(「日本本土最西端」碑の南東側海岸)林間で新たに探し出した報告である。近くの魚見崎208号は5年前に見つけていたが、私を先日、大瀬戸町オノ鼻(高帆山の西側)202号などに案内したのをきっかけに、再度、海軍省地図のこのラインを調査されたらしい。
オノ鼻標石は前の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2409

大瀬戸町オノ鼻202号から、佐世保市小佐々町神崎鼻207号間は、号数が飛んでいる。大島、崎戸、黒島、伊島に残っている可能性があるが、まだわからないそうである。
なお、小佐々町楠泊の姫神社前海岸には、昭和15年水路部「海軍水準」という全国でも珍しい標石が残っている。高橋氏はご存知だった。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/960

大瀬戸町・西海町・西彼町などに残る「佐世保軍港境域標」

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大瀬戸町・西海町・西彼町などに残る「佐世保軍港境域標」

西海市西海町・西彼町に残る陸軍省「長崎要塞地帯(区域)標」の所在について、前の記事とした。高橋輝吉氏に案内してもらったのは、ついでに別の海軍省「佐世保軍港境域標」である。
高橋氏は、佐世保を中心とした長崎県北・佐賀県を主に、全国の同標石類を15年以上にわたって調査されている。ここでは佐世保軍港に関する西彼杵半島及び近くの境域標のみ載せる。地元でもその所在はほとんど知られておらず、郷土誌に記載はない。
高橋氏が「佐世保軍港境域ノ件」資料地図をもとに、丹念に踏査して見つけたものである。小佐々町の海岸には、まだ多数残っているそうである。

① 大瀬戸町外多以良郷 高帆山西下の海岸 (佐世保軍港境域標 第202号)

境域地図に「オノ鼻」で表示されている。境域線が大島・蠣浦島(崎戸)間の海峡に伸びるため、この地点を探し出したそうだ。柳ノ浜海水浴場手前の大ムクノキ説明板のある坂道を登る。「←金比羅山」(高帆山)標識の分岐で上の道へ入ると、高帆山裏側の山腹を行く。舗装の切れた終点から5分ほど山道を下ると海岸へ出る。左方70m位に大きな岩の鼻がある。これが「オノ鼻」だろう。標石はすぐ手前の雑木林内にある。
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第二〇二号」「海軍省」「明治四十五年三月十五日」

② 西海町七釜郷 七釜公民館上の畑端 (佐世保軍港境域標 番号不明)

境域地図にない地点である。七釜バス停近くの七釜公民館後ろ側石段を登って行く。上の畑角に標石らしい角石が見える。ここは前公民館があった土地で、建物の礎石とされていたらしい。立ててみると、番号は削られてわからない。境域が改正されたか、どこか近辺海岸にあった標石を運んできていると思われる。
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第(番号不明)号」「海軍省」「明治四十五年三月十五日」

③ 西彼町小迎郷 西海橋下の伊ノ浦台場跡先の海岸 (佐世保軍港境域標 第138号)

境域地図に「針尾瀬戸」で表示されている。西海橋を渡る手前にある「伊ノ浦台場跡」史跡案内板から下の針尾瀬戸海岸に遊歩道を降りる。台場跡の右側に釣り用か踏み跡があり、100mほどたどって行くと、道下に標石がある。海岸に倒れてあったものを、高橋氏が数年前見つけ、立て直したそうである。
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第一三八号」「海軍省」「明治三十五年十一月四日」

④ 佐世保市針尾中町 小鯛海岸右手の崎 (佐世保軍港境域標 第128号)

境域地図に「小鯛」で表示されている。西海橋を渡って針尾島へ入り、古里交差点から左折、針尾無線塔の後ろまで広い道路ができている。「小鯛」集落入口の標識があり、小鯛漁港まで出て、右方へ海岸沿いの里道を100mほど行く。里道は上に上がるが、真直ぐな小道へそのまま進むと、奥にフェンスがある。地元の名医福田病院跡の駐車場と庭跡で、先は海岸。中へ入ると奥の石垣下に標石がある。
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第一二八号」「海軍省」「明治三十五年十一月四日」

⑤は、参考のため。佐世保市の隠居岳から宇土越へ下る登山道途中で見られる佐世保軍港境域標(第298号)。2008年6月山歩きした時に写していた。
ここの標石は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/987
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第二九八号」「海軍省」「昭和五年十月八日」

西海町・西彼町に残る「長崎要塞地帯(区域)標」

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西海町・西彼町に残る「長崎要塞地帯(区域)標」

西海町「西海町郷土誌」平成17年発行の郷土の軍事施設301〜302頁に、次のとおり西海町で現在発見されている佐世保関係の要塞地帯(区域)標の標石3本を写真つきで掲載している。

(4)要塞地帯
明治30年(1897)、佐世保に佐世保要塞砲兵連隊が設置された。同32年7月15日、軍機保護法、要塞地帯法が公布され、翌年6月には佐世保要塞地が告示、陸軍要塞砲兵連隊内に要塞司令部が設置された。
要塞地帯は、基準点から一定の距離が決められ、第一地帯、第二地帯、第三地帯とされた。各地帯を通じて、同地帯内の水陸の状況測量、写真撮影、模写、録取、その他多くの制限事項が設けられ、要塞司令官または陸軍大臣の許可が必要とされた。
西海町も大半が要塞地帯に指定された。所々に要塞地帯標の石柱が立てられ、地元では「海軍棒」とか「陸軍棒」とも呼んだ。現在発見されている標石は次の3つである。

さて、この標石は写真に地名はあるが、具体的な場所を書いていない。地元や市教育委員会などで聞いても、標石の所在をもう知る人がいなくなっている。7月8日と26日、佐世保の高橋輝吉氏に案内を願って、標石探しをした。同氏が10年ほど前、見つけたのがほとんどである。

① 長崎要塞第二地帯標(第75号) 左側 明治32年7月14日 後面 陸軍省  (木場)

木場郷のみかんドーム交差点から、旧道に入ると木場公民館がある。裏手の辻山浅一氏宅の玄関前庭に据えられている。家角下の小川を渡る石にされていたのを、戦後復員した辻山氏が見つけ移したものらしい。
要塞第二地帯標で、要塞から約4kmの外線に設置された標石である。

② 長崎要塞地帯区域標(第147号) 明治32年7月14日  (七釜)

郷土誌写真は、畑端に横倒しになっている。草が生えてわかりにくい標石である。高橋氏記憶があいまいとなって、畑を探しきれなかったが、7月26日やっと見つけ出した。
七釜郷首ノ田バス停から県道122号七釜大串線へ入る。七釜本郷の池田病院前から上がってきた道と高台で合い、県道は直角に曲がる。上部に写真のとおり七釜浄水場があり、左奥に九州電力面高瀬戸線27号高圧線鉄塔が見える。
標石はこの鉄塔の2段上の畑端に石垣とされているので、農道を上がり三叉路から鉄塔を目指し畑角へ行く。移設されたと思われず、当時はここに里道があったか、原野だったためだろう。

③ 長崎要塞地帯区域標(第152号) 明治32年7月14日  (七釜白岳)

白岳郷の開拓集落へ行く。七ツ釜への県道122号線から奥へ入った伊東牧場の登りの左に谷間の草原が見える。最奥の植林地内に標石があるので、左の小川沿いに行く。長崎要塞区域標(第152号)である。

開拓集落へ戻り、県道を七ツ釜の方へ少し下ると、左手に松島火力線34号の高圧線鉄塔へ行く九電作業道がある。郷土誌に記していない高橋氏が見つけた長崎要塞区域標(第151号)は、この鉄塔のすぐ近くにある。
②、③(第151号もある)は、要塞第三地帯の区域標で、要塞から約10kmの外線に設置された標石である。

西彼町白崎郷の四本堂公園母衣崎に残っているのは、長崎要塞区域標(第158号)で、前記事にしているから参照。 https://misakimichi.com/archives/2375
最後の写真は、七釜白岳の長崎要塞区域標(第152号)の少し先山中で見つけた石鍋?の破片。
長崎市周辺の要塞地帯標は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/54

四本堂公園にある長崎要塞区域標  西海市西彼町白崎郷

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四本堂公園にある長崎要塞区域標  西海市西彼町白崎郷

国道206号線西彼町の旧オランダ村手前交差点から右折。総合体育館前を通り、北東の母衣崎へ約3.7km、「四本堂公園」の案内標識により進む。
「長崎要塞区域標」は、四本堂公園北端のオートキャンプ場下の海岸部にある。史跡「御腰掛岩」があるすぐ上の林間に、地元が設置した碑とともにある。碑文は次のとおり。
標石は「長崎要塞区域標」「第一五八号」「陸軍省」「明治三十二年七月十四日」である。

長崎要塞地帯 四本堂要塞
旧陸海軍は一八九八年(明治三十一年)要塞地帯法公布に基づき東京湾、広島湾、下関、対馬、長崎、佐世保などの重要な海岸等軍事施設の拠点として要塞地帯に指定し機密を守るための周辺への立ち入りを禁じた。
この四本堂要塞は敵国の侵略から軍都大村、長崎を守るため設置されたものである。
これまで、地元も存在を知っていなっかったが二〇〇八年(平成二〇年)五月標柱が発見された。長年の風化で刻字の判読が難しく、今後、永く戦争遺跡として継承していくため新たに標柱を設置する。                  平成二十年十月吉日 白崎郷

地元のせっかくの碑と新たな標柱だが、少し誤解がある。「要塞地帯法」の公布は、明治32年(1899)7月14日。ここに四本堂要塞が設置されたのではなく、標石は佐世保要塞の軍事機密を守るため、法に基づき外周約10kmの第三地帯に建てた警戒区域標である。里中にも多く立っていた。建立の「明治三十一年」も判読が違う。佐世保に残る標石はすべて「明治三十二年七月十四日」と刻まれている。

参考のため、当時の佐世保要塞地帯図を載せる。「佐世保要塞地帯は、佐世保市、佐世保湾、北松浦郡の西南部、西彼杵郡の西北部、大島、黒島、江ノ島、平戸島を加えた水陸一帯の区域で、佐世保市に佐世保要塞司令部と重砲兵聯隊が置かれた」と説明がある。
2008年標石発見の経過が不明だが、この標石は佐世保の高橋輝吉氏がすでに10年位前に見つけ、地元へ知らせていた。高橋氏地図の同地に「アリ 第158」とはっきり記している。
四本堂公園は、次のHPも参照。  http://hasamiooen.fc2web.com/2009-report-24.html

陸軍省要塞標石探し  佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (3)

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陸軍省要塞標石探し  佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (3)

佐世保市の高橋輝吉氏が、対馬市厳原町の豆酘崎砲台跡周辺を調査し、標石13本を確認した記事(ズーム拡大)。2010年(平成22年)4月20日付読売新聞佐世保地域版に掲載された。
同氏の手紙には「対馬の要塞地帯の標石は、地元の方が九本発見でした。私が発見したのはFzの石で、明治三十六年で、無号?でした。何か?変な石でした。新聞のは「陸」「防一三四」軍道用でした」とあった。

2枚目の写真は、新聞記事と直接の関連なし。私が2008年9月訪れた上対馬町鰐浦の豊砲台跡へ行く旧道のトンネル付近。軍道用の同じような「境界石」が数本あった記憶がある。